中田義算

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中田 義算(なかた よしかず[1]、1880年 - 1951年)は山梨県出身の高炉技師であり実業家。釜石製鉄所の次長をはじめ、釜石鉱山及び日本鋼管の取締役などを歴任。その晩年に岩手木炭製鉄を創業した。

中田義算

来歴

中田六三郎の二男として1880年(明治13年)10月15日、山梨県北巨摩郡江草村に生まれる[2][3]。1906年(明治39年)第一高等学校を卒業[4]して東京帝国大学工科大学の採鉱冶金科へ進み、これを1909年(明治42年)7月に卒業。同年田中商店に入社し、同窓の藤田俊三と揃って岩手県の釜石鉱山田中製鉄所に赴任した[5][注釈 1]。入社4年目の時点で技師長の中大路に次ぐ製銑課長[6]の役職に就いているほか、別の時期には製錬課長と鋳鉄課長を兼任[7]するなど重職を歴任。1916年(大正5年)7月には中華民国の漢冶萍公司より招聘され、大冶鉄山で溶鉱炉の建築に励むなどおよそ3年間を同地で過ごした[8][9]。

義算が同地を去る際、同じく漢冶萍公司に赴任中で最高顧問技師を務めていた大島道太郎より、その父・大島高任が釜石の地に初めて洋式高炉を築造したことを雑誌などで書いてほしいと依頼され、後に「洋式高炉の輸入と大島高任先生」を執筆している[注釈 2]。義算は1918年(大正7年)から翌年にかけて最新の製鉄事情視察のため米国へ赴いた[3]。

一方、釜石の製鉄所[注釈 3]では1919年(大正8年)11月に軍まで出動する大規模な労働争議が起こり、翌1920年3月には前年所長に就任したばかりの中大路が退任。代わって初代所長の婿養子である横山虎雄が第三代所長に任じられた。彼は建築家が本業であった為、冶金の専門家として技師長級の扱いで義算が呼び戻され、同年7月頃釜石に復帰[11][12]。立場としては所長の虎雄が上であったが専門知識の有無は大きく、また義算の妻が虎雄の妻の実姉[注釈 4]だったこともあり、製鉄所の実権は完全に義算の手にあったとされる。

第一次大戦後の不況の波で会社が経営難となっていた1920年(大正9年)11月。この年庶務課主任として釜石に赴任した三鬼隆の発案及び手配により釜石製鉄所初の運動会が開催。従業員やその家族、果ては町民も集まり盛況となった。しかし高炉の鬼と呼ばれた義算はこれを快く思わず、会社の危機に君は何を考えているのかと所長の前で三鬼を叱責。停滞ムードの時こそスポーツは活力になると抗弁した三鬼を、翌年東京本店に送り返している[13][注釈 5]。1921年(大正10年)釜石活動写真の取締役に就任[15]、1939年末までこれを務めた[16]。

1923年(大正12年)、関東大震災直後の9月下旬、会社に籍を置きつつ岩手県議会議員選挙に出馬し当選[17]。釜石鉱山の政治部長と呼ばれ、県議を一期務めた[18]。

1924年(大正13年)3月、長引く不況に加え大震災の影響もあり、多額の負債を抱えていた会社の経営権が田中家から三井鉱山に移譲される。同年7月に改組され、釜石鉱山株式会社が成立。義算は新所長・西村小次郎の下で次長兼工務長を務めた[3]。工務長補佐には藤田俊三、その下に川村吟次郎や関口春次郎など[19]。1931年(昭和6年)11月、釜石鉱山の取締役に就任[20]。

ある時、釜石製鉄所にやって来た渡辺政人(当時は関東鋼材販売組合所属)と食事をする機会があった。渡辺は本来日本鋼管の人間であり、自社に高炉を造って銑鋼一貫工場とするのが念願だった。義算は自分のやり方なら輸入銑よりも安く製造できると力説し、以後何度か顔を合わすうちに日本鋼管へ誘われる[21]。

義算は釜石鉱山を退職し、一時期母校である東京帝大で講師をした後に日本鋼管入りという予定を立て、1934年(昭和9年)入社[注釈 6]。高炉製造に力を尽したほか、神奈川県川崎市の同社扇町工場長[22]を務め、1940年(昭和15年)9月には取締役に選任された[23][24]。またその前年の1939年には、日本鋼管が出資し設立された吉沢石灰工業の取締役にも就いている[25]。

