宮内庁式部職楽部
宮内庁式部職楽部
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宮内庁式部職楽部の演奏会場 | |
| 略称 | 楽部、宮内庁楽部 |
|---|---|
| 前身 | 雅楽局、式部寮雅楽課、宮内省式部職雅楽部、宮内省式部職楽部 |
| 種類 | 宮内庁式部職の部門 |
| 目的 | 宮中儀式・饗宴・園遊会等における雅楽・洋楽の演奏、雅楽の保存・継承 |
| 所在地 | 東京都千代田区千代田 |
| 関連組織 | 宮内庁、宮内庁式部職 |
宮内庁式部職楽部(くないちょうしきぶしょくがくぶ)は、宮内庁式部職に属し、雅楽および洋楽を担当する部門である。略称は楽部、または宮内庁楽部。
宮中の儀式、饗宴、園遊会などにおいて雅楽を演奏するほか、春・秋の定期公演、国立劇場や地方での公演などを通じて雅楽を公開している[1]。また、楽部の職員は洋楽も修得しており、皇室行事において洋楽演奏も行う[2]。
宮内庁式部職楽部が伝承する雅楽は、国の重要無形文化財に指定され、2009年(平成21年)にはユネスコの無形文化遺産「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載された[1]。現在、国の重要無形文化財に指定されている雅楽を保持する公的機関として、宮内庁式部職楽部が位置づけられている[3]。
その制度的起源は、1870年(明治3年)に、京都・南都・天王寺の三方楽所と江戸の紅葉山楽人を統合して設けられた雅楽局に求められる[3]。以後、式部寮雅楽課、宮内省式部職雅楽部、宮内省式部職楽部などを経て、戦後の宮内庁式部職楽部へつながった。
概要
[編集]宮内庁式部職楽部は、宮内庁式部職のもとで雅楽および洋楽を担当する部門である。宮内庁の組織説明では、式部職は儀式、雅楽・洋楽、鴨場接待、外国交際などを担当し、そのうち雅楽・洋楽は楽部が扱うとされている[4]。
雅楽は、日本古来の歌舞、アジア大陸や朝鮮半島から伝来して日本で整理された外来楽舞、平安時代に成立した声楽曲などを含む複合的な芸能である。文化遺産データベースでは、雅楽を、神楽・東遊などの日本古来の音楽と舞、5世紀から9世紀にかけて中国大陸や朝鮮半島を経由して伝来した外来の音楽と舞、日本で整理された管絃・舞楽、催馬楽・朗詠などの総称として説明している[1]。宮内庁式部職楽部は、この雅楽を宮中を中心に伝承する公的機関である。
楽部の活動は、宮中での儀式奏楽にとどまらない。宮中の儀式、饗宴、園遊会などで雅楽を演奏するほか、春・秋の定期公演、国立劇場や地方での公演を通じて雅楽を公開している[1]。このため、楽部は、宮中儀礼を担う現業機関であると同時に、重要無形文化財としての雅楽を保存・継承し、一般に公開する文化機関としての性格も有している。
明治以後の楽部は、伝統芸能としての雅楽を保存するだけでなく、近代国家の儀礼音楽を担う部門として整備された。塚原康子は、明治国家の音楽政策上の課題として、国家儀礼・国際儀礼に伴う音楽の制度化、国民教化のための「国楽」の創成、音楽教育制度の確立を挙げ、そのうち国家儀礼・国際儀礼に不可欠な雅楽と西洋音楽の制度化が早くから進められたとする[5]。この流れのなかで、明治3年11月7日(西暦1870年12月28日)に太政官内へ雅楽局が設置され[6]、のちの式部寮雅楽課、宮内省式部職楽部へ連なる音楽部局が形成された[5][7]。
職務
[編集]宮中行事での演奏
[編集]宮内庁式部職楽部の中心的な職務は、宮中の儀式、饗宴、園遊会などにおける奏楽である[1]。宮内庁の組織説明では、式部職が儀式、雅楽・洋楽、鴨場接待、外国交際などを担当し、そのうち雅楽・洋楽は楽部が扱うとされている[4]。
楽部が担当する雅楽には、宮中祭祀と結びついた国風歌舞、唐楽・高麗楽などの外来楽舞、催馬楽・朗詠などの声楽曲が含まれる。これらは単一の音楽様式ではなく、歴史的に異なる起源と性格をもつ複数の種目から構成される。
公開演奏
