勝新太郎

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かつ しんたろう
勝 新太郎
勝 新太郎
(1964年末撮影)
本名 奥村 利夫(おくむら としお)
別名義 杵屋勝丸(二代目)
生年月日 (1931-11-29) 1931年11月29日
没年月日 (1997-06-21) 1997年6月21日(65歳没)
出生地 日本の旗 日本・千葉県千葉市
死没地 日本の旗 日本・千葉県柏市
身長 5尺6寸(尺貫法、約169.7cm)
血液型 O型
職業 俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範
ジャンル 映画・テレビドラマ・舞台・音楽
活動期間 1954年 - 1997年
配偶者 中村玉緒
著名な家族 杵屋勝東治(父)
若山富三郎(兄)
奥村真粧美(長女)
奥村雄大(鴈龍)(長男)
公式サイト 勝新太郎オフィシャルWEBサイト
主な作品
映画
『不知火検校』/『悪名』シリーズ
『釈迦』/『座頭市』シリーズ
『鯨神』/『秦・始皇帝』
『ど根性』シリーズ
『駿河遊侠伝』シリーズ
『雑兵物語』/『無法松の一生』
『兵隊やくざ』シリーズ
『酔いどれ』シリーズ
『鬼の棲む館』/『人斬り』
『顔役』/『片足のエース』(製作)
『子連れ狼』シリーズ(製作)
『御用牙』シリーズ
『王将』/『海軍横須賀刑務所』
『迷走地図』
テレビドラマ
『悪一代』/『二十歳ちがい』
『唖侍鬼一法眼』(製作・監督・出演)
『座頭市物語』
『痛快!河内山宗俊』
『新・座頭市』シリーズ
『警視-K』/『独眼竜政宗』
『鬼とばし』
受賞
日本アカデミー賞
会長特別賞
1997年
ブルーリボン賞
大衆賞
1963年『座頭市シリーズ』
その他の賞
キネマ旬報ベスト・テン
主演男優賞
1963年『座頭市シリーズ』・『悪名シリーズ』
ホワイトブロンズ賞
(地方新聞映画記者会賞)
主演男優賞
1963年『座頭市シリーズ』
日本映画記者会賞
特別賞
1963年『座頭市シリーズ』・『悪名シリーズ』
NHK映画賞
主演男優賞
1966年 男優主演者としてもつとも実績をあげた
毎日映画コンクール
男優演技賞
1971年『顔役』他
ゴールデン・アロー賞
(日本雑誌芸能記者会賞)
大賞
(受賞者:勝新太郎と勝プロダクション)
1972年『子連れ狼シリーズ』
署名
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勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年〈昭和6年〉11月29日 - 1997年〈平成9年〉6月21日)、本名:奥村 利夫(おくむら としお)。身長は5尺6寸(尺貫法、約169.7 cm)[注釈 1][1]、血液型はO型[2]。東京府東京市深川区出身[3]。日本の俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。

型破りなアンチヒーロー「座頭市」などの役柄で1960年代に日本国内で絶大な人気を博してトップスターへと登り詰め[4][5]、アジア諸国をはじめ海外でも一世を風靡する[6][7][8][9][10]。他に見られない庶民的親しみやすさ[5][11] から、「勝新」の愛称で親しまれた[5][12]。天衣無縫[13][14] で愛嬌があり[12][15]、豪放磊落[16] かつ自由奔放な[17] 性格でありながら、優しく繊細な一面も持ち合わせた[18]。自らの本心に忠実で自由な生き方は、時に世の常識的なルールから逸脱して物議を醸すこともあったが[17]、少年のごとき好奇心で映画の構想を抱き続け[17]、その破天荒な生涯[17] を通じて「不世出の俳優」[16] や公認の「役者バカ」[5][17][18] と評された。2014年に映画関係者や文化人を対象にした『キネマ旬報』のアンケートでは、好きな日本映画男優の第4位に選ばれた[19]。

生涯

生い立ち(1920年代 - 1954年)

生後まもなくの勝新太郎。
成人した勝新太郎(立者)と両親、兄の若山富三郎。

東京生まれ東京育ちが三代続く東京っ子で、三味線名門の家系を引く杵屋勝東治(本名:奥村実)は、15歳の時に関東大震災に遭い、一族郎党を東京深川洲崎から引き連れて千葉県千葉市吾妻町(現・千葉市中央区)へと都落ちし、そこで長唄や三味線の師匠として十数人の一族の生計を支え、同町の由緒ある料亭「常磐楼」の娘の家徳八重子と恋に落ちて結婚した。その後、若山富三郎(本名:奥村勝、二歳年上)と勝新太郎(本名:奥村利夫)が相継いで誕生する[3]。乳児期の勝は周囲から大変可愛がられたが、母方の祖母が着物の襟をはだけて直に肌の中に入れ、誰にも抱かせないようにして守り育てた。やがてその祖母が亡くなると、杵屋勝東治は家族を連れて元の居住地、東京の深川へと戻った。その頃、ようやくはいはいを始めたばかりの勝は、すでに強い自立心と冒険心を見せ、周囲の人々を楽しませる個性的な片鱗をのぞかせていた[3]。

慣わし通り、数え年6歳の6月6日から三味線を習い始めた[20]。実家も長唄の家元であったが、習慣に従い他所の師匠のもとへ通わされた[21]。しかし本人は三味線の稽古を「女のようで嫌だ」と嫌悪し、稽古をサボって両親を誤魔化すなど、全く身が入らなかった[21]。その一方で、勝と兄の若山は物心つく頃から大のチャンバラ好きで、大変な腕白であった[21]。同輩から軽んじられるのを嫌って反抗を重ねたほか、喧嘩の腕も非常に強かったことから、二人は町内でも手を焼く鬼っ子として知られていた[22]。

1943年、法政中学校に入学するが、翌年に疎開のため中退[1]。13歳の時に母親とともに日光へ疎開した勝は、今市中学校への入学を予定していた。ところが、東京出身であることを理由に同校の番長格から呼び出され、決闘の末に勝利する。しかし、その後の紛争を避けるために入学を断念し、家で寒さに弱い母を助け、薪拾いや炊事などの家事を一切切り盛りして過ごした[21][23]。

戦後、東京へ戻った勝は、「菊五郎劇団」で活躍していた兄の姿に刺激を受けて長唄三味線の世界へ本格的に進むことを決意[21]。当初は実質未経験と同然で、父の弟子から「下手くそ」と苦言を呈されたが、これに発奮して猛稽古を重ねた。寝食を忘れて三味線に向き合った結果、通常なら20年以上かかる技術をわずか4年ほどで修得し、父・勝東治から「天才」と評されるほどの実力を身につけた[21]。その後、勝は半分遊びの感覚でアルバイトをし、東京で三味線の流しをして稼ぐほか、父の代稽古として「若先生」も務めた[14]。

そうした中、兄の若山が家出をしたため、勝も兄を捜すために家出し[14]、共に地下道や球場、墓地などを寝床とする浮浪生活を送った。兄弟は父から勘当と許しを3回繰り返したが[22]、見かねた父は二人を「菊五郎劇団」の伴奏(地方)に就かせ、若山が唄、勝が三味線をつとめた。勝はこの時期、天才的な三味線の才能を示し、音感も驚異的なほど鋭く、自ら三味線譜を考案するなど、その才気をほとばしらせた。同時に、その不羈な本性は相変わらずで、歌舞伎座に出演していても、気に入らないことがあるとプイと帰ってしまった。もらった祝儀袋の中味が多いと、そのまま遊びに行って二日も三日も帰ってこなかった。さらに、彼はその世界の庸俗的な風気を嫌悪しただけでなく、その「しょせん縁の下の力持ち」環境で歌舞伎の伴奏をしていても一生日の目を見る機会はないという現実を見透かしていた[22]。

1950年、19歳頃には、父の縄張りの稽古場へ行かされて「小ちゃいお師匠さん」として指導に当たった[23]。20歳の1951年には、杵屋勝丸(二代目)の名取を襲名した[1]。さらに1953年、舞踊団からの依頼で作曲も手がけるようになる[23]。

1953年、22歳の時に推薦により[注釈 2]大映京都撮影所でカメラテストを行いパスしたが、すぐには映画界入りしなかった[23]。1954年1月、父や兄とともにアメリカ巡業に同行。その際、撮影所を見学中にラフな服装でぼんやりと撮影を凝視するジェームズ・ディーンを目撃する。「来年には世界一のスターになる」と教えられ、それまで抱いていた綺麗なものが映画スターという既成概念を覆される啓示を受け、日本に帰ったら映画俳優になろうと決意を固めた[23]。

大映専属時代(1954年 - 1966年)

1954年、デビューした当時は、愛くるしい美青年俳優だった。
1950年代の勝新太郎は大映から「二枚目」と目されていたものの、低予算のモノクロ作品への主演やカラー作品での助演に終始し、トップスターへの道は遠かった。
1956年、東京での勝新太郎後援会発足茶話会に出席し、両親および兄と並ぶ勝新太郎。

1954年6月に帰国後、23歳で「勝新太郎」の芸名[注釈 3]により大映京都撮影所に入社し、同期入社の市川雷蔵とともに、ふたりにとっての映画デビュー作となる『花の白虎隊』に出演した[26]。しかし、出番や待遇などのあらゆる面において、歌舞伎の名門出身である雷蔵とは天と地ほどの開きがあった。会社は雷蔵に専用車を用意したが、勝は他の出演者とともにロケバスに乗り込まなければならなかった。また、重要なシーンの撮影は雷蔵中心で行われ、勝らは背景扱いに過ぎなかった[26]。さらに、1作品あたりの出演料も、雷蔵の30万円に対し、勝はわずか3万円であった[27]。これはほんの始まりに過ぎず、その後も雷蔵が優位に立ち、勝が屈辱にまみれたエピソードは枚挙にいとまがないほど多い[28]。

当時、大映は競合他社の攻勢に対抗するため、ローテーションの穴を埋める量産体制を余儀なくされていた[29]。そのため、ギャラが安く見栄えのする勝は、穴埋めとして地方の映画館や二番館で公開される低予算の添え物(併映)白黒時代劇の主演に抜擢されたのだった[注釈 4][29][30]。こうした映画は二流の監督や脚本家が担当し、大して期待もされていない彼らはありきたりのパターン化した脚本を書き、惰性で撮影をこなしていた。そのため、主役が輝くはずもなく、映画自体もヒットすることはなかった[15]。勝の主演作は、いつも合格ラインぎりぎりの週70万円前後にとどまっていた[15][31]。

勝新太郎と市川雷蔵、終生の友(上:1958年、嵐山の自宅で雷蔵をもてなす勝新。下:1966年末、茶室で新年を祝い酒を酌み交わす二人)。
1964年2月、ブルーリボン大衆賞(1963年度)を受賞した勝新太郎。

さらに、二枚目スター全盛の当時、勝は大映の絶対的トップスターであった長谷川一夫を模した白塗りの美剣士役を演じ続けていたが、それは本人のパーソナリティとは大きく乖離したものであり、内心ではそれを深く嫌悪していた[5][29]。この状況は1954年から1960年まで続き、低予算映画での主演を務める一方で、長谷川や雷蔵が主演するA級作での助演もしばしば務めており[29][30][32]、70本以上の映画に出演しながらも、勝は「撮影所でも人気がない。映画館でも人気がない。でも遊び場では人気がある――自分の勝手気ままができるから」という状態にとどまっていた[20][33]。映画界で「第二の長谷川一夫」のレッテルを貼られ、中途半端な人気に留まり、当時は倦怠期に陥り悶々とした日々を送りつつ[34]、自身のキャラクターをいかに表現すべきか暗中模索の段階にあったが[20]、模倣の限界を実感するとともに、個性を前面に出す演技こそがより高い効果を生むことに次第に気づいていった[35]。

