ナバネセム・ピレイ
| ナバネセム・ピレイ Navanethem "Navi" Pillay | |
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2014年 | |
| 任期 2008年9月1日 – 2014年8月31日 | |
| 事務総長 | 潘基文 |
| 代理官 | 康京和 フラビア・パンシエリ |
| 前任者 | ルイーズ・アルブール |
| 後任者 | ザイド・ラード・アル・フセイン |
| 任期 2003年3月11日 – 2008年8月31日 | |
| 任期 1999年6月4日 – 2003年5月26日 | |
| 前任者 | ライティ・カマ |
| 後任者 | エリック・モーセ |
| 任期 1995年5月25日 – 2003年12月3日 | |
| 任期 1995年 – 1995年 | |
| 大統領 | ネルソン・マンデラ |
| 個人情報 | |
| 生誕 | ナバネセム・ナイドゥー 1941年9月23日(85歳) |
| 配偶者 | パランジョシー・ピレイ(1965年 - 1990年頃 死別) |
| 子供 | いずれも養女 ・イスヴァリ・ピレイ ・カミニ・ピレイ |
| 出身校 | ナタール大学(文学士、法学士) ハーバード大学(法学修士、法学博士) |
| 受賞 | ノーベル平和賞(2026年)ほか →ナバネセム・ピレイ#表彰を参照 |
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ナバネセム・"ナビ"・ピレイ(英語: Navanethem "Navi" Pillay, 1941年9月23日[1] - )は、南アフリカ共和国の法学者、裁判官、弁護士。旧姓はナイドゥー(英語: Naidoo)。ルワンダ国際戦犯法廷所長、国際刑事裁判所(ICC)判事、国連人権高等弁務官、国際司法裁判所(ICJ)臨時裁判官などを歴任した。2026年、「平和と国際法の推進への貢献」によりノーベル平和賞を受賞[2]。しばしばナビ・ピレイ(英語: Navi Pillay)とも表記される[1][2]。
経歴
生い立ち
ダーバンの貧家に八人兄妹のうちの第五子として生まれる。タミル人の家庭であり[2]、父はバス運転士のナレインサミー・ナイドゥ(英語: Narrainsamy Naidoo)、母は主婦のサンタマ・ナイドゥ(英語: Santhama Naidoo)[3]。
ナバネセムの祖父母は1890年代、砂糖のプランテーションで働く年季奉公として、英領インドから同じく大英帝国植民地だった南アフリカのナタールへと渡来し、ナバネセムは幼い頃、家中の男女平等を重視する強いヒンドゥー教に基づいた環境で成長した[4]。
たとえばナバネセムが小学校に通っていた当時、既に同級生の大半は結婚を強いられるという状況下にあったが、彼女の両親はナバネセムらの女子にも、男子と同様に教育を広く受けさせるべきだと考えていたという[3]。当時の南アフリカでは、学校の定員を超越した人数の生徒が在籍していることの多く[4]、ナバネセムの母サンタマは上の子の出生証明書を使って下の子を入学させたり、上の子が使い古したノートの白紙部分を綴じ合わて下の子が使用するノートを手作りしたりと、限られた環境や資金の中で積極的な工面に努めた[3]。
かくて入学した学校では、ナバネセムは家庭とは全く異なる環境に身を置き、新たな言語で新たな宗教を学んだ。これは教師らが各々の思想にかかわらず、当局からの報復を恐れ、アパルトヘイトなどの時勢について言及することを厳しく禁ぜられていたためである[4]。
ナバネセムが初めて法律に触れたのは5歳のとき、母サンタマから父ナレインサミーへ運ぶよう渡されていた、当時の父の月給に相応する5ポンドを盗まれた際である。ナバネセムは自ら法廷に立って証言し、最終的に本件の被告人は有罪判決を受けたものの、盗まれた5ポンドが手元に返ってくることはなかった[4]。
