出雲国造

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出雲国造家
千家氏
北島氏
家紋
亀甲 に 剣花菱(きっこう に けんはなびし)
本姓 出雲氏嫡流
家祖 天穂日命
種別 神別(天孫)
社家
華族(男爵)
出身地 出雲国
主な根拠地 出雲国熊野大社
天日隅宮
島根県
著名な人物 千家国麿
凡例 / Category:日本の氏族

出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)は、出雲国(現在の島根県東部地方)を支配した国造。

その氏族の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いだ。

概要

祖先

天菩比命之子、建比良鳥命 【此出雲國造无耶志國造上菟上國造下菟上國造伊自牟國造津嶋縣直遠江國造等之祖也】 — 古事記
天照大御神(アマテラスオオミカミ)

須佐之男大神(スサノオオオカミ)
天穂日命(アメノホイノミコト)
皇祖天神の勅により天日隅宮の祭主となりしより、自後世々神火を継承し、畢生潔敬を異にする。継承にあたりては一昼夜を出でぬうちに、其の子神魂社に詣で神代霊器を用い神火を継承するを以って国造と為す。
天夷鳥命(アメノヒナトリノミコト)

また、武夷鳥命(タケヒナトリノミコト)、武日照命(タケヒナテルノミコト)、建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)、また、武三熊大人(タケミクマウシ)、大背飯三熊之大人(オホセヒノミクマノウシ)、出雲伊波比神(イヅモイハヒノカミ)、伊毘志都弊命(イヒシツヘノミコト)、阿太賀建熊命(アタカタケクマノミコト)と云ふ。 — 出雲国造伝統略

氏族

出雲氏(いずもうじ、姓は臣)は、国譲りに応じた大国主神を祀るため、天日隅宮(あめのひすみのみや=出雲大社)の祭祀を担った天之菩卑能命(あめのほひのみこと)を始祖、その子神の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を第2代とする。初めて出雲国造に任じられたのは『先代旧事本紀』(国造本紀)によれば第12代宇迦都久怒からであるが、千家家の伝承をまとめた『出雲国造伝統略』によれば第17代出雲宮向からであるという。後裔に土師氏が出ており、武蔵国造、阿波国造、伊甚国造、新治国造、上海上国造、下海上国造、千葉国造、山氏と同族。

第10代崇神天皇の条には、国造の祖の飯入根が兄の出雲振根に独断で神宝を朝廷に献上し、これに憤慨した出雲振根は、弟を水浴に誘って偽の刀とすり替えて騙し討ちした。天皇は吉備津彦と武渟川別を派遣して出雲振根を誅殺してしまったとされ、『国造本紀』には飯入根の子が出雲国造に任命されたと伝わる記事が見られるように、上古の出雲地方を中心に大きな勢力を誇った出雲氏が、ヤマト王権下において出雲国造に任ぜられたものである。

第12代景行天皇の条にも、小碓命(をうすのみこと、倭建命)が地名を名に負う出雲建(いずもたける)を殺した話[注 1]が見える。

国造制は7世紀半ばの大化の改新以後、全国的に廃止される方向に進み、『続日本紀』によれば第43代元明天皇の和銅元年(708年)に、忌部宿禰子首が新たに出雲国守に任ぜられた。これは、国造制から律令に基づく国郡里制に支配体制が移行したことを示す。しかし、出雲国造は紀伊国造などとともに、ごく一部の例外的な氏族として国造の称号存続を許され、『続日本紀』の第42代文武天皇2年(698年) 三月の条に、「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三親等以上の親族を続けて任用することを許す」との詔が記され、また、『類聚三代格』に「慶雲三年(706年)以来令國造帯郡領」とあって、律令制下における出雲氏は、延暦17年(798年)に解かれるまで、引き続き出雲国造を名乗るとともに、出雲国東部にあたる意宇郡(おうぐん)の郡司の職に任じられていた。

意宇郡司職を支族に譲った後の出雲氏本家は、意宇郡から出雲郡杵築郷(現在の出雲大社周辺)に拠点を移し、国造本拠に鎮座した元々の国造奉斎社である意宇の熊野大社と併せて行っていた出雲大社における祭祀に専念するようになったと考えられている。その後、現在に至るまで、出雲大社の祭祀長を示す称号として出雲氏の子孫が出雲国造を世襲している。また、国造の代替わりの儀式である「火継式」に際しては、熊野大社と神魂神社にて儀式が行われ、現在でも熊野大社との関係を維持している。

北島氏より枝分かれして、地方に複数の出雲大社所縁の神社が造られた。祭祀継承は、『古事記』・『日本書紀』と『出雲国風土記』、千家家が伝える系譜書『出雲国造伝統略』[1]に記されている。

本拠

国造の本拠は出雲国意宇郡であったと見られる。歴代の国造にも淤宇宿禰の名が見えており、律令時代も意宇郡司に任命されている。

支配領域

国造の支配領域は当時出雲国と呼ばれた地域、後の律令国の出雲国に相当する。

氏神

国造の氏神は出雲国一宮の熊野大社。祭神は櫛御気野命とされ、須佐之男命の別名とされている。

関連神社

国造家の分裂

出雲国造家は、杵築大社の神職であるとともに、中世には鎌倉幕府の御家人として在地領主的な性格を有していた。承元2年(1208年)、出雲孝綱は出雲国神魂社領大庭・田尻保の地頭職を得ており、建長元年(1249年)には「将軍九条頼嗣袖判下文」によって出雲義孝に同地頭職が安堵されている[2]。

