二条持通
「摂家二條家墓基礎調査報告書」同志社大学歴史資料館
時代 室町時代 - 戦国時代初期
生誕 応永23年(1416年)
死没 明応2年1月12日(1493年1月29日)
別名 大染金剛院(号)
官位 従一位、関白、内覧、太政大臣
主君 称光天皇→後花園天皇→後土御門天皇
氏族 二条家
父母 父:二条持基 母:石橋殿(石橋満博の姉妹)[1]
兄弟 持通、尊応
妻 播磨局
子 政嗣、政覚、持厳、空済
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二条 持通(にじょう もちみち)は、日本の室町時代から戦国時代初期にかけての公卿。

生涯

二条持通に対する公家社会の信頼

二条家は有識故実の家である、その知識は同時代の公家たちいから頼りにされていた。文明15年(1483年)3月22日、近衛政家が鷹司政平との座次争いにおいて持通は相談相手であった。『後法興院記』

なお、次の世代に公家社会の重鎮となっていく三条西実隆は、持通の薫陶を受けている。実隆は持通邸を訪問し、改元などについて会談し、実隆公記による「凡公事儀、每度丁寧尋申之條、感悅無極」と感謝するとともに、「今度拝賀着陣等之進退神妙之由、聞及之間、尤自愛之由芳言在之、頗令祝著也」拝賀着陣における自らの振る舞いを褒めれらたことが嬉しかったらしく、思わず饒舌となり、日記に書き残した。実隆は薫陶を受けた二条持通に対する敬意を後々まで抱き続けたらしい。明応6年(1497年)わずか26才早世した二条尚基これを聞いた実隆は、持通に対して「二条持通にはとてもお世話になった、その恩返しをできないまま二条尚基が早世してしまったことは慚愧に堪えない」実隆にとっては、持通は「其恩芳難謝盡之」という存在であった。二条持通は先例故実の大家として、公家社会の尊敬を集めていたのである。

後土御門天皇との関係

後柏原天皇の名前(勝仁)について勅問があった、そのときの勅問は「禅閤」(一条兼良)、太閤(二条持通)、九条前関白(九条政基)、関白(近衛政家)と西園寺実遠であり、五摂家の当主たちが多く含まれる。これらの面々でも特に二条持通を重視されていた。『親長卿記』文明12年(1480年)12月13日条

『親長卿記』の長享元年(1487年)7月17日には「今日為関白衰日、可為何様候哉、予申云、 於叙位除目者、 関白衰日被憚之、 於改元者無其例歟、但可尋申二条太閤云々」改元定が関白九条政の衰日により延引せざるをえなくなる。その際に「なにはともあれ持通の意見を聞いてこい」と指示していた。

文明12年8月に開催された禁裏連歌会において後土御門直々の意向により持通の参加が要請されるなど、『親長卿記』の文明12年10月17日条には、持通は息子二条政嗣の急死により出家を志向するも、公武の慰留により思い止まらざるをえなかった。二条持通は得度を許されないくらいの重要人物であり、廷臣だけでなく後土御門天皇からも、その知識が重用されていたのである。

将軍家との信頼関係



官職歴ぶん

位階歴

系譜

脚注

  1. ↑ 『大乗院寺社雑事記』文明14年11月21日条に彼女の二十五回忌の法要の記述が登場する(計算すると、長禄2年(1458年)に死去したことになる)。また、彼女の通称から御一家石橋信乗の姉妹と推定されている(谷口雄太「都鄙における御一家石橋氏の動向」『中世足利氏の血統と権威』 吉川弘文館、2019年 ISBN 978-4-642-02958-2 P70.)。

参考文献

公職
先代
一条兼良
鷹司房平
一条教房
関白
1453 - 1454
1455 - 1459
1463 - 1467
次代
鷹司房平
一条教房
一条兼良
先代
西園寺公名
太政大臣
1458 - 1460
次代
近衛房嗣
先代
鷹司房平
右大臣
1446 - 1454
次代
洞院実煕
軍職
先代
西園寺公名
左近衛大将
1438 - 1447
次代
洞院実煕
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