山崎馨

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山崎 馨(やまざき かおる、生没年不詳)は、明治から大正・昭和期にかけて活動した日本のキリスト教(日本聖公会)の聖職者、伝道師、翻訳家[1]。

略歴・人物

築地の旧制立教中学校に学び、在校中より傑出した青年として知られ、頭脳明晰で文章自在な人物であり、将来の大成を期待されていた[1][2]。

旧制立教中学校では、元田作之進が1897年(明治30年)に校内に創設した「立教学校ミッション」(St. Paul's College Mission)を中心とする宗教運動に参加した。当時の校内活動では、池澤駿太郎、稲垣陽一郎、若月麻須美ら神学生が先輩校友として中学生を弟のように可愛がって指導していた。ミッション員の面々が神学校に入学していく中、富田為之郎、青沼弥一郎、荒川重理、飯田堯一、山崎馨、吉本正秋らの面々が次々と選抜されて加わり、一丸となって日曜学校や幻燈部(スライド上映活動)、校内伝道、雑誌の編集・発送作業に励んだ[3]

また、神学校の落合吉之助、山縣雄杜三、小林彦五郎(立教女学校長)、多川幾造牧師(小林長老の後に着任)らの教授陣も、元田校長と協力して宗教的指導に当たった。これによって勢いを得たミッション員は、十字同盟やYMCAの中心人物となり、熱心かつ活発な活動を展開した[3]。

1904年(明治37年)、旧制立教中学校卒業後、東京聖三一神学校(現・聖公会神学院)に進学して神学を専攻・修学した。同級生には須貝止、佐々木二郎、八木善三郎、戸所芳一、山村暮鳥らがいた[1]。

神学校を卒業後、数年間にわたり茨城県地方において伝道に従事した[1]。その後、福島県平町田町(新田町)19番地の日本聖公会平講義所(後に平準教会)にて司牧を務めた。

1912年(明治45年)9月、渡米に伴い平講義所の後任として山村暮鳥が赴任した。渡米後は米国のフィラデルフィアの神学校に学び神学を専攻したのち、カリフォルニア州ロサンゼルスにおいて、大いに同胞日本人(在米邦人)の間に活動した[1]。

その後、一時消息が絶たれていたが、ランバート(John C. Lambert)の『The Romance of Missionary Heroism』一冊およびその訳文原稿を知人に送り、批評と刊行を求めるなど翻訳活動にも携わった[1]。

訳書

  • 『The Romance of Missionary Heroism』ラムバート 著, 山崎馨 訳、警醒社書店、1916年

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 『霊界偉人快挙録』序文、ラムバート 著, 山崎馨 訳、警醒社書店、大正5
  2. ↑ 『日本聖公会史』元田作之進 著、普光社、明43.10、P190
  3. 1 2 『立教学院宗教運動の過去及現在 (立教学院ミツシヨンパンフレツト ; no.2)』前島潔 著、立教学院ミツシヨン、昭和8、P53