大内恒夫
大内 恒夫(おおうち つねお、1922年〈大正11年〉3月24日 - 2018年〈平成30年〉2月8日)は、日本の裁判官、弁護士、最高裁判所判事[1]。位階は正三位[2]。
| 大内 恒夫 おおうち つねお | |
|---|---|
| 生年月日 | 1922年3月24日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 2018年2月8日(95歳没) |
| 国籍 |
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| 出身校 | 東京帝国大学法科[4] |
| 任期 | 1985年11月5日 - 1992年3月23日 |
| 任命者 | 第2次中曽根内閣(1改) |
| 前任者 | 矢口洪一[5] |
| 後任者 | 三好達[6] |
| 任期 | 1984年2月20日 - 1985年11月4日 |
| 前任者 | 矢口洪一[7] |
| 後任者 | 四ツ谷巖[8] |
| 任期 | 1982年5月28日 - 1984年2月19日 |
| 前任者 | 牧圭次[9] |
| 後任者 | 坂井芳雄[10] |
| 任期 | 1981年7月20日 - 1982年5月27日 |
| 前任者 | 勝俣利夫[11] |
| 後任者 | 西村宏一[12] |
| 任期 | 1980年3月22日 - 1981年7月19日 |
| 前任者 | 矢口洪一[13] |
| 後任者 | 堀江一夫[14] |
概要
旧制山形中学校3年生のころ、珍しいもの見たさに父の大内有恒が弁護人を務める刑事事件の陪審裁判を傍聴し、そこで裁判官の堂々たる姿に憧れを抱き、裁判官の道を選択する[3][15]。1943年(昭和18年)に東京帝国大学法科を卒業[4]。同年司法官試補となる[4]。東京地裁判事、最高裁訴廷部などに勤務[4]。再び裁判事務に就いた後、1964年(昭和39年)5月に最高裁秘書課長兼広報課長に就任[4]。新聞記者との折衝も仕事の一つだが、懇切丁寧な大内の対応は記者から好評だった[4]。後に最高裁経理局長となり、現最高裁庁舎の建設に参画した[4]。78億円から126億円と膨らんだ建設予算獲得のために大蔵省との折衝をした[4]。国家的事業と考え、法廷内に吸音板を張り巡らして静穏に工夫したり、天井の高い大法廷の暖房にエアカーテンを流すなど最新の注文をつけるなどした[4]。その後、名古屋高裁長官や東京高裁長官を歴任[16]。
1985年(昭和60年)11月5日に最高裁判事に就任[16]。司法消極主義については「一般論でいえば、三権分立の中で権限のないことまで足を踏み入れるのは避けるべきだ。ただ、あくまで具体的な事件に即して判断すること」と述べた[17]。
1989年(平成元年)6月22日に山中事件の上告審で、最高裁第一小法廷の裁判長として、事実誤認を理由に第一審・控訴審の死刑判決を破棄し、名古屋高裁に審理を差し戻す判決を言い渡した[注 1][20]。その後、1992年(平成4年)3月に定年退官[21]。退官後、1994年(平成6年)に勲一等瑞宝章を受章[22]。その後、2018年(平成30年)2月に死去[23]。死没日をもって、正八位から正三位に進階した[2]。
父の大内有恒は弁護士で元山形市長[3]。矢口洪一最高裁長官とは気心の知れた間柄である[16]。趣味は将棋、囲碁、ゴルフ[24]。
略歴
東京帝国大学法科を卒業後、1943年(昭和18年)に司法官試補[4]。司法官試補任官以降の経歴は以下の通り。
- 1948年(昭和23年)6月23日 - 1952年(昭和27年)7月30日:東京地方裁判所判事補[25]
- 1952年(昭和27年)7月31日 - 1955年(昭和30年)12月9日:浦和地方裁判所・浦和家庭裁判所判事補[26]
- 1955年(昭和30年)12月10日 - 1956年(昭和31年)4月30日:最高裁判所事務総局訟廷部付[27]
- 1956年(昭和31年)5月1日 - 1958年(昭和33年)9月30日:最高裁判所事務総局訟廷部第一課長[28]
- 1958年(昭和33年)10月1日 - 1960年(昭和35年)5月17日:名古屋高等裁判所判事[29]
- 1960年(昭和35年)5月18日 - 1962年(昭和37年)4月19日:名古屋高等裁判所事務局長[30]
- 1962年(昭和37年)4月20日 - 1962年(昭和37年)5月4日:名古屋地方裁判所・名古屋家庭裁判所判事[31]
- 1962年(昭和37年)5月5日 - 1964年(昭和39年)4月30日:東京地方裁判所判事[32]
- 1964年(昭和39年)5月1日 - 1969年(昭和44年)6月30日:最高裁判所事務総局秘書課長兼最高裁判所事務総局広報課長[33]
- 1969年(昭和44年)7月1日 - 1975年(昭和50年)4月30日:最高裁判所事務総局経理局長[34]
- 1975年(昭和50年)5月1日 - 1976年(昭和51年)5月28日:甲府地方裁判所・甲府家庭裁判所長[35]
