ロヒンギャ

ウィキペディアから、無料の百科事典
ロヒンギャ
𐴌𐴗𐴥𐴝𐴙𐴚𐴒𐴙𐴝
避難生活を送るロヒンギャの人々(2012年)
総人口
不明(正確な統計なし)
居住地域
ミャンマーの旗 ミャンマー約50万~60万人(2026年公表資料の推計)[1]
バングラデシュの旗 バングラデシュ1,156,001人(難民・庇護希望者、2025年8月)[1]
マレーシアの旗 マレーシア119,100人(難民・庇護希望者、2025年6月)[1]
言語
ロヒンギャ語
宗教
主にイスラム教スンナ派
関連する民族
ベンガル人
民族旗

ロヒンギャ(英: Rohingya people)とは、ミャンマーのラカイン州(旧アラカン州)に住む人々である。英語や現地ミャンマーではロヒンジャ、隣国タイ王国ではロヒンヤと発音される[2][3]。ロヒンギャと呼ばれる人の大半はムスリムだが、少数ながらヒンドゥー教徒もいる。ミャンマー政府の公式見解では、ベンガル語の1方言を話すインド系住民はムスリムだろうとベンガリと呼ばれ、バングラデシュからの不法移民という位置づけである[4]。

基本情報

名称

ミャンマーではロヒンギャという集団の存在自体が否定されており、バングラデシュから流入した不法移民であるとの主張から、ベンガル人という意味のベンガリ(ビルマ語: ဘင်္ဂါလီ)と呼ばれている。

本項では、原則としてロヒンギャと表記し、ミャンマー側見解など、他の表記が必要な時は「バングラ人」「ベンガル人」「ベンガル系ムスリム」などカギカッコつきで表記する。

日本は、「バングラ系イスラム教徒のロヒンギャ」[5]と表記している。外務大臣記者会見などではロヒンギャの語は避け、「ラカイン州のムスリム」などの表現を使っている[6]。

また、国際赤十字では、「政治的・民族的背景および避難されている方々の多様性に配慮」という理由で「ロヒンギャ」という表現を使用しないとしている[7]。

居住

ミャンマーの民族分布。ミャンマーのロヒンギャは、バングラデシュ国境沿いの地域(黄緑色の領域)に居住する

ロヒンギャの居住地域は、ミャンマー西部のヤカイン州北部(旧アラカン州、古い発音ではラカイン州と発音)にあるマウンドー郡区、ブティダウン郡区、ラテダウン郡区の3つの郡区に集中しており、これらの地域の人口の85~95%を占めていたとも言われている。ラカイン州以外のミャンマーの他の地域にも多数住んでいるとされるが、正確な数は分かっていない[8]。

2017年のロヒンギャ危機以降、バングラデシュ東部のチッタゴン管区コックスバザール周辺のマユ国境一帯に大規模な難民コミュニティが存在する[9]。

人口

ロヒンギャの総人口については正確な統計が存在せず、推計には幅がある。2017年のロヒンギャ危機以降、ミャンマー国内に残存するロヒンギャの人口は、おおむね約60万人前後と推定されている。国際危機グループの推計によれば、2025年の時点で約45万人のロヒンギャがラカイン州に居住しており、その大半がアラカン軍(AA)の支配地域にいるのだという[9][10]。

また、コックスバザールの難民キャンプには、約100万人のロヒンギャ難民が居住していると推定されている[9]。

言語

インド語派東部語群ベンガル・アッサム語(英語版)に属するロヒンギャ語を使用、チッタゴン語に近いが、類縁とされるベンガル語との相互理解は難しい。ロヒンギャはミャンマーの公用語であるビルマ語(シナ・チベット語族)を使用しないことも統合に支障を生じる原因となっている。

正書法が確立しておらず、アラビア文字、ウルドゥー文字、ラテン文字、ビルマ文字等による表記が入り乱れている。1980年代には、モーラナ・ハニフィが、アラビア文字をもとに書法を作成し、これが、ハニフィ(Hanifi)又はロヒンギャ文字と呼ばれているものである。

ただ、そもそも、教育環境が整備されていないという事情からロヒンギャの識字率は極めて低く、2017年の国連の調査報告書によると、ロヒンギャのうち、女性の3分の1以下、男性の半数以下しか、どの言語でも簡単な文章を理解して読み書きすることができないと報じられている[11]。

宗教

ロヒンギャの大半はスンナ派・ムスリムである。少数ながらヒンドゥー教徒もいる[8]。

生業

主に農業で生計を営むが、商人としての交易活動も盛んである。

しかし、ミャンマーでは「不法移民」と見なされているため、移動の自由は認められておらず、修学も、就職も厳しく制限されている[12]。そのため、農業や日雇い以外の仕事に就くことは困難である[13]。

歴史

前史からイギリス植民地時代まで

ラカイン州の地図

9世紀頃よりラカイン地方にはラカイン族(仏教徒)が定住していたが、同地はベンガル湾に面して多様な民族が往来する海洋王国であり、アラブやペルシャ系のムスリムも古くから共存していた。一部のロヒンギャの歴史家は自らの祖先をこれら初期のムスリム定住者に見出しているが、学術的な見解は定まっていない[14][15]。

1826年から始まったイギリスの植民地支配下において、ラカイン地方の農地開発の労働力として、近隣のベンガル地方から膨大な数のムスリム移民が組織的に導入された。これにより、北部を中心にムスリム人口が爆発的に増加し、先住のラカイン族との間に潜在的なコミュニティの分断が生じていった[16]。

第二次世界大戦と対立の激化

1942年、日本軍の侵攻とイギリス側の撤退によって統治機構が崩れると、ラカインの仏教徒とムスリムの対立が大規模な共同体間暴力へと発展した。日本軍に協力的なビルマ独立義勇軍(BIA、ビルマ族・ラカイン族主体)と、イギリス軍から武器供与等を受けたムスリム系部隊(Vフォース(英語版)など)との間で苛烈な相互襲撃が発生。一連の衝突により双方で数万人の死傷者と大量の避難民を出し、現代に至る民族・宗教間対立の決定的な亀裂を生んだ[17][18][19][20]。

独立期の分離独立運動(ムジャーヒディーンの反乱)

第二次世界大戦終結後、新たに生じた権力の空白を突き、バングラデシュ(当時の東パキスタン)方面からさらなるムスリム移民集団が流入した。彼らは「ムジャヒッド(Mujahid)」と呼ばれ、既存のムスリム定住者とは区別された[21]。

1948年にミャンマーがイギリスから独立すると、これら急進的なムスリムの一部は、ラカイン地方北部のパキスタンへの併合や独立したイスラム国家の樹立を求めて蜂起し、「ムジャーヒディーンの反乱」と呼ばれる武装闘争を開始した。この反乱は1950年代を通じて断続的に続いたが、パキスタン政府や国際社会の公式支援を得られず、1961年に政府へ降伏して一時的に収束した[22][23][24]。

「ロヒンギャ」アイデンティティの誕生と政治参加

独立当初、ラカイン地方に定住するムスリムの多くは「アラカン・ムスリム」等と自称しており、国民登録証(NRC)も発行され、国や州の議会に議員を輩出するなど合法的政治参加が認められていた[25]。

しかし、ムジャーヒディーンの武装反乱が長期化するにつれ、地元のラカイン族や政府から「不法移民」や「反政府組織の協力者」という疑念の目が強まった。これを危惧したムスリムの指導者層(議員や知識人ら)は、自らを分離主義者である「ムジャヒッド」と明確に区別し、ミャンマーの正当な土着民族(タインインダー)としての地位を政府に認めさせるため、1950年代頃から新たな政治的アイデンティティとして「ロヒンギャ」という名称を積極的に用い始めた(「#ロヒンギャという呼称」節で詳述)[26]。

彼らの政治的働きかけが一定の成果をあげ、1961年には部にマユ辺境行政区(MFD)が設置されるなど、政府から政治的な譲歩(限定的な自治的地位)を引き出した時期もあった[27]。

軍事政権下の弾圧と武装闘争の過激化

1962年のネ・ウィンによる軍事クーデター以降、状況は一変した。同化主義と厳格な外国人排斥を掲げる軍事政権下でMFDは解体され、ロヒンギャの政治的権利は次々と剥奪されていった[28]。1970年代以降、軍事政権は「不法移民の取り締まり」を名目に度重なる大規模な軍事・戸籍調査作戦(チーガン作戦、ナガーミン作戦など)を実施。これにより、数十万規模の難民が隣国バングラデシュへ流出する惨事が繰り返された[29]。

追い打ちをかけるように、1982年、新たな国籍法が制定され、国籍は「国民」「準国民」「帰化国民」に区分された。法律には既存の国籍を維持する規定もあったが、ロヒンギャは政府が公認する「土着民族」に含まれず、国籍の取得・確認に必要な書類の提出や行政手続きで困難に直面した。身分証明書の没収や交付拒否なども重なり、多くのロヒンギャが事実上の無国籍状態に置かれた(「#国籍の変遷」節を参照)[30]。

合法的な政治参加の道を絶たれ、国籍も剥奪された状況下で、ロヒンギャの民族運動の一部は過激化への道を歩んだ。1982年にはロヒンギャ連帯機構(RSO)などの強硬派武装組織が結成され、彼らは当時の国際的なイスラム過激派ネットワークとも接触しつつ越境での武装闘争を展開した。しかし、ミャンマー軍(国軍)の徹底した部隊掃討作戦により、2000年代初頭には組織的な武力闘争は一度壊滅状態に追い込まれた[31]。

民主化以降の排斥とARSAの台頭(ロヒンギャ危機)