[編集]楽部は、宮中行事での演奏に加え、雅楽を一般に公開する活動も行っている。雅楽演奏会は1956年(昭和31年)から皇居内の楽部で毎年春秋2回行われ、春季は文化団体や在日外交団を中心に、秋季は一般の参観申込者を対象に公開されている[2]。
また、地方公共団体などの要請により地方公演を行うほか、国立劇場でも公演している[2]。これらの公開演奏は、宮中儀礼のために伝承されてきた雅楽を、文化財として社会に開く役割をもつ。
海外公演
[編集]宮内庁式部職楽部は、海外公演も行っている。宮内庁によれば、1959年(昭和34年)にはニューヨークの国連総会議場で初の海外公演を行い、その後、米国、欧州、韓国などで公演を行った[2]。2012年(平成24年)には英国のエディンバラ国際芸術祭に参加し、2018年(平成30年)には日仏友好160周年に際してフランスのパリおよびストラスブールで公演を行った[2]。
海外公演は、宮中儀礼として伝承されてきた雅楽を、日本の伝統文化として国外に紹介する役割をもつ。2009年(平成21年)のユネスコ無形文化遺産記載後は、楽部の雅楽は国内の重要無形文化財であると同時に、国際的に認知された無形文化遺産としても位置づけられている。
洋楽の担当
[編集]楽部は雅楽だけでなく洋楽も担当する。宮内庁公式サイトは、楽部職員が洋楽も修得し、皇室行事の際に演奏を行うと説明している[2]。宮内庁書陵部所蔵の「欧州音楽教師雇入録」は、式部職楽部が雅楽のほか洋楽の習得にも力を入れ、洋楽を教授する音楽教師を雇い入れたことを示す資料である[8]。
このため、宮内庁式部職楽部は、伝統的な雅楽伝承機関であると同時に、近代以後の宮中儀礼・国際儀礼に必要な洋楽も担ってきた音楽部門である。
伝承する雅楽
[編集]種目
[編集]宮内庁式部職楽部が伝承する雅楽は、単一の音楽様式ではなく、起源や成立時期を異にする複数の種目から構成される。現在日本で伝承されている雅楽は、明治期以後の宮内省・宮内庁式部職楽部での伝承状況に即して、国風歌舞、外来楽舞、平安時代に成立した歌曲の三つに分類される[9]。
このうち国風歌舞には、神楽、東遊、倭舞、大歌、大直日歌、田舞、久米舞など、日本固有の起源をもち祭祀に用いられてきた歌舞が含まれる。外来楽舞には、アジア大陸や朝鮮半島から伝来した唐楽・高麗楽が含まれ、管絃や舞楽として演奏される。さらに、平安時代に成立した歌曲として、催馬楽や朗詠が伝承されている[9]。
宮内庁公式サイトでも、雅楽には、日本固有の古楽に基づく神楽、倭舞、東遊、久米舞、五節舞などの国風歌舞、外来音楽を基として作られた大陸系の楽舞である唐楽・高麗楽、平安時代に作られた催馬楽・朗詠があると説明されている[2]。演奏形式は、器楽を演奏する管絃、舞を主とする舞楽、声楽を主とする歌謡に分かれる[2]。
明治撰定譜との関係
[編集]宮内庁式部職楽部の雅楽伝承を理解するうえで、明治撰定譜は重要である。明治初年、三方楽所と紅葉山楽人が雅楽局に集められたことにより、各楽所・各家に伝わっていた旋律、息継ぎ、曲目、奏法の差異を整理する必要が生じた。この整理の結果として『明治撰定譜』が編纂された[3]。
『明治撰定譜』は、近代以後の宮中雅楽における規範的な楽譜として位置づけられる。現在の楽部の伝承は、古代・中世以来の宮廷雅楽をそのまま保存したものというよりも、近世までの複数の所伝を明治国家の官制の中で再編し、標準化したものとして理解する必要がある。
演奏形態と楽器
[編集]楽部が伝承する雅楽は、歌、器楽、舞を組み合わせた多様な演奏形態をもつ。管絃・舞楽で用いられる楽器には、日本古来の神楽笛・和琴などのほか、外来の笙、篳篥、笛などの管楽器、箏、琵琶などの絃楽器、鞨鼓、太鼓、鉦鼓、三の鼓などの打楽器がある[2]。
舞楽では、楽器による奏楽に加えて、装束を着けた舞人による舞が行われる。国風歌舞では、歌唱と舞、特定の祭祀・儀礼との結びつきが重視される。
歴史
[編集]前史
[編集]宮内庁式部職楽部の歴史的前提には、古代の雅楽寮以来の宮廷音楽制度と、中世・近世にかけて雅楽を伝承した楽所・楽家の存在がある。雅楽は長く宮中を中心に伝承されたが、その担い手は一貫して単一の官署に限られたわけではなく、時代ごとに宮廷、公家、寺社、武家の儀礼と結びつきながら維持された。
