住吉義則

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住吉 義則
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府泉佐野市
生年月日 (1964-10-10) 1964年10月10日(60歳)
身長
体重
183 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手、三塁手
プロ入り 1990年 ドラフト1位
初出場 1991年5月10日
最終出場 1993年7月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

住吉 義則(すみよし よしのり、1964年10月10日 - )は、大阪府泉佐野市出身の元プロ野球選手(内野手)。

現在は少年硬式野球チーム「ヤングKIXベースボールクラブ・21」の監督を務めている。

来歴・人物

箕島高では、1982年の春の選抜に捕手として出場[1]。準々決勝に進むが、エース榎田健一郎を擁するPL学園高に0-1で惜敗。チームメートに控え投手の吉井理人、左翼手の畑山俊二がいた。

箕島高では定時制に通っていたため、高校野球引退後は東京・竹早高(定時制)に転校のうえ、社会人野球のプリンスホテルに進む[1]。5年間ブルペン捕手を務めた後に内野手に転向する[1]。左腕エース橋本武広らを擁し1989年の都市対抗野球に出場。石井浩郎とともに打線の中軸となり、大昭和製紙北海道との決勝に進む。この試合では適時打を放つなど活躍、チームの初優勝に貢献した。1990年の第31回アマチュア野球世界選手権では全日本の四番打者を任される[1]。同年の社会人ベストナイン(一塁手)にも選出された。

1990年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから1位指名を受け入団[1]。

古屋英夫の背番号5を引き継ぎ、即戦力と期待されて1年目から一軍に定着。同年はオープン戦で打撃ではアピールできたものの期待された三塁手として送球難で開幕一軍を逃す。主に一塁手として6試合に先発出場するが、オープン戦で見せた打撃も鳴りを潜めその後は伸び悩む。新人の1991年8月9日には、捕手2人が負傷退場したため、内野手の住吉が急遽捕手として出場した[2]。

1994年以降は一軍出場は無く、1995年11月に自由契約となり千葉ロッテマリーンズに移籍[1]。一軍出場は叶わず翌1996年限りで現役引退[1]。

1997年~2000年まで「泉佐野リトルシニアリーグ」のヘッドコーチを務め、2001年~2002年までは監督を務める。

2003年に少年硬式野球チーム「KIXベースボールクラブ・21」を結成し、監督に就任。2005年にはNPO法人「KIXスポーツクラブ21振興会」を設立し、理事長に就任。

2009年8月に開催された「第14回IBAF AA世界野球選手権大会」日本代表のコーチを務めた。

詳細情報

年度別打撃成績

年

度
球

団
試

合
打

席
打

数
得

点
安

打
二
塁
打
三
塁
打
本
塁
打
塁

打
打

点
盗

塁
盗
塁
死
犠

打
犠

飛
四

球
敬

遠
死

球
三

振
併
殺
打
打

率
出
塁
率
長
打
率
O
P
S
1991 日本ハム 27414027100820000100121.175.195.200.395
1992 2331000000000000011.000.000.000.000
1993 1110000000000000010.000.000.000.000
通算:3年 30454437100820000100142.159.178.182.360

年度別守備成績

年
度
捕手一塁三塁外野
試

合
刺

殺
補

殺
失

策
併

殺
捕

逸
守
備
率
企
図
数
許
盗
塁
盗
塁
刺
阻
止
率
試

合
刺

殺
補

殺
失

策
併

殺
守
備
率
試

合
刺

殺
補

殺
失

策
併

殺
守
備
率
試

合
刺

殺
補

殺
失

策
併

殺
守
備
率
1991 1100001.00010.00010353021.000100001.000320001.000
1992 -100001.000--
通算 1100011.00010.00011353021.000100001.000320001.000

記録

背番号

  • 5 (1991年 - 1993年)
  • 32 (1994年 - 1995年)
  • 53 (1996年)

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、303ページ
  2. ↑ 朝日新聞1991年8月10日21面

関連項目

外部リンク