ナバネセムは幼少期から、主に執筆活動に臨んで才気煥発した。10歳のとき、南アフリカの裁判所では黒人が白人よりも重罰を科されていることに関して、ラジオや新聞に接することができない環境の中、両親や教師たちの話を基盤として作文を行ったほか、14歳のときには南アフリカ国民が国産品を購入すべき理由についての作文を著してダーバン商工会議所主催のコンテストに応募し、のちに銅賞を受賞している。この翌年には、子供の価値観の形成において女性が果たす役割についての作文を発表し、ユダヤ人女性連盟から書籍を贈られた[4]。
1962年、学生向けのダンスパーティーにおいて、弁護士のパランジョシー・“ギャビー”・アンソニー・ピレイ(英語: Paranjothee "Gaby" Anthony Pillay)と出会い[4]、1965年1月に結婚した。子供を授かることができなかったため、数年の間隔を置き、イスヴァリ(英語: Isvari)とカミニ(英語: Kamini)という二人の女児を養子に迎えた[5][6]。
のちナバネセムがルワンダ国際戦犯法廷のためにタンザニアへ、更に国際刑事裁判所(ICC)判事として働くためにオランダのハーグへ移らなければならず、長期間離れて暮らすこともあったが、結婚生活は約30年間続いた。パランジョシーはアパルトヘイト体制下で反アパルトヘイト運動に参加したため当局に拘束され、弁護士としての経歴も中断を余儀なくされた。彼はこののち、失意からアルコール依存症に陥り、それによって1990年代末に死去した[6]。
1963年、地元のインド系南アフリカ人コミュニティからの義捐やその名声を知るクレアウッド(ナバネセムの出身地ダーバンの郊外に位置する地域の名)の住民、ダーバンの市議会、大学の奨学金などにより、ナタール大学(現・クワズール・ナタール大学)を文学士(BA)、1965年には法学士(LLB)の学位を取得して卒業した[4]。
なお、ナタール大学の在学中では、キャンパスにおいて政治活動が活発に行われていた。学生の反対も少なくない中、ナタール大学では授業や卒業式などの大半でアパルトヘイト(人種隔離)が実施されており、黒人のナバネセムは限られた資源や環境を他の白人でない学生と分け合って使用した。あるときには、非白人向けの大学図書館で、必修の教科書を他の非白人学生20人と共有したこともあったという[4]。
ナタール大学が一貫してアパルトヘイトの体制を敷いたのは、1959年、南アフリカにおいて大学教育拡張法が制定され、それまでアパルトヘイトの概念を撤廃していた大学にも、再びアパルトヘイトを導入することが義務付けられたためである[4]。これによってナバネセムは大学入学後僅か一年で、最寄りの非白人向け大学であるソールズベリー島大学(アパルトヘイトによって1961年に設置された大学、2004年の正月にクワズール・ナタール大学に統合)への転学を余儀なくされた[4]。しかし、ナタール大学には法学士課程があった一方、ソールズベリー島大学には設置されていなかったため、ナバネセムは当時の法務大臣フランス・エラスムスに対して転学の免除を申請したものの、エラスムスからは明確な返答を得られなかった。そのため担当機関に直接電話で問い合わせたところ、遂にはナタール大学への復学が認められ、同大学で学位を取得するに至った[4]。
その後、ナバネセムは渡米してハーバード・ロー・スクールに進学。ハーバード・南アフリカ交換留学奨学金制度の支援を受けて学び、1982年同校において法学修士(LLM)を取得した。1988年には博士論文を擱筆、同校において南アフリカ人としては初となる、法学博士(SJD)を取得して卒業した[4][7]。
南アフリカにおける活動
事務弁護士への就職
ナバネセムは、法曹としてのキャリアの大半を国際人権法の維持・発展のために費やし、とりわけ強姦や性暴力に関する犯罪に重点を置いた。また、夫のパランジョシーも参加していた反アパルトヘイト運動にも深く関与し、たとえば劣悪な刑務所環境やそこでの拷問の実施を巡って当局に訴訟を起こした、反アパルトヘイトを掲げる政治犯たちを弁護した[8]。
ナタール大学を卒業したナバネセムには、法廷弁護士と事務弁護士(attorney)という二つの進路があり、彼女は事務弁護士としての道を選んだ。事務弁護士としての資格を正式に認められるまでに、既存の事務弁護士のもとで二年間の研修を積む必要があったため、ナバネセムは自宅軟禁下に置かれていたアフリカ民族会議(ANC)のメンバーであるナラインサミー・ツンビ・ナイカー(英語: Narainsamy Thumbi "N.T." Naicker)のもとで研修を経験した[4]。