下出雲義孝
可令早領知出雲国神魂社領大庭・田尻保地頭職事
右、承元二年九月六日孝綱給御下文之上、当知行無相違云々者、為彼職、守先例、可致沙汰之状如件、
建長元年十一月廿九日
— 「将軍九条頼嗣袖判下文」(『出雲国造北嶋家文書』「『出雲国造家文書』所収文書」17号)

出雲国造家の称号と出雲大社の祭祀職務は、南北朝時代に入るまで一子相伝されていたが、康永年間(1340年代)以降、千家氏(せんげし)と北嶋氏(きたじまし)の二家に分立し、それぞれが出雲国造を称するようになった。

南北朝時代の第54世国造・出雲孝時(いずも のりとき)には4人の子息があった。長男は出家し、次男の清孝が第55世国造となったが、病弱のため在職8年で死去した。その後、三男の孝宗を祖とする千家家と、四男の貞孝を祖とする北嶋家が成立した[3]。

従来伝えられてきた経緯によれば、孝時は六郎貞孝を寵愛し、国造を継がせようと考えていたが、孝時の母である覚日尼(塩冶頼泰の娘)から、兄である三郎清孝をまず後継者とすべきであると説得され、清孝を後継者としたという。清孝は病弱であったため、弟の五郎孝宗を代官として職務の多くを任せ、康永2年(興国4年/1343年)に国造職を孝宗へ譲った。これに対して貞孝は、自らが国造職を継ぐべきであるとして反発し、神事の停止や社殿への籠城に至る紛争となった。

この分立に至る経緯については、貞治4年(1365年)10月の「国造北嶋資孝代時国支状案」と、その副進系図であったと考証されている「国造出雲氏系図」が重要な史料となっている[3]。

「秋上時国言上状本家一途」
「貞治四十月十日
□□□□上支状案文」
出雲国造兼杵築大社神主資孝代時国謹支言上、
欲早伯父五郎孝宗者為五体不具□□□間、更依不可居神職、不受其譲、孝時孝宗親父、死去時、荷入棺、拾遺骨、以触穢不浄身、閣神火・神水、旧記・差図等、数十代相続資孝、奉掠上聞上者、被棄捐孝宗奸訴、任旧記并御教書等、致社壇造営、守文永御結番帳、令勤仕三月会御神事等間事
副進
一通系図
一巻御教書等案、当社可造営由事
一巻侍所、于時細川奥州、御奉書、并吉田肥前房厳覚注進状等案、孝宗合戦罪科難遁事
一巻御教書案可致御祈禱由事
自余依繁且備進之、依繁一通備之、将亦訴陳同前、
右当社者、天神七代末、地神五代始、伊奘諾・伊奘冊尊天地開闢之刻、二神合誓、先生州国後生一女三男、其内奉号素盞烏尊者、則今大社大明神、本朝無双御事也、此尊特為異国降伏・朝家泰平、故社壇高広而可奉安置神体之故、或号大社、或称矢倉宮者、尤此謂也、因茲公家・武家共以、御崇敬不浅也、而回禄之時者、毎度被成下御教書、任旧記・差図被造営之条、異于他之処、去文永八年正月二日、亦社壇炎上訖、為遂造営、度々捧訴状雖歎申之、不達上聞、徒送九十余廻星霜之条、且天下之重事、社家愁歎何事如之、次三月会祭礼事、如去文永八年御結番帳者、為国中巡役可致其沙汰之旨、載而炳焉也、而近年寄縡於世上闘乱、于今退転之条、神慮難測者乎、爰件国造・神主両職者、自曩祖宮向宿祢人体之始至于資孝卅三代、皆止亡父喪礼之儀、打越于神魂社、隔十余里、令相続神火・神水之時、国衙案主・税所・神子・神人等令来集、奏舞楽、遂次第之神役、令一人相伝神職也、而彼孝宗五体不具、者親父孝時死去之時、荷入棺、拾遺骨而触穢不浄之間、不可奉近付于神体之条無其隠、加之、去貞和二年八月、於当社領十二郷、本所雑掌与孝宗致合戦之間、就于厳覚注進、於侍所被経御沙汰、孝宗罪科難遁之由、御奉書等備而明鏡之処、孝宗為重科之身不恐神慮、不憚上裁、掠申子細之条、無謂之上者、早被棄捐彼奸訴、資孝受神火神水、帯旧記・差図并神宝等、為当職之上者、可致造営神事沙汰之由預御裁許、弥為致天下安全・武運長久之御祈禱、粗言上如件、
貞治四年十月日
— 「国造北嶋資孝代時国支状案」(『出雲国造北嶋家文書』「『出雲国造家文書』所収文書」55号)

事態を受け、守護代の吉田厳覚は清孝・孝宗側と貞孝側の双方に働きかけ、年間の神事・所領・役職などを分割する和与状を成立させた。康永3年(興国5年/1344年)6月5日以降、孝宗を祖とする千家家と貞孝を祖とする北嶋家が、それぞれ出雲国造として並立することとなった。

