ソビエト連邦の歴史
本項では、ソビエト連邦の歴史(ソビエトれんぽうのれきし)について述べる。

| ソビエト連邦 |
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ロシア帝国の滅亡からソ連成立まで

ロシアでは皇帝による専制政治が行われていたが、日露戦争の戦況悪化により、労働者によるストライキやデモが頻発し、普通選挙の開催と議会の開催を求める声が上がる[1][2][3]。こうして、1905年1月に起きた血の日曜日事件と呼ばれる騒擾を経て、1905年10月ロシア帝国皇帝ニコライ2世は国会の開設と普通選挙の実施、憲法制定を約束する[1][2][3]。これによって1906年2月から3月にかけて、国会議員選挙が行われ、1906年4月に憲法が公布された[4][5]。こうして民主政治へと向かうかに見えたロシアであったが、その実態はロシア皇帝の絶対不可侵が憲法で規定されており、専制政治に他ならなかった[4][6]。
その後、1914年7月に第一次世界大戦が勃発し、ロシアも参戦するが、戦況は一部で勝利した戦いがあったものの、全体としてはロシアにとって不利に展開する[7][8]。戦争は長引き、物資の輸送も滞ったことから、食糧状態が悪化し、市民生活を直撃した[9][10]。これによって、1917年2月23日国際女性デーの日に、首都のペトログラードでは女性労働者を中心として、パンを求めてデモを起こした(これが2月革命である。なおこの日付はユリウス暦で、グレゴリオ暦では3月8日)[10][11][12]。これに対して、立憲民主党が中心となって臨時政府が樹立され、皇帝のニコライ2世は退位し、ロシア帝国は幕を閉じた[9][13]。
臨時政府は普通選挙の実現と憲法制定を約束するが、臨時政府は、イギリスとフランスとの関係を考慮して、第一次世界大戦の継戦を表明し、臨時政府に対する市民の支持が低迷する[13][14][15]。方やほぼ同時期には、兵士や労働者を中心としてソビエト(評議会)が結成され、彼らは臨時政府と異なり、戦争の終戦(但し防衛戦争は可能)を訴えかけた[15][16]。ロシアは臨時政府とソビエトの二重権力状態となり、臨時政府は社会民主労働党のメンシェヴィキから入閣させた[16] [12]。一方社会民主労働党の一派であるボリシェヴィキの指導者であるウラジーミル・レーニンが1917年4月に帰国すると、彼は四月テーゼを発表し、「全ての権力をソビエトに」と提唱し、臨時政府に対する不信任を表明する[16][17][18]。立憲民主党を中心とする臨時政府は1917年5月に、社会民主労働党のメンシェヴィキ、社会革命党との連立政権を樹立する[19][12]。
そして、臨時政府の首班アレクサンドル・ケレンスキーは、戦争に勝てば民心をつなぎとめられると考え、ドイツに対する攻勢を仕掛けようとするが、失敗に終わる(ケレンスキー攻勢)[15][14]。臨時政府側は攻勢が失敗した理由は、レーニンの指示によるものと考えたため、レーニンは一時フィンランドへ逃亡する[15][14]。臨時政府のケレンスキーは保守派と対立を深め、1917年8月には保守派のラーヴル・コルニーロフがクーデターを起こそうとしたため、臨時政府はボリシェヴィキを頼り、ボリシェヴィキは赤衛隊が中心となりコルニーロフを逮捕する[15][20][14]。ボリシェヴィキは民衆の支持を獲得して、第二回全ロシア労働者・兵士ソビエト大会はソビエト権力の樹立を宣言し、レフ・トロツキーを中心として軍事革命委員会が組織される[15][21]。
そして、1917年10月の十月革命によって、臨時政府は打倒、臨時政府の閣僚は逮捕された[12][22][14][21]。革命成功後、1917年11月、憲法制定会議に向けた選挙が行われるが、社会革命党が第一党となり、ボリシェヴィキは社会革命党左派と連立することになる[20][14]。1917年12月、ボリシェヴィキは戦争の即時停戦、無併合、無賠償を掲げ、講和交渉を連合国に表明し、ドイツとの交渉が進められるが、ドイツとしては受け入れられるものではなかった[23]。方や国内では、1918年1月、選挙で第一党の座を逃したボリシェヴィキのレーニンは議会を解散させてしまう[14][24]。なお、この頃赤衛隊は赤軍へと発展する[20]。第一次世界大戦の講和については、トロツキーが中心となり交渉を進め、1918年3月にブレスト=リトフスク条約を締結して、終戦を迎えたものの、農地の3分の1、工業地帯の2分の1、鉱業地域の5分の4、人口の3分の1を失うこととなった[22][23][14]。この講和会議の結果、社会革命党左派は、ボリシェヴィキに対して抗議し、1918年6月に政権を離脱した[23][25]。また、ボリシェヴィキは1918年3月の第7回党大会で党名をロシア共産党に改称し、1919年3月頃までに政治局や書記局などの組織が整備され、コミンテルンも創立された[25][26][22]。
ロシア内戦とソ連の成立

青 - 白軍の最大進出ライン
赤 - 1921年の前線
ドイツと締結されたブレスト=リトフスク条約に対して、旧臨時政府を始めとする反ボリシェヴィキと、シベリアで捕虜となっていたチェコスロバキア軍団が1918年5月に蜂起し、ロシアはボリシェヴィキの赤軍と旧臨時政府を主体とする白軍による内戦へと突入する[24][25][19][23]。内戦開始時、ソビエト政権は食糧独裁令を発令し、農民から食料を徴発し、農産物の自由売買を禁止し、企業の国有化を推し進めたため、農民や起業家から反発される[27][28][23]。そして、ソビエト政権は非常委員会(チェーカー、後のKGB)を結成し、反対派を容赦なく処刑した[28][25]。その人数は1918年から1921年で1万2千人以上とされる[14]。内戦はソビエト政権側が勝利するが[注 1]、レーニンが暗殺未遂の被害に遭う場面もあった[19][26]。なお、内戦中の1918年7月には旧ロシア帝国皇帝ニコライ2世一家がボリシェヴィキによって処刑された[19][26]。内戦はソビエト政権側の勝利に終わったものの、諸外国は革命運動が自国に及ぶことを防ぐため、外国軍による干渉を招いた(協商国のロシア内戦への介入も参照)[19][22][23]。特に日本による干渉は長引き1922年11月までシベリアに駐留していた[25]。
内戦開始時に発令した食糧独裁令後、1920年は凶作となり飢饉が蔓延する[30]。また、この頃開催された第9回共産党大会では、内戦が終結しつつあったため、復興すべき産業部門を討議したが、農民は労働者に対しての食糧を供給する義務が生じたため、重い労役を負うことになった[27][31]。これにより、農民はソビエト政権に対して、10万人規模の反乱を起こすようになり、1921年には100万人以上が飢饉によって餓死した[31][32][33]。ソビエト政権はこのような状況を受けて、1921年3月、農民に対して余剰生産分については、市場での自由売買を認めるというネップ(新経済政策)を打ち出した[14][34][32]。
ロシア帝国崩壊後、同帝国が支配していた諸民族が独立に向けて動き出し、フィンランド、ポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニアが独立を果たす[35][33]。独立を果たしていない旧帝国領内各地には、ソビエト共和国が樹立されていた[33]。ただ、ロシア共産党としては、ソビエト共和国や自治州が独立してしまうと自身の勢力圏が弱体化するという問題があった[35][26][33]。ロシア共産党は民族自決を訴えていたこと、方やこれらソビエト共和国は自立志向が強かった[33]。そこで、1922年、レーニンの提案によってロシア共和国、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカス連邦(グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン)を平等な立場での統合を行い、ソビエト社会主義共和国連邦が樹立された[33][36][37]。こうしてソ連が誕生するが、各共和国はその後に制定された憲法で自由に離脱できることが明記されていた[33][36]。また、各共和国は共産党が政権を独占することとなり、ソ連邦の共産党の支部とされた[38]。ロシア共産党は1925年に全連邦共産党となり、1952年にソ連共産党となった[17][33][39]。ロシア共和国のロシア共産党はこの頃存在せず、1990年に結成された[38][33]。その後、ソ連邦の加盟国は、1924年にトルクメニスタン、ウズベキスタンが加盟、1929年にタジキスタン、1936年にカザフスタン、キルギス、(後述するが)1940年にバルト三国、モルタヴィアが加盟し、15の共和国で構成される[40][41]。
スターリン時代
レーニン死去による権力闘争