起業と弁護活動
1967年、研修期間を終えたナバネセムは事務弁護士としての資格を認められた3人の女性のうちの一人となり、ナタール(現在のクワズール・ナタール州)で女性として初めて弁護士事務所を設立した[1]。ナバネセムはこのことについて、のちに「どの法律事務所も私を雇おうとはしませんでした。白人の従業員が、有色人種から指示を受けるようなことは認められないというのが、その理由でした」と述懐している。実際、アパルトヘイト体制下で活動していたナバネセムは、弁護士という身分でありながら裁判官の執務室に立ち入ることさえ許されなかった[8]。
ナバネセムは、南アフリカで弁護士として活動した28年間に、アフリカ民族会議(ANC)や黒人意識運動の指導者サザシヴィアン・クーパーとストリニ・ムードリー、その他アザニア人民機構(AZAPO)などに所属する反アパルトヘイトの活動家らを弁護した。これに加えて、拷問の実態や政治犯として拘束された人々の処遇を明らかにすることにも努めたという[8]。
1971年、南アフリカにおいて反アパルトヘイト活動を行っていた夫のパランジョシーがテロリズム法の嫌疑によって当局に拘束された際には、警察が違法な尋問によって冤罪を生じさせることを阻止するため自ら訴訟を起こし、これに勝訴した[6]。
1973年、南アフリカ政府と対立して訴訟を起こしたカデル・ハシムやハリー・グワラらの裁判に関与し、のちに同国の大統領となるネルソン・マンデラを含むロベン島に収監されていた政治犯が弁護士と面会する権利を勝ち取った[4]。ナバネセムが数々の法的助言を行うなかで、依頼人たちは国際法や国際人道法に精通した裁判官に事件について相談するよう、ナバネセムに勧めた[4]。
1980年、母校であるクワズール・ナタール大学の講師に就任した[5]。
1981年、ハーバード・南アフリカ交換留学奨学金制度を通じてハーバード大学に出願し、入学して法学修士号を取得した[4]。同制度は、ハーバード大学のキャンパスで反アパルトヘイト運動に取り組んでいた活動家たちによって創設された交換留学制度である。その創設者らは、ハーバード大学に対し、アパルトヘイト体制下の南アフリカと取引する企業への投資を継続するのであれば、南アフリカの学生に同大学で学ぶ機会を提供するよう要求したことによって設立された[9]。ナバネセムは博士論文を擱筆した後、1988年にハーバード・ロースクールを修了し、法学博士号を取得した。
1986年、ナバネセムは大学において博士課程を履修する一方で、アンシュ・パダヤチーとともに虐待被害女性相談窓口(英語: Advice Desk for Abused Women)を設立した[10]。当初は自宅で運営していたが、のち旧ダーバン・ウェストビル大学のキャンパスに移転した。主として子供・高齢者・障害者への支援を行い、2026年までに支援した顧客は約50万人に上ったという。なお、パダヤチーは犯罪学の講師であり、後にMLスルタン工科大学の副学長代理を務めたが、2023年に死去した[11]。
1992年、ナバネセムは人権派弁護士ジェシカ・ニューワース及びフェリヤル・ガラヒと共に、女性の平等という理念を人権の分野に組み込むため、ニューヨークにおいて国際的な女性の権利擁護団体「イクオリティ・ナウ(英語: Equality Now)」を共同設立した[12]。
南アフリカ高等裁判所
1994年、ネルソン・マンデラ率いるアフリカ民族会議(ANC)が選挙に大勝して与党となり、この翌年ナバネセムは南アフリカ共和国の大統領に就任したマンデラおよび司法任命委員会によって、南アフリカ高等裁判所の判事にインド系南アフリカ人女性として初めて指名され、就任が許可された(1994年南アフリカ総選挙)[1][13]。
南アフリカにおける司法任命委員会(英語: Judicial Service Commission)とは、同国の大統領が選任した法曹関係者らで構成され、高等裁判所の判事候補者を審査し、その名簿を作成する機関である[14]。ナバネセムは反アパルトヘイト運動を通じて政治犯時代のマンデラとは面識があったため、司法任命委員会における判事候補者としてマンデラの知遇を受けたのである[9]。