2011年の民政移管による言論の自由化は、皮肉にも過激な仏教徒ナショナリズムの台頭とSNSを通じた反ムスリム感情の爆発を招いた。2012年には深刻なコミュニティ衝突が発生し、ロヒンギャは強制居住区や難民キャンプへの隔離を余儀なくされた。さらに2015年には唯一の身分証であった「仮登録証明書」も無効化され、選挙権すら完全に失われた[32][33]。

こうした「完全な排除」という絶望的な状況を背景に、サウジアラビアなどで育ったロヒンギャ移民一世らを中心に、新たな武装組織・アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)が結成された。そして2017年8月、ARSAがミャンマー治安部隊の拠点を一斉襲撃したことを契機に、国軍による大規模な掃討作戦(民族浄化とも形容される)が行われ、70万人以上のロヒンギャがバングラデシュへ脱出するという未曾有の「ロヒンギャ危機」へと発展した[34]。

クーデター後の複雑化と代理戦争

2021年ミャンマークーデター以降、ミャンマー全土が内戦状態へ突入する中、ラカイン州ではラカイン族の強力な少数民族武装組織であるアラカン軍(AA)と国軍との戦闘が激化している[35]。

この過程で、兵力不足の危機に陥った国軍は、かつて迫害・討伐の対象としたARSAや、再起したRSOなどのロヒンギャ武装勢力を自陣営に引き入れ、難民キャンプの若者を強制あるいは志願によって動員し、AAと戦わせるという事態が発生している。結果として現代のロヒンギャは、ラカイン州におけるAAと国軍の覇権争い(代理戦争)の最前線に立たされており、植民地時代から続く先住民と定住者の間の歴史的な対立をいっそう複雑で深刻なものにしている[35][36][37]。

ルーツ

ミャンマー近現代史の専門家・根本敬は、ロヒンギャのルーツを次の3つに分類している[38]。これらさまざまなルーツを持つ人々が婚姻などを通じて融合しあい、現在では弁別困難である[39]。

植民地化以前から定住していたムスリム(1826年以前)

歴史セクションでも触れた通り、ラカイン地方は多様な民族が交差する交易拠点であった。アラブやペルシャ系の商人・傭兵として訪れた者や、隣接するベンガル地方からの移民・捕虜として初期から定住し、地元のラカイン族などと混血して土着化していった無名のムスリムたちが第一のルーツである[15]。

トンキンは、1823年以前からの定住者の子孫に当たるムスリム集団として、アラカン・ムスリム(ヤカイン・カラー)、カマン、ミエドゥ、ゼルバディなどを挙げている[40]。このうちアラカン・ムスリムは、後述するように1921年の国勢調査では「アラカン・マホメッダン」、1931年には「アラカン・ムスリム」と呼ばれ、植民地期に移住したチッタゴン系住民とその子孫を指す「チッタゴニアン」と区別された[41]。

英植民地期に流入・定住した「ベンガル人」(1826年 - 1942年)

第二のルーツは、英植民地期の農業開発に伴い、主にベンガル地方のチッタゴンから農業労働者として移住・定住したムスリムとその子孫である。この政策の結果、1872年から1931年にかけて、仏教徒の人口増加率は79%であったのに対し、ムスリムの人口増加率は297%に達した。この期間、ムスリム人口の増加率は仏教徒人口の増加率を大きく上回った[注釈 1][42]。

なお、1937年にミャンマーが英領インドから分離されて「英領ビルマ」になるまでは、ベンガル地方からの移民はあくまで「同一植民地内での合法的な移動」に過ぎず、不法移民ではなかった点に注意が必要である。また歴史学者のミンテインは、1935年に結ばれた協定により一時的に出入国法が無効とされた結果、「将来ミャンマーへ入国できなくなる」と危惧したベンガル地方のムスリムが、駆け込みで大量にラカイン地方へ流入したとも主張している[43]。

英植民地時代のラカインの人口推移[42]

年 ラカイン全体 うち仏教徒 うちムスリム うちアキャブ地区 うち仏教徒 うちムスリム
1829 121,288
1832 195,107 109,645
1842 246,766[注釈 2] 130,034
1852 352,348 201,677
1862 381,985 227,231
1872 484,363(100%) 364,023(75.2%) 64,315(13.3%) 276,671(57.1%) 185,266(38.2%) 58,263(12%)
1881 588,690(100%) 422,396(71.8%) 106,308(18.1%) 359,706(61.1%) 230,046(39.1%) 99,548(16.9%)
1891 671,899(100%) 472,684(70.4%) 126,604(18.8%) 416,305(62.0%) 238,259(35.5%) 119,157(17.7%)
1901 762,102(100%) 511,635(67.1%) 162,754(21.4%) 481,666(63.2%) 280,649(36.8%) 154,432(20.3%)
1911 839,896(100%) 529,943(63.1%) 301,617(35.9%) 178,647(21.3%)
1921 909,246(100%) 596,694(65.6%) 218,737(24.1%) 576,430(63.4%) 315,140(34.7%) 208,961(23.0%)
1931 1,008,535(100%) 653,699(64.8%) 255,469(25.3%) 637,580(63.2%) 337,661(33.5%) 242,381(24.0%)

※括弧内はアラカン全体の総人口に占める割合。アキャブ地区は、現在のシットウェ、ムラウク・ユー(英語版)、マウンドーの各地区にほぼ相当する[42]。

独立後に東パキスタン・バングラデシュから流入した人々(1948年以降)

独立に先立つ第二次世界大戦後から、ラカイン北部には、現在のバングラデシュに当たるベンガル地方からムスリムの不法移住があったと報告されている。1947年2月の英ビルマ総督から英インド総督への書簡では、ブティタウン(英語版)とマウンドーに約6万3,000人の不法移民がいると報告された。1948年の独立後にも、東パキスタンからの不法移住を報告する外交文書がある[44]。ただし、トンキンは、1948年の独立以降、バングラデシュからラカインへの不法移住がどの程度あったのかを正確に把握することは困難だとしている[45]。

1975年、駐ビルマ・イギリス大使は、バングラデシュ大使がアラカンに50万人を超えるベンガル人の不法入境者がいると認めた、と報告した。ただし、トンキンは、この数字が当時のカマン族以外のムスリム総人口におおむね相当することから、イギリス大使が発言を誤解したか、誤って記録した可能性が高いと指摘している[46]。その多くが定住したかなど詳細は不明だが、こうした「大移動」の事実はミャンマー人の間に広く膾炙し、「ロヒンギャの大半は不法移民である」という根強い偏見を決定づける要因となった[47]。

なお、タンミンウーによれば、国軍政権の大臣たちは非公式には、ロヒンギャのうち不法移民に当たる人々は最大20%であると認めていたという[48]。

ロヒンギャという呼称

「ロヒンギャ」の語源

ロヒンギャ(Rohingya)という言葉の起源については諸説ある。歴史家のチョーミンティンは、もともとベンガル語やチッタゴンの方言で、ラカインのことを「ロハン(Rohang)」または「ロアン(Roang)」[注釈 3]と呼び、そこに住む人々を「ロアンヤ(Roangya)」または「ローインガ(Rooinga)」と呼ばれていたと主張している[49]注意が必要なのは、この「ロアンヤ」「ローインガ」という呼称は、ラカインに住むムスリム、ヒンドゥー教徒、仏教徒の総称だったという点である[注釈 4]。

ラカインの歴史の専門家・ジャックス・P・ライダー(英語版)は、文献上で「ローインガ」に類する言葉が初めて見られるのは、1799年にイギリス人の軍医・フランシス・ブキャナンが発表したビルマ語に関する報告書の中であると主張している[50]。ただ、ブキャナンは、ラカインに行ったことはなく、1795年にコンバウン朝の首都アマラプラ(英語版)で、「アラカン族」の人々から彼らのベンガル語名は「ローインガ」だと聞かされただけだった。しかも彼らは、ヴィシュヌというヒンドゥー教の神を崇拝しており、彼らはムスリムではなく、ヒンドゥー教徒だった可能性がある[51]。

また、ブキャナンは1799年に発表した言語比較論文で、アラカンに長く定住するムスリムが、自らを「ローインガ(Rooinga)」、すなわち「アラカンの住民」と呼んでいたと記している。これらの記録から、18世紀末には「ローインガ」がアラカンの住民を指す呼称として使われていたことが確認できる[52]。

「ロヒンギャ」の誕生

英植民地時代

植民地時代~独立初期におけるラカインのムスリムの呼称
ラカインに居住した時期 呼称
植民地化前 アラカン・マホメッダン/

アラカン・ムスリム

植民地時代 チッタゴニアン
第二次世界大戦後 ムジャヒッド

英植民地政府(1826年~1948年)は、「ロアンヤ」「ルワンヤ」など、「ロヒンギャ」を想起させるような言葉を公式には一度も使っていない[注釈 5][53]。

英植民地政府は当初、植民地化以前から定住していたムスリムと、植民地期に移住したムスリムを明確に区別せず、「マホメッダン(Mahomedans)」や「チッタゴニアン(Chittagonian)」などの呼称を用いていた[49]。しかし、1921年と1931年の国勢調査では、古くからの定住者とチッタゴン系移住者を区別する分類が採用された。トンキンによれば、古くからの定住者は1921年には「アラカン・マホメッダン(Arakan-Mahomedans)」、1931年には「アラカン・ムスリム(Arakan-Muslim)」と呼ばれ、植民地期に移住したチッタゴン系の人々とその子孫は「チッタゴニアン」として区別された[41]。