1960年、勝は自ら大映に『不知火検校』の企画を持ち込んだ[33]。撮影所での下馬評は低かったものの、公開されると映画館からは大好評を博し[36]、二枚目の殻を破るに至った[29]。続いて1961年、大映の企画部長・鈴木炤成は、勝の性格にぴったりと合致する主人公・朝吉を据えた『悪名』を勝に与えた。公開後、映画は興行・批評ともに成功を収め、大映は直ちに続編の製作を決定した[15]。同年、日本最初の70ミリ映画『釈迦』で大悪漢のダイバ役に起用されると、当初は配役への難色を示していたものの公開後は盛評を収め[注釈 5]、「勝新太郎株を決定的に高くした」と評される飛躍の契機となった[39]。その高い演技力を評価され、続く70ミリ映画第二作にして大映創立20周年記念大作『秦・始皇帝』の始皇帝という大役に抜擢された[40]。同作は公開後、『釈迦』が持っていた邦洋画の興行記録を更新する大ヒットを記録し、主演としての評価と興行力を確固たるものとした[41]。この時期の勝自身も「自然な演技がやれた」と語り、演技面での確信を得るに至った[34]。

1965年4月19日、東京で『長唄の会』にて三味線と長唄の腕前を披露する勝新太郎。
1965年、映画『座頭市地獄旅』ロケの勝新太郎(中央下)。

1962年、鈴木はさらに勝のために『座頭市物語』の企画を見出した[42][43]。これを目にした勝は、直ちに「これこそ自分が待ち望んでいたチャンスだ」と直感して真摯に準備を重ね[44]、入魂の演技を見せ、公開後には極めて高い評価を得た[45]。デビュー以来、常に雷蔵の後塵を拝しながらも絶望的な差を縮めて並び立つ底力を見せた勝は、『座頭市物語』に至って完全に自力で雷蔵と肩を並べる地位までのし上がった[28]。その後『座頭市』がシリーズ化されると配給収入は作を追うごとに上昇し、4作目の『座頭市兇状旅』では1億5000万円に達してベラボーな大当たりとなり、勝は一躍大映のドル箱となった[46][47]。

日本の映画産業は1958年をピークとして、テレビの隆盛とともに急速な斜陽化への道を突き進んでいた[13]。1960年代、勝新太郎と市川雷蔵は大映の2枚看板として「カツライス」[注釈 6]と称され、大映の屋台骨を支えた[48]。1960年代前半の日本映画界では美男子ヒーローが急速に失墜し、ワイルドな主人公やリアルな殺陣によるアウトロー時代劇が全盛を迎えつつあった[49]。特に勝の『座頭市』は、盲目の演技を交えつつ「逆手斬り」を自身のトレードマークへと押し上げたリアリティのある殺陣が「かっこいい」と大評判を博し、文句なしの立ち回りで観客を唸らせた[50]。1963年に長谷川一夫が映画界を引退すると大映の看板は世代交代し[51]、この頃から興行力で勝が雷蔵を引き離し始めていた[49]。

当時、勝の大映におけるギャラは1本あたり500万円に達し、日本映画界の俳優として最高額のギャラを獲得した[注釈 7][30][44][52]。さらにその後、『座頭市』シリーズや『悪名』シリーズでの卓越した演技が評価され、1963年度の「キネマ旬報ベスト・テン」主演男優賞や「ブルーリボン賞」大衆賞を含む日本映画界の主要4賞を受賞した[53][54]。圧倒的な興行実績と高い評価で最高額ギャラのふさわしさを証明し、名実ともにトップスターの地位を不動のものとした。

1964年度の映画五社のうち他社が前年比で平均10%減収する中、大映のみが前年対比10.4%の増収を記録して「奇跡」と称されたが、これには『座頭市』シリーズが大きな力となっていた[55]。社長の永田雅一も1965年の新年パーティーの挨拶で「大映はメクラで目が開いたと言われているが、まさにその通り」と語った[注釈 8][55]。映画業界の衰退が進む1965年、観客動員数は最盛期の1958年と比べて3分の1にまで激減していたが[56]、勝はこの年に第3の大人気シリーズ『兵隊やくざ』をスタートさせた。3大ヒットシリーズが絶好調を維持していたのみならず、『ど根性』『駿河遊侠伝』『酔いどれ』などの人気シリーズや単発作品に至るまで、勝の主演作はどれも「映画館の蓋が閉まらない」ほど大衆の寵愛を一身に集めた[44]。大映は「勝の映画を出しさえすれば必ず当たる」という状況に達した[57]。実際に1964年下半期から1965年上半期にかけて、大映が配給した映画の興行成績上位5本のうち4本を勝の主演作が占めており、大映は勝に頼り切っていた[15]。勝の代表作『座頭市』シリーズは、1960年代だけで日本国内5000万人もの観客動員を数え、これは当時の日本人口の約半数に相当する[58]。さらに海外でも大きな人気を博し、香港、台湾、東南アジア、アメリカ、キューバなど海外の多くの地域を席巻した[6][7][9][10]。『座頭市』は日本映画が戦後創出した最大の傑作とみなされている[5]。

歌手として、勝は早くも1955年の『花の二十八人衆』撮影時に歌の才能を見出され、続く『かんかん虫は唄う』で自身初のレコード吹き込みを行った[21]。その後もレコードの吹き込みを重ね、1967年8月に「大映レコード」が発足すると、その第一弾として勝自身が歌う『座頭市』の歌(『座頭市牢破り』主題歌)をリリースした[59]。このレコードは大ヒットとなり、わずか2か月で10万枚を突破した。当時、NET・TBS・フジテレビの3局の間で「歌手・勝新」の激しい争奪戦が一時繰り広げられる事態ともなった[60]。

勝プロ設立と多角化(1966年 - 1971年)

1971年8月、サンパウロ日伯援護協会のあゆみの箱チャリティショウでの勝新太郎(中央の白スーツ)。

1960年代中前期、自身と並ぶ「3大トップスター」の石原裕次郎(日活所属)や三船敏郎(東宝所属)による独立プロ設立に刺激され、勝も「自分が作りたいものを作る」主導権を目指した[48][49]。さらに「俳優の会社設立禁止」という大映の禁条に挑む持ち前の負けず嫌いな性分から[20][61]、勝は1966年秋、自ら社長を務める「勝プロダクション」を設立した[注釈 9][62][63][64][65]。

勝プロは1967年に正式に発足し[31]、大映の「社内プロダクション」という形で映画製作を行っていた[注釈 10][49][56]。初期は難航し、第一作の準備段階で二転三転したが[65]、第一弾『座頭市牢破り』(1967年)撮影時には映画の方向性や現場の進め方を巡り、勝が監督の山本薩夫と衝突[49]。作中に山本の政治思想が滲み出ているとして[49][52]、上映後面白くないとみなされた[52][66]。その後、意気投合した勅使河原宏と第二弾文芸映画『燃えつきた地図』(1968年)を制作した[56]。同作は『キネマ旬報』ベスト・テンに選ばれたものの興行的に惨憺たる成績となった[49]。一方で、撮影所の型に縛られない勅使河原のインスピレーション重視の演出の目撃は、勝に「自分も監督になれる」と確信させる大きな転機となった[48][49][56]。

1968年、勝が『燃えつきた地図』に取り組んでいた際、フジテレビが6年前の勝の映画旧作を再放送し、その視聴率が他局の黄金番組を大きく圧倒するという異例の事件が発生した[注釈 11][68][69]。これを見たテレビ各局の間で、勝の争奪戦が始まった[69]。朝日放送からの依頼を受け、勝は当時のテレビ界の最高ギャラ水準(1本150万円)を破り、1本300万円という破格のギャラで初のテレビドラマ『悪一代』(『不知火検校』のテレビ化作品)に主演した[44]。撮影では台本熟読後の即興演技を先駆けて導入し、共演者にも試みを促した。共演者もこれに熱中し、勝も緊迫した現場の緊張感を楽しんだ[44]。

大映は圧倒的な技術力を誇りながらも、製作と配給のみにとどまり、劇場側は質量ともに弱体であったため、他社に比べて映画不況の波を正面から受けた[55][67]。1960年代後期以降、大映は経営悪化の中で映画館や京都撮影所の敷地約半分などの不動産売却を順次進めるとともに[56][70]、制作費削減を狙った低予算映画の増産を図ったが、これは作品の質の低下とさらなる観客数の減少という悪循環を招き[56][70]、撮影現場は資金の困窮や管理上の干渉によってしばしば運営体制が機能不全に陥った[71]。こうした中、独立採算で運営されていた勝プロダクションのみが正常な制作機能を維持し、豪華キャストを配した大作を相次いで送り出した[70]。

前作『燃えつきた地図』の興行的不振により勝プロダクションの存続が脅かされ、大きな商業的プレッシャーを抱える中、勝は1969年にフジテレビと組んで自ら主演を務め、石原裕次郎、仲代達矢、三島由紀夫らとともに豪華キャストを揃えた超大作時代劇『人斬り』を世に送り出した[49]。キャストとスタッフの高度な連動のもと、勝は思う存分演技を振るい、迫真のドラマ性を醸し出した[49][72]。同作は、実際に歴史へ登場した人々をそのまま凄まじく生き生きと動かし、前例のない強みをもって、時代劇として一つの頂点に近い姿を見せた[73]。隅々まで隙のない完成度や[72] 勝プロの最高傑作と目され[48]、勝自身も「胸を張って言える勝新太郎の代表作ができた」と語っている[74]。このように評価を得ただけでなく、興行面でも1969年の年間興行収入第4位の大ヒットを収めた[66]。

勝は5年に及ぶ粘り強い働きかけを経て、1969年末に映画界の誰もが「実現不可能」と目していた三船敏郎との共演による夢の企画『座頭市と用心棒』(1970年初公開)を結実させた[75]。大映と東宝の共同スタッフによる撮影現場では、両社の異なる作業習慣から矛盾や摩擦が生じたが、プロデューサーとしての勝は大映側の同僚への宥めを重ねて東宝側に合わせ、作品をクランクアップへと導いた[49]。勝の尽力が功を奏し、映画は1970年の年間興行第3位となるヒットをマークした[66]。同年、香港のゴールデン・ハーベスト(嘉禾)からの招きに応じ[49]、勝は香港の映画スター・王羽との国境を越えた共演を実現させ、『新座頭市 破れ! 唐人剣』を生み出した[76]。同作は香港で「座頭市」シリーズの最高興行収入記録を打ち立てた[77]。

大映での主演作を継続する一方で、当時スタープロ同士が互いに協力し合い、大作映画を連発する流れの中で、勝も他のスターが製作する作品に参画した[49][74]。石原プロ製作の『富士山頂』(1970年)や、三船プロ製作の『待ち伏せ』(1970年)に主要キャストの一人として参加したのがその例である[78][79]。また勝は、人気漫画の映画化にも初挑戦し、プロデューサーを務めるとともに映画『男一匹ガキ大将』(1971年)に俳優としては特別出演的に顔を出した[80][81][82]。

