宝寿院顕淳
宝寿院 顕淳(ほうじゅいん けんじゅん、永正15年〈1518年〉 - 生没年不詳〈天文7年〈1538年〉以降〉)は、戦国時代の祇園社(現・八坂神社)の社務執行(宝寿院門主)を務めた人物である。幼名は玉寿丸。
前任の宝寿院顕増の跡を承けて祇園社務執行職に就任した。自ら書き残した『祇園執行日記』には、天文2年(1533年)の祇園会において町衆が唱えた著名な言葉「神事これなくとも、山鉾渡したし」などの動向が克明に記録されている。
生涯・事績
執行職の継承
前社務執行の宝寿院顕増の退任・没後、幼名「玉寿丸」として祇園社務執行職および宝寿院の家督を継承した。天文2年(1533年)5月および6月日付の室町幕府奉行人連署奉書(案)の宛所に「当社執行玉寿丸」「当社執行玉寿丸殿」と見えるのが史料上の初見である[1]。
天文2年の祇園会と「神事これなくとも山鉾渡したし」
顕淳が社務執行に就任した直後の天文2年(1533年)6月、延暦寺(山門)の訴えや情勢変化(日吉祭の延期等)を受けた室町幕府より、祇園会(神事・神輿渡御)の中止・延期が命じられた[2]。
これに対し、山鉾巡行を支えていた下京の町衆(地下人)らは強く反発し、**「神事これなくとも、山鉾渡したし」**(神社側の神事や神輿渡御が行われなくとも、自分たちの山鉾巡行だけでも執り行いたい)と強く要望して抗議・訴訟を起こした[3][4]。
この「神事これなくとも、山鉾渡したし」という文言は、神輿渡御をはじめとする神事は「祇園社(八坂神社)の行事」、山鉾巡行は「町衆独自の自治的行事」とする都市町衆の意識や観念が完全に定着していたことを示す史実として、祇園祭の歴史において頻繁に引用・論じられている[3]。
町衆の強い熱意を受けた幕府は、「無山鉾者不可然(山鉾巡行が行われないのは不都合である)」と判断を変更し、同年6月8日、下京町人と相談の上で山鉾を整え、例年通り巡行を決行するよう命じる奉書を玉寿丸(顕淳)宛てに発給した[5]。
『祇園執行日記』の執筆
顕淳は、天文2年(1533年)7月から天文4年(1535年)9月までの約2年間にわたり、自ら社務や京都の出来事を記録した『祇園執行日記』(『群書類従』巻115所載)を執筆した。同日記の巻頭には「玉寿丸十六歳」と記されており、ここから逆算して永正15年(1518年)生まれと推定されている[6]。
16歳という若さでありながら、幕府・延暦寺・町衆との複雑な交涉や、日常の社務・神事の差配を日記に克明に記録しており、戦国期京都の社会動向を知る一級史料となっている。
また、社務執行としての役職補任権を行使し、天文4年(1535年)11月27日付の「祇園社駒大夫職補任状」には初めて「社務執行顕淳」の署名と花押が確認される[7]。
天文7年(1538年)正月4日付の「請文案」にも「社務執行」としての在任記録が残るが[8]、これ以降史料から姿を消すため、同頃に没したか退任したと考えられている。
後継
顕淳の没後(または退任後)、その嗣子と推定される「玉寿(2代目)」が一時執行職に就いたが早世し、その後は、養子と推測される宝寿院常泉(幼名:猿千世丸、宝寿院門主)が跡を継いで祇園社務執行職を務めた[9]。
脚注
参考文献
- 『八坂神社』(真弓常忠)
- 『八坂神社文書』(上巻・下巻)
- 『八坂神社記録』(第3巻・第4巻)
- 『新編 八坂神社記録』
- 『祇園執行日記』(『群書類従』第115冊所載)