この両家の分立については、近世以降に一般的にみられる本家・分家関係と同一視することはできず、中世武家社会における「家」の形成と分立を背景として理解する必要があるとされる。出雲国造家が神職であると同時に御家人・地頭としての性格を有していたことも、その歴史的前提として指摘されている[2]。

分立後も、千家・北嶋両国造家はそれぞれ国造として祭祀・社務に奉仕し、必要に応じて共同して行動した。応永27年(1420年)の「国造千家直国・同北嶋幸孝連署注進状」では、神剣に関する守護京極氏側からの照会に対し、千家直国と北嶋幸孝が連署し、両家で祈祷を行う旨を京極氏奉行所に報告している[3]。

「応永廿七年御神剣糸切レ刃カケ注進」
謹注進仕候、
抑去二月十五日、去年杵築大社御奉納御剣拝見之処、御鞆巻糸切、刃三ケ所少折、鞘引少々候、希代事候之間、急度注進仕候、仍奉致天下安全御祈禱之精誠候、以此旨可有御披露候哉、恐惶謹言、
応永廿七年卯月五日北嶋国造幸孝
千家国造直国
御奉行所
— 「国造千家直国・同北嶋幸孝連署注進状」(『出雲国造北嶋家文書』「新出北嶋家文書」8号)

享禄2年(1529年)の「国造千家高勝覚書写」によれば、日御崎社との所領争いに際しても両国造家は共同して対応している。「大谷たて石」を境とする社領の境界について、出雲守護京極高詮の当国知行時に定められた境界が維持され、日御崎社側の訴えが退けられると、両国造は京極氏に御礼の祈祷を行った[3]。

「享禄弐年五月千家国造高勝之覚書
杵築・御崎堺目之事」
「国造高勝之覚書」
杵築・御崎堺目の事、上代より黒田をのゝなた大谷たて石をさかひ候て、両国造知行仕候、能仁寺殿様当国御知行之始に、御崎よりそのむかし、度々境の公事に申まけ候古文書を出し、さかへめの事訴訟雖申候、其理なきニよつて、つゐに御沙汰にのせられす候、其時国造ヘ弥さかへめ安堵の御判形を、能仁寺殿様より明徳三年八月一日ニ下給候て、国造施面目候訖、其後持清様御代に、又御崎より能仁寺様の御時、沙汰に申まけ候古文書を出し、当知行のよし色々申掠、堺目の制札を申下し候て、さかへめにたて置候事、文安四年八月、次の康正弐年七月及両度候、然を両国造より御崎にいはれさる仕事之由申候処、御崎より色々京都へ両国造をうつたへ候て、尼子殿江御奉書を取付候て、重尼子殿より制札申請候てたて置候を、両国造より京都へ以使者、彼堺目上代より当知行之旨、殊能仁寺殿様御入国以来、弥当知行無相違、数通の御判形懸御目候処、即被聞召分候て、両国造もとのことく堺目理運仕候、其時の上意にハ、御崎より知行之由就申候、御成敗をも之儀、堺の制札まて被遣候キ、只今両国造の証文を被御覧候て、被聞召分之由、上意被仰出候、御崎の事者能仁寺殿様御入国之刻御沙汰の時、いはれさる事ニ存候て、反古ニ成候文書を又出し、上意を掠申出し候事、前代未聞曲事之由被仰出候、其時の両国造の小取次者、平田のちかき多賀安藝守親父多賀次郎左衛門尉清忠にて御入候、上の御取次者中務少輔殿様御取次候て、宝生寺殿様より康正三年三月九日に堺目安堵の御判形被下候、巨細之趣
中務少輔殿様の御制文に相見ヘ候、いまに其筋目の堺当知行無相違事候、然を永正七年三月に又御崎より、彼反古ニ成候文書を数通出し、堺目の制札を申請たて置候、其時与州様江両国造より当知行の数通の証文、懸御目候て就申、即被聞召分、御崎の制札ひかせられ候、世以無其隠候処、又当年廿ケ年めに御崎より此方知行分押領仕候、迷惑の次第候、両国造事者、両度の御沙汰に理運仕候、代々の御判形の筋目を申事候、惣別両国造の証跡共綸旨・院宣・公方様御判形等古文書共、其数を不知、所持仕候へ共、簡要能仁寺殿様御入国以来、近年まての御判形を本に懸御目、此上御不審あるましく候哉、御崎にハ不知行文書計を出し候て、毎事依申前代も度々沙汰に落候、毎々御崎よりか様ニ不謂儀を仕出し候ニよつて、事ゝ社家中不和合候、両国造の事を御当方様代々以御下知、堺目黒田をのゝなた大谷たて石知行仕事候間、只今とても其筋目無相違可被仰付候、弥国家安全御武運長久之御祈禱、両国造一同可抽精誠候、
享禄弐年五月五日国造高
— 「国造千家高勝覚書写」(『出雲国造北嶋家文書』「新出北嶋家文書」24号)

天文18年(1549年)の「杵築大社遷宮入目注文」には、遷宮に際する「両国造しやうそくの事」など、両国造に関する事項が詳しく記され、文末には両家が相談の上で文書を作成したことを示す記述がある[4]。