1921年の国勢調査報告書によれば、アラカン・マホメッダンは、チッタゴン系の人々と出自の面で近い関係にありながらも交流せず、ほぼ自分たちの集団内で結婚していたため、地域では独自の集団として認識されていたという[54]。

独立後

1945年に第二次世界大戦が終了すると、既述のとおりラカイン北部には現在のバングラデシュに当たる地域からの不法移民が流入し始め、この戦後の不法移民は「アラカン・マホメッダン」とも「チッタゴニアン」とも区別され、「ムジャヒッド(Mujahid)」と呼ばれた[55]。実際、1948年に反乱を起こしたラカイン北部のムスリムは、自らを「ムジャヒディーン(聖戦の兵士)」と称していた[56]。

しかし、1948年にミャンマーがビルマ連邦として独立した後、イギリス軍に約束されたムスリム国家の樹立もパキスタンへの編入も実現困難となり、さらに、ムジャヒディーンの乱によってラカインのムスリムの評判が著しく傷ついた。こうした事態に、独立以前からラカインに住むムスリムの指導者層は深刻な危機感を抱き、自分たちを「ムジャヒッド」と明確に区別し、政府に独自のアイデンティティ(土着民族)として認めさせる戦略を模索した[57]。ライダーによれば、1947年憲法の下では市民権を取得する道が開かれていたため、1950年代の彼らが求めていたのは、市民としての承認ではなく、独自の領域を要求するための土着民族(タインインダー)としての承認だった[58]。1950年代には、ミャンマーの出版物で、ムスリムの知識人や政治指導者が、ラカインのムスリムを表す呼称として「Rwangya」「Rawangya」「Roewenhnya」など、いずれも「R」で始まる名称を、それぞれ異なる語源の説明とともに提唱した[59]。

「ロヒンギャ」という呼称が初めて使われた時期については、明確にはわかっていないが、1948年にアブドゥル・ガッファーが、ウー・ヌ首相に宛てた書簡の中で、「ロヒンギャ」とほぼ同義の「ルワンヤ」という言葉を使った時とも、1950年10月1日の制憲議会会議において同氏が「ロヒンギャ」という言葉を使用した時とも言われている[60][49]。歴史家のチョーミンティンによれば、「ロヒンギャ」という呼称が英語とミャンマー語で初めて使われたことを確認できるのは、1959年に結成されたヤンゴン大学の学生団体「ラングーン大学ロヒンギャ学生協会(Rangoon University Rohingya Students Association)[61]」で、彼らは翌年『ロヒンギャ小史』というブックレットを発行している[注釈 6]。ミャンマー学者の中西嘉宏は、「ロヒンギャは、1950年代に、ラカイン出身のエリートムスリムによって作られた集団名である可能性が高い」と述べており[49]、ライダーは「ロヒンギャは民族概念ではない」と述べている[62]。

ムジャヒディーンの乱鎮圧のためにラカインのムスリムの協力を取り付ける必要に迫られた政府は、やがて「ロヒンギャ」の呼称を受け入れるようになった。1961年のマユ辺境行政区設置記念式典では、当時国軍ナンバー2だったアウンジーが「ロヒンギャ民族、ロヒンギャ指導者、ロヒンギャ宗教指導者」という言葉を使って、国軍への協力と情報提供を呼びかけたという記録が残っている[49]。

「ロヒンギャ」という呼称の浸透

当初、「ロヒンギャ」という呼称は、ムスリムの政治指導者や学生団体、一部の政府関係者によって用いられたが、ラカインのムスリム全体に共通する呼称にはなっていなかった。この時期のラカイン北部出身のムスリム国会議員たちも、自認は「アラカン・ムスリム」だったとされる[56]。アラカン・ムスリム協会の指導者で、保健相も務めたスルタン・マフムードなどは、ラカインのムスリムコミュニティの分裂を招きかねない「ロヒンギャ」という言葉の使用に反対していたと伝えられる[63]。

また、ロヒンギャの著述家たちは、歴史資料や文学作品、年代記、伝説を用いて、ラカインにおける長い歴史と土着性を主張する歴史叙述を編纂し、英語でも発信した。ライダーは、こうした歴史叙述には史料の選択的な利用や検証されていない起源説が含まれる一方、軍政下や国外のディアスポラにおいて、ロヒンギャの民族意識を強める役割を果たしたと指摘している[58]。ミャンマー戦略国際問題研究所(MISIS)も、こうした歴史叙述の信憑性に疑義を呈している[14]。

なお、1973年の国勢調査で用いられた民族分類には、ムスリムに関する複数の名称が含まれていたが、「ロヒンギャ」は採用されていなかった[64]。1978年のナガーミン作戦による大量流出の際には、アメリカは「アラカン・チッタゴン」、イギリスは「アラカン・ムスリム」という呼称を用いた。一方、ミャンマー政府はこの時期を境に「ベンガル人」という呼称を使用し始めた[65][66][67]。1983年の国勢調査では、「バングラデシュ人」という名称が民族分類に用いられた[68]。

Network Myanmarによれば、1991年後半からの大量流出を契機に、西側の外交関係者の間でも「ロヒンギャ」という呼称の使用が広がった。この時の大量流出劇のきっかけとなったのが、ロヒンギャ連帯機構(RSO)やアラカン・ロヒンギャ・イスラム戦線(ARIF)など、その名前に「ロヒンギャ」を冠した武装勢力に対する国軍の掃討作戦だったことがその理由である[66]。

「ロヒンギャ」という呼称が人口に広く膾炙したのは、2012年の仏教徒・ムスリム間のコミュニティ紛争がきっかけで、比較的新しい現象である。テインセイン政権下のミャンマー平和センター(英語版)のメンバーだったチョーインフラインは、自身が接したムスリムの間で、2012年中に自称が変化したと述べている[32]。

ムスリムは2011年までは自らが置かれた地位に甘んじなければならないと感じていた。だが、自ら投票した2010年の選挙の後、2011年の政治の変化の後では、より自由に物事を考えるようになった……2012年に彼らと話したとき、自らをロヒンギャと呼ぶ者は1人もいなかったが、2012年の末には誰もがそうしていた。 — チョーインフライン

また、国際危機グループの2014年の報告書『Myanmar: The Politics of Rakhine State』は、暴力と喪失を経験したことで、ロヒンギャとしてのアイデンティティが結束の拠り所となったことを示す、ある長老の証言を紹介している[69]。

2012年の暴力が状況を変えました。暴力が起こる前は、私たちのロヒンギャの名前は毎日考えるようなものではありませんでした。暴力以来、私たちからすべてが奪われ、今、私たちに残っているのはロヒンギャのアイデンティティだけです。 — ロヒンギャの長老

国籍の変遷

ロヒンギャは、ミャンマー政府が公認する135の「土着民族(タインインダー)」に含まれていない。ただし、この135民族の分類は、1982年国籍法の条文に列挙されたものではなく、政府が国勢調査や行政で用いてきた分類である。一方、独立当初には、多くのロヒンギャに国民登録証が交付され、選挙への参加も認められていた。

1947年憲法下の国籍

1947年に制定され、1948年の独立に伴って施行されたビルマ連邦憲法は、第11条で国籍取得の条件を定めた[70]。

  1. 両親が土着民族に属する者:両親がともにビルマの土着民族[注釈 7]に属する、または属していた者。
  2. 祖父母の少なくとも1人が土着民族に属する者:ビルマ連邦の領域内で生まれ、祖父母の少なくとも1人が土着民族に属する、または属していた者。
  3. 両親が国民である者:ビルマ連邦の領域内で生まれ、両親がともに連邦国民である者、または両親が憲法施行時に存命であれば連邦国民となっていた者。
  4. 所定の出生・居住条件を満たし、国籍を選択した者:出生時にイギリス国王の支配下にあった領域で生まれ、憲法施行直前または1942年1月1日直前の10年間のうち8年以上、ビルマ連邦の領域内に居住していた者で、引き続き永住する意思を持ち、法律で定められた期間と方法に従って連邦国籍を選択した者[71]。

このように、当時の国籍制度には、土着民族への所属だけでなく、出生や家族の定住歴、本人の居住期間に基づく国籍取得の経路も設けられていた[72]。

1952年から発行が始まった国民登録カード(National Registration Cards:NRC)[注釈 8]には、民族や宗教の記載欄がなかった[73]。ロヒンギャにも他の民族集団と同じNRCが交付され[74]、ラカイン州北部を含む同州のムスリムの多くが保有していた。一方、登録されなかった人々もいた。NRCを紛失・損傷した場合には、新しいNRCが交付されるまでの一時的な身分証明書として、仮登録証明書(Temporary Registration Certificates:TRC、通称ホワイト・カード)が交付された[75]。

また、スルタン・アフマドの1948年の覚書によれば、憲法制定時に制憲議会議長を務め、独立後に大統領となったサオ・シュエタイッは、アラカンのムスリムもビルマの土着民族に属すると説明したという[注釈 9][76]。

しかし、1970年代には、ラカイン北部のムスリムへのNRCの発行が停止され、多くのNRCが当局によって押収されたとされる[77]。また、法務省掲載資料によれば、1974年緊急移民法により、多くのロヒンギャのNRCが外国人登録カードに差し替えられ、ミャンマー国籍を剥奪された[78]。

1982年の国籍法

国籍の区分と制定の背景

1982年10月15日、新たな国籍法が制定され、国籍上の地位を国民・準国民・帰化国民の3種類に区分した[79]。

  • 国民:1823年以前からミャンマー領内を永住地としていた土着民族[注釈 10]に属する者のほか、法律施行時に既に国籍を有していた者や、両親の国籍上の地位に基づいて国民と認められる者。
  • 準国民:1948年連邦国籍法に基づいて国籍取得を申請し、1982年法の施行時点で審査が完了していなかった者で、所定の条件を満たすと認められた者。
  • 帰化国民:主として、1948年1月4日より前にミャンマーに入国・居住していた者と、領内で生まれたその子孫のうち、1948年連邦国籍法に基づく申請をしていなかった者で、居住歴の証明や言語能力などの条件を満たし、帰化を認められた者[81]。