1922年5月になると、レーニンは発作を崩し、一時持ち直すが、1923年5月には半身不随となり、とてもではないが政務を取り仕切ることはできなくなる[31][40]。レーニンは、体調を崩したことから遺書を口述筆記させた[40]。レーニンの遺書には後継者は明言されておらず、有力な党員の長所、短所を詳細に記載していたが、その中ではトロツキーが高評価で、ヨシフ・スターリンについては「(スターリンは)余りにも粗暴すぎ、権力を適切に行使できるかどうかがわからない」と評していた[31][40]。レーニンに代わり、党政治局の運営はスターリン、グリゴリー・ジノヴィエフ、レフ・カーメネフの3人が取り仕切った[31]。スターリンは1922年に創設された書記局の書記長に就任する[42][28]。スターリンは書記長として人事を掌握し、これが権力闘争に生かされることになる[43]。その後、レーニンは1924年1月21日に死去する[31][28]。
1924年、党指導部は農村における凶作と反乱によって農村政策の見直しを迫られ、ジノヴィエフが農村政策を打ち出したが、スターリンはこれを否定し対立を深めていく[44]。そして、レーニンの後継者として有力視されていたトロツキーは、1924年11月に「十月の教訓」という論文で、十月革命において、ジノヴィエフやカーメネフが武装蜂起に反対したと暴露し、トロツキーの姿勢は党内で問題視される[44]。結局、1925年1月、トロツキーは革命軍事評議会議長と陸海軍時人民委員を辞職、除名も検討されたが、これはスターリンが反対した[44]。スターリンはこの頃一国社会主義論を提唱し、レーニン死去後トロツキーが主体となって提唱する世界革命論に代わって有力となる[45]。世界革命については、元々レーニンが1917年の四月テーゼの時点で提唱されていたものである[16][46][35]。だが、世界革命については、結果的に列強諸国の干渉戦争を招き、諸外国における革命運動は期待された成果は上がらず、ドイツでドイツ革命が起きたものの、帝政ドイツが打倒された時点で終わってしまう[47][22]。一方、スターリンが提唱した一国社会主義論は、世界革命とは異なり、ソ連一国だけでも社会主義国家を樹立できるという考えで現実に沿った内容であった[48][42]。
一国社会主義論が有力となり勢力を強めたスターリンは、1925年末にカーメネフを政治局員から政治局候補に降格させる[48]。1926年1月、スターリンはジノヴィエフの地盤であったレニングラードに自身の部下のセルゲイ・キーロフを派遣してジノヴィエフをけん制する[48]。ジノヴィエフとカーメネフはトロツキーと結託し、スターリンに対抗するようになる[48]。しかし、この頃になると党内ではスターリンが有力となり、逆にレーニンがかつて導入した分派活動禁止を理由として、1926年7月にジノヴィエフを、1926年10月にはトロツキーを政治局員の地位を剥奪してしまった[42][48]。トロツキーは1926年12月に開催された党大会で党から除名されてしまう[42]。その後、1927年12月に行われた第15回党大会でジノヴィエフも除名された[44]。トロツキーに至ってはその後の1929年に国外へ追放されている[49][35]。スターリンはニコライ・ブハーリンとは一時協力関係にあったが、農業集団化を推進するスターリンと対立を深め、1929年2月に非難決議がなされ失脚する[50][43][51]。こうして、スターリンは1929年までに党の全権を掌握し、独裁体制を固めた[35][14][52]。
スターリン時代の内政と国際関係
レーニンが指導者時代に導入されたネップは、ある程度成果を出し、穀物の生産量は増加したものの、国家による穀物調達量は伸び悩み、1928年春にはその傾向が顕著になった(これが穀物調達危機である)[53][38][53]。その理由としては、国家による穀物の買い付け価格は安かったためである[53]。また、1925年に商品飢饉というものが起きた。これは都市部の工業が農民に対する生活用品の生産が滞り、農民側に生活用品の供給が行き渡らなくなったという状態である[53][54]。農民側は万が一の飢饉に備えて、穀物を手放すことをためらっていた[53]。実際の所農民達は重税を課せられていたため、手元に穀物が無かったのではないかという説もある[53]。
いずれにせよ、当時のソ連は穀物の輸出が外貨獲得のための手段となっていたため、穀物の調達がうまくいかないことには外貨を得ることが困難になる[50][38]。かと言って、穀物の買い付け価格を上げるということは、輸出によって得られる利益が低下することになる[53]。スターリンは軍を増強するためには工業の推進が必要と考えていた[55]。そのためにも外貨を得ることができる穀物輸出が非常に重要であった[55]。
スターリンは自身がシベリアへと赴き、現地の政府機関の指導を行い、スターリンは農民が穀物の調達に応じないのは富農(クラーク)が原因だと考え、スターリンは農業集団化を強行するようになる[54][51][53]。こうして、農民は集団農場へと組み込まれ、農業の集団化は遅くとも1931年秋までに完了することとし、1930年3月までに農民の55%が集団化させられた[56][51]。農民は集団化に抵抗し、国家に引き渡すよりは家畜を殺害して抵抗した[56][51]。集団化に抵抗した農民はシベリアへと追放された[51]。一方、穀物調達危機にあった1928年には第一次五カ年計画が開始され、ソ連は工業化が推進された[57]。この五カ年計画による数字目標は非常に高い目標が課せられ、工場にとっては多大な負担になった[51][55][58]。この第一次五カ年計画時、外国では世界恐慌によってアメリカを主体とする資本主義諸国は不況に苦しんでいた[57][51]。だが、ソ連は政府による強力な計画経済によって、比較的悪影響は少なく、資本主義諸国には計画経済が優れた経済システムであるかのように見えた[59][60]。また、ソ連側も計画経済が優れているというプロパガンダを行っていた[60]。最も、五カ年計画では数値目標の達成が重視され、その品質は度外視されていた[58]。
一方農業の集団化が進んだ農村では、農民は離農を選択する者が現れ、彼らは工場労働者へと転換する[58]。政府は農民の流出を防ぐため、1932年12月、国内であってもパスポートの携帯が義務付けられ、コルホーズの農民に至ってはパスポートすら発行されず、農村に徹底的に縛り付けられることとなった[51][61][58]。政府はMTS(機械・トラクターステーション)を、1930年に作り、農業生産や労働の現場支援を行っていたが、農村の監視も行っていた[51][42]。

集団化によって農業政策は大混乱が生じていたが、政府は農業の実状を無視して、工業化推進のため穀物輸出を強行し、これが1932年から1933年にかけてホロドモールと呼ばれる飢餓輸出を引き起こした[57][51][61]。ホロドモールによって、ウクライナ、北カフカス、ヴォルガ川流域で大量の餓死者が生じ、数百万人[57][51][55]、約500万人又は500万人以上[61][38][63]、700万人[58]ともされる犠牲者が生じた。
スターリンが指導者となってからの国際関係について記載すると、ソ連は1924年にイギリス、フランスから国家として承認される[57]。1931年9月に満州事変が勃発し、ソ連は1932年3月に満州国を承認した[64]。そして、1933年にはアメリカからも国家として承認された[57][64]。アメリカが国家として承認したことから、1934年、国際連盟加盟を果たした[64][57]。
大粛清

上段左よりクイビシェフ・キーロフ・カリーニン・コシオール・アンドレーエフ、中段左よりオルジョニキーゼ・カガノビッチ・スターリン・モロトフ・ヴォロシーロフ、下段左よりポスティシェフ・ペトロフスキー・チュバーリ・ミコヤン・ルズターク。
だが12月に起きたキーロフ暗殺を切っ掛けとしてその多くが大粛清の犠牲となる。