就御遷宮入目之事
御神御装束之次第
一、御かふり、同はこ共ニくろ地なり、
一、御そくたひのあや二たん、かないろ
一、御かさねもんしや一たん、いろあかし、
一、御したのかさね、御すわう
一、御さしぬきしろあや一たん、うらハこうはいのきぬなり、
一、御うへのはかま、御うきおり物
一、御おひ、こんとう
一、いしのおひ
一、大口せひかう
一、御わすれをひ
一、ひらを、むらさきこ
一、御しやく、同ひあふき
一、御かなおひ
一、御くつ、うらこんちのにしきなり、
一、御したふつ、からあやなり、
以上、
御神宝物
一、御手箱二つ、まきゑ有、御手足有、
一、御けんふたふり
一、御弓二張、同御しこ、御矢数十八、何れも真羽也、
一、御こき在之、
一、大つくゑ
一、御かけはん十せん
一、中の御はん廿一枚、此内一まひ広也、
一、御こしのしたてこしまきのきぬ一たん、はく過分ニ入也、
一、御神馬二疋、何れくら置なり、
一、ふさしりかひ、くれなひ、くミちかへにハ宝珠あり、同くつわ、手綱、はるひ
一、御こしの水引、同こしのつな、きぬ二疋なり、
一、御てんのかけきぬ三ひき
一、御てんかひ二つ
一、行幸御はしの御敷布、古殿より御しんさうの間四十五たん
一、うしかひのしやうそく、同牛御さひ敷あるへし、以上、
両国造しやうそくの事
一、そくたひのあや四たん、とくさ色也、
一、さしぬきのあや二たん、同うら有、色ハむらさきのきぬたるへし、
一、かさねのあや二たん、色ハむらさき、うら有、
一、かふり二つ、こちなし、
一、くつ二そく
一、したうす、しろねり二そく
一、しやく二つ、同ひあふき二本
一、なひゑ四つ
一、かなをひ二つ
一、大口ふたつ、せひかうなり、
一、はつひ二つ、以上、
上官しやうそくの事
一、たてゑほし廿かしら
一、しやうゑ廿八たん、ゑちこ布なり、
一、しやうへおひ十四すち、きぬなり、
一、したうす十四そく
一、ひあふき十四ほん
一、なひゑ廿八、以上、
御こしかき四人に、
一、たてゑほし四かしら
一、しやうへ八たん、ゑちこ
一、なひゑ八つ、以上、
神子廿四人ニ、
一、ちはやきぬ廿四ひき
一、神人六十人すひかん布百廿たん
一、おりゑほし六十かしら、此外たてゑほし四かしら
一、神馬両別当ニ、
一、たてゑほし二かしら
一、しやうへ布四たん
一、なひゑ二つ、以上、
一、にしきのひきの事
一、三けんの御とてやう廿四たん
一、御内殿御戸帳二重ニ八たん、此内からにしき四たん
一、御しとね六たん、からにしき
一、御てんかひのにしき二たん
一、御こしのにしき三十二たん、二重はり也、
一、弓(ふくろ四たん
一、御きねのふくろ四たん
一、御けん二ふりの袋、からにしき
一、こと・ひわのふくろ、からにしき一たん
一、御手箱のふくろ二たん
一、御神御かふりおけゆたん一たん
一、御くつふくろ一たん
一、うしかひの御しやうそく二たん
一、両国造こてふくめん六たん
一、御かとまらふと両社ヘ六たん
一、末社三社ヘ九たん
一、御神馬かさり二疋ニ六たん、同引まハしにきぬ二ひき、同しんつな布二たん
一、末社五社ヘの神馬在之、
一、六てやうしさたの庄より出候、出立ハかふりかりきぬなり、色ハくろし、
一、かくゑんちの事、むねあけ・御せんくう付而時儀可被申候、
一、別火ゑんたうの役きぬ出候、
一、御むねあけの儀式、大工可申上也、
一、御供儀式
一、両大工かふり・かりきぬ出立、色ハくろし、
一、御むねあけかさり物、大工より可申候、
一、かち又しろかね、大工御引手物在之、
以上、
如此両家相談候て認者也、
天文十八年二月十日佐草孝清 — 「杵築大社遷宮入目注文」(『出雲国造北嶋家文書』「新出北嶋家文書」36号)

天正7年(1579年)および天正8年(1580年)の「杵築大社遷宮入目注文」にも、両国造が共同して祭祀にあたったことが確認される。こうした文書から、千家・北嶋両家は分立後も祭祀や社領に関する問題について協議し、共同で対処する関係を継続していたことがわかる[5]。

このような両国造制は近世にも継承され、出雲大社の祭祀・社務を千家・北嶋両家が分担した。

明治時代には、千家氏・北島氏ともに華族に列して男爵として遇されたが、出雲大社自体は内務省神社局の傘下に置かれ、社格は官幣大社となった。一方、千家氏は出雲大社教(いずもおおやしろきょう)、北島氏は出雲教をそれぞれ主宰し、出雲大社の宮司は千家氏が担った。戦後、神社が国家管理を離れた後、出雲大社は神社本庁の別表神社となり、宮司は引き続き千家氏が担っている。

