朝鮮半島の建築

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朝鮮半島の建築(ちょうせんはんとうのけんちく)について論じる。

朝鮮半島においてはっきりとした建築遺構が確認できるのは新石器時代以降であり、櫛目文土器時代・無文土器時代には竪穴建物がつくられた。楽浪郡の設置以後は漢式建築の影響も及んだが、住居の基本形は無文土器時代以来の系譜を引き続き残していた。三国時代には仏教の伝来が建築に強い影響を与え、高句麗・百済・新羅において宮殿および寺院が築かれた。三国時代は新羅の統一により終焉するが、統一新羅においては唐の影響を受けつつその後の高麗・李氏朝鮮建築に継承される様式が醸成されていった。高麗においては宋・元の影響を受けながら柱心包式・多心包式の木造建築が発展していき、李氏朝鮮時代には多心包式を中心に建築の装飾性が強まっていった。

李氏朝鮮時代末期には西洋建築も導入され、植民地時代には日本の影響下で官庁建築や日式家屋が建てられた。第二次世界大戦後、朝鮮半島は大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分裂し、それぞれで地域性を有した建築が模索された。

三国時代以前

岩山洞遺跡復原建物(櫛目文土器時代)

朝鮮半島には旧石器時代より人が居住していたが、この時代には洞穴ないしテント式の住居が用いられていたようである。はっきりとした建物遺構が確認されるようになるのは紀元前4000年頃の新石器時代以降であり[1]、櫛目文土器文化の担い手が岩山洞遺跡などにみられる竪穴建物を築くようになる。この時代の住居は円形ないし楕円形、隅丸方形の平面構造を有し、中央部に炉をかまえる[2]。大きさは直径6メートル、竪穴の深さは通常60センチメートルほどであった[3]。

松菊里遺跡住居遺構(無文土器時代)

新石器時代末期、紀元前7世紀ごろより流入した無文土器文化の担い手は、朝鮮半島に青銅器を普及させた[4]。従来丘陵地につくられた集落は平地に移り、規模も拡大している。この時代には30センチメートルから 50センチメートル程度のごく浅い竪穴遺構があらわれ、平面構造については長方形のものが支配的になる。また、垂直な壁を採用するようになり、豆満江流域では礎石の利用もみられるようになった[5]。

楽浪土城遺構

青銅器時代に形成された城邑を基本として、朝鮮半島の各地には政治的社会が形成されるようになっていく。紀元前4世紀頃には、同地域の諸民族は中国王朝との関わりを持つようになった[6]。前漢の武帝は紀元前109年に朝鮮半島に出兵し、楽浪郡など漢四郡を設置した[7]。平壌から大同江を挟んだ南岸に位置する楽浪土城においては、礎石や漢式の瓦片などが出土している。考古学的遺構からは同地の建築について全貌を知ることは困難であるが、おおむね漢代の建築様式に則った建築が作られていたと考えられる[8]。古朝鮮・原三国時代は考古学的には初期鉄器時代に属するが、一般にこの時代の住居遺構には青銅器時代と著しい差異があるわけではない[9]。

『後漢書』『三国志』などは、当時の朝鮮半島に住んでいた諸民族の住居様式について記述を残している[10]。『後漢書』によれば、現在の中国東北部から豆満江流域までに居住していた挹婁は「常為穴居、以深為貴、大家接九梯」とある[10]。同地においては竪穴建物(竪穴住居)が用いられ、竪穴が深いほど主人の財力が優れていたと解釈でき、実際に咸鏡北道の虎谷洞遺跡(호곡동 유적)では深さ1.5メートルから1.7メートルの竪穴遺構が検出されている[11]。また、漢江以南に住んでいた韓人の住居について、『後漢書』に「作土室形如冢」、『三国志』に「居処作草屋土室、形如冢」とある[12]。彼らは平地建物ないし垂直な壁を有する竪穴建物(竪穴住居)に居住していたといえる[12][11]。また、『三国志』には夫余の住居について「横累木為之、有似牢獄也」とある[13]。これは、後に高句麗の麻線溝1号墳壁画で見られるような、校倉造(累木式、クイットゥル住居、귀틀집)の説明と解釈できる[13][13]。