かくして南アフリカ高等裁判所への就官が決まってまもなく、マンデラ大統領はナバネセムに祝電を送った。その際、マンデラは「貴方の任命は、私にとって個人的に大きな喜びです」と述べたという[4]。ナバネセムは当時を振り返り、「私が初めて裁判官の執務室に入ったのは、自分自身が裁判官となって、自分の執務室に入ったときでした」と語っている[8]。
しかし、直ぐにルワンダ国際戦犯法廷の判事へと転じたため、南アフリカ高等裁判所における在任は一年に満たなかった[8]。
ルワンダ国際刑事法廷における活動
1995年、マンデラ大統領と同政権における法務大臣アブドゥッラー・オマールは、国連安全保障理事会およびルワンダ国際戦犯法廷の判事候補者としてナバネセムを推挙し、ナバネセムは同年のうちにルワンダ国際刑事法廷における判事として抜擢された[13]。ナバネセムは2003年にICC判事へと転ずるまで同法廷での判事を努め、1999年からは所長判事にも選出された。なお、同法廷設置後の最初の四年間は、ナバネセムが唯一の女性判事であったという[15]。またこれと同時期に、ナバネセムはかつて虐待被害女性相談窓口を運営した際に事務所として利用していたダーバン・ウェストビル大学の講師を務めた[5]。
ルワンダ国際刑事法廷におけるナバネセムの功績として特に知られているのは、ジャン=ポール・アカイェスの裁判における判決である。本件については後述するが、この裁判では、強姦や性暴行がジェノサイドの行為に該当し得ることが認められた[15]。ナバネセムはインタビューに応じた際、「太古の昔から、強姦は戦利品の一つと看做されてきました。しかし今後は、それは戦争犯罪と看做されることになります。私たちは、強姦がもはや戦利品の一つではないという強いメッセージを発信したいのです」と強調した[16]。
ジャン=ポール・アカイェスの裁判
1998年、ナバネセムはザンビアで逮捕されたルワンダの元政治家ジャン=ポール・アカイェスの裁判において判事を務めた。検察側は、1994年のルワンダ虐殺に際してツチ族の人々を死に至らしめ、甚大な被害を与えたとして、アカイェスを起訴した[17]。
この裁判においてナバネセムらの判事は、人道に対する罪は差別的な意図の有無によって定義されるものではないと論じ、寧ろあらゆる民間人集団に対する広範または組織的な攻撃の一環として行われた場合、その行為は人道に対する罪に該当するとしてアカイェスに有罪判決を下した[18]。本件は、強姦をジェノサイドの一形態および人道に対する罪と認める国際法上の先例を確立したものである[19]。
なおこの出来事の当時、アカイェスはタバ・コミューン(ルワンダのギタラマ県にかつて存在した行政区画)の市長を務めていた。同地には多くのツチ族女性が避難していたが、アカイェスは民兵組織に対し、民間人女性を標的として強姦するよう意図的に指示していたとされる[20]。
メディアにおけるルワンダ虐殺煽動を巡る裁判
2003年、ナバネセムはツチ族に対する暴力的表現を含んだプロパガンダの拡散によるルワンダ虐殺煽動の咎で起訴されたラジオ局「ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョン(RTLM)」及び雑誌『カングラ』が果たした役割を巡る裁判において判事を務めた[4]。
この裁判においてナバネセムらの判事は、同ラジオ局及び雑誌の編集職員フェルディナン・ナヒマナ、ジャン=ボスコ・バラヤグウィザ、ハッサン・ンゲゼらに対し、ジェノサイドの実行を直接かつ公然と煽動した責を問うた[21]。本件は、メディアが政治や輿論に及ぼす影響と、その現実社会における帰結を検討した点で重要な意義を有するものである[22]。
国際刑事裁判所における活動