近世には、京都、南都、天王寺の三系統の楽人組織が三方楽所として宮中の雅楽を支えた。また、江戸では江戸城内の紅葉山における将軍家祭祀のため、紅葉山楽人が活動した。明治維新後、これらの楽人集団は近代国家の官制のもとに再編され、宮内庁式部職楽部へつながる制度的系譜に組み込まれていった。
この再編が対象としたのは、単に三方楽所と紅葉山楽人という人員の集合ではなく、宮中、寺社、幕府儀礼のもとで分掌されていた雅楽伝承や、近世を通じて形成されてきた複数の奏楽秩序そのものであった。したがって、宮内庁式部職楽部の成立過程は、近世的な楽人秩序を近代国家の制度のもとへ再編する過程としても理解できる[10][11]。
雅楽局の設置
[編集]明治3年11月7日(1870年12月28日)、太政官内に雅楽局が仮設置された。雅楽局には長・助・大伶人・少伶人・伶生が置かれ、同月28日には相当官位の改正により、大伶人・中伶人・少伶人・伶員の区分がみられる[7]。この時期には、東京在勤の旧楽人や旧紅葉山楽人に辞令が出され、関西の楽人にも順次東上が命じられた[12]。
現在の宮内庁式部職楽部の始まりは、この雅楽局に求められる[3]。雅楽局の設置は、近世まで分立していた楽人集団を、近代国家の宮中儀礼に対応する一元的な機関へ組み替える出発点であった。三方楽所と紅葉山楽人が集められたことで、各楽所・各家に伝わっていた曲目、旋律、奏法の差異を整理する必要が生じ、のちの明治撰定譜編纂へつながった[3]。
明治4年3月14日(1871年5月3日)には京都に雅楽局出張所が置かれ、同年4月24日(6月11日)には牛込御門内に雅楽稽古所が置かれた[7]。京都出張所は旧地に残る行事や楽人への対応を担い、牛込雅楽稽古所は、再編された伶人の教習・伝習の拠点となった[13][7]。
式部寮雅楽課への改組
[編集]雅楽局は明治4年8月10日(1871年9月24日)の官制改正で廃止され、式部寮雅楽課に引き継がれた[7]。明治初期の官制改編では、宮中の礼典・祭祀・交際・雅楽などを掌る部局として式部寮が整備され、雅楽局の役割もその中へ吸収された。
式部寮雅楽課の時期には、雅楽伝承の再編に加え、教習、公開演奏、対外発信、新しい音楽活動が展開した。新暦1878年(明治11年)前後の式部寮雅楽課は、宮中行事だけでなく、公開演奏や博覧会への関与を通じて日本音楽の対外発信にも関わった部局として記録されている[13]。また、幕末の宮中行事で一般の拝覧が許されていた舞御覧は、1878年(明治11年)12月の雅楽稽古所開業式公開演奏会や、翌年以後の春秋二季の楽舞大演習へと受け継がれ、近代の公開演奏会として再編された[14]。
宮内省式部職雅楽部と楽部官制
[編集]1884年(明治17年)10月3日、式部寮が廃されて式部職が置かれ、雅楽長、雅楽師長、雅楽師副長、雅楽師、雅楽手、雅楽生などの職名が整備された[15]。1888年(明治21年)5月19日には、雅楽長以下を廃し、雅楽部長、雅楽部副長、伶人長、伶人、伶員、楽師長などを置く体制に改められた[15]。
1884年(明治17年)には楽道保護賜金と雅楽生制度が始まり、雅楽の技芸を保護し、後継者を養成する仕組みが制度化された[16]。これにより、旧来の楽家・伶人の技芸は、近代官制のもとで再編されつつ、楽師・雅楽生などの制度を通じて継承されることになった。
1897年(明治30年)には、宮内省式部職雅楽部をめぐる官制・処遇上の問題が顕在化し、楽師たちの身分や役割、雅楽と洋楽の関係、後継者養成のあり方が改めて問題となった[17][18]。この時期は、戦前の楽部の方向性を定める分岐点となった。
明治撰定譜と伝承の標準化
[編集]明治期の雅楽制度改革では、旧来の所伝を整理し、宮中雅楽としての標準的なレパートリーを確立する作業が進められた。雅楽局に異なる楽所の楽人が集められたことで、旋律や息継ぎ、伝承曲目の差異を整理する必要が生じ、『明治撰定譜』の編纂へつながった[3]。