三国時代

高句麗は2世紀後半の後漢の衰退に乗じて勢力を拡大し、313年には楽浪郡、その翌年には帯方郡を滅ぼした。これに次いで3世紀頃より漢江流域近辺で馬韓の小国家を統合しながら百済が成立した。さらに、4世紀後半には辰韓の一国家から新羅が発達した。この時期の朝鮮半島には仏教が伝来し、建築様式にも影響を与えた[14]。

高句麗

水山里壁画古墳玄室西壁(5世紀後半)

高句麗の建築遺構としては、安鶴宮址(英語版)など宮殿建築の礎石・瓦片が存在するほか[15]、清岩里廃寺など寺院建築の遺構も検出される[16]。こうしたものに加え、古墳内にみられる建築様式をあらわす要素や、壁画の建築図などから細部の工法についてもある程度のことがわかる[17]。

高句麗においては楽浪時代に用いられた漢代建築様式が継承されており、水山里壁画古墳墓室壁画によれば斗栱をかまえ、丹青をほどこした柱を備えていた[17]。伽藍配置は八角形の建物を3つの金堂でかこむ一塔三金堂配置(日本建築における飛鳥寺式)であると考えられるが、検出遺構が少ないためあまりはっきりとはしない[18]。尹張燮によれば、こうした伽藍配置は『史記』天官書に由来するものであり[19]、中心軸上に南宮・中宮・北宮を置き、東西宮をかまえる安鶴宮の平面構造とも共通する[20]。安鶴宮の平面構造は魏晋南北朝期の宮殿に採用された太極殿・東西堂制と比較できる。また、前漢の未央宮と同様、南門から宮殿にかけての傾斜があることがわかっており、これは視覚効果を期待したものかもしれない[21]。『新唐書』によれば、同国では王室・旧府・仏寺にのみ瓦が葺かれた[22]。中国・吉林省の東台子遺跡からは高句麗の貴族邸宅址と推定される遺構が検出されており、基壇と2つの部屋、オンドルを構えている[23]。また、『新唐書』および『三国志』魏志の記述によれば、庶民の住宅としては茅ないし草葺きの累木式・高床式建築が用いられていたようである[24]。

百済

弥勒寺址石塔(639年)

公州山城、泗沘城などに建物遺構が残るほか[25]、弥勒寺址(英語版)のような寺院遺構も保存されている[26]。また、百済の寺院建築様式は日本に仏教とともに伝来したため、法隆寺のような寺院も比較対象となる[27]。百済においては塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ伽藍配置(日本建築における四天王寺式)が用いられる[28]。また、国立扶余博物館蔵青銅小塔片などから軒下の斗栱に下昴(日本建築における尾垂木)が用いられていたことがわかる[29]。百済建築としてはほかに弥勒寺址石塔(英語版)、定林寺址五層石塔(英語版)が残り、これは木造仏塔の形式を模したものとみなされる[30]。

新羅

宮殿建築として月城址の礎石が残るほか[31]、寺院遺構として皇龍寺址(英語版)、芬皇寺址などがある。仏教の受容が他の2国と比べて遅れたこともあり、新羅の伽藍配置は一定した形式を持たず、高句麗・百済両国の影響が錯綜している[32]。石造建築として瞻星台が残り、これは『東京雑記』によれば気象と天文を観測する施設であった[33]。また、石塔として芬皇寺址石塔が残り、これは百済の石塔と異なり木造仏塔ではなく塼塔(レンガ積み塔)を模す点が注目される[34]。

統一新羅時代

(左)大方広仏華厳経変相図(754年)
(右)山清泛鶴里三層石塔(朝鮮語版)(9世紀)

新羅は660年に百済、668年に高句麗を滅ぼして、朝鮮半島に統一王権を築いた。この時代の新羅においては、唐より多くの文化・技術の伝来があった[35]。新羅の文化は中国の影響を受けつつも独自に発展していき、尹張燮はこの時代に韓国文化は三国時代の素朴性を抜け出して、文化の黄金期を築いたと評価する[36]。朝鮮半島における建築は統一新羅時代に唐の影響を受けながら大きく変容し、この時代の様式は後世の高麗建築・李氏朝鮮建築に継承された[37]。