ナバネセムは、ルワンダ国際刑事裁判所における判事としての活動が国際的な評価を得て、1990年代後半には「ジェンダー正義のための女性連合(英語: Women's Caucus for Gender Justice)」の注目を集めた。やがて同連合は勢力を拡充し、遂には国際刑事裁判所の設立に関する最終合意書を定めたローマ会議に参加するに至った。そこで同連合は、ICCにおける規程に女性の権利を明文化するとともに、裁判官に占める女性の割合について割当制を設けること、更にローマ規程の条文では「Sex(生物学的な性別)」ではなく「Gender(社会的・文化的な性別)」の語を用いることを求めた[19]。
2003年、ローマ規程締約国会議によってナバネセムは国際刑事裁判所における控訴部の判事候補に指名され、同年3月ナバネセムは六年の任期をもってICC判事に就任した[23]。2008年7月、国際連合での職務に就くため辞意を表明し、同年8月31日付で退任した[24]。
ナバネセム在職時の国際刑事裁判所で審理された事件の一つに、トマス・ルバンガに係る裁判がある。これは、コンゴ民主共和国北東部のイトゥリ州において、ヘマ族とレンドゥ族との民族間における武装勢力に、15歳未満の少年兵を徴募したことを巡る事件であった。ルバンガは2012年に戦争犯罪のかどで有罪判決を受けるが、ナバネセムが同事件の控訴部で務めたのは、2006年の予備審問の段階から、ナバネセムが辞任する終了する2008年までであった[25]。
国際連合人権高等弁務官事務所における活動

2008年7月24日、国連事務総長の潘基文は、ルイーズ・アルブールの後任として、ナバネセムを国連人権高等弁務官に指名した。これに対し、アメリカ合衆国は当初、人工妊娠中絶などに係るナバネセムの見解を理由に反対の意思を示したが、最終的には撤回した。かくして同年7月28日、国際連合特別総会において、潘の指名は全会一致で承認された。9月1日、ナバネセムは正式な国連人権高等弁務官として就官し、四年間の任期を全うしたが、任期満了後の2012年これに再任した[5]。
第一期
2009年、ナバネセムはカーストに基づく差別を終わらせるため、「カーストの壁を取り壊す」(英語: Tearing down the wall of caste)と題する意向を発表した[26]。のち雑誌『ザ・ネイション』のインタビューに応じて、カーストに基づいた差別に対する国連の原則および指針の採択を求めた[27]。第二期となる2013年には、国連人権理事会(UNHRC)において、カーストとジェンダーに係る声明を発表した[28]。
2010年、ウィキリークスに対する金融封鎖を実施するよう民間企業に圧力が掛けられていることについて、ナバネセムはこのような措置はウィキリークスにおける表現の自由という権利を侵害し兼ねないものだと懸念を表明した[29]。これに関して、2014年7月の記者会見では、ウィキリークスを利用してロシアへの亡命を遂行したエドワード・スノーデンを「人権擁護者」と称し、スノーデンは裁判に掛けられるべきではないとの見解を示した[30]。
2011年、国連人権理事会において採択された同性愛者の権利に関する決議を支持したほか、在任中、国際人権法における性的指向と性自認を扱った文書『生まれながらに自由で平等(英語: Born Free and Equal)』にも署名した[31]。
第二期
2012年6月8日、ナバネセムは学生による抗議活動に関して、平和的な抗議の権利および表現の自由を侵害しているとして、カナダのケベック州政府を名指しで批判した。問題となった法案第78号は、参加者が50人を超える抗議活動について、主催団体が予定開始時刻の少なくとも8時間前までに当局の許可を得ることを義務付けていたというものであるが、人権NGO(非政府組織)の反応は一様でなかった。ナバネセムの批判に対してケベック州は、より深刻な人権侵害の実績が知られる地域と自州を比較したとして、ナバネセムを批判した[32]。なおこれと同年、ナバネセムはジンバブエのロバート・ムガベ政権に対する経済制裁の停止を求めたが、同国の市民団体からジンバブエ政府が真実を隠匿し、政府による人権侵害をナバネセムに看過させようとしていると批難された[33]。
2013年、ナバネセムはスリランカ政府を権威主義的国家であると批判し、スリランカ内戦の末期に政府がタミル人に対して人権侵害などの不法行為を行ったと主張した[34]。これを受け、スリランカ政府とその支持者らは、ナバネセムが批判する理由として自身がタミル人の血を引いている点にあると反駁したが、ナバネセムはこの見解を否定した[35]。