その後、勝は「オレでなければ作れない、おもしろい映画を作る自信がある」という強い確信を胸に、並々ならぬ情熱を注ぎ込んで『顔役』(1971年)を手掛けた[83]。本作は、実在の人物をモデルとしたギャング映画のストーリーを展開しており[80]、正義感を持ちながらもヤクザの気質を帯びた刑事が、一匹狼として暗黒街に挑む姿を打ち出している[84]。勝は製作・脚本[注釈 12]・主演を兼ねるだけでなく、初めて監督を務めた上、撮影や編集作業にもかなりの程度自ら乗り出した[49][83]。これは勝にとって映画界に入って以来、初めて意のままに全方位的な創作情熱と才能を発揮した作品となった[49]。作中、勝はいかにも自身らしい即興演技を多用しただけでなく[13]、画面に新鮮な刺激とリアルさを追求して多様な業界の本物の従事者をエキストラとして起用した[49]。さらに、映像に臨場感を与えるため手持ち撮影を頻繁に用い[80]、これまでにない映像を狙い、従来の絵コンテでは考えられない斬新な構図とカメラワークを駆使した[49]。勝は「映像主義」を大胆に導入し、『顔役』は「断固たる前衛映画」との評や[84]、必要最小限のカットを積み重ねて映画を構築する「映画の王道」といった絶賛を博した[85]。

『顔役』と並行して、勝プロはハンディキャップを乗り越えて活躍した実在の高校野球投手の奮闘劇を描いた『片足のエース』(1971年)を製作した[83][86]。「映画制作は金儲けではなく趣味である」という勝自身の理念のもと[61]、勝プロの出資により企画された本作は[61]、暴力映画やポルノ映画が市場を席巻していた当時の映画界で、「映画文化財の代表作」や「良心作」と称賛された[87]。

『顔役』の公開直前、提携先の日活がダイニチ映配の配給体制から離脱した[注釈 13][80]。さらに大映自身もすでに主な直営館を売却していたため、『顔役』および『片足のエース』の上映場所は限られたものになり、結果として両作は興行的な不振に見舞われた[80]。しかし、両作の持つ芸術性や社会的な価値は高く認められた。勝は『顔役』などでの演技により、1971年度の「毎日映画コンクール」で男優演技賞を獲得し[90][91]、監督初作品となった第18回京都市民映画祭の新人賞(『顔役』の演出)に選出された[92]。同時に、勝プロダクションが製作した『片足のエース』は、文部省選定の青少年映画賞で最優秀作品賞を受賞し[93]、同京都市民映画祭で最優秀映画賞に輝いた[92]。

1971年11月に大映が破産宣告を受け全従業員を解雇すると[94]、大映のスタッフやキャストらが勝プロへ平行移動し[95][96]、勝は自身が「ふるさと」とみなす大映京都撮影所をレンタルする形で撮影を継続した[89][97]。「実家」の大映を失った後、勝は勝プロを率いて孤軍奮闘の道を歩んだ[49][89]。また、旧大映のスタッフらが結成した「映像京都」の立ち上げに際しては、勝も本名の奥村利夫名義で発起人に名を連ねてその船出を後押しした[49][80]。

勝プロの独立経営(1971年 - 1981年)

1971年の『顔役』出演を機に、勝の兄・若山富三郎が勝プロへ移籍し、「企画担当重役」の肩書を得た[49]。大映の倒産時、勝プロは勝主演の『座頭市御用旅』と、若山主演の『子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる』の撮影を同時進行していた[49][80][89]。当時、勝の看板三大シリーズは、長年にわたり『座頭市』シリーズの王者の気勢は衰えず[98]、『悪名』『兵隊やくざ』シリーズも依然として人気があった[48][80]。この時、低迷していた松竹や東宝も勝に提携を持ちかけ、勝は東宝を選択した[48]。これにより、勝プロが年三回(正月・お盆・ゴールデンウィーク)・二本立ての計六本の映画を製作し、東宝側が製作費を事前に無利子で保障するとともに配給を担当するという契約を結んだ[49][80]。

1972年の初顔合わせにおける二本立て興行では、東宝は『座頭市御用旅』の確実な当たりを見込む一方、『子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる』は添え物と位置づけて買い取り方式を採用した[48]。しかし、蓋を開けてみれば両作とも大ヒットし、買い取りがゆえに『子連れ狼』の莫大な収益が東宝へ渡り、次作以降は歩合制へ踏み切った[48]。この1年で、勝は『子連れ狼』のプロデューサーとしてこれをシリーズ化し[49]、自ら主演する『御用牙』シリーズを新たに立ち上げ[80]、『座頭市』シリーズ初監督作となる『新座頭市物語 折れた杖』の製作でやりたかった様々な試みを取り入れた[49][99]。1972年の「勝・若山二本立て」の快進撃は止まらず、同年の年間配給収入ベスト10に勝プロ作品が4本もランクインした[49]。興行的な大成功に加え、勝新太郎と勝プロダクションは『子連れ狼』シリーズによって劇画ブームを映画製作へ巧みに取り入れて大いに気を吐き[100]、1972年度のゴールデン・アロー賞(雑誌芸能記者会賞)大賞を受賞した[100][101][102]。

1973年初、『子連れ狼』の原作者・小池一夫事務所の者が、小池と勝プロとの間の契約に違反して『子連れ狼』の権利を他社に売却し、日本テレビでのテレビ化を決定した[48][49][103]。この降って湧いたようなテレビ化の記者発表を知り、勝は大きな不満を抱き[103][104]、若山も自身の当たり役ゆえに猛烈に怒り[48][49][103][104]、東宝も明確に反対の立場を表明し[48][104]、これは大もめにもめる事態となった[48][104]。この騒動の前後に生じた二つの事情に基づき[注釈 14]、結局勝は他社によるテレビ化を容認せざるを得なくなった[48][80]。その後、日本テレビ側から勝プロへの謝罪として、若山の企画・主演のテレビドラマ『唖侍鬼一法眼』(1973年 - 1974年)が発注され[48]、勝がプロデューサーや監督、出演を務めるとともに勝プロの総力を挙げて若山をバックアップした[105]。同作は好評を博したが[106]、テレビ版『子連れ狼』も好評を博し[107]、若山はなおもこの件で許した勝を責め、1974年の映画『子連れ狼 地獄へ行くぞ!大五郎』の撮影中には兄弟間の関係が会話もないほど険悪化したが、撮影を終えた若山は勝プロを離脱した[48][49]。それでもさすが「血を分けた兄弟」、約1年後には関係が氷解したとされる(ただし若山が勝プロに復帰しなかった)[48][49]。

1974年、フジテレビからの誠意ある要請と1話2000万円の製作予算(通常はテレビ時代劇1話800万円)の用意を受け、勝はついに勝プロ創立時に夢見た理想の製作・撮影現場を迎えた[108]。予算もスケジュールも気にせず佳作のみを追求したが、脚本が勝の求めるレベルに満たない場合は随時自ら徹底的に直した[108]。大物ゲストの起用や勝が納得するまでの再撮影に加え、その迫力に刺激された共演者の熱演を引き出すなど作品本位の徹底主義が貫かれた[109]。さらに現場の閃きによる即興芝居をしばしば取り入れた結果、芝居はみるみる輝きを放ち、彼が目指した「偶然の完全」の境地に達した[108]。こうした勝の努力が視聴者に通じて反響も上々となり[109]、1974〜1975年に『座頭市物語』が放送を終え、同局から通年での放映を熱望されるなど大きな成功を収めた[48]。しかし、その製作現場は四苦八苦の連続であり、1話を撮るのに通常は7〜10日、時には1ヶ月を要した。そのため、最初のシリーズ終了後に撮影はいったん休止となった[48]。

その後、1975年にフジテレビは勝の負担を軽減するため、群像劇『痛快!河内山宗俊』を企画したが、勝はやはり脚本直しにこだわり、全く楽をすることはできなかった[108]。

1976年、同局の看板番組である『座頭市』シリーズの新シリーズ『新・座頭市』の撮影が開始された[108]。当時の現場の黒木和雄監督によれば、「シナリオは一応印刷したものがあるんですが、まったく使いませんで、全部ボスの勝ちゃんが感性のおもむくままに即興的に、現場で作っちゃうんです。それでも彼の周囲には、気心の知れたスタッフや、ツウといえばカアのよく動くからみの俳優たちの集団や殺陣師たちなどがおりましてね、案外テキパキとドラマの流れが出来ていっちゃうんですよ。監督として、とても面白い体験でしたね。いやあ、八方破れのたいへんな男ですよ、勝新太郎というのは。」[13] こうした中、錚々たる実力者たちが勝の魅力にひかれ、『座頭市』シリーズにゲスト出演するため「勝プロで、金よりも良い芝居がしたい」と集まっていた[108]。座頭市を誰よりも理解する勝は、「監督・勝新太郎」とクレジットされている作品以外でも、座頭市が登場するシーンのほとんどで自ら現場を引っ張った。勝は自らが満足のいく作品づくりのため、一人の人間が脚本を作り、演出をして、主演をし、編集もした。それを毎週欠かさず続けたことで、肉体的・精神的な限界を迎えつつあり、ついに「座頭市が疲れているんだ。オレも疲れた」と漏らすこともあった[108]。その結果、1974年から1979年にかけて、テレビドラマとしての『座頭市』(座頭市物語』1シリーズ、『新・座頭市』3シリーズ)は合計4シリーズ、全100話が製作された段階で終了となった[108]。

1978年5月10日、マネージャーと俳優の酒井修が阿片所持で逮捕された際、勝もアヘン26グラムと吸煙器の処分を依頼された嫌疑により書類送検される事態となる。同年5月26日の記者会見(帝国ホテル)において、勝は「イランの貴族から贈られ社長室に保管していたが、芸能界での大麻事件頻発を受けて処分を頼んだに過ぎない」と釈明した。鑑識による調査においてもパイプ(吸煙器)からアヘンを吸った形跡は見つからず、勝の証言の正当性が証明された[110]。事件は同年9月に勝が起訴猶予処分となったことで終結したが、フジテレビ系でスタートしていたテレビ時代劇『新・座頭市』(第2シリーズ)が放送中止に追い込まれる(翌年に放送再開)、勝プロダクションの経営および財政面に打撃を与えた[110]。

勝は『新・座頭市』(第3シリーズ)の製作・撮影中、映画『影武者』の主演オファーを同作の監督を務める黒澤明から受けた[48][111]。この大作への出演準備に際し、勝は本物の役者を育成すべく1979年4月21日に「勝アカデミー」を開校し[112][113]、素人に対し「体に芸をつけろ」と自ら指導にあたった[113]。演技実習、リズムダンス、日本舞踊、殺陣、発声、メイクアップなど多方面にわたるカリキュラムが組まれ、増村保造、新藤兼人、勅使河原宏、森一生、宮川一夫、森繁久彌、若山富三郎、緒形拳、津川雅彦、原田芳雄、萩原健一、中村玉緒、太地喜和子、藤村志保、中野良子ら、芸能界の第一線で活躍する面々が勝との親交から講師として協力した[114]。