歴代出雲国造

※ 項名は『出雲国造伝統略』による。

千家家

出雲大社教管長

北島家

『出雲国造神賀詞』の奏上

奈良・平安時代の出雲国造は、その代替わりごとに朝廷に参向して『出雲国造神賀詞』を奏上する儀礼を行っていた。

儀式の次第は『延喜式』に記されており、それによれば、まず新しく国造となった者は朝廷に上って新任の式を行い、天皇から「負幸物」を賜る。その後、出雲に帰って1年間潔斎をした後、再び朝廷に上り、神宝・御贄を献って神賀詞を奏上する。そして出雲に帰ってまた1年の潔斎を行い、再び朝廷に参向して献物を捧げて神賀詞を奏上するという。

文献の記録では、霊亀2年(716年)2月に第23代国造出雲臣果安が奏上したとの記事(『続日本紀』)が初見であり、以後、天長10年(833年)4月の第35代国造出雲臣豊持による二度目の奏上(『続日本後紀』)まで15回の記録が見られる。しかしこれはあくまでも文献上であり、実際は最初の奏上が果安以前の国造であったり、最後の奏上が豊持以降の国造である可能性は高い。また神賀詞の内容や儀式の次第についても記録は延喜式制定時点のものであり、各代の奏上において同一ではなく、時代を追って変遷していると思われる。

奏上儀式の起源については、朝廷が古代の在地勢力による服属儀礼を、代表として出雲国造に命じて行わせたとする説や、出雲国造が自らの系譜を朝廷の神話体系の中に売り込むべく始めたとする説などがあり、定かではない。しかしいずれにしろ、この儀式は古代日本において他の国造に見られない出雲国造独特の儀式であって、記紀神話において出雲神話が非常に大きなウェートを占めていることや、国造制の廃止後も出雲国造が存続された理由とも切り離すことのできない儀式である。

なお、第84代国造千家尊祀は、国造を継いだ翌年の1948年(昭和23年)6月、宮中に参内して出雲玉造産の御統玉三種一連を献上し、古代以来の神賀詞奏上を行った。

火継式(神火相続式)

火継式は出雲国造が代替わりの際に行う儀式であり、神火相続式とも呼ばれる。

前国造が帰幽(死去)した際、新国造は喪に服す間もなく、ただちに社内の斎館に籠もって潔斎した後、燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりきね)を携えて、熊野大社に参向する。そして熊野大社の鑽火殿にて燧臼・燧杵によって火を起こし、鑽り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる。

その後、神魂神社において饗宴を受けた後、出雲大社に戻り、奉告の儀式を行い、火継式は終了する。この儀式にて鑽り出された神火はその後、国造館の斎火殿にて保存される。国造は在任中この火によって調理したものを食べるが、国造以外はたとえ家族であってもこれを口にすることは許されないという。

火継式の「火」は「霊(ひ)」であり、その火をもって調理されたものを食べることによって、天穂日命以来代々の国造の霊魂を自らの中に取り込むのだとされている。

新嘗会

新嘗会は、千家・北嶋両国造によって執行された重要な神事の一つである。近代以降は新嘗祭と称され、現在は11月23日に執行されているが、古くは毎年10月の中の卯の日に神魂神社で行われた[5]。

両国造は卯の日の2日前にあたる丑の日に杵築を出発して散斎に入り、翌寅の日には大庭に所在する千家・北嶋それぞれの国造別邸に到着した。卯の日の早朝には行水した後、神魂神社に参拝した。近世の万治3年(1660年)の『千家国造家日記』によれば、新嘗会では神魂神社への早朝の参拝をはじめ、諸神事を千家国造が先に行うことが慣例となっていた。出雲大社の通常の社務では千家・北嶋両国造が隔月で担当した一方、大庭の新嘗会には両国造がそれぞれ参向して祭儀を執行した[15]。

神事では、熊野神社の別火が熊野神社から切り出した火切板を両国造家に渡し、その板から神火を切り出す「火切神事」が行われた。国造は束帯を着して輿で神魂神社に参向し、本殿で御箸・玄酒を供えた後、祝詞を奏上した。続いて「歯固・百番の舞の儀」が行われ、歯固では土器に入れられた石を箸で口に入れて吐き出すことを3度繰り返した後、口を濯ぎ、一夜酒を飲んだ。その後、国造は榊を手にして百番の舞を舞った[16]。

神魂神社での祭儀のほか、国造別邸でも御釜神事・歯固・百番の舞などが行われ、国造相嘗の儀を経て、火切板に「新嘗会御火切年号月日」などが記された[16]。

新嘗会を史料上確認できる早い例として、延徳2年(1490年)2月15日付の「佐草泰信譲状」がある。譲状には、新嘗会の社役を勤めることを条件とする田地について、「右之田地者、従一頭国造之時、毎年新嘗会之社役相勤、国家之致御祈念、知行仕者也」と記されている[17]。

「一頭国造之時より」という表現から、15世紀末の段階で、新嘗会の由緒が千家・北嶋両国造家の分立以前に遡るものと認識されていたことがわかる[18]。

また、天文18年(1549年)成立と推定される「北嶋秀孝神火相続次第」には、火継神事について「万儀式何れも新嘗会の時之ことく也」「取行如新嘗会神事之時也」と記されている。天正2年(1574年)の「釜神祝詞」も伝来しており、16世紀には新嘗会の具体的な祭儀が確認できる[16]。

『出雲国造北嶋家文書』所収の「出雲国造新嘗会神事覚書写」は、新嘗会の式次第を詳しく記録した史料である。同文書では火切板が5枚とされ、後世の祭式で3枚とされるものとの相違がみられるため、新嘗会の祭式を検討する上でも注目される[18]。