1982年国籍法では、従来の制度に比べ、土着民族への所属が国籍を認める主要な根拠として強く位置付けられた[82]。また、第30条と第53条は、準国民と帰化国民にも国民としての権利を認める一方、国家評議会がその一部を制限できると定めていた[83]。実際にも、準国民と帰化国民には、公職への立候補、政党の結成、軍・警察・行政機関への就職、財産の相続、医学や法律などの専門分野への進学に制限があったとされる[84][85]。

制定に先立つ1982年10月8日の演説で、ネ・ウィンは、長期定住していた移住者を準国民として受け入れ、居住と生計を立てる権利を認める一方、国家の運命に関わる事柄からは排除する考えを示している[86]。

われわれは現実には、さまざまな土地からさまざまな理由でやってきた人々をすべて追い払う立場にはない。われわれは、このように長い間ここにいた人々に同情し、心の安らぎを与えなければならない。 そこでこの法律では、彼らを「準市民」と呼ぶことにした。 なぜこのような名前をつけたのか? というのも、われわれは皆、初めは市民でした。その後、この人たちはゲストとしてやって来て、やがて帰ることができなくなり、残りの人生をここで暮らすことを決めたのです。 そんな彼らの苦境を見て、われわれは彼らを市民として受け入れる。 この国に住み、正当な方法で生計を立てる権利を寛大に与えることができる。 しかし、国の問題や国家の運命に関わる問題については、彼らを除外せざるを得ません。 — ネ・ウィン

しかし、タンミンウーは、1982年国籍法によってロヒンギャの国籍が剥奪されたという一般的な理解は正確ではないと指摘している[87]。また、中西嘉宏は、国籍法それ自体がロヒンギャを狙ったものではなかったと述べている[88]。同法は、施行時に既に国籍を有していた者の地位を維持する規定を設けており、制定によってロヒンギャの国籍を一律に剥奪したわけではなかった[89]。

ロヒンギャへの適用と無国籍化

「ロヒンギャ」という名称は、1823年以前から定住していた土着民族として法的に承認されなかった。しかし、土着民族への所属だけが国籍取得の条件ではなく、個々のロヒンギャにも、既存国籍の維持や準国民・帰化国民として認められる経路があった[90]。例えば、第6条は、法律施行時に既に国籍を有していた者の国籍を維持すると定めていた。また、第7条は、準国民・帰化国民の子孫にも、両親や祖父母の国籍上の地位に応じて国民となる経路を設けていた[91]。したがって、同法の制定によって、ロヒンギャの国籍が一律に剥奪されたわけではなかった[89]。

長期定住者とその子孫の国籍については、政治指導者も言及している。2012年7月、テインセイン大統領は、植民地時代に移住したベンガル系住民の3代目の子孫には、国籍取得の資格があると説明した[48]。また、アウンサンスーチーは2013年4月の来日時、3世代以上にわたって居住するロヒンギャには国籍を与えるべきであり、国籍法の差別的な内容も再検討する必要があると述べた[92]。

しかし、法律上の資格と実際の国籍確認・書類交付には隔たりがあった。トンキンによれば、従来の法律に基づく国籍取得資格を持つムスリムにも、不在や書類の記載事項の確認などを理由に、身分証明書が交付されない場合があった。また、ラカインでは偽造書類の問題を理由に、有効な旧書類を持つムスリムにも、書類の確認が済むまで新しい身分証明書が交付されなかったとされる。一方、ラカイン州外に住むチッタゴン系のムスリムで、ロヒンギャと名乗り得る人々は、比較的支障なく旧書類を交換し、国籍に伴う権利を維持できたという[89]。

トンキンは、ロヒンギャの無国籍化について、法律の規定そのもの以上に、国籍を認める規定が適切に実施されなかったことを重視している。彼が紹介するニック・チーズマンも、同法がロヒンギャに不利な内容を持つことを認めつつ、数十万人の無国籍化は、法律の意図的な違反と選択的な適用によって進められたと論じた。また、ニーニーチョーは、差別的な法律の下でも可能だった国籍付与や帰化を、歴代政府が意図的に実施しなかったことを重視している[82]。

その後のロヒンギャの国籍の取り扱い

国籍審査カード。民族(လူမျိုး)欄には「ビルマ(ဗမာ)」と記載されている。

1982年国籍法の制定後も、同法に基づく国籍審査と身分証明書の切り替えはすぐには本格化せず、1989年になって、従来のNRCから国籍審査カード(Citizenship Scrutiny Cards:CSC)[注釈 11]への交換が始まった[93][75]。しかし、ラカイン州のムスリムの大半は、NRCを返却してもCSCを交付されなかった。トンキンによれば、偽造書類の問題を理由に、ラカインでは有効な旧NRCを持つムスリムにも、書類の確認が完了するまで新しい身分証明書を交付しない措置が取られたとされる[89][75]。

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の働きかけにより、1995年になってようやく、ラカイン州北部のロヒンギャに仮登録証明書(TRC、通称ホワイト・カード)が広く交付されるようになった[33]。2014年時点では、ラカイン州のロヒンギャの約90%がTRCを保有していたとされる[94]。

TRC保有者は、2008年の憲法国民投票と2010年の総選挙には参加できた。しかし、2015年2月、憲法改正をめぐる国民投票にもTRC保有者の参加を認める方針に、仏教民族主義者らが反対した。同月11日、テインセイン大統領は、TRCを同年3月31日で失効させ、5月末までに返却させると発表した。これにより、TRCを根拠に投票していたロヒンギャは、同年11月の総選挙に参加できなくなった[95]。TRCを返却した人々には受領書が渡されたが、これは身分証明書ではなかった[96]。

同年6月からは、国籍審査のための国籍確認証明書(National Verification Certificates:NVC、通称グリーン・カード)の交付が始まった[95]。国籍確認の過程で用いる暫定的な身分証明書は、「国籍確認用身分証明書(Identity Cards for National Verification:ICNV)」とも呼ばれた。その目的は、申請者が国籍取得の要件を満たすかを審査する間、ミャンマーの居住者としての身元を確認することであり、所持自体が国籍を証明するものではなく、選挙権も付与されなかった[96]。

しかし、当局が申請者に「ベンガル人」と自認するよう求めたことや、受領しても自由な移動や高等教育へのアクセスが保障されないという不満から、カードの受領は進まなかった[97]。2017年には、カードに民族・宗教が記載されないことも、ロヒンギャ住民が受領を拒む理由として報じられた。また、国境警察幹部は、NVCや正式な国籍証明カードを受領したロヒンギャが、正体不明の武装集団から脅迫される場合もあったと説明した。同年4月の『エーヤワディ』の報道によれば、移民当局者は、ラカイン州北部で2014年に事業が始まって以来、NVCの受領者は約4,600人にとどまったと述べた[98]。

その後、国籍審査の過程で用いる暫定的な身分証明書として、「国籍確認のための身分証明書」(Identity Cards for National Verification:ICNV)が導入された。これは、所持者がミャンマーの国籍を取得する要件を満たすかを審査し、その間の居住者としての身元を確認するためのものであり、選挙権は付与されなかった[96]。

こうした経緯により、2017年時点でも、ロヒンギャの大半は未登録の状態か、TRC返却時の受領書のみを持つ状態に置かれ、国籍を確認する書類を得られない状況が続いていた[99]。

2021年クーデター後の状況

2023年時点では、ラカイン州外に住む一部のロヒンギャが、「バマー・ムスリム(Bamar Muslim)」または「カマン」としての身分を示す書類を取得し、境遇を改善できたと報告されている。しかし、こうした人々も、肌の色や宗教を理由とする差別に引き続き直面していた[9]。

参政権の変遷

独立期における政治参加と国政進出(1948年 - 1962年)

ビルマ独立当初、1947年憲法や1948年国籍法に基づき、ラカイン地方のムスリムには『国民登録カード(NRC)』が発行され、正式な参政権が認められていた。 1947年、1951年、1956年の総選挙では、ムスリムが多数を占めるマウンドーおよびブティダウンの両郡区から複数のムスリム議員が連邦議会に選出されている。なかでもアブドゥル・ガッファーやスルタン・ムハンマドといった有力議員は国政で活躍し、特にスルタン・ムハンマドは1960年から1962年まで連邦政府の保健大臣を務めた。当時の彼らは、ミャンマーの政治システムに組み込まれた合法的な主体として機能していた[25]。

軍政下での一時的回復(1990年総選挙)

1962年ビルマクーデターと、それに続く1982年の新国籍法によってロヒンギャの無国籍化が進んだが、8888民主化運動を経て実施された1990年の総選挙おいては、再びロヒンギャにも一時的ながら参政権が与えられた。 この選挙では、ロヒンギャ系政党人権国民民主党(英語版)(NDPHR)が4議席を獲得した。しかし、軍事政権(SLORC)が選挙結果を反故にして民主化勢力を徹底的に弾圧する中、NDPHRも1992年に活動禁止処分を受け、政治参加の道は再び閉ざされた[100]。

民主化移行期の参政権復活(2010年総選挙)

この時点では、大半のロヒンギャは『仮登録証明書(TRC)』しか保有していなかったが、2008年の憲法承認の国民投票、2010年の総選挙、2012年の補欠選挙のいずれにおいても参政権が認められた。国軍系政党USDPは、ロヒンギャからの集票を狙ってTRCを発行したとされる[101]。