勝は黒澤と『影武者』の約1年間にわたる準備段階において、両者の交流も和気あいあいと進んでいたものの、その後クランク・インが近づくにつれ、劇中の演技指導や演出方針を巡って両者の間に幾度かの意見の相違が生じるようになったとされる[48]。クランク・イン初日(1979年7月18日)、自身の演技確認用としての撮影現場へのビデオカメラ持ち込みを巡る対立が決定打となり、主役を降板させられた[111]。この波乱の最中やその後も「勝アカデミー」での養成は続けられ、1年間の履修課程で少なくとも第4期生まで育成が行われていた[115]、同校から小堺一機やルー大柴ら著名な芸能人が輩出したが[116]。

1980年に製作したテレビドラマ『警視-K』(日本テレビ系)が完全主義の勝の製作方針などで予算がオーバーし、作品自体も不振で途中打ち切りになるなど、断続的な打撃が重なった。実態としては、ドラマの製作赤字自体は大したことはなく、勝自身の個人経費もあったものの、水商売(二軒の高級クラブ経営)への投資失敗が会社全体の足を引っ張り、勝プロダクションを倒産へと直結させた[48][117]。1981年に12億円の負債を残し倒産。この時の記者会見で「勝新太郎は負けない」と述べ、借金と戦っていくことを宣言する。翌年、中村玉緒を社長とした「勝プロモーション」を設立。

個人活動と晩年(1981年 - 1997年)

勝プロダクションの倒産後、勝は歌手としての活動や舞台、タレント業を精力的に展開し、莫大な債務の返済に奔走した[48][118]。

1986年、NHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』(1987年放送)の製作準備に際し、勝は豊臣秀吉役の「それが出来るのは、勝さんをおいて他にいません」とされる不二人選として出演オファーを受けた[119]。同作は39.7%という歴代最高平均視聴率を記録する大ヒット作となったが[120]、勝は本番になるとリハーサルと芝居をガラリと変えることで知られ[119]、その演技は「じつに魅力的」「(役に)ピッタリ」などと絶賛されたほか[121]、その熱演は共演者を引きこんでいった[12]。また、「勝に喜んでもらいたい、勝に認めてもらいたい」という思いが現場のスタッフたちの大きなモチベーションとなったとされる[119]。本作での共演を経て、勝は主役を演じた渡辺謙の役者人生において最も強烈な影響を与えた人物となった[122]。

1989年、自らの製作・監督・脚本・主演により『座頭市』を完成させたが、長男・雄大(この頃、本名で俳優デビューした)が殺陣の撮影中、斬られ役の役者を誤って真剣で斬りつけ死亡させてしまう。結局これが勝製作の最後の映画となった。勝の出演作品としては1990年、黒木和雄の監督映画『浪人街』が最後となった。

1990年1月16日、勝はアメリカ合衆国ハワイ州のホノルル国際空港で下着にマリファナとコカインを入れていたとして現行犯逮捕される。麻薬を下着に入れていた理由について「気付いたら入っていた」と述べ、逮捕後の記者会見では「今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」「なぜ、私どもの手にコカインがあったのか知りたい。」ととぼけ通し、結局、誰から薬物を受け取ったかについて、最後まで口を割ることはなかった。帰国した翌年に日本でも麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑で逮捕され、懲役2年6か月執行猶予4年の有罪判決を受ける。裁判では「傍聴者」を「観客」と呼び、客を楽しませる台本まで考えてから出廷したといわれている。この事件以後、俳優活動の場を舞台に移す。

1996年7月に下咽頭癌を発病。入院はしたが[123]手術はせず、抗癌剤と放射線の治療を行った。入院中も外出を繰り返して寿司や酒を楽しみ、平然と煙草をふかした。約4か月後の記者会見でも「煙草はやめた」と言いながら堂々と喫煙する様を見せた。しかし実際には療養中は禁煙し、会見での喫煙はパフォーマンスだった(煙を肺まで吸い込まず、口元でふかしているだけ)、と中村玉緒や鴈龍は後に振り返っている[124]。

死の前年である1996年4月23日には『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の「テレフォンショッキング」に出演した。最後の舞台は大阪新歌舞伎座で中村玉緒と夫婦役を演じた『夫婦善哉』。

死去と没後(1997年以降)

2012年1月6日、東京都港区三田の蓮乗寺の兄・若山富三郎と共に眠る勝新太郎の墓。

1997年6月21日5時54分、下咽頭癌のため柏市の国立がんセンター東病院で死去[125][126]。65歳没。それも前年に父親を亡くしたばかりだったため、父親の後を追うような形となった。

葬儀は1997年6月24日、東京都中央区築地の築地本願寺で行われ、約11000人が参列した。法号は「大光院明利能勝日新居士」。出棺の際は「勝ちゃんありがとう」と多くのファンに見守られ、遺体は渋谷区の代々幡斎場で荼毘に付された。現在は兄の若山富三郎と共に前述の蓮乗寺に眠っている。

1998年の第21回日本アカデミー賞において、会長特別賞を授与された。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」では日本男優の7位になった。2014年に映画関係者や文化人を対象にした『キネマ旬報』のアンケートでは、好きな日本映画男優の第4位に選ばれた[19]。

人物

影響を受けた人物

曾祖父・奥村真砂

勝新太郎の曾祖父は、江戸で一番の検校とされた奥村真砂検校である[3]。当時箏の名人といわれた奥村真砂は「全体不了軒」の名で寄席に出演し、手事物の名人として曲びきの箏を振り廻した。頭上で裏板をポンと叩くと忽ち変った曲の姿となり、物凄い変った早間の曲びきで客を喜ばせたという[127]。勝自身も、この奥村真砂検校の血を受け継いでいると感じていた[3]。

金に困ると自宅に火をつけ、旅先で胯の間や頭の上で三味線を弾いて稼いだ金や、見舞いをくれた人々を連れて火事見舞金を一晩で使い果たすほど豪快な人物であったとされる。勝は、満足な「破壊」をなし得なかった曾祖父の未練が時に自身に乗り移り、心身に入り込んで楽しんでいるのではないかと感じていた[3]。

勝自身も探しても見つからなかった真砂の墓が『不知火検校』の撮影時期に奇しくも発見され、勝は曾祖父からの励ましと受け止めて法事を行った、その後『座頭市』が成功を収めることとなった[10]。勝が「座頭市は俺なんだ」と同化していく背景には、この奥村検校の存在があったとされる[128]。後年のインタビューにおいても、座頭市の役作りにおける発想について「勉強してできたものではなく、どこからアイデアが来ているかは分からないが、やはり先祖や藝を好む血筋が教えてくれているのだろう」と語っている[129]。

六代目 尾上菊五郎

勝の母は歌舞伎や文楽、清元などの芸事を好み、勝は胎内にいた頃から三味線の音色や六代目尾上菊五郎の江戸前の台詞回しの間を耳にしていたとされる[33]。

勝は小学生の頃、学校をサボっては尾上菊五郎の歌舞伎公演に通い詰めた。毎日同じ演目であっても日によって演じ方が異なるその面白さに魅了され[10]、菊五郎の台詞と台詞の間の取り方が絶妙であると感じて、それこそが最高の芝居であると心に刻んだ[15][29]。後年に俳優となってからも、勝は台詞における「間の取り方」を最も大切な財産と捉えていた[130]。また、舞台に出演する際にも、その日の気分によって毎日異なる台詞を口にしていた[131]。

東京の自宅には連日連夜客が絶えず、菊五郎は芝居が終わると深夜まで酒を飲み交わしながら歌舞伎談義に花を咲かせた。こうした気前よく客をもてなす豪快な生活は家計を圧迫したが、他の役者が家を何軒も持ち金を貯めていると聞くと「芸がないから心細いのでしょう」と言い放ったという[15]。この姿は後年の勝の生き様を彷彿とさせるものがあった[15]。

勝自身も「俺が座頭市にしろ何にしろ、俳優になれたのは、六代目の芸を見て育ったからだ」と振り返っている[3]。また、勝の心の中では菊五郎を旧友のように感じていた節があり、「俺の映画の試写会やったら、来るのは(故人となった)雷ちゃん、裕次郎、遠くは六代目菊五郎も来てくれるかな......」と語っている[32]。

宗教

勝新太郎は日蓮宗を信仰しており[1]、その家族や生涯は日蓮宗と深い縁で結ばれていた。

奥村家には、燃えやすい白檀の木で彫られた日蓮上人聖像があった。太平洋戦争末期、東京にあった奥村家の住宅は米軍の空襲により付の一炬となり、全家人も聖像は燃えてしまったと思い込んでいた。しかし、勝が母親とともに日光へ疎開した際、その聖像が誰の管理も経ていないはずの勝の衣類カバンの中から奇跡的に現れ、艱難を極めた疎開生活における母親の精神的支柱となった[3]。戦後、奥村一家が新築した住宅が再び大火に見舞われ、住宅全体が灰燼に帰した際にも、この聖像だけは無傷のまま廃墟の中から勝によって発見された。この奇跡に強い衝撃を受けた父親は、それ以来、敬虔に日蓮宗を信仰した[23]。

勝が映画界に入る直前、僧侶の上田れいこうから「あんたは柱になる。映画の柱になる」「あなたの後ろに日蓮様がついてる。あなたの中に入っている。これからいろいろ波瀾万丈は起きる。でも、一本の柱にはなる」と言われた[23]。後年、勝は『座頭市喧嘩太鼓』(1968年)や『 王将』(1973年)の映画の中でも、「(南無)妙法蓮華経」のお題目を唱えている。また、自身が急難や恐怖に直面した際にも、手を合わせて「南無妙法蓮華経」を口にしていた[44]。

夫婦関係

出会いから婚約まで(1940年代 - 1961年)

勝新太郎と中村玉緒は、玉緒がまだ女学生の頃からの知り合いであった[132]。1955年、ともに大映に所属していた勝と玉緒は、映画『カンカン虫は唄う』で初共演を果たした[26]。その後も数々の作品で共演を重ねたが、勝は後年「玉緒ちゃんとまさか結婚するなんて考えもしなかった」と語っていた[132]。

もともと、玉緒は幼馴染であり[133] 当時すでに大映のトップスターであった市川雷蔵にぞっこん惚れ込んでいた[134][135][136]。大映社長の永田雅一も、関西歌舞伎のふたつの名門家系の婚姻として雷蔵と玉緒の縁談を積極的に推し進めていたが[132][134][133](玉緒の父は関西歌舞伎の名門を継ぐ二代目中村鴈治郎)、雷蔵の側は玉緒に何の反応もなく[134][135]、妻に娶る意思がない旨を明確にしていた[133][134]。そうした中、勝と玉緒は1960年夏(7月〜8月)の『不知火検校』撮影で共演。勝は演技を通じて玉緒の女性らしさと芯の強さに惹かれていったという[132]。

もともと、勝は「勝気でない純情な女性」との結婚を望んでいた[133]。勝の語るところによれば、二人が極秘に交際していた際、玉緒が自分との結婚に一生懸命になっているように感じられ[20]、交際当時は勝の言葉に何でも「ハイハイ」と従うその返事を[20][137]、勝は非常に耳に心地よく感じていたという[137]。だが、当時メディアでは玉緒と雷蔵のロマンスが数ヶ月(一説には1年)にわたり報じられ続けていた[132][134] だけでなく、世間では二人の結婚の噂まで流れており[138][139]、勝自身も玉緒が雷蔵に心を寄せている事実を熟知していた[136][139][140]。さらに、二人の極秘交際を知らない永田雅一や中村鴈治郎がなおも玉緒を雷蔵に嫁がせようと画策しているとの伝聞により[132]、勝の対抗心や独占欲が刺激され、玉緒を横取りする形で求婚に至り[132][135][136][140]、1961年3月7日に二人は婚約した[141]。しかし思いがけず、1961年の婚約の頃[20](一説に「婚約翌日」[131])には、勝は二人の性格が合わないことに気づいていた[20][131]。それは玉緒の持つ気性の強さが露わになったためであり[20]、勝は後年「こいつはちょっとしまったかな(選択を誤った)」と心境を回想している[20]。当時勝はさらに、自身の直情径行に対し、玉緒には本心が捉えどころのない一面も見出していた[注釈 15][131]。