統一新羅時代の木造建築については、慶州の王宮址である雁鴨池より木造建築部材が出土するほか、当時の石造建築、絵画資料なども参考にできる[38]。建築部材について、754年の『大方広仏華厳経変相図(朝鮮語版)』には飛檐垂木を伸ばした重層屋根の建物が描かれ、下層には柱心包式の特徴が見られる[39]。雁鴨池から出土した斗栱の部材をみると高句麗の古墳壁画で確認できる皿斗が用いられておらず、また、高麗建築にみられるような実肘木の利用が確認できる[37]。

統一新羅時代の伽藍配置として特徴的なのは、金堂の前方に2つの塔をかまえる二塔式伽藍配置(日本建築における薬師寺式)である。この時代の寺院遺構の発掘調査により、仏国寺をはじめとする多くの寺院がこの伽藍配置をとっていたことが明らかになっている[40][41]。さらに、国土全体への仏教の浸透が影響して、王都から離れた地方にも山地伽藍が多く築かれた。こうした寺院は平地の寺院とは異なり、地形に合わせた伽藍配置が行われたものと考えられる[42]。また、この時代には三国時代の百済式仏塔・新羅式仏塔の様式が融合し、木造塔・塼塔の様式を模したものでない、石塔独自の様式化が進んだ。9世紀には表現の省略が進み、塔の表面に仏像彫刻などもほどこされるようになった[43]。

渤海

瓦片(上京龍泉府出土)

なお、統一新羅の王権が及ぶ範囲は大同江以南に限られ、高句麗が版図の一部とした朝鮮半島北部から中国東北部にかけての領域は渤海の領土となった[44]。渤海を高句麗の継承者として統一新羅と同列に扱う立場も有力であり、こうした観点からは統一新羅時代は南北国時代とも呼称される[45]。

渤海の建築遺構としては、上京龍泉府の発掘調査が進んでいる[46]。上京城の宮殿遺構については、太極宮・大明宮といった唐代宮殿建築の影響が指摘されている。また、同遺構の、5つの宮殿址が中心軸線上におおよそ対称に配置される平面構造は、高句麗・安鶴宮のものとも類似する[47]。同遺構住居址にみえるオンドル煙道なども、渤海建築の高句麗建築との連続性を示唆する[48]。渤海においては寺院址も検出される。寺院全体の発掘が行われていないため、伽藍配置についてはっきりとしたことはわからないものの、おおむね南北一直線上に門・塔・堂を配置する形式であったと考えられる[49]。

高麗時代

鳳停寺極楽殿(12世紀から13世紀)

新羅の王権は8世紀後半ごろより揺らぎはじめ、9世紀後半には後百済・後高句麗が相次いで興り後三国時代がはじまる。松丘(のちの開京)の豪族であった王建は、後高句麗王・弓裔を追放して高麗を建国し、936年に朝鮮半島を再統一した[50]。

高麗時代初期の建築様式は、統一新羅時代のものをそのまま継承したものと推測される[51]。高麗初期の建築については、1124年に王都・開京を訪れた宋の使者、徐兢が残した記録である『高麗図経』に記録があり、いわく当時の寺院建築は中国の制度を模倣しつつも、周辺の風景を取り入れたものであったという[51]。高麗における寺院の伽藍配置としては百済で多く見られた一塔式のものが多く報告されるものの[52]、古代のような幾何学性を重視する傾向は弱まり、地形などに応じた比較的自由な配置がみられる[53]。

修徳寺大雄殿(1308年)

高麗建築における古態に近い様式は、斗栱を柱の上にのみ配置する柱心包式(疎組)である[54]。柱心包式のうち古い形式を残すものとしては、1363年の改修記録があり、おそらく12世紀末から13世紀初頭の建立であると考えられる鳳停寺極楽殿(朝鮮語版)がある[55][56]。斗栱は二手先であり、皿斗は置かない。肘木側面上部が垂直になっており、これは高麗建築としては唯一の例である。また、架構・中備の華盤は日本建築における板蟇股同様、装飾性を持たない[56]。1376年の再建記録が残る浮石寺無量寿殿(朝鮮語版)も、比較的古い形式を残している[57]。