またこの選挙では、国民発展民主党(NDPD)と国民発展平和党(NDPP)というロヒンギャ政党も参加し、NDPDは州議会で2議席を獲得した。USDPからもアウンゾーウィン(英語版)やシュエマウン(英語版)といったロヒンギャを自認する候補者が出馬し、連邦議会議員として当選を果たした[102]。

その後、2015年にTRCが失効したので、2026年3月の時点では、2012年の補欠選挙がロヒンギャに参政権が認められた最後の選挙ということになる[33]。

人権状況

ラカイン州

1992年から2013年まで、ラカイン州北部には国境地帯入国管理機構(ナサカ)という行政機関があった。ナサカは主にロヒンギャの人口抑制策を任務とし、その過程で、結婚の制限、移動の規制、強制労働・課税、土地収用・強制移住などの人権侵害が生じていたと報告されている(cf.国境地帯入国管理機構#活動)[103]。

2013年7月、テインセイン大統領は国際社会からの批判を受けナサカを解体したが[104]、その権限はミャンマー警察や国境警備警察(BGP)、および国軍へと分散・継承され、人権侵害が組織的に継続していたと指摘されている[105]。

2021年ミャンマークーデター後、ラカイン州では国軍とアラカン軍(AA)との戦闘が再され、国軍とAAの双方がロヒンギャに対する強制徴兵、身体的暴力、虐待、居住区の破壊といった人権侵害に関与していると報告されている(cf.アラカン軍#ロヒンギャ)。また、国際機関の調査によれば、2026年3月時点でのラカイン州内における国内避難民(IDP)は約50万人に達しており、そのうち約22万人をロヒンギャが占めている。彼らは避難先やキャンプにおいて、極めて劣悪な環境下での生活を余儀なくされている[9]。

一方、2025年以降ラカイン州のほぼ全土を掌握したAAは、国際的な正当性を得るために、自らの支配地域においてロヒンギャ住民を「アラカンの市民」として包摂する姿勢を示しており、移動の自由の緩和や商取引の奨励、さらにはバングラデシュ政府との間で難民帰還に向けた実務的な対話を開始するなど、関係改善に努めていると報じられている[106][107]。

ラカイン州以外のミャンマーの他の地域

ラカイン州以外の都市部に住むロヒンギャは、バマー・ムスリムとして身分証明書を入手することができ、ラカイン州で直面するような差別的取り扱いを回避して、比較的高い生活水準を維持していと報告されている[108]。

難民問題

ロヒンギャの難民キャンプ(2013年)

UNHCRは、関係諸国にロヒンギャ難民の保護を求めている。しかしバングラデシュでは、ロヒンギャは難民や不法移民と扱われている[109]。またASEAN加盟国のうち難民条約を批准しているのはカンボジアとフィリピンだけであり、他のASEAN加盟国では不法入国者として取り締まりの対象になっている。

バングラデシュの旗 バングラデシュ - 2024年の時点で、約160万人のロヒンギャがバングラデシュに居住し、そのうち約100万人がコックスバザールにある33の難民キャンプに収容されていると報じられている。世界のロヒンギャ人口の実に3分の1がバングラデシュに居住しているとする報告もある[9]。

1978年、1991年の大量流出の際、バングラデシュ政府はロヒンギャを「難民」として扱い、ミャンマー政府との合意の下、大半のロヒンギャ難民をミャンマーへ帰還させた。しかし、1992年に難民の地位の付与が停止され、その後、バングラデシュに流入してきたロヒンギャは不法移民として扱われることになった[110]。

バングラデシュ政府はロヒンギャの帰還を推進しつつ、バシャンチャール島に避難民収容施設を建設して、ロヒンギャの人々の移住を推進している[110]。ただし、バシャンチャール島については、国際的な批判や資金難により政府はプロジェクトの継続に消極的となり、施設を閉鎖して難民を本土へ戻すべきとの議論が加速している[111]。

2022年ロシアのウクライナ侵攻後、ロヒンギャへの国際関心が低下し、支援が減少したことで、バングラデシュ当局は徐々にロヒンギャに対する管理を強化し[112]、移動制限の強化、キャンプ周辺の鉄条網設置、コミュニティ主催の学校の取締り、キャンプ内の市場などの破壊を行っていると伝えられている。また、さらに、キャンプではロヒンギャの武装勢力による徴兵が行われているとの報告もある[113]。

インドの旗 インド - UNHCRは、2025年6月の時点で約2万3,000人のロヒンギャ難民が居住していると推定している[9]。

2025年5月、インド当局はニューデリーなどで拘束したロヒンギャ難民約40名を、航空機でアンダマン・ニコバル諸島へ移送。その後、一行はインド海軍の艦船に乗せられ、ミャンマー南部タニンダーリ地方域沿岸の沖合まで運ばれ、そこで目隠しをされ、救命胴衣のみを渡されて、岸まで泳いで渡るよう強制される事件が起きた。自力で上陸したロヒンギャは、タニンダーリ地方域で活動する武装勢力によって即座に拘束された。このインド当局の対応は、事実上の「海上への遺棄」であり、国際的な人道基準を著しく逸脱するものとして批判された[114]。

マレーシアの旗 マレーシア - UNHCRは、2025年6月の時点で11万9,100人のロヒンギャ難民が居住していると推定している[9]。

マレーシアには、1991年から1992年にかけての「清潔で美しい国作戦」を機にミャンマーから逃れてきたロヒンギャの人々がそのまま居住している[115]。2006年頃からアンダマン海を渡り、タイ経由でマレーシアを目指すロヒンギャの人々が急増した。2020年にムヒディン首相は「これ以上の難民は受け入れられない」と述べている[116]。2024年2月には入管の収容施設で暴動が起こり、約100人のロヒンギャが脱走する事件が発生した[117]。

インドネシアの旗 インドネシア - UNHCRは、2025年6月の時点で約2,500人のロヒンギャ難民が居住していると推定している[9]。

インドネシアでは、2015年5月、約2千人のロヒンギャがボートでアチェ州に漂着[118]。当初、アチェ州の住民はロヒンギャに同情的で[119]、州内に建設された難民キャンプに収容された。ただキャンプに収容されたロヒンギャの人々は、その後さまざまな伝手を頼って、より賃金の高いマレーシアに渡る者が多かった[115]。2021年ミャンマークーデター以降、ミャンマーの治安・経済状況の悪化、コックスバザールの難民キャンプの治安悪化を受け、アチェ州に漂着するロヒンギャが急増[120]。住民の間から受け入れを拒否する動きが出始めている[121][122]。

タイ王国の旗 タイ - UNHCRは、2025年6月の時点で約500人のロヒンギャ難民が居住していると推定している[9]。

タイは、ロヒンギャの人々がマレーシアへ渡る中継地点であり、タイ当局に収容されたり、追い返されたりしている。またタイの入管当局者と業者が共謀するロヒンギャの人身売買が大きな問題となっている[123]。

パキスタンの旗 パキスタン - パキスタンは英領インドの一部であり、パキスタン独立時はバングラデシュは東パキスタンだったことから、従来よりロヒンギャとの関係が深く、現在25万人ほどのロヒンギャがカラチ中心にパキスタンに住んでいると言われている。しかしその大半が身分証明書を所持していないため就学・就労に制限があり、貧しい劣悪な生活を余儀なくされているとされる。そのような境遇から逃れるために過激派に身を投じる若者もいるのだという[124]。

サウジアラビアの旗 サウジアラビア - 約25万人のロヒンギャが住んでいると言われている[125]。サウジアラビアでは「ビルマ人」や「ビルマ人コミュニティ」と呼ばれ[126]、アラビア語では「バルマーウィー(Barmawi)」という呼称も使われる。

アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 - 約1万人のロヒンギャが住んでいると言われている[125]。一方、トンキンは約5万人という推計を紹介している[127]。

トンキンは、サウジアラビアや湾岸諸国に暮らすこれらの人々の一部が、制限付きのバングラデシュやパキスタンの旅券で渡航したことを挙げ、正確な出自や人口の推計には注意が必要だとしている[127]。

日本の旗 日本 - 日本政府はロヒンギャ難民支援のためにさまざまな人道支援を行っている[128][129][130]。他にも日本財団が人道支援を行っている他、ロヒンギャ難民を収容したバサンチャール島に職業訓練学校を建設している[131]。

海外共同体

ロヒンギャの海外共同体は、バングラデシュ、パキスタン、サウジアラビア、マレーシア、タイなどに形成されている。ラカインからパキスタンや中東への移住は、1940年代後半から1950年代にまでさかのぼり、大規模な難民流出だけでなく、個人や家族による継続的な移住もあった。海外には、長年国外に暮らす人々や、ミャンマーに居住した経験のない子孫も含まれる。ライダーは、これらの人々を一枚岩の難民集団ではなく、移住先の社会的・政治的条件によって異なる経験を持つ、多様な国境横断的共同体として捉えている[58]。

バングラデシュは、中東へ向かう移住者の経由地であるとともに、ミャンマーへの帰還を望まない人々の定住先にもなった。難民キャンプの住民だけでなく、チッタゴンなどで社会的・文化的に地域社会へ溶け込んだ人々や、中流階級のロヒンギャも存在する。海外共同体のウェブサイトでは、英語やウルドゥー語に加え、アラビア語やマレー語による発信も行われている[58]。