結婚と絶え間ない不和(1962年 - 1970年)

1962年3月7日、二人は東京の帝国ホテルで挙式した[142]。しかし、二人の家庭観は全く異なるものであった。勝は「平和が大嫌いだ。いつも、ガサガサ動き回ってなくては気が済まない」と家庭的な団欒を嫌悪したのに対し[1]、玉緒は「普通の家庭の主婦におさまり、こういう家庭を築きたい」と理想の家庭像に憧れていた[143]。さらに、二人の経済観念には大きな隔たりがあり、周囲からは「笊と巾着が結婚した」と評されるほどであった。玉緒は結婚直後すでに「とんでもない人と結婚した」と後悔し、勝自身も「玉緒と結婚したのはまちがいだった」ともらしていたという[144]。

結婚当年的うちには夫婦喧嘩が始まり、玉緒がたびたび実家へ帰る事態となった[145]。翌1963年には勝が家を出て京都のホテル藤田で暮らすようになり、事実上の分居生活が始まる[146]。その後も二人の衝突は「定期戦」のごとく派手に繰り返されるようになり[147]、1964年頃には勝が親しい人物に離婚の意向を相談したものの、説得されて思い直す一幕もあった[145]。1965年には二人の婚姻危機がメディアによって表面化するに至ったが[145][147]、この時は最終的に立ち消えとなった。

公開された多くの報道や記録では、玉緒が、かつて人目の多い公の場で勝に対して指図し[144][148]、また日常の各方面で勝に対して勝負を挑み[20][144][148][149]、さらには仕事の社交の場で夫婦間の不満から激昂して勝の面目を潰し置き去りにして立ち去り[150]、さらには深夜、自宅の客たちを退散させた後、凄まじい怒りとともに勝の頬を平手打ちした[26]。勝は玉緒に対して「女を感じない」と漏らし[144]、自身の妻や配偶者としての実感も「あんまりない」という状態であった[131]。その一方で、「女にもてる」という評判の勝[1] には常に複数の女性の影があり[151]、玉緒が「浮気はイヤ」とそれを嫌悪する一方で[148]、勝は玉緒に対して常々「浮気をすすめたり」しており[1]、配偶者認知や貞操観念を巡っても対立していた。

離婚騒動と別々の生活(1970年代)

1971年7月、子供の教育のため玉緒と子供が横浜へ転居し、勝は仕事のため京都に残ることで[151]、生活拠点は二分された。これが、婚姻関係のさらなる複雑化の懸念となった。

1971年8月17日夜、東京・六本木の勝プロダクション事務所において、玉緒が公事に干渉したことから勝と激しい口論に発展した[144]。玉緒が別れを切り出すと、勝は「そのことばを10年間待っていた」と言い放ち、即座に記者へ連絡して「離婚宣言」を発表した[144]。やがて勝は仕事のため出国(サンパウロへ出発)したが、この勝の不在期間中、玉緒は一貫して離婚を拒否し続けた[144]。騒動の最後には、玉緒が勝の前に土下座して「どうか、置いてください」と懇願し、勝が「俺は、生活態度を変えないよ」と応じる一幕があったとされる[152]。その後、1971年9月13日に勝は離婚解消を宣言した[153]。同日、玉緒も単独で記者会見を開き[153]、「反省の気持ちでいっぱいです。今後は主人につくしたい」と語り、この離婚騒動は終息を迎えた[154]。

その後、二人は衝突を避け、勝は玉緒と旅行をしなかった。社交上で共に渡航する必要がある場合でも、空港へは別の車で向かうほどであり、これは車中での喧嘩によって共に行き、共に帰ることができなくなる事態を避けるためであった[155]。1970年代に勝プロが『座頭市』などのテレビドラマを制作するなると、勝は別々に生活して半年に一度も帰宅しないこともあり、「あまり会わないからいいんじゃないか」「夫婦とはいいながらそれぞれの世界を持っている」と語っていた[20]。

勝プロ倒産と相次ぐ危機(1980年代)

1981年9月、勝プロが巨額の債務により倒産した際、取締役の一人であった玉緒が離婚を切り出したのに対し、勝は「オレを見捨てるのか」と怒鳴りつけたと報じられている[135]。結局、勝が一俳優として再起を誓い、玉緒が社長に就任することでピンチを切りぬけた[135]。次いで1982年3月に子供たちが大麻取締法違反の容疑で逮捕され、この夫婦が教育方法や責任を巡って激しい衝突を展開した末に、玉緒のほうから「息子は父に、娘は母に」という別れ方での離婚が提案されたと伝えられ、この一件以来、夫婦間では冷戦状態が続いていたとされる[135]。

晩年の共処と最期(1990年代)

1990年代、勝は映画における脇役のオファーを断り続け[48]、映画仕事や経済活動がほぼ停滞する中で、友人たちの援助によって生活していた[156]。この時期、二人は時に衝突を交えながらも、一組の夫婦として東京の自宅で生活を共にし続けていた[156][157]。また、1996年には勝の親友である画家のバルテュスの誕生日を祝うため、夫婦として最初で最後となる二人きりの旅行(2日間ほどのスイス旅行)に出かけていた[158]。玉緒は以前、勝が監督する映画で主役として撮ってほしいと何度も企画を出したものの、映画監督としての勝の厳格さもあり、ついに実現しなかったが、最後にやっと女優として認められたのが同1996年の舞台『夫婦善哉』であった。しかし、その巡演の最中に勝のガンが発覚する[141]。1994年以降、玉緒がバラエティ番組で大ブレイクを果たしたものの、勝は自身の活動において経済的に妻に頼ることはなく、療養中も最後まで自身の資金援助(手形を切り続けてくれた)をしてくれた後援者への礼の印として、父の遺物(形見)である三味線を贈った[159]。1997年6月21日、勝は玉緒の目の前で死去した。玉緒が「やっと夫婦らしくなったと思ったら、死んでしまいました」と語った通りであった[158]。

その他

縮れ毛で寝癖がつきやすく、起床直後にシャワーを浴びて直していた。顔つきもドーランとの相性が壊滅的に悪く、「顔が邪魔なんだから(笑)」と自虐するほどだった[160]。

成人してからも、兄ともども母・八重子のことを、実家では「お母ちゃん」と呼んでいたが、人前では分別を弁え「お母さん」と言い換えていた。勝曰く、「母」は発音し辛く、「ママ」は照れくさいからとのこと[160]。

その日その日を全力投球する性格で、予定を立てて行動するのが苦手であると、生前語っている。そのため、明日や来年のために我慢することが出来ないと断言している[160]。

宇津井健の家族と勝の家族は非常に仲が良く、二人は同年生まれで、赤ん坊の頃からお互いの家に抱かれて行くような間柄であった。青年期、勝が作曲を依頼された際には、遊びに来た宇津井に朗読してもらい、その朗読を聞きながら、勝手に三味線を弾いて曲を書き上げたという。勝が「小ちゃいお師匠さん」として三味線の指導に当たるようになると、月謝が入るたびに宇津井と一緒に銀座に飲みに行き、行けばすぐに1万から2万円ほどを使い果たしていた。ある時、帰りの電車代やタクシー代まで使い切り、銀座から浜町まで二人で歩いて帰ったこともあった[23]。

一週間のアメリカ巡業中、英語は全くできなかったが、賭けに勝ったことで通訳係を押し付けられた。道中、注文を言い間違えて無駄な出費をするなどトラブルもあったが、持ち前の度胸とボディランゲージで乗り切ったため、同行していた吾妻徳穂 (初代)などは、勝が英語に堪能だと帰国後も勘違いし、「あの方はおモテになって」と後年『徹子の部屋』にて、武勇伝として吹聴してしまった。そのため、後日、同番組に勝が出演した際に、真相を説明する事態となった[160]。

三味線に関しては十代の頃から師匠をしており、その腕前は晩年まで衰えなかったと伝えられている[161]。

映画『人斬り』で最初に三島由紀夫に共演依頼したのは勝だったが、不慣れな三島が現場で困らないように事前に三島の言う台詞をテープに吹き込んで細かく説明し、撮影現場でも三島を励まし助けていたという[162]。しばしば三島が、勝には随分世話になった、あんないい奴だとは思わなかったと感謝していたのはこうした理由があった[162][163](詳細は人斬り (映画)#勝新太郎と三島由紀夫を参照)。また勝は、三島の『午後の曳航』の映画化の希望を抱いていたという[164]

演出をする際、斬られ役に対して、「朝、目が覚めて今日斬られて死ぬことを知らない」と持論を述べた上で、斬られても直ぐ倒れず、少し歩いて体に痛みが走って、流れる血を見て倒れるといった、性格を持った立ち回りを希望した。反面、演出と出演を兼任すると、自身の役柄について深く考えることが出来なくなるため、「そこがぼくのダメなとこなんだけども......」と生前に語っている[160]。

松平健の育成に心血を注ぎ、『座頭市物語(1974年)に出演させて住み込みの弟子として徹底的に鍛え上げ、役作りのための心構えや立ち振る舞いを伝授した。これが、後の松平の出世作であり代表作となる『暴れん坊将軍』(1978年、テレビ朝日系)主演および時代劇スターへの大成へとつながった[165](1980年には、勝プロダクション製作、松平主演のテレビドラマ『走れ!熱血刑事』も放映されている)。

1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で演じた豊臣秀吉は、「サル」や「人たらし」などと評される従来の秀吉像を覆すような配役で話題となった。本作の主人公伊達政宗が「化け物」と評したように、本作では若き政宗の前に立ちはだかる大きな壁という位置づけであり、「渡辺謙(政宗役)=知名度の高くない若手」「勝新太郎=衆目の知るところの大御所」という図式が、そのまま「伊達政宗=奥羽の若き大名」、「秀吉=老成した天下人」にも当てはまるなど、役者の立場・イメージと演じる役の立場がぴったりという印象が強いのも特徴である。秀吉と政宗が初めて会うシーンではそのイメージと緊張感をつくり上げるために、史実に合わせて本番まで渡辺謙と一度も顔を合わせなかったという[166]。

晩年の住居は東京タワーが見えるマンションだった。妻・玉緒との夫婦喧嘩で収拾がつかなくなると窓を指して、「東京タワーが見てる」と言いながら玉緒の機嫌をとることも度々であったという。勝の葬儀では、玉緒の希望により祭壇脇に東京タワーのミニチュア(高さ4.5m)が組まれた[167]。勝の豪放な語り口・私生活・自由奔放で泰然としたキャラクターは、古参お笑い芸人達の格好のネタ元になっている[注釈 16]。

テレビインタビューで鴈龍の証言によれば、ファンへのサービス精神も旺盛で、ファンから頼まれたサインを断ったことはなかったという。なお、色紙には必ず傍らに『座頭市』の毛筆イラストを添えている。これは、大映時代の弟子筋にあたる細谷新吾(日高晤郎)が考案したものを気に入り、これを元にして自身のサインを作った[168]。

