伏見俊昭
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2020年 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 基本情報 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 愛称 | ゴージャス松野、フッシー[1] | |||||||||||||||||||||||||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1976年2月4日 | |||||||||||||||||||||||||||||
| 没年月日 | 2026年7月19日(50歳没) | |||||||||||||||||||||||||||||
| 出身地 | 福島県白河市 | |||||||||||||||||||||||||||||
| 身長 | 181cm | |||||||||||||||||||||||||||||
| 体重 | 86kg | |||||||||||||||||||||||||||||
| 事務所 | マザーランド → PEAKS | |||||||||||||||||||||||||||||
| 選手情報 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 登録番号 | 012939 | |||||||||||||||||||||||||||||
| 所属 | 日本競輪選手会福島支部 | |||||||||||||||||||||||||||||
| ホーム | 松阪競輪場 | |||||||||||||||||||||||||||||
| 期別 | 75期 | |||||||||||||||||||||||||||||
| 脚質 | 自在 | |||||||||||||||||||||||||||||
| 登録地 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 1995 - 2026 | 福島 | |||||||||||||||||||||||||||||
| 業績 | ||||||||||||||||||||||||||||||
S級S班 | 2008 - 2012 | |||||||||||||||||||||||||||||
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選手情報 KEIRIN.JP | ||||||||||||||||||||||||||||||
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| 自転車競技情報 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| アマチュア経歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 1991 - 1994 | 福島県立白河実業高等学校 | |||||||||||||||||||||||||||||
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| ■最終更新日:2026年7月19日 ■テンプレートを表示 | ||||||||||||||||||||||||||||||
伏見 俊昭(ふしみ としあき、1976年〈昭和51年〉2月4日[2] - 2026年〈令和8年〉7月19日[2])は、日本の元競輪選手、元自転車競技選手。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)75期生[3]。現役時代は日本競輪選手会(以下、選手会)福島支部所属、ホームバンクは泉崎国際サイクルスタジアム[1]のち松阪競輪場[4]。師匠は班目秀雄(24期)、弟子は渡辺雄太(100期)。身長181cm、体重86kg、水瓶座のO型。既婚[5]。
来歴
福島県立白河実業高等学校在学中から自転車競技を始め、競輪学校には第75期生として入学。競輪学校での在校成績は28位[4]。
1995年4月15日の伊東温泉競輪場でデビュー、初勝利は同年5月6日の四日市競輪場。デビューした翌年にトップクラスのS級へ昇格を果たした。1997年11月の競輪祭新人王決勝戦では2着[6]。
競輪選手としてデビュー後も自転車競技にも取り組んでおり、アジア選手権や世界選手権自転車競技大会などへ毎年のように出場を続けたが、2000年のシドニーオリンピック代表最終選考会でコンマの差で落選し、挫折を味わう[7]。
2001年に函館競輪場でのふるさとダービーを優勝してからは一気に上位へ進出し、第44回オールスター競輪(岐阜競輪場)で優勝し特別競輪を制覇しただけなく、KEIRINグランプリ01にも優勝(歴代12人目)してその年の賞金王に輝いた。
