飯田堯一

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飯田 堯一(いいだ ぎょういち、1884年〈明治17年〉1月20日 - 1959年〈昭和34年〉9月5日)は、明治から昭和期にかけて活動した日本の哲学者、宗教学者、教育者。立教大学文学部宗教学科教授および東洋大学教授を兼務した[1][2]。

生涯

1884年(明治17年)1月20日、茨城県新治郡東村大字永国(現・土浦市永国)にて飯田太一郎の長男として生まれる。東尋常高等小学校を卒業後、土浦高等小学校補習科を経て茨城県立水戸農学校に入学し、同校の第1回卒業生として卒業した[1][2]。

水戸農学校時代、校内にはキリスト教への関心が高まりを見せており、同校卒業生の前川真二郎(後の日本聖公会主教)の回想などによれば、学園内にはキリスト教的風潮がみなぎっていたという。飯田は当時、新渡戸稲造の『農業本論』などを愛読していた。キリスト教を信仰し洗礼を受けた若い生徒たちが、クラーク博士らのキリスト教精神が残る札幌農学校(現・北海道大学)へあこがれたのは必然的なことであり、飯田をはじめ当時の生徒たちもまた札幌農学校への強い憧れを抱いていた。当時、キリスト教をヤソといい、世人が嫌い、入信するためには親子の縁を切られるといったこの時代にあらゆる障害を排除して、洗礼を受けた若人の真摯な情熱の中に、封建的な古い日本を変えようとする浪漫的な精神があった[2]。
そうした中で、同校の先輩であり後に立教大学に進む木村貞吉らの影響を受け、聖書研究や英語の学びを通してキリスト教への信仰を深めていった。当時、校内ではキリスト教に反発する反対派(保守派・脱線組)との対立や議論が起こり、激しい対立や論争を経験しながらも、飯田は木村らとともに研究と信仰を深め、紀元節の翌日(または日曜日)に洗礼を受けた。しかし、当時の水戸農学校卒業では札幌農学校への受験資格がなかったため、札幌農学校進学への夢は実現できなかった[2]。

次いで、築地の旧制立教中学校に入学。元田作之進が1897年(明治30年)春に青年の燃えさかる意気を聖公会流の軌道に載せて指導すべく立ち上げた団体である「立教学校ミッション」(St. Paul's College Mission)の初期のメンバーに加わる。最初は元田のほか、池澤駿太郎、稲垣陽一郎、若月麻須美の4人がメンバーだったが、その後、飯田、貫民之助らが加わり、明治末期には根岸由太郎、小島茂雄、園部新吉、高松孝治らが加わった[3]。

1904年(明治37年)3月に旧制立教中学校を卒業[1][2]。

その後、祖先の信仰を理解すべく仏教研究の道に進み、哲学館大学(後の東洋大学)に入学して哲学や仏教を熱心に学んだ。1909年(明治42年)3月に東洋大学を卒業し文学士となったが、「宗教と学問は別個の天地である」と感じられ、学問の組織体系だけでは自身の霊的な渇きを満たすことはできなかった。そのため、最初に学んだキリスト教の信仰から離れることはできず、再びキリスト教の研究を志すようになった[1][2]。

その後、日本キリスト教界の先輩である植村正久の神会社(東京神学社)に入学。1910年(明治43年)から1912年(明治45年)にかけて同社で修学し、プロテスタントの研究に没頭する中でローマ教会(カトリック)の教理と実践へと関心を深めていった。築地天主堂(聖ヨゼフ教会)の仏人リギョル神父に師事して神学を学んだ後、1912年(大正元年)から1916年(大正5年)6月まで北海道トラピスト修道院に入山・滞留し、キリスト教研究と修道生活に専念した[1][2]。

1919年(大正8年)9月から1931年(昭和6年)4月まで、東京共立女子職業学校修身科講師を務めた[1]。

1920年(大正9年)から1931年(昭和6年)まで、東京神学社講師として宗教史を講じた[1]。

1922年(大正11年)4月より立教大学文学部宗教学科教授となり日本宗教史を講じた。1926年(大正15年)4月からは東洋大学教授(倫理学担当)も兼務した。1929年(昭和4年)9月には東洋大学財団維持員に就任した[1][2]。

1931年(昭和6年)4月、東洋大学の第1回海外研究員として欧米に遊学し、主に倫理哲学の研究を行い、1932年(昭和7年)7月に帰朝した[1]。

帰朝後の同年(昭和7年)9月には立教大学訓育顧問、1933年(昭和8年)9月には同大学学生課長に就任するなど、両大学で教鞭を執りながら学生指導や学術研究に深く携わった[1]。

日本宗教学会が発行する『宗教研究』などの学術誌にも論文を寄稿した[4]。

主な著書

  • 『思索、体験、実践』文書堂、1931年
  • 『日本精神と基督教』立教学院ミッション・パンフレット第3篇 聖公会出版社
  • 『世界文化の創造に於ける日本人の地位を論ず』(雑誌『力行世界』寄稿)

人物・家族

家族は妻のやく子との間に3男1女がある。長男の講一郎は土浦中学校に在学し、次男の明治、三男の昭、長女の花子はいずれも真鍋小学校に在学した。

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 『東村誌』矢口豊村 編著、茨光社出版部、昭和9、p22-23
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 『水農史 第1巻』水戸農業高等学校、1970、p312-321
  3. ↑ 『立教学院百年史』立教学院百年史編纂委員会 編、立教学院、1974、p259-260
  4. ↑ 学会誌・機関誌情報 - 日本宗教学会