勝のマネージャーによると勝はポケットにティッシュのように丸めていた1万円札をチップとして携行していたといい、ある日マネージャーは1万円札20枚を渡され、自分の代わりにチップを渡すように勝に頼まれた。マネージャーはチップを5000円に崩して渡したが、勝は「俺がなぜチップを渡しているかわかるか。俺たちはいろんなところで、一生懸命に生きてる人間たちを見させてもらってる。つまり、『生の演技』を見させてもらっているんだ。そんな貴重な演技の授業料をケチるやつがどこにいるんだ!」とカミナリを落とした。マネージャーはまた、知人が借金の申し込みに来た際、勝が白紙の委任状にサインして京都の豪邸を失うはめになったことも明かしている。他にも、勝プロダクション倒産直後九州朝日放送の社長から「勝とスティービー・ワンダーの対談をやりたい」という依頼があり、マネージャーが「うちは倒産したんですけど知ってますか」と聞いたら「御社の倒産は知っていますが、勝さんの芸が倒産したわけではありませんよね」という返答があったことも、マネージャーは後年伝えている[169][170]。

石原裕次郎とは、「きょうらい(兄弟をもじった言葉)」と呼び合う仲で、良き友人だった。ある酒宴の席で2人が大喧嘩になった時には、頃合いを見て勝が一言「いい芝居だったな、きょうらい?」と声をかけ、裕次郎が「あ、ああ、いい芝居だった。」と応えることで、喧嘩そのものを「周囲を驚かすための芝居」と見せかけ、互いに手打ちにしていたという。裕次郎の葬儀では、友人代表として弔辞を読んだ[171]。

上記の通り舞台裏ではトラブルが多かったが、その反面、非常に肉親思いであった。1982年に母・八重子が死去した際、「俺を産んでくれたところに顔を埋めてキスをしたよ」と発言。1992年4月には兄の若山富三郎が死去、納骨式の時にカメラの前で遺骨を食べ、涙を流してその死を悼んだ。さらには1996年2月、父であり長唄の長老、杵屋勝東治が死去。勝は父が亡くなる数日前から添い寝をし、施主を務めた納骨式の際には火葬場でこっそり懐に入れた遺骨の一部を取り出し、泣きながら食べ(骨噛み)、「とうとうお別れだけど、これで父ちゃんは俺の中に入った」とコメント。このように、肉親への強い愛情を改めて印象付けた。 妻の中村玉緒について「中村玉緒は勝新太郎無しでも存在し得るが、勝新太郎は中村玉緒無しでは存在し得ない」と最高の賛辞を語っているが、玉緒は直接は聞き取っておらず「生きている時に言ってくれれば...」と語っている。妻想いを代表するエピソードとして、中村玉緒が風邪で倒れた際の話がある。高熱で苦しむ玉緒を少しでも元気づけようと思った勝は、玉緒の好きな渡哲也の歌声を聞かせようと画策。渡が居そうな銀座の飲み屋を一軒一軒しらみつぶしに探し回り、ようやく渡を見つけると眼前でいきなり土下座。顔を上げるように渡が促すも、高熱で苦しんでいる玉緒のために一曲歌ってほしい、と土下座のまま懇願。大先輩のそのような姿を見た渡は二つ返事でこれを快諾。店の電話から玉緒のために『くちなしの花』を歌った。玉緒はこのエピソードを、破天荒な勝だが嫌いになれなかった理由、として度々挙げている[172][173]。

受賞

出演作品

デビュー『花の白虎隊』(1954年)
演技開眼の作『不知火検校』(1960年)
代表作『座頭市物語』(1962年)
『座頭市千両首』(1964年)では実兄の若山富三郎との壮絶な殺陣を見せた。
戦前最高の剣豪と称された近衛十四郎と、彼が戦後最高の剣豪と認めた勝新太郎が、『座頭市血煙り街道』(1967年)で、凄まじい真剣勝負の対決を繰り広げた。

映画

シリーズ

その他

  • 花の白虎隊(1954年8月25日) - 小林八十次郎
  • お富さん(1954年11月3日) - 与三郎
  • 怪猫逢魔が辻(1954年12月29日) - 桝田屋友之助
  • 駕でくのは(1955年1月8日) - 三次
  • 花ざかり男一代(1955年2月26日) - 杵屋彌市
  • 天下を狙う美少年(1955年4月8日) - 天一坊
  • 薔薇いくたびか(1955年4月24日)- 高倉明
  • 月を斬る影法師(1955年6月8日) - 香月新二郎
  • 踊り子行状記(1955年6月26日)- 武智十郎太
  • 花の二十八人眾(1955年8月9日)- 政吉
  • かんかん虫は唄う(1955年8月31日) - 清水富彦
  • 悪太郎売出す(1955年10月19日) - 仙太
  • 怪盗と判官(1955年12月7日) - 鼠小僧次郎吉
  • 花の渡り鳥(1956年1月3日) - 蜩の半次
  • まらそん侍(1956年2月5日) - 海保数馬
  • 柳生連也斎 秘伝月影抄(1956年2月26日) - 鈴木綱四郎
  • 祗園の姉妹(1956年5月18日)- 木村保
  • あなたも私もお年頃(1956年6月21日)- 前岡新太
  • 怪猫五十三次(1956年7月19日) - 南三次郎
  • 花頭巾(1956年7月25日) - 久米寺舜馬
  • 折鶴七変化(1956年8月1日)- 杵屋春之助
  • 続折鶴七変化(1956年8月8日)- 杵屋春之助
  • 不知火奉行(1956年9月19日)- 筑紫源三郎
  • 月形半平太 花の巻/嵐の巻(1956年10月17日) - 宇津木周作
  • 続花頭巾(1956年11月7日) - 久米寺舜馬
  • 新・平家物語 静と義経(1956年11月28日) - 那須与一
  • 母白雪(1956年12月19日)- 川村竜一
  • スタジオはてんやわんや(1957年1月15日)- 勝新太郎
  • 信号は赤だ(1957年1月22日) - 相川三郎
  • 凸凹厳窟王 鬼月島の卷・海賊島の卷(1957年2月27日)
  • 大阪物語(1957年3月6日)- 市之助
  • 大江戶人気男(1957年5月8日)
  • 刃傷未遂(1957年5月13日)- 岡部辰馬
  • 二十九人の喧嘩狀(1957年6月4日)- 安
  • 怪猫夜泣き沼(英語版)(1957年6月18日) - 小森一馬
  • 三日月秘文(1957年7月21日)- 三鬼与一郎
  • 森の石松(1957年9月3日)- 石松
  • 不知火頭巾(1957年11月17日)- 清水源八郎
  • 清水港喧嘩旅(1957年12月8日)- 三五郎
  • 遊俠五人男(1958年1月15日) - 徳次郎
  • おけさ鴉(1958年1月22日)- 朝太郎
  • 陽気な仲間(1958年3月18日) - 菊太郎
  • ふり袖纏(1958年3月25日)- 小頭音松
  • 忠臣蔵(1958年4月1日) - 赤垣源蔵
  • 風来坊一番勝負(1958年5月19日)- 与作
  • 怪猫呪いの壁(英語版)(1958年6月15日)- 竹内喬之助
  • 東海道の野郎ども(1958年8月26日)- 鼻唄の半次
  • 花の遊俠伝(1958年8月31日)- 片岡直次郎
  • 日蓮と蒙古大襲来(1958年10月1日) - 四条金吾
  • 血文字船(1958年10月27日)- 奥平伊織
  • 弁天小僧(1958年11月29日) - 遠山景元
  • 水戸黄門漫遊記(1958年12月21日)- 捨吉
  • 天竜の鴉(1959年1月22日)- 天竜の勘太郎
  • 情炎(1959年3月17日) - 仙枝
  • 紅あざみ(1959年5月8日)- 鷹野中納言
  • 次郎長富士(1959年6月2日)- 石松
  • 千代田城炎上 (1959年6月13日) - 安藤伊予守
  • 美貌に罪あり(1959年8月12日)- 藤川勘蔵
  • 鳴門の花嫁(1959年8月23日)- 月ケ瀬伝八郎
  • 町奉行日記・鉄火牡丹(1959年9月13日)- 望月小平太
  • 薄桜記(1959年11月22日) - 中山安兵衛
  • 月影兵庫・上段霞斬り(1959年12月20日)- 月影兵庫
  • 初春狸御殿(1959年12月27日) - 栗助
  • 関の弥太っぺ(1959年12月27日)- 箱田の森介 
  • 二人の武蔵(1960年1月3日) - 佐々木小次郎
  • 風雲將棋谷(1960年2月3日)
  • よさこい三度笠(1960年3月16日)- 浮巣の半次郎
  • 大江山酒天童子(1960年4月27日) - 渡辺綱
  • 人肌呪文(1960年5月11日)- 寺西登之助
  • 続・次郎長富士(1960年6月1日)- 石松
  • 源太郎船(1960年6月15日)- 源吉
  • 三人の顔役(1960年7月10日)- 高林
  • 東海道ちゃっきり娘(1960年7月31日)- 遠山金四郎
  • 不知火検校(1960年9月1日) - 杉の市
  • 元祿女大名(1960年9月9日)
  • 月の出の決鬪(1960年11月16日)
  • 花くらべ狸道中(1961年1月3日)- 新助狸
  • 小次郎燕返し(1961年1月9日)- 佐々木小次郎
  • 風と雲と砦(1961年2月22日) - 左近八郎
  • みだれ髪(1961年3月8日) - 愛吉
  • 飛び出した女大名(1961年4月16日)- 鯖江半太郎
  • 喧嘩冨士(1961年4月26日)- 源太・秋葉の源次
  • ドドンパ酔虎伝(1961年6月7日) - 中山安兵ヱ
  • 水戸黄門海を渡る(1961年7月12日) - 渥美格之進
  • 釈迦(1961年11月1日) - ダイバダッタ
  • お兄哥さん姐さん(1961年12月8日)- 三次郎
  • 女と三悪人(1962年1月3日)- 竜運和尚
  • 化身(1962年1月14日) - 地谷梵仙
  • 鉄砲安の生涯(1962年2月21日) - 北ヶ市安五郎
  • 三代の盃(1962年3月4日)- 政吉
  • 裁かれる越前守(1962年4月6日)- 徳川吉宗
  • 仲良し音頭 日本一だよ(1962年5月13日) - 勝新太郎
  • 鯨神(1962年7月15日) - 紀州
  • 長脇差忠臣蔵(1962年8月12日) - 前田山英五郎
  • 秦・始皇帝(1962年11月1日) - 始皇帝
  • 雪之丞変化(1963年1月13日) - 島抜け法師
  • 破れ傘長庵(1963年2月7日)- 長蔵
  • 雑兵物語(1963年7月13日) - 茂平
  • 乞食大将(1964年11月28日) - 後藤又兵衛
  • 幸せなら手をたたこう(1964年12月29日) - 特別出演
  • 無法松の一生(1965年7月14日) - 富島松五郎
  • 泥棒番付 (1966年2月26日)- 佐渡八
  • にせ刑事(1967年4月29日) - 千田寅松
  • とむらい師たち(1968年4月6日) - ガンめん
  • 燃えつきた地図(1968年6月1日) - 男(探偵)
  • 手錠無用(1969年4月5日) - 香車弾五郎
  • 関東おんな悪名 (1969年5月1日) - 荒巻義助
  • 鬼の棲む館(1969年5月31日) - 無明の太郎
  • 人斬り(1969年8月9日) - 岡田以蔵
  • 尻啖え孫市(1969年9月13日) - 織田信長
  • 玄海遊侠伝 破れかぶれ (1970年2月21日)- 吉田磯吉
  • 富士山頂(1970年2月28日) - 村上朝吉
  • 待ち伏せ(1970年3月21日) - 玄哲
  • あぶく銭(1970年4月18日) - 大寺松五郎(ヒゲ松)
  • やくざ絶唱(1970年7月11日) - 立松実
  • 喧嘩屋一代どでかい奴(1970年11月14日) - 青木吾朗
  • 男一匹ガキ大将(1971年3月6日) - 坊谷津光五郎
  • 狐のくれた赤ん坊(1971年5月26日) - 張り子の寅八
  • 顔役(1971年8月12日) - 立花良太 ※製作、監督、脚本も担当
  • いのち・ぼうにふろう(1971年9月11日) - 男
  • 王将(1973年5月19日) - 坂田三吉
  • 海軍横須賀刑務所(1973年11月17日) - 志村兼次郎
  • 無宿(1974年10月9日) - 穴吹錠吉
  • 迷走地図(1983年10月22日) - 寺西正毅
  • 帝都物語(1988年1月30日) - 渋沢栄一
  • 孔雀王アシュラ伝説(1990年2月3日) - 慈空
  • 浪人街(1990年8月18日) - 赤牛弥五右衛門