2004年、3月の第57回日本選手権競輪(静岡競輪場)で優勝し、GI2つ目のタイトルを獲得。さらに同年のアテネオリンピックでは自転車競技代表に選ばれ、チームスプリント種目で第2走者として出場し、長塚智広・井上昌己とともに銀メダルを獲得。
その後しばらくビッグレースでの勝利には恵まれなかったが、2007年、北京五輪挑戦のためのワールドカップシリーズ転戦の中、12月30日のKEIRINグランプリ07に獲得賞金上位(4位)で出場。先行する山崎芳仁の番手より小嶋敬二の後ろに切り替え、最終直線で先頭に立った小嶋を抜き去って、6年ぶりのグランプリ制覇を飾り、2001年以来2度目の賞金王となると共に生涯獲得賞金が10億円突破となった(2010年4月30日時点での生涯獲得賞金は12億3703万1821円)。
2008年、世界自転車選手権(マンチェスター)のケイリンでは決勝5着。北京オリンピックでもケイリン種目に出場したが結果は最下位に終わる。9月15日、第51回オールスター競輪(一宮競輪場)では決勝戦で紫原政文、新田康仁の追い込みを抑え、2001年以来、2度目のオールスター競輪制覇を飾った[8]。この際の優勝インタビューの最後で、開催初日に競走中の事故で殉職した内田慶に対し、他地区であるのにもかかわらず「そして内田慶、ありがとう」と涙ながらに叫んだ。
2009年は1月の競輪祭決勝で2着となり、5月5日、岸和田競輪場にて新設されたGI競走である『SSシリーズ風光る』に出場し、その決勝戦で最終周回3コーナーからの捲りで、先に抜け出していた小嶋敬二をゴール寸前で捕らえ新設GI競走第1回優勝を果たした。そして7月の寛仁親王杯決勝でも3着に入り、これらにより年間獲得賞金が上位(4位)になったことからKEIRINグランプリ09へ出場し3着となる。
2010年10月11日に奈良競輪場で開催された共同通信社杯秋本番の決勝において、新田祐大 - 山崎芳仁の3番手から抜け出し優勝、これにより年間獲得賞金上位としての最後枠(7位)でKEIRINグランプリ2010へ出場したが、またも3着となる。
2011年、東日本大震災により自宅が被害を受けたため、交流のあった岩見潤(三重・71期、引退)を頼って松阪に避難し練習を続けることになった。のちに結婚した妻とはこの松阪で知り合ったこともあり、登録地は福島県のままながら、新たな練習地である松阪競輪場を主な活動拠点とすることとなった(そのため、選手登録消除されるまで選手プロフィールではホームバンクが松阪競輪場とされていた[4])。そして8月の全日本選抜競輪決勝では逃げる山崎芳仁の後位から最終バック過ぎに番手捲りを放ち、そのまま押し切って優勝し、同年末のKEIRINグランプリ出場権を獲得。なおKEIRINグランプリ2011は6着となっている。
S級S班のメンバーとしては2008年に創設されてから2012年まで連続して維持し続けていたが、2012年GI決勝に勝ち残ったのが競輪祭の決勝9着のみにとどまり、年間獲得賞金も上位に届かなかったため、KEIRINグランプリ2012への出場が叶わず、2013年より降格しS級1班格付けとなった。さらに12月のKEIRINグランプリ直前、自身が理事長を務めていたSS11が、オリンピックや選手年金への対応の不満から選手会を脱退して選手会に代わる新団体として活動することを表明したことで、選手会を始め関係各所、選手らから猛反発、猛批判を浴びてしまう。結局SS11はわずか1か月足らずで解散することとなり、いかなる処分も受け入れるとして謝罪するも、選手会からは混乱を招いたことに対する責任を取らされ、伏見も2014年5月から半年間の斡旋自粛(事実上の斡旋停止)処分を受け、半年間の自粛欠場状態となった(実際は8月から解禁された)。
2015年7月、2年ぶりにGIレース決勝戦(寬仁親王牌)に進出、結果は8着で終わった。
2019年10月21日、京王閣競輪GIII3日目第7レースで1着となり、通算34人目となる通算500勝を達成した(デビューから25年目での達成)[9]。規程に基づき、2020年1月24日にいわき平競輪場で通算500勝表彰式が執り行われた[10]。
2022年上半期はS級2班に降格したが、下半期にはS級1班へ復帰。
2025年9月18日、立川競輪場のF1「山口健治杯」の最終日12R・S級決勝で1着となり、3年10カ月ぶりとなる優勝。またこの勝利で通算600勝を達成した[11]。
2026年7月18日、出走していた松阪FI最終日第12レース(決勝)で、最終周回の2センターで前団の大きなあおりを避けたところ、外柵に激突[12]。事故発生後に松阪市内の病院に緊急搬送され治療を続けていたが、7月19日10時15分、頸髄損傷のため死去した[13][14]。50歳没。
同時期に開催されていたサマーナイトフェスティバルでは、開催地の高知競輪場で献花台が設置されたほか、場内で黙とうが行われた[15]。また、地元のいわき平競輪場のほか前橋競輪場などでも献花台が設置された[16][17]。7月23日には通夜が、翌24日には告別式が松阪の斎場で、それぞれ執り行われた[5]。