第二次大戦後の復興期、鋳造用の高品質な木炭銑は需要が高まっていたが、当時国内では生産しておらずスウェーデンから輸入していた。義算は全国一位の生産量[26]を誇る岩手県の木炭と、品質良好な釜石鉱山の鉄鉱石を活かすべく1949年(昭和24年)6月に「岩手木炭製鉄」を創業。取締役社長に就任した。資本金300万円の出資者は全て地元の農家[27]であり、この規模では木炭銑用の小型高炉さえ建てられず、増資に当たって当時三鬼が社長を務めていた日本製鐵に引き受けを願い出た。日鐵の役員会議では賛否同数となり、それであれば援助しようという三鬼の判断で引き受けが決まる。後にこの経緯を知った藤田は、釜石時代に対立した過去があるのに普通はなかなか出来ることではないと感心しており、また義算自身も「昔散々苛めたにもかかわらず」とその度量を称えている[28]。

1951年(昭和26年)11月4日、病没[29][1]。創業僅か2年で社長を失った会社幹部は三鬼に相談し、その推選で藤田俊三が後任に就いた[30]。その後会社は、時代の流れで1966年(昭和41年)に木炭銑をやめてコークス銑に完全に切り替え、1969年(昭和44年)社名も「岩手製鉄」へと変更されている。

家族・親族

妻の染子は釜石製鉄所の創業者である初代・田中長兵衛の孫にあたる[注釈 7]が、昭和初期に30代前半の若さで早世[3]。義算はその後、廣瀬善三郎の養女・まつと再婚して長女・わか子(1932年生)[2]を授かったほか、芳野清之助の三男・芳郎(1930年生)を養子に迎えている[31]。後にわか子は入婿を取り、中田鎰夫(1924年生)は日本鋼管に勤めた[32]。

染子は日本橋本石町で鼈甲商及び小間物商を営む老舗・武蔵屋、金子家四姉妹の二女であり、長女・千代子(1885年生)は大倉金庫店の萩原仙之助に、三女・君子(1895年生)は日本橋堺町で呉服太物商を営む小川専之助に嫁いだ。四女の花子(1898年生)は娘のいなかった横山久太郎の養女となり、渋沢家から婿養子に入った横山虎雄と結婚。虎雄は釜石製鉄所の第三代所長を務めた[33]。

著作

脚注

注釈

  1. ↑ 当時の所長は横山久太郎で、技師長は中大路氏道。中大路は同じ東京帝大冶金科の12年先輩にあたる。
  2. ↑ 道太郎は義算帝大時の恩師の一人。教授として冶金学を教えていた[10]。
  3. ↑ これまで田中長兵衛の個人商店だった組織が株式会社化され、1917年(大正6年)4月より田中鉱山株式会社の釜石鉱業所となっている。
  4. ↑ 義算の妻・染子は東京日本橋で小間物及び鼈甲商を営む金子傳八の二女であり、虎雄の妻・花子は同四女。花子は伯父にあたる横山久太郎の養女となり、渋沢家から虎雄を入婿として迎えた。
  5. ↑ 翌年以降運動会は取り止めとなったが、会社が三井の指揮下に入り三鬼が釜石に再赴任する1928年より再び大々的に行われるようになる。それまでの間、慰安会と称して運動会の代わりに活動写真(映画)の上映会が行われた[14]。
  6. ↑ 渡辺が当時副社長だった白石元治郎らと相談した結果、三井を辞めてすぐに日本鋼管というわけにはいかないので、一度母校で講師をしながら高炉建設のための研究や準備をして、その後入社という手順が取り決められた[21]。
  7. ↑ 染子は初代長兵衛三女・きち(夫は金子傳八)の二女。初代所長・横山久太郎や二代目長兵衛からは姪にあたる。

