宝寿院顕縁
宝寿院 顕縁(ほうじゅいん けんえん、生没年不詳〈14世紀後半 - 15世紀前半〉)は、南北朝時代末期から室町時代中期にかけての祇園社(現・八坂神社)の社務執行(宝寿院門主)を務めた人物である。僧位僧官は法印権少僧都。幼名は阿かゝ丸(あかかまる)、宝寿院玉寿丸。
室町幕府の足利将軍家(義満・義持・義量)に御師・祈祷師として仕え、のちに御師権限を後継の宝寿院顕宥に譲った後も社務執行として社頭の管領・相論に対処し、宝寿院による執職独占の正統性を確立した。
生涯・事績
出自と継承・大政所別当職の受領
父は公家の藤井侍従嗣保[1]。宝寿院顕深の甥または孫とされ母系で宝寿院の血統には属したが、父が藤原氏である事から伝統的に祇園社務執行を輩出してきた紀家(行円の血統)の出身ではなかったとされる[1]。
幼名は「阿かゝ丸」と称し、明徳3年(1392年)8月から11月にかけて、前任の社務執行・宝寿院顕深から「遺跡」の譲与を受け、名を「顕縁」と改めた[1]。
また、応永3年(1396年)3月10日には顕豪より「大別当玉寿(顕縁の幼名)」に対して「祇園社大政所別当職等」を譲与する譲状案が発給されており[2]、若少期に祇園社の主要職能である大政所別当職の権益を手中に収めていたことが確認される。
御師としての活動と室町将軍家
顕縁が室町幕府の「御師」として活動したのは、明徳3年(1392年)から応永33年(1426年)頃までの時期であり、第3代将軍・足利義満、第4代将軍・足利義持、第5代将軍・足利義量の時代にあたっている。
祇園祭刃傷事件への対処
応永27年(1420年)6月14日、祇園会の祭礼において波利菜女御輿(はりさいにょみこし)が到着した際、輿丁(駕輿丁)らの喧嘩に端を発し、左右方の宮仕・神人らが刃傷沙汰を起こして18日に宮仕が死亡する事件が発生した[5]。
顕縁は「祇園執行権少僧都顕縁」として幕府(管領・侍所)へ目安案(申状)を提出し、「言語道断の次第なり」と糾弾し、加害者への厳重な処罰と急速な裁判(御沙汰)を求めた[6]。
執行職相承の相論と正統性の主張
正長元年(1428年/応永35年)、紀家の血を引くと称する社僧の房意より、顕縁が紀家出身でない(藤原氏の子である)ことを理由として、社務執行職の継承に関する異議申し立て・訴訟が起こされた[1]。
これに対し顕縁は、自らが「顕深法印の正孫」であることを根拠に継承の正当性を反論し、幕府の裁定を得て執行職の地位を守り抜いている[1]。
晩年と後継
永享6年(1434年)10月まで社務執行としての活動記録(文書)が確認できる[1]。没年または退任時期は不詳であるが、その後、社務執行職も宝寿院顕宥へ引き継がれた[1]。
脚注
参考文献
- 『八坂神社文書』(上巻・下巻1)
- 『八坂神社記録』(第2巻)
- 『新編 八坂神社記録』