2014年、ガザ紛争に際し、ナバネセムはイスラエルとハマースの双方が国際法に違反した可能性が高いという見解を示した[36]。また、同紛争中に発生した海岸への爆撃について、ナバネセムは「イスラエルがガザの海岸で遊んでいた七人の子供を意図的に標的にした」と指摘したが[37]、アン・ベイエフスキーは『FOXニュース』において「憎悪を煽動する行為」としてナバネセムの発言を批判した[38]。また、ナバネセムはイスラエルのアイアンドーム計画に対する米国の資金援助に対し、「砲撃に対して、ガザの住民には一切の保護が提供されていない」と指摘したが[39]、リエル・リーボビッツは、雑誌『タブレット』に寄稿した記事の中で、この発言を「笑えるほどに滑稽」だと一蹴した[40]。
2014年7月25日、米国連邦議会において100人を超える議員がナバネセム宛に送った書簡を公開した。これに署名した議員らは、戦中のイスラエルの行動に関する調査を理由に、国連人権理事会は人権機関として真剣に受け止めることができないと主張した[41]。同年8月、ナバネセムは3年以上続いていたシリア内戦について、国際社会が麻痺状態に陥っていると指摘した。実際、同年4月30日までに、この内戦による死者は19万人を超えていた[42]。
2014年8月31日、任期満了のため人権高等弁務官を退陣し、ヨルダン出身の法学者ザイド・ラード・アル・フセインが後継した[43]。
国際司法裁判所における活動
国際司法裁判所(ICJ)の裁判体の構成は案件ごとに異なっており、当事国の一方または双方と同じ国籍を有する裁判官が居ない場合は、臨時裁判官を指名して裁判体に加えることができる[44]。
2019年、ナバネセムはロヒンギャ危機に際し、当事国のガンビアから指名を受けて臨時裁判官に就任した[45]。これはミャンマーがロヒンギャに対して行った扱いに対し、ガンビアがミャンマーはジェノサイド条約に違反するとして、ICJに提訴したためである。本件はミャンマー側からの反発があったが、ICJはガンビアの訴えを受理し、2026年現在も審理を続けている。また、本件はロヒンギャに対する行為の責を問うだけでなく、ジェノサイド条約の締約国が直接の被害を受けていなくとも、国際法を通じて条約上の義務の履行を求められるという原則を明確にしたものと言われる[46]。
パレスチナ占領地等に関する国際独立調査委員会における活動
2021年、ナバネセムはイスラエル・パレスチナ危機を受けて国連が設置したパレスチナ占領地等に関する国際独立調査委員会の委員長を、2025年11月まで務めた[45]。このとき、米国や欧州諸国は同委員会に正式な終了の期限が設けられていないことを理由としてその新設に否定的な見解を示したが、ナバネセムは「イスラエルによるパレスチナの占領にも終了の期限は無いにもかからわらず、貴方方はその占領を支持する傾向にある」と反駁した[47]。2024年6月、同委員会は2023年ハマスによるイスラエル攻撃に始まったパレスチナ・イスラエル戦争について、ハマースとイスラエルの双方が戦争犯罪を行ったと認定した[48]。
2025年7月、ナバネセムは同委員会に所属するクリス・シドティ、ミルーン・コタリと共に辞意を表明した。いずれも私情によるものだといい、具体的な理由は明らかにされていない[49]。またこの頃、ナバネセムはイスラエルが子供を含む民間人を無作為に攻撃の標的としており、こうした行為は自衛によって正当化できないと指摘したが[47]、これに対してはエルサレム安全保障外交問題センターが、パレスチナ人のテロリズムを軽視ないしその有無を疑問視し、イスラエル人の殺害を抵抗だと呼び、パレスチナ側の如何なるテロ組織の名を挙げず、イスラエルにはパレスチナ人に対する自衛権がないと述べて、イスラエルを紛争の根本的な原因であると位置付けていることなどを挙げて、ナバネセムの発言は反ユダヤ主義的であると批判している[50]。