- 1976年(昭和51年)5月29日 - 1978年(昭和53年)9月21日:千葉地方裁判所長[36]
- 1978年(昭和53年)9月22日 - 1980年(昭和55年)3月21日:東京高等裁判所部総括判事(第9民事部) [37]
- 1980年(昭和55年)3月22日 - 1981年(昭和56年)7月19日:東京家庭裁判所長[38]
- 1981年(昭和56年)7月20日 - 1982年(昭和57年)5月27日:東京地方裁判所長[39]
- 1982年(昭和57年)5月28日 - 1984年(昭和59年)2月19日:名古屋高等裁判所長官[40]
- 1984年(昭和59年)2月20日 - 1985年(昭和60年)11月4日:東京高等裁判所長官[41]
- 1985年(昭和60年)11月5日 - 1992年(平成4年)3月23日:最高裁判所判事[42]
- 1986年(昭和61年)7月6日:最高裁判所裁判官国民審査において、罷免を可とする票6,083,880票、罷免を可とする率10.65パーセントで信任[43]。
- 1992年(平成4年)3月24日:定年退官[44]
- 1992年(平成4年)5月12日:弁護士登録(第一東京弁護士会)[45]
- 1994年(平成6年) 4月29日:春の叙勲で勲一等瑞宝章を受章[46]。
- 2013年(平成25年)6月28日:弁護士登録取消[47]
- 2018年(平成30年)2月8日:肺炎のため、死去した[48]。95歳没[48]。
主な担当訴訟
東京高裁部総括判事として
最高裁判事として
大法廷判決に対する対応
- 1986年(昭和61年)6月11日、北方ジャーナル事件で北海道知事選挙に立候補を予定していた五十嵐広三が北方ジャーナルのタイトルが名誉毀損に当たると主張し、北方ジャーナルの出版の事前差し止めを求めた他、北方ジャーナルが提起した国家賠償請求訴訟の上告審で、出版物の印刷、製本、販売、頒布等の仮処分による事前差し止めは日本国憲法第21条第2項にいう検閲にあたらないと判断した[50]。
- 1989年(平成元年)3月8日、法廷メモ訴訟で、法廷内でのメモ禁止は日本国憲法第14条第1項(法の下の平等)及び日本国憲法第21条第1項(表現の自由)、日本国憲法第82条第1項(裁判の公開)に反すると判断した[51]。
小法廷判決に対する対応
- 1987年(昭和62年)7月9日、名古屋女子大生誘拐殺人事件で身代金目的拐取、拐取者身代金要求、殺人、死体遺棄罪に問われ、第一審で死刑判決を受けた木村修治の上告審で「犯罪の性質や結果から見て、極めて重大な事件であって、死刑を是認せざるを得ない」として木村と弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、木村に対する死刑判決が確定した[52]。
- 1987年(昭和62年)9月24日、第13回参議院議員通常選挙で一票の格差が最大5.56倍になった定数配分は違憲として有権者が選挙無効を求めた訴訟の上告審で「5.56倍の格差や一部の選挙区で逆転現象が生じるなどの不均衡があったとしても、参議院の地域代表性格などを考慮すれば、未だ違憲とはいえない」と判断し、原告の上告を棄却する判決を言い渡した[53]。
- 1988年(昭和63年)1月21日、長良川改修工事に伴い、掘削された輪中の文化財的価値が土地収用法の補償対象に該当するか否かが争点となった訴訟の上告審で「土地収用法の補償対象は、経済的、財産的な損失に限られ、経済的評価に馴染まない輪中の文化財的な価値は補償の対象とはなり得ない」と判断し、控訴審判決のうち、輪中の文化財的価値を認定した部分を破棄し、国に1130万円の支払いを命じる判決を言い渡した[54]。
- 1989年(平成元年)4月6日、認知した父親が死亡した後でも認知無効の訴えが提訴可能か否かが争われた訴訟の上告審で「子供には親子関係の有無を確定する法律上の利益があり、認知者の死亡後でも検察官を相手方として訴えを起こせる」と判断し、認知無効の訴えを認めなかった大審院判例を47年ぶりに変更する判決を言い渡した[注 2][55]。
- 1990年(平成2年)3月29日、新宿騒乱で日本国有鉄道清算事業団が中核派全日本学生自治会総連合国際部長ら21人に損害賠償270万円の支払いを求めた訴訟の上告審で、中核派側7人の上告を棄却する判決を言い渡したため、原告の請求通り損害賠償270万円の支払いを命じた第一審判決が確定した[56]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 『産経新聞』2018年2月20日 東京朝刊 31頁「【訃報】大内恒夫氏(元最高裁判事)」(産経新聞東京本社)
- 1 2 『官報 平成30年本紙第7226号11頁 叙位・叙勲』(プレスリリース)国立印刷局、2018年3月20日。
- 1 2 3 『読売新聞』1985年11月6日 全国版 朝刊 3頁「[今日の顔] 最高裁判事に就任した 大内恒夫さん」(読売新聞社)
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 野村二郎 1986, p. 277.