国際連盟を果たした頃の1934年12月にスターリンの腹心であるセルゲイ・キーロフが暗殺され、大粛清が開始される[65][66][67]。キーロフの暗殺にはスターリンが関わったという説もあるが、立証はされていない[43]。大粛清は1936年から開始され、党指導部のジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンら16人が処刑された[66][68][69]。スターリンが大粛清を行ったのは党幹部の入れ替えと第五列を一掃するためであった[43][69]。大粛清は軍の高官にも及び、ミハイル・トゥハチェフスキー元帥なども処刑された[69]。この大粛清による逮捕者や処刑の人数も文献によってかなりばらつきがある。逮捕者は数百万人[43]、154万8千人[64]、処刑は数十万人から100万人とする説[43]、約68万人[64]、劣悪な環境下での抑留や拷問後の落命者等その人数は判然としていない[43]。年別で処刑者数が判然としている文献によると、1936年の銃殺者数35万3千人、収容所送りが92万9千人、1937年の銃殺者は32万8千人、収容所送りが20万5千人という記載もある[61]。
この大粛清で逮捕ないし処刑を主導したのはNKVDのニコライ・エジョフで、彼は「目標数値」の超過を求めていたが、エジェフ自身も1940年に銃殺され、ラヴレンチー・ベリヤがNKVDの後任を務めることになった[64][61]。大粛清は1938年に下火を迎えた[55]。軍の高官にも矛先が向けられた大粛清によって、軍は弱体化し、後の独ソ戦の序盤で、ドイツ軍が快進撃を繰り広げる要因となった[61][68]。
第二次世界大戦と冷戦へ
1933年1月、ドイツではナチス党のヒトラー政権が誕生する[57]。ヒトラーのナチス・ドイツは領土拡大と共産主義への敵意をむき出しにしていた[57]。ソ連はフランスと1935年に仏ソ相互援助条約を締結し、ドイツに備えた[57][70]。ソ連はファシズムとの対決姿勢を強め、スペイン内戦では人民戦線政府側を支援した[64][71][58]。1936年になると、日独防共協定が締結され、東は満州国の日本と、西はドイツに挟まれることとなった[64][71][72]。一方ドイツは、1938年にオーストリア(アンシュルス)、ズデーテン地方を併合し、イギリスとフランスはこれを容認し、ソ連側はイギリスとフランスに対して不信感を抱くようになる[57][64][71]。一方、極東では1938年7月、満州国国境付近で張鼓峰事件が起こり、翌年5月にはノモンハン事件が起こる[73][64][55][72]。こうして、ソ連は英仏への不信感と日本とドイツの挟撃を防ぐため、1939年8月独ソ不可侵条約を締結し、世界を驚愕させることになる[57]。独ソ不可侵条約締結の目的は二正面作戦の回避以外にもドイツとの戦争準備を引き延ばす狙いがあった[72][74]。独ソ不可侵条約には秘密議定書があり、ポーランドを独ソ両国で分割占領すること、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国、フィンランド、ベッサラビアをソ連の勢力圏とすることが合意されていた[71][55]。この秘密議定書については、後述するがソ連崩壊直前に持ち出されることになる。
1939年9月1日、ドイツがポーランドを侵攻し、第二次世界大戦が勃発する[75]。ソ連は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、9月17日ポーランド東部を自国領とする[75][76][77]。そして、1939年9月から10月にかけて、ソ連はバルト三国との間で、ソ連軍の基地設置を認めさせる[77]。その後、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づいて、1940年8月にバルト三国をソ連の共和国に併合した[77][75][55]。同じく秘密議定書に基づき、1939年11月末にソ連はフィンランドを侵攻した(冬戦争)[75][77][74]。冬戦争では軍備に劣るはずのフィンランド相手に苦戦し、カレリア地方を獲得したものの、ソ連は国際社会において非難され、国際連盟を除名された[75][77][74]。だが、その後もソ連は秘密議定書に基づいて1940年6月末にルーマニアからベッサラビアと北ブコヴィナを占領する[75]。
冬戦争で苦戦したソ連軍の参謀本部はドイツとの戦争突入を想定し、1941年4月に日本と日ソ中立条約を締結、これによって二正面作戦の勃発の確率は低くなる[77][73][75][59]。その後1941年6月22日、ドイツは不可侵条約を破り、ソ連を侵攻し、独ソ戦(ロシア側では大祖国戦争)が開戦された[57][75]。スターリンは開戦1時間後の午前4時時点でもドイツによる攻撃が行われたことを信用していなかった[75]。事前にスターリンは日本でスパイ活動をしていたリヒャルト・ゾルゲや、イギリス首相ウィンストン・チャーチルからドイツが侵攻するとの警告を受けていた[78][74][76]。その警告の回数は実に84回にも及んでいたという[74]。猜疑心の強いスターリンがこの警告を信用しなかった理由としては、そもそもイギリスがドイツに対して宥和政策を取っていたことや、ドイツとは交渉によって開戦を回避できると考えていたためであった[78]。
不意を突かれたソ連は、スターリンがしばらく陣頭指揮を放棄し、ようやく6月30日に立ち直り、反撃に出る[79]。だが、ドイツ軍は破竹の勢いで進軍し、1941年9月にはレニングラードを包囲、同年10月にはモスクワから165 kmにまで迫る[75][73]。これを受けて政府機能はクィビシェフ(現在のサマラ)に移転させ、スターリン自身はモスクワにとどまった[76][78]。なお、ドイツ軍によって包囲されたレニングラードでは、死者(餓死者)が60~100万人も発生し、解囲が完了したのは1944年1月下旬のことであった[75][80]。モスクワ至近にまで迫ったドイツ軍に対しては、ソ連軍にとっては幸いなことに例年より早い冬が到来し、1941年12月に押し返すことに成功、翌年1月にソ連側が総攻撃をかけて、モスクワの防衛に成功する(モスクワの戦い)[75][55][78]。


その後独ソ戦は1943年2月のスターリングラード攻防戦、1943年8月のクルスクの戦いによって、ソ連が優勢となる[81][80]。この独ソ戦の最中ソ連によるカティンの森事件という虐殺事件が発覚するが、米英の連合国側は大きく問題にしなかった[82]。ドイツとの戦争は事実上ソ連が一手に担っている状況であったため、1943年11月から12月にかけて、米英ソの首脳によるテヘラン会談が行われ、米英による第二戦線構築が合意された[76][73][81]。こうして、1944年6月、米英を主体とする連合軍によってノルマンディー上陸作戦が実施され、第二次世界大戦の趨勢は決した[83]。その後、1945年2月に、米英ソとの間でヤルタ会談が行われ、ソ連の対日参戦と南樺太、千島列島のソ連への譲渡が決定される[81][80][84]。その後、1945年5月にソ連軍がベルリンを陥落させ、第二次世界大戦は連合軍の勝利に終わる[73][85]。 戦争中のスターリンは、チェチェン人などの少数民族がドイツ人と内通していると疑い、強制的に移住させたことで、後のスターリン批判で非難されることになる[86][87]。
終戦後の1945年7月に開催されたポツダム会談では、ドイツの戦後処理とポーランド国境の位置を議論されていたが、このポツダム会談時点ではアメリカは原爆開発に成功していたため、最早対日参戦は必須ではなくなった[81][84]。ソ連もアメリカが原爆を所有していたという情報をつかんでいたため、対日参戦を急いだ[81]。8月6日に、広島に原爆が投下され(広島市への原子爆弾投下)、8月8日にソ連は対日参戦を行う[81][88][84]。ソ連は対日参戦によって千島列島などの領土を占領する[81][88]。これが後々日本では北方領土問題として知られるようになる[80][89]。
第二次世界大戦によって、ソ連は2600万人から2700万人が犠牲となった[90][91][55][86]。これにより、戦後のソ連は労働力が不足し、戦争捕虜で労働力を賄い、対日参戦によって得た日本軍捕虜も労働力として使用された[88][83][90]。また、1946年から1947年にかけては、農作物が不作でありながら、共産党員が多いとされるフランスへと大量に穀物を輸出したため、餓死者が約100万人も発生した[90][92][84]。国内情勢はこのような状態であったが、ソ連ではアメリカに対抗するため、原子爆弾の開発が急がされ、1949年8月に原爆実験に成功、1953年には水爆実験に成功し、核保有国となった[93][94]。

一方国際関係については、元々第二次世界大戦中より、ソ連と米英との関係は良好とは言えず、戦後の国際社会はソ連が盟主の東側諸国、アメリカが盟主の西側諸国に分断され、東西冷戦が勃発する[88][95]。1946年、イギリスの元首相チャーチルが鉄のカーテン演説を行い、1947年にはアメリカ合衆国大統領ハリー・トルーマンがトルーマン・ドクトリンを提唱し、ソ連は米英と対立を深める[93][96]。対立が決定的になるのは、1947年6月にマーシャル・プランが提唱されたことがきっかけである[93][96][97]。このマーシャル・プランはヨーロッパの経済復興計画であり、一応ソ連とその影響下にある東欧諸国も参加する権利はあった[93]。
だが、マーシャル・プランに参画するということはアメリカの影響下に置かれるということに他ならなかったため、ソ連はこれに対抗するため、1947年9月にコミンフォルムを形成し、ソ連とその衛星国の活動を統合した[98][95]。だが、同じ共産圏でも独自路線を取ったユーゴスラビアとは対立を深め、コミンフォルムから除名とした[98][95]。そして、経済復興のため東欧諸国と経済相互援助会議(コメコン)を結成したが、協力関係が希薄であったため、東欧諸国の経済復興は西側と比べて遅れることになる[98]。ソ連は連合国との間で分割占領されていたベルリン封鎖を行い、対立を深める[93]。
1949年には、アメリカを主体としてNATOが結成され、ソ連は危機感を持ち、NATOに対抗すべくワルシャワ条約機構を結成した[98][97]。
極東情勢について記載すると、中国については、1945年8月時点で蒋介石の国民党政権との間で友好同盟条約を締結していたが、1949年10月に中国共産党の毛沢東が権力を掌握する[93][94]。その後、ソ連は1950年2月に、毛沢東の中国と中ソ友好同盟相互援助条約を締結し、アジアにおける指導的地位を保証した[93][94]。一方朝鮮半島については、北緯38度線を境として、北側をソ連が占領し、南側をアメリカが占領していた[98][94]。そして、1948年朝鮮半島の南側に大韓民国が樹立されると、ソ連もそれに対抗して北側にソ連軍大尉であった金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国を樹立した[98][94]。金日成はスターリンに南進の許可を求め、これによって1950年6月、朝鮮戦争が勃発する[98]。ソ連は表向きは出兵を控えたが、軍パイロットが正体を隠して参戦した[90]。朝鮮戦争は1953年3月に休戦される[98][94]。
スターリンは戦後も粛清の手を緩めることは無く、1950年にはレニングラードの党指導部を粛正、1953年1月には医師団陰謀事件を新聞紙上で公表した[88][99]。これは、ユダヤ人の医師団が、ソ連の指導者を暗殺する陰謀を企てたという反ユダヤを煽ったもので、粛清の嵐が吹き荒れる可能性があったが、その矢先の1953年3月にスターリンが死去し、粛清はなされなかった[99][100][97]。
フルシチョフ時代