2026年7月23日付で選手登録を消除された[18]。通算戦績は、2473戦619勝、優勝75回(うちGI5回、GP2回)。
レーススタイル
デビュー後すぐにダッシュとスピード、持久力を発揮し、後続選手に追い込まれるリスクを承知で、先頭で風を切り続けた大型先行選手として名を馳せた。特に、同時期に同じく先行選手として活躍した村上義弘との力比べは名勝負の連続となった。晩年は追い込みに戦法を変えるも、生涯最後の競走参加となった2026年7月16日の松阪FI初日特選では単騎で捲りで1着となるなど脚力は健在であった。また、スピード化が進む近代競輪の礎を築き、世界に挑む心得やノウハウも残した[19]。
主な獲得タイトルと記録
- 2001年 - オールスター競輪(岐阜競輪場)、KEIRINグランプリ01(平塚競輪場)
- 2004年 - 日本選手権競輪(静岡競輪場)
- 2007年 - KEIRINグランプリ07(立川競輪場)
- 2008年 - オールスター競輪(一宮競輪場)
- 2009年 - SSシリーズ風光る(岸和田競輪場)
- 2011年 - 読売新聞社杯全日本選抜競輪(岸和田競輪場)
- 年間賞金王2回 - 2001年、2007年
- 年間獲得賞金2億円突破 - 2001年
- 2014年7月時点、通算獲得賞金15億82万3843円
- 通算500勝達成(表彰対象) - 2020年1月24日
- オールスター競輪連続出場記録 - 27回※第40回より第66回まで[20]
- 日本選手権競輪連続出場記録 - 26回(小倉竜二に次ぐ歴代2位タイ)※第51回より第76回まで[21]
- 競走得点過去最高記録 - 131.14点[22](2009年 GI・第25回読売新聞社杯全日本選抜競輪)
エピソード
- 2004年の銀メダル獲得後、長塚、井上と共に「競輪場に小池栄子」のテレビCMに出演した。
- 2009年6月5日放送のいきものがかり吉岡聖恵のオールナイトニッポンのスタジオを見学に訪れ、5分ほどではあるがパーソナリティの吉岡聖恵とトークをした。この中で伏見は、いきものがかりのライブをたびたび訪れていて、この年のツアーの郡山市や厚木市などでの公演に参加したこと、レース前には『気まぐれロマンティック』を聴いて気持ちを高めていることなどを明かした。また、前日の6月4日放送のリポビタンDチャレンジ スポーツリアルトーク(ニッポン放送)でのマイチャレンジソングでも『気まぐれロマンティック』について語っていた。いきものがかりは、伏見の殉職に際し吉岡と水野良樹の連名で追悼コメントを発表している[23][24]。
- JKAと女性ファッション誌のコラボ企画「09'KEIRINイケメングランプリ」では、準グランプリに輝いた(グランプリは石丸寛之)[25]。
- 風貌からつけられたニックネームは、「ゴージャス松野」。
- 麻雀が得意[26]。
- 2015年4月10日(ちょうど出逢って2年目)に、伏見が拠点を置いていた松阪市在住の20代の一般女性と結婚していたことが翌月の5月に明らかとなった[27][28][29]。
- 酒は基本的に飲めず、かつては本人曰く「ビールをコップ1杯飲んだだけで頭が痛くなる」ほどの下戸だったが、俵信之を初めとする北日本の先輩に飲み会で鍛えられた結果「多少は飲めるようになった」という[30]。
- ユニフォーム広告(2023年12月で一旦制度廃止)では、ベネクス、ラ・ピスタ新橋、大正カラーなどがスポンサーとなっていた[31]。
- 生前は「自身によくなついていた」という内田慶がレース中の事故で殉職したことにショックを受けていたが、くしくも伏見自身もレース中の事故により殉職した[8]。
脚注
- 1 2 “選手プロフィール > 伏見俊昭”. KEIRIN.JP. JKA (2026年7月21日). 2020年9月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年7月21日閲覧。
- 1 2 “【競輪】伏見俊昭選手が死去…アテネ五輪チームスプリント銀、グランプリ2度制覇”. スポーツ報知. 報知新聞社. 2026年7月19日. 2026年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2026年7月20日閲覧.
- ↑ “私を支えた「食」:農林水産省”. www.maff.go.jp. 農林水産省. 2023年7月4日閲覧。
- 1 2 3 “選手プロフィール > 伏見俊昭”. KEIRIN.JP. JKA (2026年7月21日). 2026年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年7月21日閲覧。
- 1 2 “伏見俊昭さんの通夜しめやかに…新田祐大、脇本雄太、浅井康太、井上昌己、井口佳典、ウド鈴木らが参列”. スポーツ報知. 報知新聞社. 2026年7月23日. 2026年7月24日閲覧.