明治3年12月(1871年初)には、新体制下での唐楽、高麗楽、舞楽、催馬楽、朗詠の公式曲目が定められ、これに従ってのちの『明治撰定譜』第一次撰定分が作成された[19]。その後、追加撰定を求める動きもあり、1887年(明治20年)の追加曲目撰定、1888年(明治21年)の楽譜成稿を経て、唐楽・高麗楽の伝承曲数は幕末の状況に近い水準まで回復した[19]。
このため、現在の宮内庁式部職楽部の雅楽伝承は、古代以来の宮廷雅楽をそのまま保存したものというだけではなく、近世までの複数の所伝を明治国家の官制の中で再編し、標準化した体系として位置づけられる。
戦後の宮内庁式部職楽部
[編集]第二次世界大戦後、雅楽を受け継ぐ機関として、1949年(昭和24年)に宮内庁式部職楽部が設けられた[20]。現在の宮内庁式部職楽部は、宮中の儀式、饗宴、園遊会などで雅楽を演奏するほか、春・秋の定期公演、国立劇場や地方での公演を通じて雅楽を公開している[1]。
1955年(昭和30年)には、宮内庁楽部の雅楽が国の重要無形文化財に指定され、楽部の楽師は重要無形文化財保持者に認定された[20]。2009年(平成21年)には、雅楽がユネスコの無形文化遺産「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載された[1]。
塚原によれば、宮内庁式部職楽部は『明治撰定譜』に含まれる雅楽の全レパートリーを伝承し、国の重要無形文化財の総合指定を受けている。楽部による雅楽奏演の中心は宮中祭祀であり非公開のものが多いが、春秋に開催される雅楽演奏会は公開で行われている[21]。
略年表
[編集]| 年 | 事項 |
|---|---|
| 明治3年(1870年) | 京都・南都・天王寺の三方楽所と江戸の紅葉山楽人が統合され、太政官内の雅楽局に配属される[3]。 |
| 明治4年(1871年) | 雅楽局出張所、雅楽稽古所が置かれ、同年の官制改正で雅楽局が廃止されて式部寮雅楽課へ引き継がれる[7]。 |
| 1884年(明治17年) | 式部寮が廃されて式部職が置かれ、雅楽長、雅楽師、雅楽生などの職名が整備される[15]。 |
| 1888年(明治21年) | 雅楽部長、雅楽部副長、伶人長、伶人、伶員、楽師長などを置く体制に改められる[15]。 |
| 1949年(昭和24年) | 戦後、雅楽を受け継ぐ機関として宮内庁式部職楽部が設けられる[20]。 |
| 1955年(昭和30年) | 宮内庁楽部の雅楽が国の重要無形文化財に指定され、楽部の楽師が重要無形文化財保持者に認定される[20][1]。 |
| 1956年(昭和31年) | 皇居内の楽部で春秋2回の雅楽演奏会が始まる[2]。 |
| 1959年(昭和34年) | ニューヨークの国連総会議場で初の海外公演を行う[2]。 |
| 2009年(平成21年) | 雅楽がユネスコ無形文化遺産「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載される[1]。 |
| 2012年(平成24年) | エディンバラ国際芸術祭に参加する[2]。 |
| 2018年(平成30年) | 日仏友好160周年に際し、パリおよびストラスブールで公演を行う[2]。 |
文化財指定と国際的評価
[編集]重要無形文化財
[編集]宮内庁式部職楽部が伝承する雅楽は、国の重要無形文化財に指定されている。文化遺産データベースでは、雅楽の指定年月日を1955年(昭和30年)5月12日とし、所属する機関又は団体として宮内庁式部職楽部を示している[1]。
1955年(昭和30年)、宮内庁楽部の楽師が演奏する雅楽は国の重要無形文化財に指定され、楽部楽師は重要無形文化財保持者に認定された[2]。重要無形文化財指定は、楽部の雅楽が単に宮中儀礼のための内部的な奏楽にとどまらず、日本の伝統芸能として公的保護の対象となっていることを示している。
ユネスコ無形文化遺産