スターリン死去後、スターリンの独裁によって大量に粛清された反省から、当初は集団指導体制がとられた[98]。首相にはゲオルギー・マレンコフが就任し、ニキータ・フルシチョフは書記を担当する[101][102]。スターリンの後継指導者として有力視されていたのは国家の公安を担当するラヴレンチー・ベリヤであったが、彼は独断で医師団陰謀事件で嫌疑が掛かっていたユダヤ人医師の訴追を取りやめさせた[102]。ベリヤはその他大規模な恩赦と、バルト三国の指導者を現地民に据えるなどして、支持を集めていた[102]。だが、ベリヤはその他の党指導部によって、1953年6月に逮捕され、12月に処刑される[103][104][102]。ベリヤが党指導部によって失脚させられた理由は複数の要素が有り、概ね以下のとおりである。
- スターリン死去後の大赦によって治安が悪化し、ベリヤは治安平定のため、軍を集結させたことがクーデターの意志ありと党幹部が考えたため[104]
- 公安を掌握していたベリヤは、党幹部はもちろんのこと、地方の党指導部の弱みを掌握していたため[102]
- ベリヤが出身地であるグルジアで、自身の個人崇拝を強要していたため[102]
- ベリヤは実際のところ社会主義を軽視していたため[102]
- ベリヤ自身が他者の役割を軽視し、独断専行による軋轢が生じたため[102][105][103]
ベリヤ逮捕後の、1953年9月フルシチョフが筆頭書記となり、首相のマレンコフの地位は弱体化し、その後、1955年2月に首相を解任された[101][103]。

ソ連では兼ねてより食糧供給が課題であった[106]。そこで、1954年春、フルシチョフが主体となり、シベリア及びカザフスタン北部を対象として処女地開拓キャンペーンが行われた[107][103]。これは、耕作放棄地を大規模に開拓し、それによって穀物の生産高を増加させるという狙いがあった[107][108][103][109]。数十万人の若者が処女地とされた場所へと向かい、キャンペーン初年の1954年は、成果は上がらなかったが、翌年1955年は成果を挙げた[109]。その後、1960年までに4180万haが開拓されたが、最終的には1963年に大不作に見舞われ、失敗した[110][107]。処女地開拓が失敗した理由としては、輪作を行わずに連作をしたことや、処女地の気候を無視してトウモロコシの栽培を行わせたことなどが原因である[106][111][108][112]。この処女地開拓は後のフルシチョフ失脚の一要因となった[113]。
なお、フルシチョフ時代の1958年にMTS(機械・トラクターステーション)の解散が決定され、1959年末までに約8千もあったMTSは姿を消した[107][114]。MTSは農業機械を保有し、コルホーズの監視や統制を行っていたことから、これが解散されたことはコルホーズに自主性が拡大されるということを意味していた[107][111]。MTSの機械はコルホーズが購入することになり、中古にも関わらず新品同様の購入費用の負担と、そしてMTSが保有していた農業機械はいずれも老朽化していたことから、故障しやすく修理費用も多大な負担となり、農業生産は想定より拡大しなかった[111][114]。
1956年2月、第20回ソ連共産党大会が行われる[115][103]。同大会では非公開会議の場で、スターリン批判が行われ、同報告の内容についてはポーランド経由でCIAが流布し、広く世界に知られることとなった[87][116][101][100]。スターリン批判の内容は、スターリンの失策や粛清によって生じた内容を批判したもので、軍高官の粛清によって引き起こされた軍の弱体化、独ソ戦開戦時のスターリンの判断ミス、独ソ戦中の民族の強制移住、戦後の抑圧政策、農民の収奪と過度な集団化が批判された[87][109][注 2]。なお、スターリン批判は1961年10月の第22回党大会でも行われ、この時はスターリンの遺体をレーニン廟からクレムリンの壁に葬った[117]。
スターリン批判は東欧諸国に衝撃が走り、1956年6月には、ポーランドで親ソ連政権への批判が行われ、暴動がおこる(ポズナン暴動)[118]。これに対して、ポーランドでは国民から支持されていたヴワディスワフ・ゴムウカが政権トップに据えられ、暴動は沈静化する[118][115]。一方、ハンガリーでは暴動が抑えきれず、ソ連軍が武力で鎮圧した(ハンガリー動乱)[118][115]。中国は、スターリン批判に対して嫌悪感を抱き、関係に亀裂が生じ始める[115]。一方同じく極東では、1956年10月に日ソ共同宣言が出され、日本とソ連の戦争状態は終結、国交が締結された[119]。だが、北方領土返還を巡り、交渉がまとまらず、1960年にはフルシチョフは「北方領土問題は存在しない」と主張するようになる[119]。
スターリン時代のソ連工業は政府が統括し、完全に縦割りの状態にあった[119]。フルシチョフはこれを改めるべく、1957年2月、全国各地に国民経済会議というものを多数設立し、工業の管理を地方へと委譲することにした[119]。だが、国民経済会議の設立にはソ連指導部内でも反発があり、反フルシチョフ派のマレンコフらは1957年6月に、フルシチョフの更迭を試みたが、失敗に終わる[119][105][108]。これが反党グループ事件であり、フルシチョフはヴャチェスラフ・モロトフやラーザリ・カガノーヴィチなどスターリン時代の幹部を失脚させ権力基盤を固めた[119][105]。なお、この地方経済会議は却って工業管理が複雑となり、フルシチョフ失脚後の1965年9月に旧来の工業管理に戻された[119]。
フルシチョフ時代、中国との関係は悪化の一途を辿るようになる[105]。中国は1958年に台湾を攻撃し、金門砲戦と呼ばれる武力衝突が起きるが、ソ連はアメリカとの対立を避け、不介入の方針を取った[115][87]。フルシチョフは1959年にアメリカを訪問し、平和共存を訴えかけたために、毛沢東にとっては度し難いものだった[105]。その後、1960年になると、フルシチョフは中国に派遣していたソ連の技術者を引き上げさせたために、中国との対立を決定的に深めた[115]。

ソ連では、航空宇宙の部門が発達し、1957年8月には世界初のICBMの実験に成功し、同年10月には人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功した[115][107]。そして、1961年4月には、人類初の有人宇宙飛行が行われた[107][120]。特にスプートニクの打ち上げ成功については、ソ連がアメリカにいつでも核兵器を投下できるという印象を植えつけた(スプートニク・ショック)[120]。
フルシチョフ時代のアメリカとの関係は1960年のU-2撃墜事件で緊張が高まり、1961年8月にはベルリンの壁が構築される[115][120]。その後、1962年10月には、ソ連がアメリカの至近にあるキューバにおいて、ミサイル発射基地を建設していることが発覚する[115][121][100]。これがキューバ危機で、米ソの緊張関係は最大にまで高まったが、結局フルシチョフが譲歩したことで、最悪の危機は回避された[100][112]。1963年には部分的核実験禁止条約が締結されたが、キューバ危機によってフルシチョフの地位は揺らぎ、又、フルシチョフが行った諸政策や改革はいずれも失敗に終わり、1964年にソ連指導部はフルシチョフを協調性の欠如や政策の判断の誤りを指摘、政治局の局員が賛成多数によって解任する[115][113][122]。
フルシチョフの解任是非については下表を参照のこと。
| 名前 | 役職 | 是非 | 演説の概要 |
|---|---|---|---|
| 1964年10月13日(初日) | |||
| ペトロ・シェレスト | ウクライナ党第一書記 | 賛成 | 産業・農業問題を中心に党機関の現地活動 |
| アレクサンドル・シェレーピン | 党中央委員会書記 | 賛成 | ニキータ・フルシチョフの体制 |
| アンドレイ・キリレンコ | 党中央委員会政治局員 | 賛成 | レーニン主義および集団統治の原則からの造反 |
| キリル・マズロフ | 最高会議幹部会議員 | 賛成 | 人格崇拝及びカザフ共和国の処女地問題 |
| L.エフィモフ | 党中央委員会政治局員 | 賛成 | 党規約違反 |
| ヴァシリー・ムジャバナゼ | グルジア党第一書記 | 賛成 | 諸社会主義国指導者への無粋な振る舞い |
| ミハイル・スースロフ | 党中央委員会書記 | 賛成 | フルシチョフ個人崇拝の形成 |
| ヴィクトル・グリシン | 全ソ労働組合中央評議会議長 | 賛成 | 感情的な性格 |
| 1964年10月14日(2日目) | |||
| ドミトリー・ポリャンスキー | 党中央委員会政治局員 | 賛成 | 自制心の喪失から来る行動が国家への不利益 |
| アレクセイ・コスイギン | 閣僚会議第一副議長 | 賛成 | 人格崇拝及び政治局員の過労創出 |
| アナスタス・ミコヤン | 最高会議幹部会議長 | 反対 | フルシチョフの長所を述べ再度の機会を要望 |
| ニコライ・ポドゴルヌイ | 党中央委員会政治局員 | 賛成 | ミコヤン演説の非難及び人格崇拝の非難 |
3日にわたる総会の末、フルシチョフは自発的にあらゆる役職から辞任する[124][123]。
フルシチョフは失策が目立ったが、フルシチョフの時代は出版の自由が比較的認められ、アレクサンドル・ソルジェニーツィンによるスターリン時代の収容所の実体験を基にした小説「イワン・デニーソヴィチの一日」の出版が許可されていた[108][125]。
ブレジネフ時代