テレビドラマ

舞台

  • (勝新太郎・月丘夢路・藤山寛美初出演)旅のかげろう、三味線やくざ、森の石松、上州土産百両首(1960年10月2日 - 29日、大阪・新歌舞伎座)
  • 殺し屋一代、女夫渡り鳥、因果小僧六之助、元禄ドロンパ屋敷(1961年8月2日 - 29日、大阪・新歌舞伎座)
  • (勝新太郎11月特別公演)望海亭、別れ囃子、悪名、マダム專科、座頭市物語、雲の別れ路(1962年11月2日 - 26日、大阪・新歌舞伎座)
  • (勝新太郎5月特別公演)流転めおと船、座頭市喧嘩囃子、極付森の石松、不知火檢校(1965年5月2日 - 27日、大阪・新歌舞伎座)
  • (勝新太郎・朝丘雪路特別公演)風流深川唄、座頭市物語(1968年9月1日 - 25日、名古屋・御園座)
  • 流転めおと船、座頭市喧嘩囃子、森の石松、不知火檢校(1970年5月)
  • (勝新太郎 東京初出演 九月特別公演)好色の草紙、座頭市喧嘩ばやし、風流深川唄、座頭市物語(1972年9月1日 - 25日、東京・明治座)
  • (秋の演劇祭)播磨とお菊、一本刀土俵入、三味線一代(1975年10月、東京・明治座)
  • (勝新太郎 秋の演劇祭)眠狂四郎無頼控、三味線やくざ、雲の別れ路(1976年10月、東京・明治座)
  • (十月公演秋の演劇祭)座頭市物語、鶴八鶴次郎、因果小僧六之助(1978年10月1日 - 28日、東京・明治座)
  • (勝新太郎六月特別公演)朦朧車夫、水の流れ、新座頭市物語 糸ぐるま、新座頭市物語 市の耳に子守唄(1979年6月1日 - 26日、東京・明治座)
  • (松竹錦秋特別公演)三味線やくざ、新座頭市物語 糸ぐるま
  • (勝新太郎特別公演)新座頭市物語 糸ぐるま、ビッグショー(1984年3月2日 - 25日、大阪・新歌舞伎座)
  • 不知火検校(1994年5月10日 - 6月12日、銀座セゾン劇場)
  • (勝新太郎特別公演)夫婦善哉 東男京女(1996年、大阪・新歌舞伎座)

バラエティ

CM

  • 大塚製薬 - ウメビタ
  • 武田薬品工業 - フローミンエース
  • 麒麟麦酒 - ラ党の人々。(1990年)※前年、「キリンビール」より改称した主力商品「キリンラガービール」の宣伝を目的に、成人若年層の「ビール離れ」「ドラマ離れ」「CM離れ」に歯止めをかけるのを目標に、1年間毎日新作を放送するドラマ仕立てのCMとして制作された。作・演出につかこうへい、キャストに勝(父親)、松坂慶子(後妻)、安藤輝彦[注釈 17](長男)、手塚理美(長女)、国広富之(長女の夫)、富田靖子(二女)、藤井尚之(二女の夫)を起用。大々的にキャンペーンも行われたが、オンエアー初日に勝が麻薬所持容疑で逮捕されたため、わずか1日で放送中止[174][175]。

プロデューサー作品

監督作品

映画

テレビドラマ

音楽

シングル

発売日 規格品番 面 タイトル 作詞 作曲 編曲
テイチクレコード
1955年9月 BL-5003 A かんかん蟲は唄う[注釈 18] 萩原四朗 大久保徳二郎
B 花の桟橋 大高ひさを
1955年11月 BL-5010 A 役者道中 萩原四朗
B 峠越すのは
1956年1月 A 次郎吉笠
B おもかげ峠[注釈 19]
1956年 C-102 A 街の影法師 前田よしえ 大久保徳二郎
B 今宵かぎりのボレロ[注釈 20] 大高ひさを 上原賢六
1956年 C-104 A 静かな雨のロマンス 大久保徳二郎
B 青いドレスの女
1956年5月 A 青いドレスの女
B 静かな雨のブルース
C-3958 A 三ン下月夜唄
B お別れかいな[注釈 21]
1956年5月 C-4018 A 元気でいろよ達者でね 大高ひさを 上条たけし 宮脇春夫
B 上海から来た男 清水みのる 大久保徳二郎
1956年11月 C-4036 A アドマン・ブルース
B 元気でいろよ達者でね 大高ひさを 上条たけし 宮脇春夫
1957年 A-2737 A 春雨じゃ濡れて行こう
B よみ売り三味線
1957年12月 A-2927 A おとぼけ仁義[注釈 22]
B 追っかけ笠[注釈 23]
1958年8月 C-4203 A 東海道の野郎ども[注釈 24]
B 惚れたのヨ[注釈 25]
東芝音楽工業
JP-1120 A これが未練という奴か
B 男の泣き場所
JP-1126 A 深夜の銀座裏
B 恋なんか御免だ
JP-1199 A 今夜はわかった 藤間屮雄 増田幸造
B だからお前が可愛いのさ 大沢浄二
JP-1339 A 今宵限りの三度笠
B 夢でござんす
1964年11月 TP-1001 A ど根性一代[注釈 26] 勝新太郎

十二村哲

大久保徳二郎
B 男の人生[注釈 27] 島田磬也
大映レコード
1967年8月 D-1 A 座頭市[注釈 28] 川内康範 曽根幸明
B 座頭市ひとり旅[注釈 28]
1967年11月 D-9 A あき子
B あれっきり
1968年3月 D-20 A 恋は気まま 水島哲
B いつかどこかで 曽根幸明 池田孝
1968年9月 D-57 A 座頭市子守唄[注釈 29] 川内康範 曽根幸明
B どんとやれ 曽根幸明 池田孝
1968年11月 D-62 A シーサイド横浜 西川ひとみ
B さよならしようぜ 大給櫻子 池田孝
1968年12月 D-66 A 悪名(河内音頭)[注釈 30] 鉄砲光三郎
B 悪名のテーマ(セリフ入り)
1969年6月 D-86 A ごめんね坊や 水島哲 曽根幸明
B 涙はあれに 池田孝
1970年5月 D-108 A いつかどこかで 水島哲 曽根幸明
B Sunny = サニー ボビー・ヘブ

訳:曽根幸明

ボビー・ヘブ 池田孝
1970年8月 G-1 A 座頭市の唄 川内康範 曽根幸明
B 座頭市子守唄 いわせひろし 曽根幸明 池田孝
1970年11月 G-4 A 夜と恋の終り 川島朗
B おまえは何処に 水島哲
1971年5月 G-22 A いつかどこかで 曽根幸明
B 涙はおれに 曽根幸明 池田孝
日本コロムビア
1972年4月 SAS-1615 A 兵隊やくざ 石本美由起 山路進一
B 男と男 美沢香 村井邦彦 馬飼野俊一
ユニオンレコード
1973年4月 US-778 A 橋ぐれる 小池一夫 猪俣公章 池多孝春
B 別れ手錠
東芝EMI
1973年 TP-2954 A 孤独におわれて[注釈 31] 安井かずみ 冨田勲
B ひとの出逢い 有馬三恵子 竜崎孝路
1974年 TP-20055 A おてんとさん[注釈 32] 阿里あさみ 冨田勲
B 座頭市ブルース[注釈 33] 小谷充
ビクター音楽産業
1977年 SV-6258 A 座頭市子守唄[注釈 34] いわせひろし 曽根幸明
B いつかどこかで 水島哲 曽根幸明 馬飼野俊一
ワーナー・パイオニア
L-1138P A さすらいの旅 山口あかり 平尾昌晃 竜崎孝路
B 波止場町・ふたり町 ちあき哲也
クラウンレコード
1980年 CWA-21 A にごり水 山田孝雄 叶弦大 伊藤雪彦
B 男心
日本フォノグラム
1982年 7PL-75 A 夜はくりかえす 岩谷時子 三木たかし 田辺信一
B Love You Again 荒木とよひさ 三木たかし
1982年 7PL-78 A 浮遊の夏 島武実 宇崎竜童 若草恵
B ぬくもり 荒木とよひさ 三木たかし
センチュリーレコード、ポニー・キャニオン
1994年5月20日 1 泣くなよ 補:武藤けんじ 曽根幸明
2 ごめんね坊や 水島哲
徳間ジャパンコミュニケーションズ
2015年11月3日 TJKA-10005 1 Sunny = サニー
2 Summer Time = サマー・タイム

アルバム

  • 夜を歌う(大映レコード)※現行CDでは、8曲のボーナストラックが追加され、徳間ジャパンより発売されている。
  • 人生劇場 勝新太郎・古賀メロディーを唄う(1970年、日本コロムビア)
  • 座頭市子守唄(1977年9月25日、ビクター音楽産業)※単品では未CD化
  • THE MAN NEVER GIVE UP(1982年、日本フォノグラム)
  • 遊びばなし うたとはなしと三味線と(1995年、Sony Records)
  • 歌いまくる勝新太郎(1997年、Pヴァイン)大映レコード時代の編集盤
  • もういちど、遊びばなし(1998年、Sony Records)
  • 歌いまくる大映スター(大映レコード)
    • 2007年に紙ジャケット仕様でPヴァインより再発。1968年の大映レコードのイベントでの模様を収録したライブ盤で、勝新太郎も参加。『座頭市』、『シーサイド横浜』、『座頭市子守唄』の、このアルバムでしか聴けないライヴ・バージョンが収録されている。