1970年代に教育を受けたロヒンギャの多くがアラカンを離れると、政治活動や歴史叙述の発信の中心は、主としてバングラデシュのディアスポラへ移った。1975年にはチッタゴンでアラカン歴史協会が設立された。その後、2011年にはイスラーム協力機構(OIC)の支援の下、ジッダでアラカン・ロヒンギャ連合が設立され、競合するロヒンギャ諸団体を連合体にまとめる取り組みが進められた。2012年には欧州ロヒンギャ評議会がオランダで登録された[58]。

海外のロヒンギャ諸団体は、人権擁護者や法律専門家と連携し、ロヒンギャの権利をめぐる問題を国際社会へ訴えてきた。ライダーによれば、近年の発信では、歴史的な土着性の主張よりも、ムスリムとして受ける迫害や人権侵害が重視されるようになった。特に2012年の共同体間暴力以降、ディアスポラは、ロヒンギャの権利擁護運動が世界的に広がるうえで重要な役割を果たした[58]。

日本におけるロヒンギャ

難民条約加盟国である日本でもロヒンギャが難民申請しているが、入国管理局によって退去を強制させられている事例がある。日本の法廷で争われている[132]とおり、ロヒンギャ難民の問題には不可解な点が多く認められ、加えて「難民条約」の定義では解決し難いため、難民認定は低調な数字のままである。

在日ビルマロヒンギャ協会によると、2015年6月現在、日本には約230人のロヒンギャが生活している。そのうち約200人が、群馬県館林市に集中している[133]。また、日本政府は、ロヒンギャをミャンマー国籍として扱っているが、国籍を剥奪されたためにそのほとんどが無国籍である実態とかけ離れた国籍認定が懸念されている[134]。2017年8月4日、国連難民高等弁務官事務所のダーク・ヘベカー駐日代表が館林市を訪れ、ロヒンギャの現状を視察した。ヘベカーは、NPO法人が行うロヒンギャの子供たちの学習支援教室などを見学し、「素晴らしいプロジェクトで、学ぶ意欲を感じた」と評価した[135][136]。

日本ロヒンギャ支援ネットワークのゾーミントゥ事務局長は、「世界に向かってミャンマー軍が何をやっているか語ってほしい」とアウンサンスーチーに呼びかけた[137]。

2017年9月には、日本赤十字社の医療チームがバングラデシュの避難キャンプに派遣された[7]。9月8日、東京・品川のミャンマー大使館に、ロヒンギャら約150人が抗議デモを行った[138]。

その一方で、在日ミャンマー人社会との対立は深まっている。1988年9月に在日ミャンマー人協会が設立された当初は、ロヒンギャが協会書記長を務めたことがあるなど、表だった排斥は見られなかった。しかし2000年以降、ミャンマーの政情が落ち着くと、在日ミャンマー人の間に「ロヒンギャ(「ベンガル人」)はミャンマー人ではない」という認識が浸透し、表だった迫害こそ起きていないが、ロヒンギャは排除されるようになった[139]。2015年には、日本放送協会の(「ベンガル人」に対する)ロヒンギャ表記への抗議声明を、複数の在日ミャンマー人団体が出した[140]。

政府・政治指導者の見解

民族としての承認と国籍をめぐる見解

ミャンマーの政府関係者には、ロヒンギャを国内の民族として認めず、国外からの移民とみなす見解があった。2009年2月、香港駐在総領事だったイエミンアウン(Ye Myint Aung)は、外国の外交関係者や報道機関に送った書簡で、ロヒンギャはミャンマーの国民でも民族でもないと主張し、肌の色や容姿について侮蔑的な表現を用いた[141]。

ロヒンギャを民族として認めない立場は、政府関係者だけに限られなかった。民主化運動の指導者コーコージーも、2012年6月、ロヒンギャ問題を国家主権に関わる問題と位置づけ、難民としての境遇には同情するとしながらも、ミャンマーの民族の一つとしては認められないと述べた[142]。

アウンサンスーチーの対応

アウンサンスーチーは、2019年12月、国際司法裁判所でミャンマー政府を代表して陳述し、2017年の軍事作戦をアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)との武力紛争という文脈で説明した。国軍による過剰な武力行使や戦争犯罪の可能性は否定できないとする一方、それだけで集団を破壊する意図があったとはいえないとして、ジェノサイドの認定に反論した。また、違法行為については国内の司法手続きで責任を問うべきだと主張した[143]。

2021年以降の国民統一政府の方針

2021年ミャンマークーデター後に結成された国民統一政府(NUG)は、ロヒンギャの国籍と基本的人権を保障する方針を示した。2021年6月3日に発表した政策では、1982年国籍法を新たな法律に置き換え、ミャンマー国内での出生や、ミャンマー国民を親として生まれたことを国籍取得の基準とすることを掲げた。また、国籍確認カード(NVC)の制度を廃止する方針も示した[144]。

同年8月の声明でも、ロヒンギャに対する犯罪の責任追及と、安全かつ自発的で尊厳ある帰還を目指すと表明した。さらに、民族や宗教の違いにかかわらず個人の権利を保障し、ロヒンギャに対する暴力が繰り返されない連邦民主制の実現を掲げた[145]。

関連年表

  • 1942年:日本軍の侵攻とイギリスの統治機構の後退に伴い、アラカン地方で仏教徒とムスリムの相互襲撃が発生し、多数の住民が殺害・追放された[17]。
  • 1948年:ビルマ連邦が独立。アラカン北部でムジャヒディーンによる武装反乱が起きた[58]。
  • 1978年:政府によるナーガミン作戦に伴い、20万人以上のロヒンギャがバングラデシュへ逃れた[146]。
  • 1982年:新たな国籍法が制定された。この法律とその運用により、ロヒンギャの国籍取得・確認が困難になった[30]。
  • 1991~1992年:迫害や強制労働などを逃れ、約25万人のロヒンギャがバングラデシュへ流出した[146]。
  • 1995年:多くのロヒンギャに暫定登録証(TRC、通称ホワイトカード)が交付されるようになった。国籍を証明するものではなかったが、所持者には後の選挙で投票が認められた[147]。
  • 2012年:ラカイン州で仏教徒とムスリムの間の暴力が拡大し、多数のロヒンギャが避難した。その後、避難民キャンプでの隔離や移動制限が長期化した[147]。
  • 2015年:暫定登録証が失効し、所持者の投票資格も失われた[148]。
  • 2017年8月以降:アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)による治安拠点への襲撃後、国軍が大規模な掃討作戦を実施。70万人以上のロヒンギャがバングラデシュへ逃れた[149]。
  • 2019年12月:アウンサンスーチーが国際司法裁判所でミャンマー政府を代表して陳述し、ロヒンギャに対するジェノサイドの認定に反論した[150]。
  • 2021年:クーデター後に結成された国民統一政府(NUG)が、ロヒンギャの国籍と基本的人権を保障し、1982年国籍法を新たな法律に置き換える方針を表明した[151]。
  • 2023年11月以降:ラカイン州で国軍とアラカン軍(AA)の戦闘が激化し、ロヒンギャも強制徴兵、暴力、移動制限などの被害を受け、新たな避難が生じた[9]。

脚注

注釈

  1. ↑ ロヒンギャの歴史家たちは、この時期のベンガル地方からの大規模な移民を否定して、自然増だと主張している。
  2. ↑ アメリカ人宣教師・コムストック牧師 は、1842年の年次国勢調査で当時のラカイン州の人口は約25万7,000 人と推定され、「そのうち約16万7,000 人がラカイン族、4万人がビルマ族、2万人がムスリム、5,000 人がベンガル族、3,000 人がトゥングムルー族、2,000人がケミ族、1,250人がカレン族、残りは少数ながら様々な人種とその他さまざまな民族である」と述べている。
  3. ↑ ロハン(Rohang)・ロアン(Roang)の由来は、アラカン王国の首都・ムラウク・ユー(Mrauk-U)のかつての呼び名「Mrohaung」だとする説がある。
  4. ↑ ミャンマー人が「ロヒンギャ」という言葉に嫌悪感を感じるのは、その言葉がラカイン全体を意味していることに負うところが大きい。(『ビルマ危機の本質』P140)
  5. ↑ タンミンウーは、『『The Making of Modern Burma』の中で、「英国人は『ロヒンギャ』という言葉を一度も使ったことがありません。それは、特にアラカン北部に住むイスラム教徒の一部が、ベンガル語に近い言語で自分たちを呼ぶときに使った言葉です。それは単に『ロハンの』という意味で、アラカンの彼らの呼び名です。アラカンが彼らの故郷であることを暗示していました。同じように、国境のすぐ向こうの人々は、お互いに理解できるベンガル語の方言を話し、自分たちを『チッタゴンの』チャイガヤと呼んでいました」と述べている。
  6. ↑ 他にも当時、統一ロヒンギャ機構(United Rohingya Organization)、ロヒンギャ青年機構(Rohingya Youth  Organization)、ロヒンギャ学生機構(Rohingya Students Organization)、ロヒンギャ労働機構(Rohingya Labour Organization)といったロヒンギャの名前を冠した組織があった。
  7. ↑ 1948年連邦国籍法では、ビルマ族、ラカイン族、チン族、カチン族、カレン族、カレンニー族、モン族、シャン族など、1823年以前からビルマ領内を永住地としていた民族を指す[70]。
  8. ↑ 男性は緑、女性はピンクだった。
  9. ↑ 覚書によれば、サオ・シュエタイッは、ビルマには純粋な土着民族は存在せず、アラカンのムスリムが土着民族に属さないのであれば、自分たちも土着民族とはいえないと説明した。ただし、トンキンは、この発言が議会や委員会の正式な議事録には記録されていないと留保している[76]。
  10. ↑ ここでいう「土着民族」は、後に政府が公表した「135の民族」の一覧と同一ではない。トンキンによれば、この一覧が初めて公表されたのは1990年であり、1982年国籍法の制定時に存在した最新の公認民族一覧は、1973年国勢調査で用いられたものだった。この一覧には、「ロヒンギャ」という名称は含まれていなかったが、複数のムスリム集団が含まれていた[80]。
  11. ↑ CSCは市民権の地位ごとに色分けされており、国民=ピンク、準国民=青、帰化国民=緑となっていた。国民の間ではこれもNRCと呼ばれている。