出典

  1. 1 2 『昭和物故人名録:昭和元年~54年』日外アソシエーツ、1983年7月、356頁。NDLJP:12210190/185。
  2. 1 2 『人事興信録』(第14版 下)人事興信所、1943年、ナ52頁。NDLJP:12994181/284。
  3. 1 2 3 4 加茂久一郎 編『三陸沿岸軽鉄沿線名士録』三陸沿岸軽鉄沿線名士録編纂所、1931年、37頁。NDLJP:1035104/30。
  4. ↑ 『第一高等学校一覧 昭和6至7年 附録 卒業生氏名』第一高等学校、1931年8月、117頁。NDLJP:1447801/61。
  5. ↑ 『釜石製鉄所七十年史』富士製鉄釜石製鉄所、1955年、479頁。NDLJP:2477257/397。
  6. ↑ 『日本鉱業名鑑』鉱山懇話会、1913年8月、61頁。NDLJP:951204/56。
  7. ↑ 『日本工業要鑑』大正7・8年度用 (第8版)、工業之日本社、1917年12月、255頁。NDLJP:952875/199。
  8. ↑ 『日本鉱業会誌』33 (384)、資源・素材学会、1917年2月。NDLJP:1779317/9。
  9. ↑ 『最新支那官紳録』33 (384)、支那研究会、1918年、365頁。NDLJP:1874492/680。
  10. ↑ 大島信蔵 編『大島高任行実』1938年、巻末 5-6頁。NDLJP:1874465/694。
  11. ↑ 山本祐二郎 編『人間三鬼隆』三鬼会、1956年、131頁。NDLJP:3046951/72。
  12. ↑ 『日本鉱業会誌』36 (425)、資源・素材学会、1920年7月。NDLJP:1778955/38。
  13. ↑ 菊池弘『かまいし千夜一夜:企業城下町物語』岩手東海新聞社、1984年11月、198頁。NDLJP:9571337/109。
  14. ↑ 『鉄と共に百年』 本編、新日本製鉄釜石製鉄所、1986年10月、104-105頁。NDLJP:13087776/78。
  15. ↑ 大蔵省印刷局 編『官報』第2913号、付録12頁、1922年4月21日。NDLJP:2955030/24。
  16. ↑ 大蔵省印刷局 編『官報』第3926号、401頁、1940年2月9日。NDLJP:2960421/25。
  17. ↑ 釜石市誌編纂委員会 編『釜石市誌 年表』釜石市、1965年、118頁。NDLJP:2994213/69。
  18. ↑ 竹内理三、他 編『角川日本姓氏歴史人物大辞典』 3巻、角川書店、1998年5月、273頁。NDLJP:13247771/144。
  19. ↑ 関口春次郎『溶接への道:回顧録』産報アイデアセンター、1977年4月、223頁。NDLJP:12192651/135。
  20. ↑ 『釜石製鉄所七十年史』富士製鉄釜石製鉄所、1955年、519頁。NDLJP:2477257/418。
  21. 1 2 鉄鋼新聞社 編『鉄鋼巨人伝白石元治郎』工業図書出版、1967年12月、629-630頁。NDLJP:3454086/331。
  22. ↑ 『日本全国銀行会社録』(第47回(昭和14年))商業興信所、1939年、上編 283頁。NDLJP:1074420/216。
  23. ↑ 『人事興信録』(第13版 下)人事興信所、1941年、ナ57頁。NDLJP:3430444/291。
  24. ↑ 『日本鋼管株式会社三十年史』日本鋼管、1942年、361-362頁。NDLJP:1060271/233。
  25. ↑ 『100年のあゆみ』吉沢石灰工業、1973年、71頁。NDLJP:11954204/53。
  26. ↑ 『商工ジャーナル』18 (12) (213)、商工中金経済研究所、1992年12月、60-61頁。NDLJP:2831154/32。
  27. ↑ 『東北の中堅120社』日本経済新聞社、1981年10月、84-85頁。NDLJP:11952783/50。
  28. ↑ 山本祐二郎 編『人間三鬼隆』三鬼会、1956年、105-108頁。NDLJP:3046951/59。
  29. ↑ 『釜石製鉄所七十年史』富士製鉄釜石製鉄所、1955年、529頁。NDLJP:2477257/423。
  30. ↑ 『帝国銀行・会社要録』(第38版)帝国興信所、1957年、岩手県 会社 3頁。NDLJP:8798237/2345。
  31. ↑ 『人事興信録』(第11版 下)人事興信所、1937年、ナ79頁。NDLJP:1072938/378。
  32. ↑ 『東洋経済会社人事録』(1966年版)東洋経済新報社、1966年、600頁。NDLJP:1692751/318。
  33. ↑ 『人事興信録』(7版)人事興信所、1925年、よ16頁。NDLJP:13046227/536。