[編集]雅楽は、2009年(平成21年)にユネスコの無形文化遺産「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載された[1]。宮内庁公式サイトも、宮内庁楽部の演奏する雅楽が同年に記載決議されたと説明している[2]。
ユネスコ無形文化遺産としての雅楽は、長い歴史をもつ宮廷芸能であるだけでなく、現代においても演奏・伝承が継続されている生きた芸能として評価されている。楽部は、宮中行事での演奏と公開演奏の双方を通じて、この無形文化遺産としての雅楽の継承に関与している。
民間団体との関係
[編集]重要無形文化財「雅楽」を保持する公的機関を宮内庁式部職楽部のほかに、民間にも雅楽の演奏団体が存在する[3]。近代以後、旧三方楽所の系譜を引く地域や寺社を中心に、南都楽所、天王寺楽所雅亮会をはじめとする民間の雅楽団体も活動してきた。
このため、宮内庁式部職楽部は雅楽伝承の唯一の担い手ではないが、明治以後の官制上の雅楽伝承を継承する公的機関として、文化財制度上の中心的な位置を占めている。楽部の伝承は、『明治撰定譜』に基づく宮中雅楽の体系として、民間団体の雅楽伝承や国立劇場などで行われる復曲・新作上演と並び、現代の雅楽を構成する系譜の一つである。
教習と楽師
[編集]楽師と後継者養成
[編集]宮内庁式部職楽部では、雅楽の伝承を担う専門職として楽師が置かれている。1955年(昭和30年)に宮内庁楽部の雅楽が国の重要無形文化財に指定された際、楽部の楽師は重要無形文化財保持者に認定された[20]。
明治期の楽部では、旧来の楽家・伶人の技芸を近代官制のもとに位置づけ直すため、職名や後継者養成制度がたびたび改められた。1884年(明治17年)には、式部寮が廃されて式部職が置かれ、雅楽長、雅楽師長、雅楽師副長、雅楽師、雅楽手、雅楽生などの職名が整備された[15]。また同年には、楽道保護賜金と雅楽生制度が始まり、雅楽の技芸保護と後継者養成が制度化された[16]。
楽部は、宮中の儀式や行事などで雅楽や西洋音楽を奏するとともに、次代を担う若者の養成も行っている[20]。雅楽は、管絃、舞楽、国風歌舞、催馬楽、朗詠など多様な種目を含み、歌、楽器、舞、儀礼上の所作などを総合的に伝承する必要がある。このため、楽部における後継者養成は、単なる楽曲の習得にとどまらず、宮中儀礼と結びついた総合的な芸能伝承として行われている。
雅楽と洋楽の兼修
[編集]楽部の特徴の一つに、雅楽だけでなく洋楽も担当してきたことがある。宮内庁公式サイトは、楽部の職員が洋楽も修得し、皇室行事の際に演奏を行っているとし、宮内庁の楽部を日本の洋楽演奏団体のうちでも最も古い歴史をもつものの一つとしている[2]。
塚原によれば、1874年(明治7年)には式部寮雅楽課で宮中行事に必要な西洋音楽の兼修が始まった[22]。この洋楽兼修は、楽部を古典雅楽の保存機関にとどめず、近代以後の宮中儀礼や国際儀礼に対応する音楽部門として位置づける要素である。宮内庁書陵部所蔵の「欧州音楽教師雇入録」は、式部職楽部が雅楽のほか洋楽の習得にも力を入れ、洋楽を教授する音楽教師を雇い入れたことを示す資料である[8]。
研究史上の位置づけ
[編集]宮内庁式部職楽部は、雅楽の現行伝承を担う機関であると同時に、近代雅楽制度の形成過程を考えるうえで重要な研究対象である。塚原康子は、近代の雅楽に関する歴史的研究について、現行伝承そのものの分析・記述と同一視されやすく、また宮内省式部職楽部に関する公文書や楽師の日記など一次史料の多くが長く非公開であったため、研究対象にされにくい状況が続いたと述べている[23]。
一方で、宮内省・宮内庁式部職楽部に奉職した楽師による著作は、雅楽伝承の内側から見た経験を記録してきた。多忠龍『雅楽』、芝祐泰『雅楽通解 楽史篇』、東儀和太郎・ウィリアム・マルム『日本の伝統 七 雅楽』、安倍季昌『雅楽がわかる本』、東儀俊美・芝祐靖監修『楽家類聚』などは、楽師や楽家の経験に基づく雅楽史・伝承理解に関わる文献として位置づけられる[23]。