出雲国造新嘗会御神事覚
一、毎年十一月二ツ目ノ卯之日、熊野大社火出初之神社におゐて、出雲国造執行之神代よりの遺法也、然処中古より大庭神魂神社におゐて執行有り、然共御火切板者、往古之通熊野山の御神木を伐調之、熊野別火職司之、当社下社人宮太夫ニ持せ、新嘗会之当日大庭之斎庭江遣者也、
一、御火切板五枚但杉歟檜歟、長サ三尺一寸五歩、厚サ一寸、幅四寸、
右五枚之板二分而
千家殿江二枚半
北嶋殿江二枚半
一、御火切フチ五本
右五本之フチ二分而
千家殿江弐本半
北嶋殿江弐本半
一、新嘗会之当日、宮太夫為招持之、両国造殿より御迎之御使者被遣候、其時当社別火方ヘ御音物有り、
千家殿方より御使者、
書状一通、上官之名、別火殿、当御玉串樽代一包・青銅五百疋・昆布一把・海苔一把・扇子一箱、五本入、
北嶋殿方より右同断、
右之使者、此地ヘ参候而者、宮太夫方ニ而飯を出ス、一汁一菜也、別火方より書状之返事調、此使者と同道させて、宮太夫ニ御火切板持せ遣者也、
一、毎年被遣候使者ニ者、大庭別火・伊奘諾之神主、両使共螺貝馬にて来ル、中間一人ツヽ、草履取一人ツヽ、以上、上下六人、
一、宮太夫大庭へ参着仕候得者、先大庭神主方ヘ罷出、御火切板旧例之通、宮太夫へ持参仕由申入ル也、神主方より両国造殿江宮太夫参着之由奏之、其より両国造殿ゟ宮太夫宿ヘ御使者被遣例極也、
一、御火切板者千家国造殿江指出、千家殿御火切御神事相済、次ニ北嶋国造殿江指出、古例也、
一、御火切御神事、斎庭江火切板持参いたし候得者、其儘雑煎ニ而御盃被為下候、宮太夫并供二人、大庭別火相伴ニ而、
右千家殿方ニ而茂、北嶋殿方ニ而茂、
一、御火切板指出、御火切御神事之時、宮太夫受取申御供料物、
一、御餅五枚、此餅白二斗也、餅寸尺火切板之通、但幅八寸、
一、いわひ二重、但ほしの餅三ツツヽ、其上蜜かん二ツツヽ、
一、御飯三膳、但白一升盛四ツ、角ヲ立て四ツノ角ニ魚四切置、是を手かへの魚と云、
一、鰤一本、但、艫嶋鰤、寸尺、火切板之通、
一、上酒二升、但、白木手樽ニ入、
一、并酒六升、但、白木手樽ニ入、
一、昆布壱把
一、のし壱把
一、掛鯛一掛
一、小鮪魚一把
一、穂稲三把
右大庭ニ而宮太夫受取、広間ニあらこもを敷、八足を置、飾そなへ置候得ハ、国造殿御出被成、しばらく祝詞有り、のつと相済、国造殿御入被成候得者、其儘火を切なり、火切相済候得者、其儘宮太夫神拝して、右そなへ候御供物不残取之、古例也、一、御火切御神事相済候得者、宮太夫ヘ御吸物ニ而御盃被下之、へぎ結ニかわらけ一ツ・鰤一切・豆腐二切醬油ニ而煎て、但此鰤ハ右御火切之御神事之時、御供ニ居り、宮太夫取り候、鰤之一之ひれの所を四寸四方切、此吸物ニ成候、古例也、
一、御吸物・御酒相済、国造殿ゟ宮太夫ヘ御祝儀被下之、
青銅一包、百疋、
箱折紙一束
扇子一箱、二本入、
〆
右千家殿ニ而茂、北嶋殿ニ而茂、被遣例極也、
一、宮太夫上下三人大庭ニて賄有り、浄音寺歟、神主方歟、別火方歟、又ハ秋上三郎右衛門方歟、亦者国造殿ゟ御賄被仰付事茂有り、
以上、
天正九年十一月日神主熊野大納言源倶家 — 「出雲国造新嘗会神事覚書写」(『出雲国造北嶋家文書』「新出北嶋家文書」89号)

出雲国造装束

出雲国造の神職装束で、他の神社にみられない伝統は下記の通り。

  • 正装は、黒袍(亀甲剱花菱)、小豆色奴袴(剱花菱紋)、冠(繁紋)懸緒 紫打紐[19]。
  • 礼装は、白袍、白差袴、冠黒羅繁紋垂纓、懸緒紙捻紫色[19]。
  • 冠の懸緒は紫色[20]。
  • 斎火殿神事では、羽織、袴、足袋を脱ぎ、白衣姿[21]。

系譜

実線は実子、点線(縦)は養子。櫛月命以下六世代は実態が三世代と見られるも推定不能[22]。
天照大神
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天忍穂耳命天穂日命1
 
 
 
 
 
瓊瓊杵尊
 
 
 
 
 
 
 
山幸彦武夷鳥命2
 
 
 
 
 