出典

  1. 1 2 3 “Country policy and information note: Rohingya including Rohingya in Bangladesh, Burma, January 2026 (accessible)” (英語). 英国政府 (2026年1月8日). 2026年10月6日閲覧。
  2. ↑ ビルマ西部:ロヒンギャ問題の背景と現実 - 一般財団法人アジア・太平洋人権情報センター
  3. ↑ 東南アジアの移民・難民問題を考える - 地域研究コンソーシアム
  4. ↑ 日下部 & 石川 2019, p. 32.
  5. ↑ バングラデシュ人民共和国(People's Republic of Bangladesh) 基礎データ - 外務省
  6. ↑ 河野外務大臣臨時会見記録 (平成29年9月19日(火曜日)20時05分 於:米国・ニューヨーク) - 外務省 河野太郎外務大臣の回答参照
  7. 1 2 “【速報】バングラデシュ南部避難民※ 救援金の受け付けを開始、日赤の医療チームを現地派遣”. 日本赤十字社 (2017年9月22日). 2017年9月30日閲覧。
  8. 1 2 法務省 2017, pp. 12–13.
  9. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 “Country policy and information note: Rohingya including Rohingya in Bangladesh, Burma, January 2026 (accessible)” (英語). GOV.UK. 2026年3月26日閲覧。
  10. ↑ “Bangladesh/Myanmar: The Dangers of a Rohingya Insurgency | International Crisis Group” (英語). www.crisisgroup.org (2025年6月18日). 2026年3月26日閲覧。
  11. ↑ ““An Open Prison without End” Myanmar’s Mass Detention of Rohingya in Rakhine State” (英語). Human Rights Watch (2020年10月8日). 2026年3月27日閲覧。
  12. ↑ “「ロヒンギャに国籍を」ミャンマー諮問委が報告書”. 日本経済新聞ニュース (2017年8月24日). 2017年8月26日閲覧。
  13. ↑ ロヒンギャの村に極秘潜入。ナショジオ賞作家が見た、厳しい現実 - 三井昌志 MAG2NEWS
  14. 1 2 MISIS 2018, pp. 17–18.
  15. 1 2 MISIS 2018, pp. 8–9.
  16. ↑ キンニュン 2018, 第1章.
  17. 1 2 Leider, Jacques (2020) (英語). Territorial Dispossession and Persecution in North Arakan (Rakhine), 1942-43. Torkel Opsahl Academic EPublisher
  18. ↑ “Mass Departures in the Rakhine-Bangladesh Borderlands”. toaep.org. 2024年9月14日閲覧。
  19. ↑ “Background Paper on Rakhine State”. Network Myanmar. 2024年9月10日閲覧。
  20. ↑ 中西 2021, pp. 52–54.
  21. ↑ MISIS 2018, pp. 13–14.
  22. ↑ Smith 2019, p. 24.
  23. ↑ Jilani 1999, p. 91.
  24. ↑ Smith 2019, pp. 30–31.
  25. 1 2 Smith 2019, p. 30.
  26. ↑ Smith 2019, pp. 30-31.
  27. ↑ Leider, Jacques (2020) (英語). Rohingya: The Foundational Years.
  28. ↑ Smith 2019, p. 38.
  29. ↑ MISIS 2018, p. 15-16.
  30. 1 2 Arraiza & Vonk 2017.
  31. ↑ “Bangladesh: Extremist Islamist Consolidation -- Bertil Lintner”. web.archive.org (2012年6月22日). 2025年2月24日閲覧。
  32. 1 2 タンミンウー 2021, p. 232.
  33. 1 2 3 法務省 2017, pp. 17–19.
  34. ↑ “Rohingya refugees mark a year of suffering and hope” (英語). UNHCR (2018年8月24日). 2026年10月6日閲覧。
  35. 1 2 “Rohingya Face Fresh Uncertainty in Myanmar” (英語). United States Institute of Peace. 2024年9月3日閲覧。
  36. ↑ “Bangladesh/Myanmar: The Dangers of a Rohingya Insurgency | International Crisis Group” (英語). www.crisisgroup.org (2025年6月18日). 2025年7月20日閲覧。
  37. ↑ “Dil Mohammed: The smuggler shaping a war in Arakan” (英語). Dhaka Tribune. 2026年3月22日閲覧。
  38. ↑ “ロヒンギャー問題を考える”. 笹川平和財団. 2024年9月2日閲覧。
  39. ↑ タンミンウー 2021, p. 54.
  40. ↑ Tonkin 2017, p. 5.
  41. 1 2 Tonkin 2017, pp. 4–5.
  42. 1 2 3 内田 2018, p. 149.
  43. ↑ キンニュン 2018, 第6章.
  44. ↑ “Network Myanmar Illegals”. www.networkmyanmar.org. 2025年2月15日閲覧。
  45. ↑ Tonkin 2017, p. 1.
  46. ↑ “Network Myanmar Exodus”. www.networkmyanmar.org. 2025年2月18日閲覧。
  47. ↑ 中西 2021, pp. 79–80.
  48. 1 2 タンミンウー 2021, p. 229.
  49. 1 2 3 4 5 中西 2021, pp. 58–61.
  50. ↑ “History Behind Arakan State Conflict”. The Irrawaddy. 2024年9月2日閲覧。
  51. ↑ Tonkin 2017, p. 3.
  52. ↑ Buchanan, Francis (2003). “A Comparative Vocabulary of Some of the Languages Spoken in the Burma Empire” (英語). SOAS Bulletin of Burma Research 1 (1): 55.
  53. ↑ タンミンウー (2001). The Making of Modern Burma. Cambridge University Press. p. 27
  54. ↑ Tonkin 2017, p. 4.
  55. ↑ Tonkin 2017, p. 9.
  56. 1 2 Saikia, Arunabh (2017年12月10日). “Rohingya refugee crisis: It’s not Muslims versus Buddhists, says writer Bertil Lintner” (英語). Scroll.in. 2025年2月15日閲覧。
  57. ↑ Smith 2019, p. 23.
  58. 1 2 3 4 5 6 7 Leider 2018.
  59. ↑ Tonkin 2017, pp. 9–10.
  60. ↑ キンニュン 2018, 第5章.
  61. ↑ Unknown (2016年9月1日). “Rohingya Tear: Rangoon University Rohingya Students Association and Arakan Statehood .”. Rohingya Tear. 2025年2月15日閲覧。
  62. ↑ Irrawaddy, The (2012年7月9日). “History Behind Arakan State Conflict” (英語). The Irrawaddy. 2026年3月26日閲覧。
  63. ↑ Leider 2018, p. 9.
  64. ↑ “[https://networkmyanmar.org/ESW/Files/List-of-144-national-races.pdf THE PROBLEM OF MUSLIM NATIONAL IDENTITY IN MYANMAR]” (英語). networkmyanmar. 2025年10月23日閲覧。
  65. ↑ ただし、アジア動向年報『安定と経済回復の一年 : 1978年のビルマ』には、ラカイン州のムスリムを「もともとバングラデシュに住んでいたベンガル族であることは間違いない」と断じたうえで、「ビルマ政府はこれらベンガル人回教徒に対し、『ロヒンジャ(Lohingya)』と正式に呼び」という既述がある。
  66. 1 2 “Network Myanmar Rohang”. www.networkmyanmar.org. 2024年9月7日閲覧。
  67. ↑ Smith 2019, p. 43.
  68. ↑ 内田 2018, p. 156.
  69. ↑ “Myanmar: The Politics of Rakhine State” (英語). 国際危機グループ (2014年10月22日). 2025年2月15日閲覧。
  70. 1 2 中西 2021, pp. 73–75.
  71. ↑ “The Constitution of the Union of Burma, 1947” (英語). Burma Lawyers' Council. 2026年10月7日閲覧。
  72. ↑ Tonkin 2017, pp. 6–7.
  73. ↑ Cheesman, Nick (2015年12月8日). “Problems with Facts about Rohingya Statelessness” (英語). E-International Relations. 2025年2月16日閲覧。
  74. ↑ “We Were All Citizens-National Registration Cards” (英語). EK KHAALE. 2026年10月8日閲覧。
  75. 1 2 3 法務省 2017, p. 17.
  76. 1 2 Tonkin 2017, p. 8.
  77. ↑ Leider 2018, p. 14.
  78. ↑ 法務省 2017, p. 16.
  79. ↑ “Burma Citizenship Law” (英語). Refworld. 2024年9月17日閲覧。
  80. ↑ Tonkin 2017, p. 17.
  81. ↑ “Burma Citizenship Law” (英語). Refworld. 2026年10月8日閲覧。
  82. 1 2 Tonkin 2017, p. 18.
  83. ↑ “Burma Citizenship Law” (英語). Refworld. 2026年10月8日閲覧。
  84. ↑ Steinberg 2009, pp. 72–73.
  85. ↑ “国籍法に象徴されるビルマ(ミャンマー)の排他的ナショナリズム”. Asia Peacebuilding Initiatives. 2025年2月16日閲覧。
  86. ↑ Tonkin 2017, p. 15.
  87. ↑ タンミンウー 2021, pp. 55–56.
  88. ↑ 中西 2024, p. 36.