楽師以外の研究者による近代雅楽研究は、蒲生美津子「明治撰定譜の成立事情」など、『明治撰定譜』の成立過程に着目する研究を契機として本格化した[23]。その後、式部寮雅楽課、宮内省式部職雅楽部、楽部官制、神道系祭祀への雅楽普及、近世楽人集団から近代楽部への再編などを対象とする研究が進み、宮内庁式部職楽部は、伝統芸能の保持団体であるとともに、近代国家の儀礼音楽制度を形成した機関としても論じられている。
脚注
[編集]- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 “雅楽”. 文化遺産データベース. 文化庁. 2026年5月2日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 “雅楽”. 宮内庁. 宮内庁. 2026年5月2日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 “演者のなりたち 宮内庁と民間組織”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年5月2日閲覧。
- 1 2 “組織・所掌事務”. 宮内庁. 宮内庁. 2026年5月2日閲覧。
- 1 2 塚原 2009, pp. 4–8.
- ↑ 『太政官日誌 明治三年』第53号。
- 1 2 3 4 5 6 塚原 2005, pp. 89–90.
- 1 2 “所蔵資料詳細/欧州音楽教師雇入録”. 宮内庁. 宮内庁. 2026年5月2日閲覧。
- 1 2 塚原 2009, pp. 1–2.
- ↑ 塚原 2009, pp. 43–47.
- ↑ 南谷 2008, pp. 315–342.
- ↑ 塚原 2009, pp. 55–59.
- 1 2 塚原 2003, pp. 79–95.
- ↑ 塚原 2009, pp. 135–143.
- 1 2 3 4 5 塚原 2005, pp. 95–97.
- 1 2 塚原 2009, pp. 195–199.
- ↑ 塚原 2005, pp. 89–112.
- ↑ 塚原 2009, pp. 193–216.
- 1 2 塚原 2009, pp. 67–68.
- 1 2 3 4 5 6 “雅楽の近代化”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年5月2日閲覧。
- ↑ 塚原 2009, p. 1.
- ↑ 塚原 2009, pp. 4–5.
- 1 2 3 塚原 2009, pp. 9–10.
参考文献
[編集]- 塚原康子『明治国家と雅楽:伝統の近代化/国楽の創成』有志舎、2009年。ISBN 978-4-903426-29-7。
- 塚原康子「明治11年の式部寮雅楽課」『東京藝術大学音楽学部紀要』第29巻、2003年、79-95頁、ISSN 0914-8787。
- 塚原康子「明治30年の宮内省式部職雅楽部」『東京藝術大学音楽学部紀要』第31巻、2005年、89-112頁、ISSN 0914-8787、2026年5月2日閲覧。
- 南谷美保「維新期の三方楽所を取り巻く環境:東儀文均の『楽所日記』に基づく考察」『四天王寺大学紀要』第46号、2008年、315-342頁、ISSN 1883-3497、2026年5月2日閲覧。
関連文献・資料
[編集]- 『皇室Our Imperial Family』編集部 編『宮内庁楽部:雅楽の正統』扶桑社、2008年。ISBN 978-4-594-05659-9。
- 山田淳平『近世の楽人集団と雅楽文化』吉川弘文館、2024年。ISBN 978-4-642-04363-2。
- 下中記念財団企画・製作・著作 (2007). 雅楽:宮内庁式部職楽部 重要無形文化財 (DVD). 下中記念財団.
関連項目
[編集]雅楽制度・組織
[編集]楽曲・伝承
[編集]楽器
[編集]文化財
[編集]外部リンク
[編集]- 雅楽 - 宮内庁
- 雅楽 - 文化遺産データベース
- 演者のなりたち 宮内庁と民間組織 - 文化デジタルライブラリー
- 雅楽の近代化 - 文化デジタルライブラリー