フルシチョフ失脚後、スターリンによる独裁を経て、フルシチョフも独裁傾向にあったことから、集団指導体制が目指された[126][127]。ブレジネフが指導者となるが、首相機能を分離させ、首相はアレクセイ・コスイギンが、ニコライ・ポドゴルヌイが最高会議幹部議長となりトロイカ体制がとられた[126][127][113]。だが、実際のところ1971年の第24回党大会ではブレジネフが有力となっており、1970年代後半になると、ブレジネフによる独裁色が強まることになる[127]。フルシチョフの指導者時代は、改革に次ぐ改革を行った結果、混乱が生じたため、ブレジネフ時代になってこれらを否定する[128][129]。例としては、フルシチョフが考案した国民経済会議は1964年11月に廃止され、工業管理は工業部門別の省が管理するという縦割り行政に戻ることになった[130][129]。フルシチョフ時代は改革に伴って人事が混乱したため、ブレジネフ時代は人事の安定化が行われたが、これは裏を返すと、組織が同じ人員で占められることになり、組織の硬直化、汚職、腐敗の温床となり、若い人材が台頭しにくい土壌が形成された[128][112][131]。
また、ブレジネフ時代は死を伴う粛清は基本的に控えられ、精神病院送り、投獄、閑職のポストに据える程度に抑えられた[132][133]。1975年になると、政治局員の平均年齢は70歳前後に到達していた[134][135]。汚職、腐敗に関して補足すると、1966年にコルホーズで賃金が保証される様になり、農民の生活は安定した[136]。賃金を得るために、作業ノルマの達成が求められたが、作業ノルマさえ達成すれば良く、収穫高の高低は問われなかった[136]。企業の経済活動も、一応はノルマが設定されたが、閑散期は勤務時間中の飲酒、喫煙が常態化し、繁忙期はノルマ達成のため突貫で達成するなどしたため品質は度外視された[136][134]。余剰労働力を解雇しようにも、(解雇した場合に)繁忙期にノルマ達成が可能かどうかが見通せないため、余剰な労働力を抱え込むようになった[136]。数少ない良質品については、転売や窃盗の被害に遭うなど品不足が発生し、時には良品を購入するため、勤務時間中にもかかわらず行列に並ぶということも起きていた[137][134][138]。企業側も、闇商人に物資を流すなどの不正を行っていた[134]。
このような腐敗していた状況であったが、ソ連にとっては幸いなことに1970年代になると石油価格が上昇したため、産油国のソ連は石油による輸出で潤沢な外貨を獲得することができ、市民生活は改善される[137][112][139]。天然資源に乏しい西側諸国では石油危機時はエネルギー節約のための技術革新が強く求められたが、ソ連は天然資源に恵まれていたために、(軍事技術と宇宙技術は例外として)技術革新が停滞してしまい、1970年代半ばには経済面では西ドイツや日本に大きく後塵を拝していた[139][128][140]。
ブレジネフ時代、コルホーズの農民に対しての賃金保証以外にも、年金制度の整備と、国内旅券の発行許可など、農民の生活改善は進んだが、ソ連は農業振興のため補助金を大量に投入していたため、国家財政をひっ迫させることになった[135][136]。

ブレジネフ時代の外交について記載すると、1968年にチェコスロバキアで人間の顔をした社会主義の政策が推進されたが、ブレジネフはこの動きをワルシャワ条約機構軍を動員して鎮圧してしまった(プラハの春)[115][126]。ブレジネフはこの抑圧政策について、社会主義陣営全体の利益のため、一国の主権は制限されうるという制限主権論を提唱した[134][141]。これはブレジネフ・ドクトリンとしても知られる[115][126]。
ブレジネフ時代の西側諸国との関係は、デタントを経て対立へと向かう。アメリカとの関係について記載すると、核兵器については、1968年に核拡散防止条約を調印[142][121]。アメリカと交渉を行い、1972年にSALT Iの締結に合意し、これによってICBM、SLBMの所持弾頭数に上限が設定され、先制攻撃を自制する方向へと向かう[143][126][128]。だが、1973年に起きた第四次中東戦争では、米ソ両国がイスラエル・アラブ双方に武器を供与していたため、不信感が生じる[142][100]。かと思えば1975年にはアポロとソユーズのアポロ・ソユーズテスト計画が行われデタントと緊張が生じていた[142]。だが、1970年代中頃から後半になると、ソ連はアフリカなどの第三世界へと進出し、アメリカと対立するようになる[142][128][144][100]。
プラハの春以外におけるヨーロッパ方面の関係について記載すると、1969年に西ドイツ首相ヴィリー・ブラントとの外交により西ドイツとの関係は進展、1970年には西ドイツと武力不行使条約が締結され、(条約上は)ヨーロッパにおける敵対国は無くなった[143][145][100]。1975年にはヘルシンキで全欧安全保障協力会議が開催によって、人権尊重が謳われ、戦後のヨーロッパの国境が確認され、[126][100]
一方中国との関係については、フルシチョフ時代と同様改善へと向かうことは無かった。フルシチョフが失脚直後は、中国は賛辞し、周恩来がモスクワにやってきて、ブレジネフらと会談の場を持つなど友好ムードが醸成されたかに見えた[146][134]。だが、1965年にベトナムにおいて北爆が始まると、中ソは北ベトナム側に出兵をする[134][146]。だが、ソ連はアメリカとの決定的な対立回避するため、水面下では交渉を模索していた[134]。1965年の印パの武力衝突で中国が介入した際には(第二次印パ戦争)、ソ連は調停役を務めたが、これも中国側の怒りを買うことになる[134]。そして、両国との間には、とうとう1969年に国境を巡り武力衝突が生じる(中ソ国境紛争)[126][146]。この武力衝突は周恩来とブレジネフが歩み寄ったことで鎮静化へと向かったが、中国側は今度は敵の敵は味方という理論で、アメリカへと接近し、1972年2月、ニクソンの訪中が実現し、米中の国交が1979年に正常化される[146][145][126]。中ソの対立はますます深まり、中国は中ソ友好同盟相互条約を破棄してしまう[146]。
アフガニスタン紛争とブレジネフ死去
1978年、アフガニスタンにヌール・ムハンマド・タラキーが首班を務める親ソ連政権が樹立されたが、内部抗争が起こり、タラキーは1979年9月に暗殺されてしまう[139]。その後ハフィーズッラー・アミーンが政権を掌握するが、アミンはソ連よりもアメリカへと接近を試みたため、ソ連はこれに対して軍を介入させた[143][126][139]。アフガニスタン情勢は、軍事力に勝るソ連が介入したため、短期間で鎮静するかに見えたが、アメリカは反政府ゲリラ(ムジャヒディン)を支援したため、泥沼化する[143][139]。ソ連のアフガン情勢介入は、SALT IIの破綻、そしてアメリカを主体とする西側諸国の経済制裁を招いた[100][139]。また、1980年に開催のモスクワ五輪でもアメリカを主体とする西側諸国の出場ボイコットが起きた[143][142]。1981年1月にアメリカでロナルド・レーガンが大統領になると、彼はソ連を悪の帝国と呼び、米ソ関係は極端に悪化した[147][139]。ブレジネフは1976年以降病気がちになっており、1982年11月に死去した[138][148]。
ゴルバチョフ時代とソ連崩壊へ