- ↑ 『読売新聞』1985年9月28日 全国版 夕刊 1頁「最高裁 長官に矢口氏 判事には大内氏内定」(読売新聞社)
- ↑ 『読売新聞』1992年1月22日 全国版 東京夕刊 夕二面2頁「最高裁判事に小野幹雄大阪高裁長官と三好達東京高裁長官 政府が内定」(読売新聞東京本社)
- ↑ 『読売新聞』1984年2月9日 全国版 朝刊 3頁「東京高裁長官に大内氏」(読売新聞社)
- ↑ 『朝日新聞』1985年11月1日 夕刊 2総2頁「東京高裁長官に四ツ谷巌氏起用」(朝日新聞東京本社)
- ↑ 『読売新聞』1982年4月20日 全国版 夕刊 1頁「最高裁判事に牧氏が確定的」(読売新聞社)
- ↑ 『読売新聞』1984年2月17日 全国版 夕刊 2頁「最高裁人事」(読売新聞社)
- ↑ 『読売新聞』1981年7月20日 全国版 朝刊 2頁「最高裁人事」(読売新聞社)
- ↑ 『読売新聞』1982年5月25日 全国版 夕刊 2頁「最高裁判事に牧名古屋高裁長官を決定」(読売新聞社)
- ↑ 『読売新聞』1980年3月22日 全国版 夕刊 2頁「最高裁人事」(読売新聞社)
- ↑ 『読売新聞』1981年7月11日 全国版 朝刊 2頁「東京地裁所長に大内恒夫氏内定 東京家裁所長は堀江氏/裁判官不祥事」(読売新聞社)
- ↑ 『読売新聞』2000年11月16日 全国版 東京朝刊 2社38頁「[司法改革への試練] (2)陪審制 長所は素人の新鮮な目(連載)」(読売新聞東京本社)
- 1 2 3 野村二郎 1986, p. 278.
- ↑ 『朝日新聞』1985年11月7日 朝刊 3総3頁「大内恒夫さん 最高裁判事になった(ひと)」(朝日新聞東京本社)
- ↑ 『読売新聞』1990年7月27日 全国版 東京夕刊 夕二面2頁「27日の「山中事件」判決要旨」(読売新聞東京本社)
- ↑ 『読売新聞』1990年8月9日 全国版 東京朝刊 社会27頁「山中事件差し戻し審で逆転判決の◯◯さん、無罪確定へ 検察が上告を断念」(読売新聞東京本社)
- ↑ 『毎日新聞』1989年6月23日 東京朝刊 三面3頁「山中事件、最高裁第一小法廷の判決理由要旨」(毎日新聞東京本社)
- ↑ 『読売新聞』1992年3月17日 全国版 東京夕刊 夕二面2頁「最高裁判事に三好達氏、東京高裁長官に石田穣一氏/閣議決定」(読売新聞東京本社)
- ↑ 『毎日新聞』1994年4月29日 東京朝刊 特集面12頁「[特集] 「春の叙勲」受章者/1 前文・勲一等」(毎日新聞東京本社)
- ↑ 『読売新聞』2018年2月20日 全国版 東京朝刊 2社38頁「大内恒夫氏(元最高裁判事)死去」(読売新聞東京本社)
- ↑ 『読売新聞』1986年6月27日 全国版 朝刊 29頁「国民審査を受ける最高裁10裁判官 大内恒夫」(読売新聞社)
- ↑ 『官報 昭和23年本紙第6438号13頁 叙任及び辞令 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1948年7月2日。
- ↑ 『官報 昭和27年本紙第7686号416頁 叙任及び辞令 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1952年8月20日。
- ↑ 『官報 昭和30年本紙第8697号531頁 叙任及び辞令 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1955年12月26日。
- ↑ 『官報 昭和31年本紙第8803号111頁 叙任及び辞令 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1956年5月4日。
- ↑ 『官報 昭和33年本紙第9535号46頁 叙任及び辞令 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1958年10月3日。
- ↑ 『官報 昭和35年本紙第10021号435頁 叙任及び辞令 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1960年5月20日。
- ↑ 『官報 昭和37年本紙第10601号527頁 叙任及び辞令 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1962年4月20日。
- ↑ 『官報 昭和37年本紙第10612号155頁 叙任及び辞令 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1962年5月8日。
- ↑ 『官報 昭和36年本紙第11214号10頁 人事異動 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1964年5月4日。