鸕鶿草葺不合尊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神武天皇伊佐我命3出雲建子命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
綏靖天皇津狭命4
[* 1]
建弥己呂命
[* 2]
美志印命
素賀国造祖[* 3]
神狭命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
安寧天皇櫛瓺前命5色多利姫
[* 4]
伊奈久比命
津島県直祖
身狭耳命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
懿徳天皇櫛月命6沙麻奈姫
[* 5]
五十根彦命
 
 
 
 
 
 
 
孝昭天皇櫛瓺鳥海命7毛呂寸美命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孝安天皇櫛田命8出雲久斯祢命美都呂岐命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孝霊天皇知理命9加布良古命志努命忍立化多比命比奈良珠命
新治国造祖[* 6]
比古曽乃凝命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孝元天皇世毛呂須命10相賀津彦命伊斯見命
筑紫出雲臣祖
須賀勢命
宍道直祖
兄多毛比命
无邪志国造祖[* 7]
弟武彦命
相武国造祖[* 8]
忍立毛比命
上海上国造祖[* 9]
建御狭日命
高国造祖[* 10]
息長命
[* 11]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
開化天皇阿多命小盾命荒田比宿禰
无邪志国造
大鹿国直
菊麻国造祖[* 12]
穴倭古直
大島国造祖[* 13]
大八木足尼
伯岐国造祖[* 14]
五十狭茅宿禰
(稚桜宮朝)
伊己侶止直
伊甚国造祖[* 15]
大瀧直
阿波国造祖[* 16]
兄狭日直
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
崇神天皇出雲振根11伊幣根命
[* 17]
甘美韓日狭命宇乃遅命
置部臣祖
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
垂仁天皇美止耶命
朝原臣祖
宇迦都久怒命12比須良比売命
息長命妻[* 18]
伊賀曽熊命
若倭部祖
野見宿禰
土師氏祖
伊己美足尼命
大智直祖
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
景行天皇比和耳命
品治部臣祖
襲髄命13飯持命乙布古命岐須美命美気姫[* 19]美尼布命
二方国造祖[* 20]
出雲笠夜命
島津国造[* 21]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本武尊岐多志古命
財部臣祖
来日田維穂命14久多命美多味命宇気某
後裔神門郡大領
古禰
建部臣祖[* 22]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
仲哀天皇三島足奴命15乙名久志媛命
[* 23]
櫛万呂足奴命
[* 24]
穂津古
刑部臣祖
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
応神天皇阿米咋命
[* 25]
意宇足奴命16大嶋古命
大嶋古臣[* 26]
布須
海部臣祖
佐比禰
額田部臣祖
迦具漏
吉備部臣祖
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
若野毛二俣王枳波美宮向足尼命17阿用足尼命
刑部臣祖
熊万呂命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大郎子布奈臣18阿由
[* 27]
菟臣
勝部臣祖
末奈臣
[* 28]
加佐
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乎非王布禰臣19多伎古志支古臣都牟伊波主
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦主人王出雲意波久20石足真木山臣久志万米
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
継体天皇出雲美許21千野忍伎臣
朝山氏祖
大万呂布支麻呂
若倭部臣
 
 
 
 
 
欽明天皇出雲叡屋22
 
 
 
 
 
敏達天皇出雲帯許23
 
 
 
 
 
押坂彦人皇子出雲果安24
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
舒明天皇出雲広嶋25出雲弟山26
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天智天皇出雲益方27出雲国上28出雲国成29
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
施基皇子出雲人長30出雲兼連32出雲千国31
 
 
 
 
 
光仁天皇出雲旅人33
 
 
 
 
 
桓武天皇出雲豊持34
 
 
 
 
 
嵯峨天皇出雲時信35
 
 
 
 
 
仁明天皇出雲常助36
 
 
 
 
 
光孝天皇出雲氏弘37
 
 
 
 
 
宇多天皇出雲春年38
 
 
 
 
 
敦実親王出雲吉忠39
 
 
 
 
 
源雅信出雲国明40
 
 
 
 
 
源扶義出雲国経41
 
 
 
 
 
佐々木成頼出雲頼兼42
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐々木章経出雲宗房43出雲兼宗44
 
 
 
 
 
 
佐々木経方出雲兼家出雲兼忠45
 
 
 
 
 
 
 
佐々木季定出雲兼経46出雲宗孝47
 
 
 
 
 
佐々木秀義出雲孝房48
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐々木義清吉田厳秀出雲孝綱49
 
 
 
 
 
佐々木泰清出雲政孝50
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
富田義泰塩冶頼泰高岡宗泰出雲義孝51
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高岡宗義塩冶貞清覚日尼
 
 
 
出雲泰孝52
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高岡師宗塩冶時綱塩冶高貞出雲孝時53平岡貞孝東孝景
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高岡重宗大熊宗泰出雲清孝54千家孝宗55北島貞孝55平岡高孝東時孝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高岡高重大熊氏貞千家直国56北島資孝56平岡経孝東景高
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大熊氏弘
 
 
 
松女
 
 
北島幸孝57平岡国経東貞頼高岡貞重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千家高国57北島高孝58平岡直経東高頼高岡重頼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千家持国58赤塚正時北島利孝59稲岡宣孝高浜良孝平岡直孝東安頼高岡重泰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千家直信59赤塚正国北島三郎北島雅孝60高浜友孝平岡直清東安通
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千家高俊60千家高勝62赤塚時信北島時孝北島秀孝61千家直勝63千家慶勝64
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千家豊俊61赤塚一信北島安孝千家義広65東慶澄
 