  89. 1 2 3 4 Tonkin 2017, p. 16.
  90. ↑ Tonkin 2017, pp. 16–18.
  91. ↑ “Burma Citizenship Law” (英語). Refworld. 2026年10月8日閲覧。
  92. ↑ “5問でわかる「ロヒンギャ問題とは何か?」スーチー氏が直面する壁”. 現代ビジネス (2017年10月1日). 2025年9月19日閲覧。
  93. ↑ Arraiza & Vonk 2017, p. 9.
  94. ↑ “DFAT Country Information Report: Myanmar” (英語). オーストラリア外務貿易省 (2017年1月10日). 2026年10月8日閲覧。
  95. 1 2 法務省 2017, p. 18.
  96. 1 2 3 Arraiza & Vonk 2017, pp. 9–10.
  97. ↑ May Kha (2015年7月13日). “Few Rohingya Want New Myanmar ID Cards” (英語). Voice of America. 2026年10月8日閲覧。
  98. ↑ “Man Killed in Buthidaung After Talking to Journalists” (英語). The Irrawaddy (2017年4月2日). 2026年10月8日閲覧。
  99. ↑ 法務省 2017, pp. 19–20.
  100. ↑ Smith 2019, p. 53.
  101. ↑ Smith 2019, p. 71.
  102. ↑ Smith 2019, pp. 70-71.
  103. ↑ 中西 2024, p. 40.
  104. ↑ 中西 2024, pp. 21–22.
  105. ↑ “Myanmar’s Rohingya Persecuted, Living under Threat of Genocide, UN Experts Say” (英語). OHCHR. 2026年3月27日閲覧。
  106. ↑ Thit, Lin (2025年8月26日). “Interview | Arakan Army Improved Rohingya Rights” (英語). The Irrawaddy. 2026年3月27日閲覧。
  107. ↑ Oo, Aung Marm (2026年3月5日). “Guest Column | Bangladesh’s Pragmatic Engagement With Arakan Army Gives Hope for Future” (英語). The Irrawaddy. 2026年3月27日閲覧。
  108. ↑ 法務省 2017, pp. 8, 51.
  109. ↑ http://www.rhq.gr.jp/japanese/hotnews/data/pdf/73.pdf
  110. 1 2 “膨張するロヒンギャ難民、無人島計画に救いはあるか”. Reuters. 2024年9月9日閲覧。
  111. ↑ “Fortify Rights urges Bangladesh to close Bhasan Char and end Rohingya detention” (英語). Mizzima. 2026年3月27日閲覧。
  112. ↑ “ロヒンギャ難民を忘れないで 大規模流出から8月で5年 ウクライナ危機で薄れる関心、細る支援:東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web. 2024年9月9日閲覧。
  113. ↑ “Why Is Bangladesh Encouraging Rohingya Refugees to Start a ‘Going Home’ Campaign?” (英語). thediplomat.com. 2024年9月9日閲覧。
  114. ↑ “Alarmed by reports of Rohingya cast into the sea from Indian navy vessels, UN expert launches inquiry of “unconscionable, unacceptable acts”” (英語). OHCHR. 2026年3月27日閲覧。
  115. 1 2 日下部 & 石川 2019, pp. 148–154.
  116. ↑ 「マレーシア首相、これ以上のロヒンギャ難民受け入れは不可能と表明」『Reuters』2020年6月29日。2024年9月9日閲覧。
  117. ↑ “マレーシア 入管の収容施設で暴動 ロヒンギャ100人余が脱走 | NHK”. NHKニュース. 日本放送協会 (2024年2月2日). 2024年9月9日閲覧。
  118. ↑ “インドネシア:アチェ住民 ロヒンギャ難民の救助に立ち上がる”. アムネスティ日本 AMNESTY. 2024年9月9日閲覧。
  119. ↑ “インドネシアの漁師たち、地域ぐるみでロヒンギャ難民を救出”. UNHCR 日本. 2024年9月9日閲覧。
  120. ↑ “インドネシア ミャンマーで迫害のロヒンギャ 密航船で漂着急増 | NHK”. NHKニュース. 日本放送協会 (2024年6月19日). 2024年9月9日閲覧。
  121. ↑ “ロヒンギャ難民219人漂着、住民は受け入れ拒否 インドネシア”. www.afpbb.com (2023年11月23日). 2024年9月9日閲覧。
  122. ↑ “ロヒンギャ難民を強制排除 インドネシア、抗議の学生|全国のニュース|富山新聞”. 富山新聞 (2023年12月28日). 2024年9月9日閲覧。
  123. ↑ 鈴木佑記「タイにおけるロヒンギャ人身売買問題」『國士舘大學政經論叢』第30-1巻第4-1号、2019年6月25日、67-89頁、CRID 1050848650223234432。
  124. ↑ 日下部 & 石川 2019, pp. 172–182.
  125. 1 2 日下部 & 石川 2019, pp. 187–188.
  126. ↑ “Burmese community still an enigma” (英語). Saudi Gazette. 2026年10月7日閲覧。
  127. 1 2 Citizenship 2018, p. 223.
  128. ↑ “日本政府による無償資金協力:バシャンチャ―ル島及びコックスバザール県におけるミャンマーからの避難民のための人道支援計画(UNHCR連携)”. UNHCR 日本. 2024年9月7日閲覧。
  129. ↑ “日本政府、バングラデシュのロヒンギャ難民とホストコミュニティの生活改善支援のため、UNICEFに4億円の無償資金協力を供与”. プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES (2024年3月11日). 2024年9月7日閲覧。
  130. ↑ “日本政府による無償資金協力:コックスバザール県及びバシャンチャール島におけるミャンマーからの避難民のための人道的保護計画(UNHCR連携)”. UNHCR 日本. 2024年9月7日閲覧。
  131. ↑ “「ロヒンギャ問題」―新しい可能性―”. 笹川陽平ブログ(日本財団会長). 2024年9月7日閲覧。
  132. ↑ “少数民族の2人を難民認定 ミャンマー難民で東京地裁”. 共同通信 (2010年10月29日). 2015年5月17日閲覧。
  133. ↑ “群馬・館林のロヒンギャ族、難民認定されず8年”. 朝日新聞 (2015年6月19日). 2015年6月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月13日閲覧。
  134. ↑ “無国籍 実態「認識を」 ロヒンギャ”. 上毛新聞 (2015年6月26日). 2015年9月13日閲覧。
  135. ↑ “UNHCR駐日代表が館林の難民視察”. 産経新聞. 2017年8月5日. 2017年8月8日閲覧.
  136. ↑ “UNHCR駐日代表 館林にロヒンギャ訪問 学習教室など /群馬”. 毎日新聞. 2017年8月5日. 2017年8月8日閲覧.
  137. ↑ “スー・チーさん、声を上げて=日本のロヒンギャ支援者-今も実態は軍政・ミャンマー”. 時事通信社 (2017年6月13日). 2017年7月3日閲覧。
  138. ↑ “ロヒンギャ迫害 都内の大使館前で抗議活動”. 日本テレビ放送網 (2017年9月8日). 2017年12月24日閲覧。
  139. ↑ 前川祐補 (2017年9月21日). “ロヒンギャを襲う21世紀最悪の虐殺(後編)”. Newsweek日本版. 2017年12月24日閲覧。
  140. ↑ ミャンマー人のロヒンギャ排斥感情の底にあるもの - 「ちきゅう座」 野上俊明
  141. ↑ “Myanmese envoy says Rohingya ugly as ogres”. South China Morning Post (英語). 2009年2月11日. 2026年10月6日閲覧.
  142. ↑ Aung Zaw (2012年6月14日). “Burma’s Rohingya Dilemma” (英語). The Irrawaddy. 2026年10月6日閲覧。
  143. ↑ “Public sitting held on Wednesday 11 December 2019, at 10 a.m., at the Peace Palace, President Yusuf presiding” (英語). International Court of Justice (2019年12月11日). 2026年10月6日閲覧。
  144. ↑ “Myanmar’s National Unity Government Recognizes Rights of Rohingya” (英語). Fortify Rights (2021年6月3日). 2026年10月6日閲覧。
  145. ↑ “Statement of the National Unity Government of Myanmar on the 4th Anniversary of the Atrocity Crimes against the Rohingya People in 2017” (英語). 国民統一政府外務省 (2021年8月24日). 2026年10月6日閲覧。
  146. 1 2 Rohingya influx since 1978 (PDF) (Report) (英語). ACAPS. 2017年12月11日. 2026年10月6日閲覧.
  147. 1 2 “An Open Prison without End”: Myanmar’s Mass Detention of Rohingya in Rakhine State (Report) (英語). Human Rights Watch. 2020年10月8日. 2026年10月6日閲覧.
  148. ↑ “Myanmar: Election Fundamentally Flawed” (英語). Human Rights Watch (2020年10月5日). 2026年10月6日閲覧。
  149. ↑ “Rohingya refugees mark a year of suffering and hope” (英語). UNHCR (2018年8月24日). 2026年10月6日閲覧。
  150. ↑ “Public sitting held on Wednesday 11 December 2019, at 10 a.m., at the Peace Palace, President Yusuf presiding” (英語). International Court of Justice (2019年12月11日). 2026年10月6日閲覧。
  151. ↑ “Myanmar’s National Unity Government Recognizes Rights of Rohingya” (英語). Fortify Rights (2021年6月3日). 2026年10月6日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク

  • Network Myanmar(デレク・トンキンによる第三者観点からのロヒンギャ・ポータルサイト)
  • Ek Khaale(ロヒンギャ自身によるロヒンギャ迫害のアーカイブ)