ブレジネフ死去後、KGB議長のユーリ・アンドロポフが指導者となる[148][138]。アンドロポフは規律引き締めを訴えかけたが、高齢と病気ということもあり、1984年2月に在任期間400日ほどで死去してしまう[138][135]。アンドロポフの在任中、大韓航空機撃墜事件が起こり、ソ連は国際的な非難に晒される[148][138]。アンドロポフの後継者となったのはコンスタンティン・チェルネンコであるが、指導者になった時点で高齢と病気によって政治どころではなく、1年程で死去してしまう[148][131]。
チェルネンコ死去後、若い指導者が求められ、1985年3月、54歳のミハイル・ゴルバチョフが指導者となる[149]。ゴルバチョフが書記長就任時は、労働規律は一層ひどくなっていた[138]。例えば、製品機械は組み立てを完了しないまま発送されているという状況で、発送しても途中で部品は盗まれるという有様であった[138]。ゴルバチョフはまずはアンドロポフに倣って、規律強化を訴えかけた[150][138][151]。労働規律を強化するため、反アルコールキャンペーンも展開するが、女性には好評だったものの、既に規律が緩み切った労働者の間では不評であった[138][152]。
ゴルバチョフによる外交政策について記載すると、ゴルバチョフは新思考外交を展開し、1985年末に核の全廃を訴えかけ、核実験の中止を実行した[153][154]。その後、ジュネーヴで米ソ首脳会談を開催し、レーガンに対して中距離核戦力(INF)の全廃を提案する[154]。そして、1986年10月のレイキャビクで米ソ首脳会談が行われ,戦略核の5割削減と中距離核の全廃が原則合意、中距離核戦力全廃条約に調印した[153]。その後、1988年2月には、アフガニスタンからの撤兵が発表され、1988年5月から撤退が開始、翌年2月に撤退は完了する[155][156]。また、ゴルバチョフは1988年3月、東欧諸国に対して改革を促し、改革によるソ連軍の介入はしないことを骨子とした新ベオグラード宣言を出し、1988年末東欧諸国に配備している戦車師団を引き上げさせた[155][153]。これによって、1989年に入ると東欧諸国では東欧革命が起きる[155][153]。その象徴と言えるのがベルリンの壁の崩壊であった[155][142]。そして、とうとう1989年12月に行われたマルタ会談によって、冷戦の終結が確認された[155][142][156]。極東情勢については、1989年5月、ゴルバチョフは北京を訪問し、中国との関係正常化を発表した[146][注 3]。1990年には朝鮮戦争以来国交が途絶えていた韓国との国交を樹立した[157][156][154]。ゴルバチョフは1990年にノーベル平和賞を授与された[156][154]。
ゴルバチョフと言えば、その他ペレストロイカとグラスノスチが挙げられるが、これは1986年2月、第27回党大会に打ち出されたものである[149]。1986年4月チェルノブイリ原子力発電所事故が起こり、対応が後手に回った[143][150]。これによってグラスノスチが一層促進されることになる[150][149]。ペレストロイカは改革という意味合いであるが、その定義は不明確であったが、独立採算制の導入や複数政党制の導入など様々な方面において改革が行われた[149][138][150]。

だが、1987年10月の党中央委員会総会において、モスクワ市共産党第一書記のボリス・エリツィンは、改革の速度が遅いと批判し、彼はゴルバチョフによって解任され失脚する[158]。1988年6月、党の協議会において、共産党の役割の縮小と人員代議員大会の議席の3分の2を普通選挙で選出するという案が採択される[159][160]。これによって1989年に選挙が行われ、2250人の代議員の内、共産党員85%が当選したものの、政府が擁立した候補者の20%は落選するという結果になり、共産党は最早不支持であることが鮮明となった[161][153]。この人民代議員選挙によってエリツィンは再び台頭することになる[161][159]。
ここからソ連を構成する共和国と、ソ連の中枢部における動きと崩壊に向けた動きを記載する。ソ連を構成するバルト三国では、元々独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、ソ連を構成する共和国となった経緯があるため、ソ連からの独立への意識が強かった[162]。ソ連ではグラスノスチによって民族主義を堂々と打ち出せるようになり、1987年秋になるとバルト三国は独立を要求するようになる[163][164]。1988年11月、バルト三国のエストニアが主権宣言[注 4]を行い、1989年になるとリトアニア、ラトビアがそれに続いた[156][162]。1989年12月には、ソ連人民代議員大会において、それまで存在しないとされていた独ソ不可侵条約の秘密議定書の存在が明るみになり、バルト三国がソ連を構成する共和国となったことそのものについて正当性が疑われるようになる[162]。
ソ連では1990年3月、ソ連憲法第6条が廃止され、共産党による一党独裁の廃止と大統領制度の導入が決定される[160][165][153]。これによって、ゴルバチョフはソ連の初代大統領に就任する[160][165][153]。この1990年3月には、リトアニアとエストニアで独立宣言が行われた[153]。5月にはラトビアも続いた[153]。そして、この5月にはソビエト連邦を構成する最大の共和国であるロシア共和国で、エリツィンが(ロシア共和国の)最高会議議長に当選、1991年6月には大統領に当選する[166][160][153]。ロシア共和国は1990年6月に主権宣言を行い、モスクワにはソ連とロシアの二重権力状態となる[160][167][153]。また、ロシア共和国議会は共和国憲法がソ連憲法より優越すると宣言したために、各共和国は主権宣言を採択することになる[163]。