 
 
 
 
 
 
赤塚長信北島久孝62東貞信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千家元勝66北島広孝63佐草自清東延俊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千家尊能67北島晴孝64千家宗敏71千家尊房69千家直治70
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千家尊光68北島恒孝65千家豊昌73千家豊実74東貞通
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千家広満72北島兼孝66北島道孝67久山元孝千家俊勝75
 
 
 
 
 
 
北島直孝68八倉元理千家俊秀76
 
 
 
 
 
 
北島惟孝69八倉和孝千家尊之77
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北島明孝70北島起孝72北島従孝73千家尊孫78
 
 
 
 
 
 
北島宣孝71北島全孝74千家尊澄79
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北島脩孝75千家尊福80千家尊紀81
 
 
 
 
北島斉孝76千家尊統82
 
 
 
 
北島貴孝77千家尊祀83
 
 
 
 
北島英孝78千家尊祐84
 
 
 
 
北島建孝79千家国麿
 
 
北島大孝
系譜脚注
  1. ↑ (神武朝)
  2. ↑ 神武天皇朝改為直姓
  3. ↑ 神武天皇朝定賜素賀国造
  4. ↑ 彦湯支命妻
  5. ↑ 健飯勝命妻
  6. ↑ 成務天皇朝定賜新治国造(『常陸国風土記』)、崇神朝
  7. ↑ 成務天皇朝定賜无邪志国造
  8. ↑ 成務天皇朝定賜相武国造
  9. ↑ 成務天皇朝定賜上海上国造
  10. ↑ 成務天皇朝定賜高国造
  11. ↑ 景行朝供奉針間国賀茂郡山直祖
  12. ↑ 成務天皇朝定賜菊麻国造
  13. ↑ 成務天皇朝定賜大島国造
  14. ↑ 成務天皇朝定賜伯岐国造
  15. ↑ 成務天皇朝定賜伊甚国造
  16. ↑ 成務天皇朝定賜阿波国造
  17. ↑ 崇神朝被誅殺
  18. ↑ 印南別嬢掃床
  19. ↑ 大田田根子妻
  20. ↑ 成務天皇朝定賜二方国造
  21. ↑ 成務天皇朝定賜島津国造
  22. ↑ 景行朝
  23. ↑ 大神君祖大御食持命妻
  24. ↑ 応神朝為海部供奉
  25. ↑ 仁徳朝為大日下部供奉
  26. ↑ 仁徳朝為坂部供奉
  27. ↑ 居大倭国葛城
  28. ↑ 居意宇郡林依負林臣姓

脚注

注釈 

  1. 1 2 倭建命による出雲建殺しと出雲振根による弟殺しは、どちらも水浴に誘って偽の刀とすり替えて騙し討ちするもので、構造が共通している。
  2. ↑ 建保2年(1214年)の順徳天皇の下文(くだしぶみ)。記紀には見えない。

出典 

  1. ↑ 国立公文書館近代デジタルライブラリー「出雲国造伝統略」
  2. 1 2 藤森 & 岡野 2023, pp. 351–352.
  3. 1 2 3 4 藤森 & 岡野 2023, p. 352.
  4. ↑ 藤森 & 岡野 2023, pp. 352–353.
  5. 1 2 藤森 & 岡野 2023, p. 353.
  6. ↑ 出雲大社教教務本庁『出雲大社教布教師養成講習会』2016年8月10日、38頁
  7. 1 2 3 出雲大社教教務本庁『出雲大社教布教師養成講習会』1989年9月、38頁
  8. ↑ 出雲大社教教務本庁『出雲大社教布教師養成講習会』2016年8月10日、38頁
  9. ↑ 千家尊福『人事興信録』第4版 (1915年1月)
  10. ↑ 千家尊統 (日本語) - 『現代華族譜要』 (維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929年)
  11. ↑ 千家尊統 (日本語) - 『人事興信録』第14版 上
  12. ↑ 千家尊祀氏死去/出雲大社宮司 (日本語) - (四国新聞社、2002年4月18日)
  13. ↑ “典子さま、千家さんと結婚 出雲大社で”. 日本経済新聞. 2014年10月5日. 2014年10月7日閲覧. (日本語)
  14. ↑ 以下、歴代の名の読みは「歴史」 - (宗教法人出雲教、2019年11月17日閲覧)による。
  15. ↑ 藤森 & 岡野 2023, pp. 353–354.
  16. 1 2 3 藤森 & 岡野 2023, p. 354.
  17. ↑ 藤森 & 岡野 2023, pp. 354–355.
  18. 1 2 藤森 & 岡野 2023, p. 355.
  19. 1 2 『出雲大社教規定』(出雲大社教教務本庁、1983年6月9日、30頁)
  20. ↑ 『出雲大社教布教師養成講習会』 (出雲大社教教務本庁、平成元年9月1日、84頁)
  21. ↑ 『出雲大社』(学生社、昭和43年8月25日、208頁)
  22. ↑ 宝賀寿男「資料編 出雲氏族の系図(試案)」『古代氏族の研究⑯ 出雲氏・土師氏 原出雲王国の盛衰』(青垣出版、2020年。)

参考文献

関連項目

外部リンク