同年9月、同委員会はイスラエルがガザ紛争の戦中にジェノサイドを行ったと認定した[48]。ナバネセムは『ニューヨーク・タイムズ』において、世界にはジェノサイドを抑止する義務があると説き、そのための措置として、ジェノサイドに使用される武器や軍事支援の移転を停止すること、人道的な援助が妨げられることなく行き渡るようにすること、大規模な強制移住と破壊を止めること、そして殺戮を止めるために、利用可能なあらゆる外交的・法的手段を用いること」をそれぞれ示した[51]。
その後と現在
2026年、ノーベル平和賞に選ばれた[52]。ナバネセムは同賞を受賞した初の南アフリカ人女性となった。また同賞を受賞した南アフリカの出身者としては、1960年のアルバート・ルツーリ、1984年のデズモンド・ツツ、1993年に共同受賞したネルソン・マンデラとフレデリック・デクラークに次ぐ五人目である[11]。
受賞発表に際し、ノルウェー・ノーベル委員会は、戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイドの訴追に対するナバネセムの貢献と、国際的な法制度の強化に果たした役割を取り上げた。特に、ルワンダ国際刑事裁判所において、強姦や性暴力が人道に対する罪およびジェノサイドを構成し得ると認定した出来事に触れ、ナバネセムが世界に及ぼした影響を強調した。同委員会は、武力紛争の増加と国際裁判所ならびに裁判官に対する政治的圧力の高まりという状況の渦中で今回の受賞を位置づけ、法的責任の追及と被害者への正義の実現が、持続的な平和に不可欠であると論じた[53]。
ナバネセムが受賞を知ったのは、ニュルンベルク司法宮殿の第600法廷で開催されていた国際会議に出席していたときであった。同法廷は、第二次世界大戦後にナチス指導者たちの裁判、所謂ニュルンベルク裁判が行われた場所である。なお、ノーベル委員会は受賞発表前にナバネセム本人へ連絡しようとしたが、ナバネセムは会議中であったためこれに応答できなかった。そのため、受賞発表後にノルウェー・ノーベル研究所の所長クリスティアン・ベルグ・ハルプビケン自らがナバネセムに電報を送って受賞を伝えた。電話でのインタビューで、ナバネセムは今回の受賞に関し、これまで自身が関わってきた諸機関や、支援してきた人々と結びつけて語った[54]。
2026年10月現在は、スペインのマドリードに本部を置く国際死刑廃止委員会の会長、ニュルンベルク国際原則アカデミーにおける諮問委員会の会長、朝鮮民主主義人民共和国における拘禁に関する準司法調査の議長を務めている[45]。
表彰
受賞
名誉学位
関連項目
脚注
注釈
- ↑ 2019年、ナバネセムはオットー・ハーン平和メダルの受賞者に選出された。授賞式は当初2020年に予定されていたが、新型コロナウイルス感染症の影響によって延期され、遂には2022年に行われる予定であった式典も中止された。そのため本項では便宜的に、受賞者に選出された2019年を受賞の年月として記す。
出典
- 1 2 3 4 5 現代外国人名録2016『「ナバネセムピレイ」の解説』日外アソシエーツ、コトバンク。2026年10月10日閲覧。
- 1 2 3 「平和賞に元国連人権弁務官/ノーベル賞、元ICC判事/南ア出身ピレイ氏 法の支配推進に貢献」『日本経済新聞』朝刊2026年10月10日(国際面)
- 1 2 3 Naidu, Sam『"Navi Pillay: Realising Human Rights for All"』Quercus Publishing、Google Books、2013年7月25日。ISBN 978-1-909807-27-3。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 Heyns, Christof (2012). “"Interview with Navi Pillay, United Nations High Commissioner for Human Rights"”. South African Yearbook of International Law: 9–21頁. オリジナルの2023年9月2日時点におけるアーカイブ。 2026年10月11日閲覧。.
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