独立宣言を行ったバルト三国であるが、1991年1月、ソ連側はこの独立宣言を認めず、リトアニアとラトビアに武力介入を行い、独立派の市民に死傷者が生じた[162][168]。1991年3月、ソ連邦の維持を巡る国民投票が9共和国で開催され、賛成多数となり連邦制度の維持が可決された[156]。なお、国民投票が行われた9共和国の内訳は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、アゼルバイジャンで、バルト三国、アルメニア、グルジア、モルダヴィアはボイコットした[162]。1991年7月、ゴルバチョフは新連邦条約案を起草するが、内容としては各共和国首脳に権限の譲渡を打ち出したもので、これはつまりソ連邦の権限を弱体化することに他ならなかった[169][166][156]。これに対して、1991年8月19日、ソ連の保守派はゴルバチョフの失脚と新連邦条約反対のためのクーデターを起こして対抗した(ソ連8月クーデター)[166][163][156][170]。だが、ロシア共和国大統領エリツィンは、このクーデターに対して不支持の姿勢を表明したため、クーデターは3日間で沈静化する[170][149][156]。
クーデターが失敗したことで、新連邦条約案は採択されず、各共和国からは独立宣言が相次ぐ[156]。そして、ソ連に代わりロシア共和国大統領エリツィンが権力を事実上掌握する[170][169]。クーデター失敗直後の8月23日、エリツィンはロシア共和国の共産党の活動停止命令を発令し、ゴルバチョフも共産党書記長を辞任した[160][162][168]。同年11月、エリツィンはロシア共和国の共産党の解散命令を発令する[170][169]。その後、1991年12月8日にはロシア、ウクライナ、ベラルーシの3カ国の首脳が、独立国家共同体(CIS)創設を宣言し、12月21日にはバルト三国とグルジア[注 5]を除く11の共和国が独立国家共同体へ加盟することで合意し(アルマ・アタ宣言)、独立国家共同体が発足した[156][160][162]。こうして、ソビエト連邦の維持は困難となり、12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領の職務停止を宣言して、ソ連は崩壊、ソ連は15の共和国に分かれた[156][171][170]。
ソ連崩壊直後の動静
ソ連崩壊後、ロシアの大統領は引き続きエリツィンが務めることになり、ロシアは上下院の2院制が導入され、国有企業の民営化や西側諸国の製品やサービスなどの導入が積極的に進んだものの、経済は大混乱が生じ、ソ連崩壊から5年間はGDPはソ連時代の3分の2となった[172][173]。また、ソ連時代の価格統制を停止したために、食料品価格は高騰し、ハイパーインフレに見舞われた[174][175]。ソ連時代にも生じていたが、チェチェンでは独立に向けた運動が行われ、紛争も起きるようになる[176][175]。これらによりロシアは国際的な地位は大きく低下することになるが、ウラジーミル・プーチンの台頭後に変化が生じ始めることになる[175][177][178]。
年表
- 1914年 - 7月に第一次世界大戦勃発、ロシア帝国も参戦する[22]。
- 1917年 - 2月、2月革命が起こり、ニコライ2世が退位、ロシア帝国が滅亡する[179][9][注 6]。その後、臨時政府が樹立されるが、十月革命が勃発し打倒され、ボリシェヴィキと社会革命党左派の連立政権が樹立される[14][9]。
- 1918年 - 1月、レーニンが議会を解散[14]。3月、第一次世界大戦の講和条約ブレスト=リトフスク条約を締結、内戦へと突入する[24][19]。内戦終結時期は諸説あり[27][24][19][22][29]
- 1921年 - 農業の凶作により餓死者多数発生、農民による反乱も相次ぎ、ネップを打ち出す[31][32][33][14][34]
- 1922年 - ロシア共和国、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカス連邦(グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン)によるソビエト社会主義共和国連邦が樹立[33][36][37]。加盟共和国は順次増え1940年には15の共和国で構成される[40][41]
- 1924年 - レーニン死去、スターリンが有力な指導者となる[31][28]。
- 1927年 - スターリンが農業集団化推進を表明、1931年秋までに完了することとされた[51][42][180]。
- 1929年 - スターリン、政治局の有力幹部を失脚させ独裁体制を固める[35][14][52]
- 1932年 - 1932年から翌年にかけて、農業集団化による混乱のため多数の餓死者が生じる(ホロドモール)[57][51][61]
- 1934年 - セルゲイ・キーロフが暗殺され、1936年頃から大粛清が開始される[65][66][67]
- 1939年 - 独ソ不可侵条約を締結、ナチス・ドイツポーランド侵攻により、ソ連は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきポーランド東部を獲得[57][75][76][77]
- 1940年 - フィンランドとの間で冬戦争が勃発、国際連盟を除名[75][77][74]
- 1941年 - 独ソ戦勃発、モスクワ至近にまでドイツ軍が迫るが翌年反撃に成功[75][55][78]。
- 1943年 - スターリングラード攻防戦、クルスクの戦いに勝利し、独ソ戦の戦況が優位に転じる[81][80]。同年11月テヘラン会談によって、英米との間にヨーロッパでの第二戦線構築とソ連の対日参戦を合意[76][81]
- 1945年 - 5月、ベルリン陥落により独ソ戦終結[81]。8月対日参戦(翌月攻撃行動停止)[81]
- 1947年 - アメリカ、戦後ヨーロッパの復興計画マーシャル・プランを提唱、ソ連は対抗しコミンフォルムを形成[95]
- 1949年 - ソ連、原爆実験に成功する、後1953年には水爆実験にも成功[93][120]
- 1953年 - 1月、「医師陰謀事件」発表[181]。3月5日、スターリン死去。マレンコフが閣僚会議議長に就任[181] 。6月 - 東ドイツで労働者蜂起[181]。6月、ベリヤ逮捕[181]。9月:フルシチョフが共産党第一書記に就任[181]
- 1955年 - 2月、ブルガーニンがマレンコフに代わり閣僚会議議長に就任[181]。5月、ワルシャワ条約機構発足 [181]。7月、ジュネーブ・サミット[181]
- 1956年 - 2月、ソ連共産党第20回大会、フルシチョフの「秘密演説」[181]。4月、コミンフォルム解散[181]。10月-11月、ソ連軍、ハンガリー革命を鎮圧[181]
- 1957年 - 6月、反党グループ事件(マレンコフ、モロトフ、カガノヴィチ)がフルシチョフに対抗[181]。10月4日、ソ連、地球初の人工衛星スプートニク打ち上げ[181]
- 1958年 - 3月、フルシチョフ、ブルガーニンに代わり閣僚評議会議長に就任[181]。10月~11月:ノーベル賞受賞者ボリス・パステルナーク反対運動[181]。11月、フルシチョフ、ベルリン危機を扇動[181]
- 1959年 - 9月、フルシチョフ、米国訪問、 「キャンプ・デービッドの精神」[181]
- 1960年 - 5月、アメリカのU-2偵察機がソ連上空で撃墜される[181]
- 1961年 - 4月12日、ユーリ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行士となる[181]。6月、フルシチョフとケネディがウィーンで会談する[181]。8月、ベルリンの壁が建設される[181]。10月、ソ連共産党第22回大会開催、スターリンの遺体がレーニン廟から撤去される[181]
- 1962年 - 6月、ノヴォチェルカッスクで暴動[181]。10月-11月:キューバ危機[181]
- 1963年 - 核実験禁止条約調印[181]
- 1964年 - 10月、中央委員会によりフルシチョフ第一書記が解任されブレジネフが後任に就任[181]
- 1965年 - コスイギン、経済改革の導入を試みる。4月24日:アルメニア人がジェノサイド50周年を記念してエレバンでデモ行進[181]
- 1966年- 2月、シニアフスキーとダニエルの裁判[181]
- 1968年 - 8月、ソ連軍がチェコスロバキアに侵攻、占領[181]
- 1969年 - 10月、ソルジェニーツィン、ノーベル文学賞受賞[181]
- 1971年 - 9月3日、ベルリンの地位に関する四カ国協定調印[181]
- 1972年 - 5月22日~30日、ブレジネフとニクソンモスクワでSALT Iに署名した。デ・タントの時代[181]
- 1975年 - 8月1日、ヘルシンキ協定調印、12月、アンドレイ・サハロフ、ノーベル平和賞受賞[181]
- 1977年 - 10月7日、ソ連新憲法採択[181]
- 1979年 - 12月24日~26日、ソ連軍、マルクス主義政権支援のためアフガニスタンに侵攻[181]
- 1982年 - 11月10日、ブレジネフ書記長死去。後任にユーリ・アンドロポフ[181]。
- 1983年 - 9月、ソ連軍、大韓民国旅客機007便撃墜[181]
- 1984年 - 2月9日、アンドロポフ死去、チェルネンコ後任[181]
- 1985年 - 3月10日、チェルネンコ書記長死去。3月11日ミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任[181]。
- 1986年 - 4月26日、チェルノブイリ原子力発電所事故[181]。10月、ゴルバチョフとレーガン、アイスランドのレイキャビクで会談[181]。12月、ゴルバチョフ、サハロフに亡命先からのモスクワ帰還を要請[181]。
- 1987年 - 10月から11月、エリツィンが党指導部を批判した後、降格[181]
- 1988年 - 2月、ナゴルノ・カラバフ危機勃発[181]。
- 1989年 - 4月、グルジアのトビリシでデモが暴力的に鎮圧される[181]。5月、人民代議員大会開催[181]。11月9日:ベルリンの壁崩壊[181]。
- 1990年 - 1月、ソ連軍が暴動鎮圧と秩序回復のためアゼルバイジャンに進駐[181]。3月、ソ連憲法第6条が削除[181]。10月15日、ゴルバチョフがノーベル平和賞を受賞[181]
- 1991年 - 3月、ソ連の将来構造に関する国民投票実施[181]。6月、エリツィンがロシア連邦大統領に選出[181]。8月、ゴルバチョフに対する8月クーデター発生、失敗に終わる。[181]。12月、ソ連邦共産党解散[162]。12月21日、アルマ・アタ宣言[168]。12月25日、ゴルバチョフ大統領辞任によりソ連崩壊[181]。
脚注
注釈
出典
- 1 2 関 2020, 位置No.924-966/1907.
- 1 2 和田 & 2023_下, 位置No.181-261/3750.
- 1 2 土肥 2016, 位置No.3576-3642/4671.
- 1 2 関 2020, 位置No.968-1010/1907.
- ↑ 和田 & 2023_下, 位置No.261-342/3750.
- ↑ 和田 & 2023_下, 位置No.291-342/3750.
- ↑ 関 2020, 位置No.1082-1126/1907.
- ↑ 和田 & 2023_下, 位置No.405-485/3750.
- 1 2 3 4 5 松戸 2011, pp. 12–17.
- 1 2 和田 & 2023_下, 位置No.573-622/3750.
- ↑ 土肥 2016, 位置No.3712-3771/4671.
- 1 2 3 4 祝田 2022, pp. 80–81.
- 1 2 フィッツパトリック 2023, pp. 29–35.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 チャノン&ハドソン 2014, pp. 90–95.
- 1 2 3 4 5 6 関 2020, 位置No.1176-1223/1907.
- 1 2 3 4 和田 & 2023_下, 位置No.622-683/3750.
- 1 2 下斗米 2017, 位置No.693/3702.
- ↑ 下斗米 2021, pp. 9–13.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 土肥 2016, 位置No.3772-3828/4671.
- 1 2 3 関 2020, 位置No.1223-1261/1907.
- 1 2 和田 & 2023_下, 位置No.683-723/3750.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 和田 1993, pp. 137–148.
- 1 2 3 4 5 6 松戸 2011, pp. 17–22.
- 1 2 3 4 5 下斗米 2016, pp. 145–150.
- 1 2 3 4 5 下斗米 2021, pp. 13–18.
- 1 2 3 4 和田 & 2023_下, 位置No.786-897/3750.
- 1 2 3 4 和田 & 2023_下, 位置No.906-988/3750.
- 1 2 3 4 5 下斗米 2016, pp. 151–156.
- 1 2 フィッツパトリック 2023, pp. 35–41.
- ↑ 関 2020, 位置No.1273-1288/1907.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 和田 & 2023_下, 位置No.995-1073/3750.
- 1 2 3 祝田 2022, pp. 84–85.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 松戸 2011, pp. 22–28.
- 1 2 チャノン&ハドソン 2014, pp. 100–101.