ボックスセット

  • 歌いまくりまくりまくる勝新太郎 -勝新歌大箱(2012年6月6日、Pヴァイン、PCD-18661~72)
    • 『ザ・マン・ネヴァー・ギブ・アップ』、『歌いまくる勝新太郎』、『勝新太郎 夜を歌う』、『古賀メロディーを歌う』、『夜の世界』、『座頭市子守唄』、『さらに歌いまくる勝新太郎』(シングル音源集1)、『さらにさらに歌いまくる勝新太郎』(シングル音源集2)、『遊び話 -うたとはなしと三味線と』、『もういちど、遊びばなし』、『勝新太郎 王道』(DVD。平成4年水戸公会堂の特別ステージ)、『座頭市大映他コレクション』(ボーナス・ディスク)、全12枚入。

著作

  • プレイボーイ特別編集 写真集「勝vs美枝子」(集英社、1980年)
  • 『俺・勝新太郎 劇薬の書』(廣済堂出版、1992年/廣済堂文庫、1998年、改訂版2008年)- 新版解説吉田豪
  • 『裸舞(Love) - 三浦綺音写真集』撮影(ワニブックス、1994年)
  • 『泥水のみのみ浮き沈み―勝新太郎対談集』(文藝春秋、1994年/文春文庫、2017年) - 8名との対談

勝ファンのクリエイターや役者たち

関連項目

  • 大映 - 元・専属俳優
  • 映像京都 - 設立メンバーおよび構成員
  • 鈴木炤成 - 勝の恩人(大映企画部長として下積み期から支え、『座頭市』等で抜擢)
  • 森一生 - 勝の恩人(下積み期から支えた生涯の理解者で、勝が終生敬愛したベテラン映画監督)
  • 石原裕次郎 - 親友
  • 市川雷蔵 - 大映の同僚・親友
  • 水原弘 - 親友
  • 日高晤郎 - 勝の弟子

脚注

注釈

  1. ↑ この身長データは大映太秦撮影所から『話の特集』編集長の矢崎泰久へ提供された勝のプロフィール[1] に基づく(尺貫法で5尺6寸=約169.7 cm)。なお、『映画の手帖』(1957年、長嶋書房、178頁)の記載では「170 cm」、『グラフテレビ静岡』(1974年秋の新番組特集)および『グラフサガテレビ』(1976年秋の新番組特集)の誌面ではいずれも勝の身長は「169 cm」と記載されている。
  2. ↑ 勝の父・杵屋勝東治は大映社長の永田雅一と親交が深かったが[23]、勝が大映でカメラテストを受けるきっかけとなったのは俳優・田中春男の紹介であった。田中の回想によれば、新井薬師の節分会で三味線方の年男として来ていた勝を一目見て、その風貌に「はッ」と強い衝撃を受け、「いい男だ。役者にならないか」とその場で勧めたという[14]。
  3. ↑ 勝の父・杵屋勝東治の長唄の弟子であった当時の警視総監・田中栄一が、本人の依頼を受けて「勝新太郎」と命名した[24][25]。
  4. ↑ 勝が出演する作品は、オールスターキャスト映画で助演を務める場合を除いて例外なくモノクロ映画であった[15]。
  5. ↑ 『釈迦』の配役に際し、勝は社長の永田雅一から直々にダイバ役に指名され[37]、勝は役に自身が合わないとして降板を直訴したものの、永田から「お前の他にいない。断ったら仏罰が当るぞ」と言われ、自ら「うっかり乗せられてしまった」と折れた[35]。勝は役づくりに苦慮する中、訪れたクラブでの歌唱ショー観賞中に自分なりの表現に対するヒントを得て役作りを確立し[38]、劇中では主役を完全に凌駕する演技を見せた[37]。
  6. ↑ 「カツライス」という併称は大映宣伝部長の林万夫によって提唱され、その後メディアでも用いられるようになった。この二人の主演映画を組み合わせた二本立てが、正月やゴールデンウィーク、お盆といった興行界の書き入れ時に必ず登場したことから、映画館の「お定食」に例えられた[28]。
  7. ↑ 『悪名』の撮影時[44](一説には『悪名』の直後[52])、勝のギャラは1本250万円、雷蔵は300万円であり、50万円の増額を希望して社長の永田雅一に片手を差し出し「社長、これだけ上げてください」と言ったところ、怒鳴られて拒否された。勝がストライキに入った2週間後、本社の経理担当重役から届いた契約書には「一本五百万円也」と書かれていた(永田が勝の差し出した5本指を「1本500万円への値上げ要求」と誤解したため)[30][44][52]。
  8. ↑ 「メクラ(盲)」――盲目の市を主人公とする勝の代表作『座頭市』シリーズの大ヒットと、大映が経営的窮地を脱した(目が開いた)状態とを掛けた発言。
  9. ↑ 1966年9月の大映との契約更新時に、勝が永田雅一社長に独立プロ設立を申し入れ許諾を得た[62]。同年秋(10月頃)には勝プロダクションが誕生している[62][63][64][65]。
  10. ↑ 大映のスタッフや設備を使って撮影を行い、配給は大映が担当した。黒字の場合は大映が負担した製作費を差し引いた残りの利益を勝プロと大映で分配し、赤字が生じても勝プロが製作費を負担しない仕組みであった[49][56]。
  11. ↑ 1960年代中後期、資金難に陥った大映は、資本参加していたフジテレビへ映画旧作の放映権売却を開始した[67]。1968年1月21日(日)の夜、フジテレビは「日曜映画劇場」にて勝が1962年に主演した映画『座頭市物語』を放送。大幅にカットされていたものの視聴率26.1%を記録し、NHKの黄金番組『竜馬がゆく』の18.3%を圧倒的に打ち負かし、ディレクターが交代させられるほどの異例の事件となった[68][69]。
  12. ↑ 勝は菊島隆三の脚本に納得せず使用しなかったため、自ら書き直して完成させた[80](クレジット上の脚本は菊島と勝の共同名義)。
  13. ↑ 大映は同じく経営が悪化していた日活からの提案を受け[55]、互いに脆弱な配給網を補完すべく[49][55][56]、1970年4月[56][88][89] に共同で「ダイニチ映配株式会社」を設立し[49][55][56][88][89]、同年6月より業務を開始した[89]。両社の製作した映画を組み合わせ、互いの系統映画館を通じて配給・上映した[49][55][56][88]。しかし1971年5〜6月に日活の経営陣が刷新され[82]、同社が7月に一般映画の製作を停止し[82]、8月の『顔役』公開直前、日活は配給体制からの撤退を通告して実質的に離脱し[80]、9月には提携を正式に解消してそれぞれの自主配給へと戻った[55]。
  14. ↑ 【事情①】騒動の前、勝プロが原作者・小池一夫から『子連れ狼』の映画化権を取得した契約の段階では、「映画以外の話が来た場合は事前に相談する」ということになっていた[104]。だが1973年初頭、小池一夫の作品マネージメントを任されていた者が勝プロの陰で『子連れ狼』の権利をユニオン映画に売却した[48][80][103]。小池一夫は事前に相談したわけではなく、すべて陰で準備がなされた上でただ了解をとりにいく形で勝のもとを訪れたにすぎなかったが[104]、契約上は「事前相談」の取り決めにすぎず事前に同意を得る規定がなかったため、勝も法律上文句を言えない状況にあった[104]。【事情②】騒動の後、ユニオン映画社長の江守清樹郎が勝に土下座したことで、勝もこれを断り切れず承諾した[48][80]。
  15. ↑ 1996年、舞台『夫婦善哉 東男京女』の公演期間中のインタビューにおいて、勝は当時すでに婚約の明くる日から二人が合わないと感じていたと明かし、自身(東京男)と玉緒(京都女)について「東男と京女ほど合わないものはないんだよ」と語り、「東京だったら、すごい玄関の家でも、開けたらすぐ裏に出ちゃうだろ。京都は玄関はちっちゃいけど、『汚いとこどすが上がっておくれやす』って入ってったら、ずーっと奥まで部屋がある。奥の深さが違うんだ、人間もね」と例えている[131]。
  16. ↑ 旧・勝プロが設立、運営していた演劇学校「勝アカデミー」出身の小堺一機やルー大柴等。
  17. ↑ 博報堂の広告マンとして同CMを担当。現・大広副社長。
  18. ↑ 大映映画「かんかん蟲は唄う」主題歌。
  19. ↑ 歌:鶴美幸。
  20. ↑ 歌:矢島ひろ子。
  21. ↑ 歌:浅野靖子。
  22. ↑ 大映映画「清水港喧嘩旅」主題歌。
  23. ↑ 歌:伊丹章子。
  24. ↑ 大映映画「東海道の野郎ども」主題歌。
  25. ↑ 歌:木下雅子。
  26. ↑ 唄:勝新太郎・水原弘。
  27. ↑ 唄:水原弘。
  28. 1 2 大映映画「座頭市シリーズ」主題歌。
  29. ↑ 大映映画「座頭市果し状」主題歌。
  30. ↑ 大映映画「悪名シリーズ」主題歌。
  31. ↑ 時代劇「唖侍 鬼一法眼」主題歌。
  32. ↑ テレビ映画「座頭市物語」主題歌。
  33. ↑ テレビ映画「座頭市物語」挿入歌。
  34. ↑ フジテレビ「新・座頭市」主題歌。いわゆる新録バージョンで、勝新の自由なボーカルとバンジョーのリフが印象的。

出典

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  98. ↑ 犬塚稔「新座頭市物語 折れた杖 子母沢寛原作 勝新太郎監督作品」『シナリオ』1972年10月号、日本シナリオ作家協会、99-128頁
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  181. ↑ このランキングは「2001年映画の旅 ぼくが選んだ20世紀洋画・邦画ベスト20」 文藝春秋、にも収録されている。(2000年)※のち『ぼくが選んだ洋画・邦画ベスト200』と改題して文庫
  182. ↑ 『映画秘宝ex&オトナアニメex アニメクリエイターの選んだ至高の映画』62p-71pで、その他の作品はジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』ルネ・クレマン『狼は天使の匂い』村川透『野獣死すべし』ジャン=ピエール・メルヴィル『仁義』鈴木清順『殺しの烙印』ロバート・アルトマン『ロング・グッドバイ』長谷川和彦『太陽を盗んだ男』アレックス・コックス『レポマン』サム・ペキンパー『ガルシアの首』を選び、フランシス・フォード・コッポラ『ゴッドファーザー』マーティン・スコセッシ『タクシードライバー』も好きな映画に挙げている
  183. ↑ オー!!マイ神様!!:これまでの“マイ神”|TBSテレビ:オー!!マイ神様!!

参考文献

  • 勝新太郎『俺、勝新太郎』(2014年6月、広済堂文庫)ISBN 978-4331654323
  • 春日太一『天才 勝新太郎』(2010年1月、文春新書)ISBN 978-4166607358
  • 田崎健太『偶然完全 勝新太郎伝』(2011年12月、講談社)ISBN 978-4062174749
  • 平凡社編『勝新太郎 一周忌追悼紀念』(別冊太陽)(1998年6月、平凡社)ISBN 978-4582943139
  • 文藝春秋編『勝新太郎対談集』(2017年6月、文春文庫)ISBN 978-4167908744
  • 市山隆一『私論・勝新太郎―「勝新語録」とその背景』(1998年5月、講談社)ISBN 978-4062090896
  • 室岡まさる『市川雷蔵とその時代』(1993年7月、徳間書店)ISBN 978-4195552377
  • 山城新伍『若山富三郎・勝新太郎 無頼控 おこりんぼ さびしんぼ』(2008年9月、広済堂文庫)ISBN 978-4331654330

外部リンク