- ↑ 『官報 昭和44年本紙第12763号16頁 人事異動 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1969年7月3日。
- ↑ 『官報 昭和50年本紙第14500号12頁 人事異動 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1975年5月7日。
- ↑ 『官報 昭和51年本紙第14818号20頁 人事異動 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1976年6月1日。
- ↑ 『官報 昭和53年本紙第15510号10頁 人事異動 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1978年9月26日。
- ↑ 『官報 昭和55年本紙第15951号13頁 人事異動 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1980年3月25日。
- ↑ 『官報 昭和56年本紙第16346号12頁 人事異動 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1981年7月22日。
- ↑ 『官報 昭和57年本紙第16599号12頁 人事異動 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1982年6月1日。
- ↑ 『官報 昭和59年本紙第17112号13頁 人事異動 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1984年2月22日。
- ↑ 『官報 昭和60年本紙第17624号12頁 人事異動 内閣』(プレスリリース)国立印刷局、1985年11月8日。
- ↑ 『朝日新聞』1986年7月8日 夕刊 1総1頁「全員を信任 最高裁裁判官の国民審査」(朝日新聞東京本社)
- ↑ 『官報 平成4年本紙第879号15頁 人事異動 最高裁判所』(プレスリリース)国立印刷局、1992年4月2日。
- ↑ 『官報 平成4年本紙第927号25頁 弁護士名簿登録・登録換・登録取消』(プレスリリース)国立印刷局、1992年6月10日。
- ↑ 『朝日新聞』1994年4月29日 朝刊 特設ニュース面17頁「春の叙勲受章者--勲三等以上 平成6年」(朝日新聞東京本社)
- ↑ 『官報 平成25年号外第164号46頁 弁護士名簿登録・登録換・登録取消』(プレスリリース)国立印刷局、2013年7月29日。
- 1 2 『毎日新聞』2018年2月20日 東京朝刊 社会面31頁「訃報:大内恒夫さん 95歳=元最高裁判事」(毎日新聞東京本社)
- ↑ 『読売新聞』1980年4月1日 全国版 朝刊 3頁「汚職役人退職金は合法 東京高裁逆転判決 分限免職を認める」(読売新聞社)
- ↑ 『朝日新聞』1986年6月11日 夕刊 1総1頁「出版の事前差し止め許容 北方ジャーナル訴訟最高裁大法廷判決」(朝日新聞東京本社)
- ↑ 『読売新聞』1989年3月8日 全国版 東京夕刊 夕一面1頁「「傍聴メモ」 原則認める 最高裁が初判断 「表現の自由」の一環」(読売新聞東京本社)
- ↑ 『毎日新聞』1987年7月9日 東京夕刊 社会面11頁「最高裁、誘拐殺人の木村被告の上告棄却」(毎日新聞東京本社)
- ↑ 『読売新聞』1987年9月24日 全国版 東京夕刊 夕一面1頁「参院選5.56倍は合憲 国会裁量権逸脱せぬ/1票の格差最高裁判決」(読売新聞東京本社)
- ↑ 『読売新聞』1988年1月21日 全国版 東京夕刊 夕2社14頁「土地の文化財的価値 補償の対象外 木曾川「輪中訴訟」/最高裁判決が初判断」(読売新聞東京本社)
- 1 2 『読売新聞』1989年4月7日 全国版 東京朝刊 2社30頁「父親の死亡後も「認知無効の訴え」が可能 最高裁、47年ぶりに新判断」(読売新聞東京本社)
- ↑ 『読売新聞』1990年3月29日 全国版 東京夕刊 夕2社22頁「新宿騒乱事件賠償訴訟 中核派元幹部らの上告を棄却/最高裁」(読売新聞東京本社)
参考文献
- 野村二郎『最高裁全裁判官:人と判決』三省堂、1986年。ISBN 9784385320403。
- 野村二郎『日本の裁判史を読む事典』自由国民社、2004年。ISBN 9784426221126。
| 司法職 | ||
|---|---|---|
| 先代 岡成人 |
1964年 - 1969年 |
次代 千葉和郎 |
| 先代 岩野徹 |
1969年 - 1975年 |
次代 草場良八 |
| 先代 木梨節夫 |
1975年 - 1976年 |
次代 田中永司 |
| 先代 牧圭次 |
1976年 - 1978年 |
次代 田宮重男 |