- 1 2 3 4 5 6 関 2020, 位置No.1325-1360/1907.
- 1 2 3 フィッツパトリック 2023, pp. 16–23.
- 1 2 和田 & 2023_下, 位置No.789-897/3750.
- 1 2 3 4 5 渓内 1992, pp. 5–9.
- ↑ 下斗米 2021, pp. 20–25.
- 1 2 3 4 5 土肥 2016, 位置No.3858-3938/4671.
- 1 2 和田 & 2023_上, 位置No.97-165/3626.
- 1 2 3 4 5 6 土肥 2016, 位置No.3941-4015/4671.
- 1 2 3 4 5 6 7 松戸 2011, pp. 40–46.
- 1 2 3 4 和田 & 2023_下, 位置No.1077-1148/3750.
- ↑ 下斗米 2021, pp. 28–32.
- ↑ 下斗米 2016, pp. 134–139.
- ↑ 祝田 2022, pp. 82–83.
- 1 2 3 4 5 横手 2014, 位置No.1834-1904/3689.
- ↑ 横手 2014, 位置No.2310/3689.
- 1 2 下斗米 2016, pp. 157–162.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 和田 & 2023_下, 位置No.1271-1390/3750.
- 1 2 チャノン&ハドソン 2014, pp. 102–103.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 松戸 2011, pp. 28–34.
- 1 2 和田 & 2023_下, 位置No.1213-1265/3750.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 和田 1993, pp. 149–158.
- 1 2 チャノン&ハドソン 2014, pp. 104–105.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 関 2020, 位置No.1368-1410/1907.
- 1 2 3 4 5 6 松戸 2011, pp. 34–40.
- 1 2 渓内 1992, pp. 9–15.
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- 1 2 3 4 5 6 7 下斗米 2016, pp. 172–177.
- ↑ 下斗米 2021, pp. 39–44.
- ↑ フィッツパトリック 2023, pp. 79–85.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 和田 & 2023_下, 位置No.1512-1600/3750.
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- 1 2 3 土肥 2016, 位置No.4033-4064/4671.
- 1 2 祝田 2022, pp. 86–87.
- 1 2 チャノン&ハドソン 2014, pp. 108–109.
- 1 2 3 フィッツパトリック 2023, pp. 90–96.
- ↑ 松戸 2011, pp. 46–49.
- 1 2 3 4 チャノン&ハドソン 2014, pp. 106–107.
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- 1 2 3 4 5 関 2020, 位置No.1420-1449/1907.
- 1 2 3 4 5 6 フィッツパトリック 2023, pp. 97–100.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 和田 & 2023_下, 位置No.1600-1702/3750.
- 1 2 3 4 5 6 下斗米 2021, pp. 54–61.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 松戸 2011, pp. 53–56.
- 1 2 3 4 5 松戸 2011, pp. 58–62.
- ↑ 横手 2014, 位置No.2652-2662/3689.
- 1 2 3 4 5 下斗米 2016, pp. 184–189.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 和田 & 2023_下, 位置No.1711-1813/3750.
- ↑ フィッツパトリック 2023, pp. 100–109.
- 1 2 松戸 2011, pp. 72–76.
- 1 2 3 4 下斗米 2021, pp. 61–67.
- ↑ チャノン&ハドソン 2014, pp. 118–119.
- 1 2 松戸 2011, pp. 67–72.
- 1 2 3 4 フィッツパトリック 2023, pp. 127–131.
- 1 2 3 4 5 渓内 1992, pp. 18–24.
- ↑ 祝田 2022, pp. 92–93.
- 1 2 3 4 和田 & 2023_下, 位置No.1830-1933/3750.
- ↑ 渓内 1992, pp. 15–18.
- ↑ 下斗米 2017, 位置No.2257/3702.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 和田 & 2023_下, 位置No.1829-1968/3750.
- 1 2 3 4 5 6 下斗米 2021, pp. 67–71.
- 1 2 3 4 チャノン&ハドソン 2014, pp. 120–121.
- 1 2 祝田 2022, pp. 94–95.
- 1 2 3 松戸 2011, pp. 83–88.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 関 2020, 位置No.1457-1501/1907.
- 1 2 和田 & 2023_下, 位置No.1933-1981/3750.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 チャノン&ハドソン 2014, pp. 110–115.
- 1 2 3 和田 & 2023_下, 位置No.1984-2073/3750.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 フィッツパトリック 2023, pp. 122–127.
- 1 2 3 4 5 6 渓内 1992, pp. 24–33.
- 1 2 松戸 2011, pp. 90–94.
- 1 2 3 4 5 下斗米 2021, pp. 72–79.
- 1 2 チャノン&ハドソン 2014, pp. 124–125.
- 1 2 3 4 5 6 7 和田 & 2023_下, 位置No.2073-2141/3750.
- 1 2 3 4 下斗米 2016, pp. 210–215.
- 1 2 3 4 松戸 2011, pp. 95–104.
- ↑ 松戸 2011, pp. 125–131.
- 1 2 3 渓内 1992, pp. 34–44.
- 1 2 3 4 和田 1993, pp. 159–168.
- 1 2 3 土肥 2016, 位置No.4113-4157/4671.
- 1 2 松戸 2011, pp. 116–121.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 関 2020, 位置No.1510-1574/1907.
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- ↑ 和田 & 2023_下, 位置No.2111/3750.
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- 1 2 3 4 5 6 7 松戸 2011, pp. 110–116.
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- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 松戸 2011, pp. 160–167.
- 1 2 3 下斗米 2021, pp. 88–92.
- 1 2 3 4 5 松戸 2011, pp. 153–160.
- 1 2 渓内 1992, pp. 66–69.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 松戸 2011, pp. 210–215.
- 1 2 3 4 5 6 7 松戸 2011, pp. 168–174.
- ↑ フィッツパトリック 2023, pp. 151–159.
- ↑ 祝田 2022, pp. 98–99.
- 1 2 3 4 5 6 7 下斗米 2016, pp. 216–222.
- 1 2 3 4 5 6 関 2020, 位置No.1576-1613/1907.
- ↑ 下斗米 2017, 位置No.3100/3702.
- 1 2 下斗米 2021, pp. 80–87.
- 1 2 3 4 5 6 下斗米 2016, pp. 229–234.
- ↑ チャノン&ハドソン 2014, pp. 126–127.
- 1 2 3 4 和田 & 2023_下, 位置No.2282-2301/3750.
- 1 2 3 4 5 下斗米 2016, pp. 256–261.
- 1 2 3 4 和田 & 2023_下, 位置No.2361-2419/3750.
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- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 下斗米 2021, pp. 98–104.
- 1 2 3 4 松戸 2011, pp. 221–224.
- 1 2 3 4 5 和田 & 2023_下, 位置No.2419-2478/3750.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 渓内 1992, pp. 78–84.
- 1 2 関 2020, 位置No.1621-1640/1907.
- ↑ 下斗米 2017, 位置No.3253-3263/3702.
- 1 2 チャノン&ハドソン 2014, pp. 128–129.
- 1 2 3 4 5 6 7 和田 1993, pp. 169–176.
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- 1 2 3 4 5 6 7 8 松戸 2011, pp. 224–232.
- 1 2 3 下斗米 2016, pp. 270–275.
- ↑ チャノン&ハドソン 2014, pp. 130–131.
- 1 2 松戸 2011, pp. 216–221.
- 1 2 3 和田 & 2023_下, 位置No.2630-2697/3750.
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- 1 2 3 下斗米 2021, pp. 105–111.
- 1 2 3 関 2020, 位置No.1682-1713/1907.
- 1 2 3 4 5 和田 & 2023_下, 位置No.2697-2766/3750.
- ↑ 祝田 2022, pp. 102–103.
- ↑ 和田 & 2023_下, 位置No.2768-2845/3750.
- ↑ 関 2020, 位置No.1722-1760/1907.
- ↑ 下斗米 2016, pp. 282–287.
- 1 2 3 祝田 2022, pp. 106–107.
- ↑ 和田 & 2023_下, 位置No.2845-2865/3750.
- ↑ 関 2020, 位置No.1770-1820/1907.
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- ↑ 関 2020, 位置No.1136-1176/1907.
- ↑ チャノン&ハドソン 2014, p. 90-95.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 The Cambridge History of Russia, vol.3: The Twentieth Century, Edited by Ronald Grigor Suny,Cambridge University Press,2006. p. xvi-xxi ; Chronology.
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- 下斗米伸夫『ロシアの歴史を知るための50章』明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2016年11月。ISBN 978-4-7503-4414-0。
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- 松戸清裕『ソ連史』筑摩書房社〈ちくま新書〉、2011年12月。ISBN 978-4-480-06638-1。
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- シェイラ・フィッツパトリック『ソ連の歴史』池田嘉郎,真壁広道訳、人文書院、2023年11月。ISBN 978-4-409-51099-5。
- 横手慎二『スターリン 「非道の独裁者」の実像』(Kindle版)中央公論新社、2014年7月。ASIN B0C6KBS52C。