- ↑ 【伏見俊昭と宮杯】仲間の初制覇、時代の移り変わり、そして競輪史に残したい一戦…多くのドラマを生んできた高松宮記念杯競輪 - 伏見俊昭 - netkeirin 2022年5月29日
- ↑ 伏見 俊昭 - INERVIEW | KEIRIN + SS 2011
- 1 2 【伏見俊昭のオールスター競輪】GI初優勝の歓喜と仲間を失う悲哀。オールスターで経験した悲喜 - 伏見俊昭のいつだってフロンティア 競輪コラム - netkeirin 2021年8月9日
- ↑ “伏見俊昭選手が通算500勝達成!!”. KEIRIN.JP (2019年10月21日). 2019年10月23日閲覧。
- ↑ “伏見俊昭選手の通算500勝表彰式が開催されました!!”. KEIRIN.JP (2020年1月27日). 2020年1月27日閲覧。
- ↑ “【立川競輪 山口健治杯】伏見俊昭が3年10カ月ぶりのVで600勝達成「出来すぎです」”. スポニチ Sponichi Annex (2025年9月18日). 2025年10月12日閲覧。
- ↑ 当該レースの映像(ダイジェスト)
- ↑ “【競輪】伏見俊昭選手が事故死 50歳 18日のレースで外柵に激突 アテネ五輪銀メダリスト”. 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞東京本社. 2026年7月19日. 2026年7月19日閲覧.
- ↑ “伏見俊昭選手が死去 KEIRINグランプリ2度制覇、18日の松阪競輪で落車”. netkeiba.com. ネットドリーマーズ (2026年7月19日). 2026年7月19日閲覧。
- ↑ “【競輪】事故死した伏見俊昭さんを悼み高知競輪場に献花台を設置”. デイリースポーツ. 神戸新聞社. 2026年7月20日. 2026年7月20日閲覧.
- ↑ “【競輪】地元スター伏見俊昭さんを悼み いわき平競輪場にも献花台”. 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞東京本社. 2026年7月21日. 2026年7月21日閲覧.
- ↑ “【競輪】レース中の事故で死去した伏見俊昭さんの献花台22日から3日間設置 選手ら黙とう/前橋”. 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞東京本社. 2026年7月21日. 2026年7月21日閲覧.
- ↑ “【選手登録消除】19日に急逝した伏見俊昭さんら4名/JKA公示”. netkeiba.com. ネットドリーマーズ (2026年7月24日). 2026年7月24日閲覧。
- ↑ 日刊スポーツ大阪本社版、2026年7月20日付16面
- ↑ オールスター競輪 伏見俊昭「Legend of Keirin」 2023年8月14日
- ↑ 【伏見俊昭と競輪ダービー】兄弟愛を感じた村上兄弟のワンツー、そして有坂直樹のヤジ「伏見がまくり不発で散々だったなぁ」 - 伏見俊昭のいつだってフロンティア 競輪コラム - netkeirin 2023年4月29日
- ↑ 出走表 - 大垣競輪場 12R (初日) 「読売新聞社杯全日本選抜競輪」 競輪ステーション
- ↑ “いきものがかり、伏見俊昭さん追悼「デビュー初期、毎回のように客席に」「屈強なる紳士でした」”. 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞東京本社. 2026年7月20日. 2026年7月21日閲覧.
- ↑ X. いきものがかり(@IKIMONOofficial). 2026年7月20日. 12時9分、2026年7月20日閲覧。
- ↑ “競輪界のイケメン”たちが自慢の肉体美をチラ見せ! - ライブドアニュース
- ↑ 第二回麻雀トライアスロン 雀豪決定戦 二次予選レポート
- ↑ アテネ五輪銀の競輪伏見が結婚、三重在住一般女性と - 日刊スポーツ、2015年5月7日
- ↑ ヤマコウが新婚伏見を直撃取材/松阪 - 日刊スポーツ、2015年5月7日
- ↑ アテネ五輪銀メダリスト・伏見が結婚 お相手は20代の一般女性 - スポーツニッポン、2015年5月8日
- ↑ 【伏見俊昭と北日本】誰よりも厳しかった 最恐ボス・俵信之のおかげで手にした数々の勝利 - netkeirin・2021年11月30日
- ↑ 【伏見俊昭の三大ニュース】2023年のNo.1ニュースは、大好きな麻雀であの大物芸能人と対局した夢のような1日! - 伏見俊昭のいつだってフロンティア(netkeirin連載コラム)、2023年12月31日
関連項目
外部リンク
- 現役時代戦績 - KEIRIN.JP
- 伏見俊昭 PEAKS
- 伏見俊昭オフィシャルウェブサイト
- 伏見俊昭「Legend of Keirin」
- 伏見俊昭のいつだってフロンティア
- 伏見俊昭 (@tfushimi) - X(旧Twitter)
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