朝鮮半島における、建造年代がはっきりとわかる最古の木造建築物は、1308年建立の修徳寺大雄殿(朝鮮語版)である[58]。修徳寺大雄殿をはじめとする後代の柱心包式建築は鳳停寺極楽殿・浮石寺無量寿殿と比較して南宋・福建の建築様式(日本における大仏様)の影響が強く出ており、これを古式の柱心包第1形式と対比して柱心包第2形式と呼称する。柱心包第2形式の建築は皿斗・挿肘木を用いるほか、華盤は絵様刳形によって装飾された華美なものとなっている[59][60]。

柱と柱の間にも斗栱を設置する多包式(詰組)は、澗松美術館蔵金剛三尊仏龕において頭貫の上に中備組物が使われている例が見られるように、高麗中期からあったと推定される。この建築様式は元において盛んに用いられており、高麗後期、王朝が同国の影響を強く受けるようになると、国内でも多包式建築が多く築かれるようになった[61]。この様式に属する建築としては、1374年建立の心源寺(英語版)普光殿と1386年建立の釈王寺(英語版)応真殿がある[62]。

李氏朝鮮時代

清平寺廻転門(朝鮮語版)(16世紀)
翼工式建築の一例[63]。

1368年には明の朱元璋が元の王都・大都を占領し、元は中国北方の一部(北元)に勢力を残すのみとなった。元に対する外交姿勢をめぐって政治に混乱が起きたことを背景に、1392年には李成桂によって高麗が廃され、李氏朝鮮が建国された[64]。

李氏朝鮮においては高麗後期に築かれたような柱心包式建築が継承されたが、細部意匠には多包式建築の手法が取り入れられ、中国南部の様式であった皿斗は用いられなくなる。また、高麗では柱心包式建築の梁は甕状の断面をしていたが、朝鮮では多包式同様長方形の断面を有することがもっぱらになってくる。この時代の建築としては、1430年建立の無為寺極楽殿(朝鮮語版)などがある[65]。1488年建立の海印寺大蔵経板殿を嚆矢に、柱頭に挿肘木のように挟んだ木鼻のような装飾部材である翼工をあしらった翼工式建築もみられるようになる。これは、柱心包式建築を装飾的部分のみ残して簡略化した様式と理解することができる[63]。

昌徳宮仁政殿(英語版)(1804年)

1394年創建の開城南大門(英語版)、1396年創建の崇礼門のように、多包式建築も李朝初期より多く築かれた[66]。朝鮮王朝時代の多包式建築は15世紀初頭までおおむね高麗後期の様式を継承していたが、その後、建物内側の斗栱の手先数を外側より増やすといった工法が新たに用いられるようになった[67]。李朝後期においては多包式建築が支配的となり、柱心包式・翼工式は一部の建築にあらわれるのみとなった[68]。この時代には建物内側の手先が一手先増えることは普通となり、二手先・三手先増えることすらあった。斗栱の手先方向の肘木全体を絵様刳形で連続的に装飾する手法は李朝前期よりみられるが、李朝後期には同様の手法が建物全体に用いられる。また、高麗以来の要頭形(三角形)の木鼻はあまり用いられなくなり、先端が長く突き出た垂舌型の木鼻が支配的になる。さらに、斗栱の下、柱の最上部に按草工とよばれる装飾部材がつけられるようになったほか、18世紀以降は木鼻に獣面彫刻をする例もみられるようになる[69]。

静観軒(1900年)

1876年には日本と朝鮮の間で江華島条約が結ばれ、釜山港をはじめとする11港が開港した[70]。これにともない日本・中国および欧米諸国が朝鮮国内に西洋建築風の在外公館を建設した[71]。こうした背景のもと李氏朝鮮内部においても西洋建築の導入がはじまり、たとえば1900年頃には慶熙宮にベランダコロニアル様式建築である静観軒(朝鮮語版)が建造された[72]。

李氏朝鮮の住宅建築(韓屋)はおおまかにはオンドル房と板の間(マル、마루)を中心に構成され、そこに台所などの土間空間が加わる。上層住宅の場合主屋(アンチェ、안채)のほか接客の場である舎廊棟(サランチェ、사랑채)および使用人・奴婢の用いる行廊棟(ヘンランチェ、행랑채)がかまえられ、主人は舎廊棟、夫人は主屋で生活する。これら各建物の間の空間は庭として複数に区切られ、各種用途に用いられる[73]。上層住宅においてははっきりとした地域差はみうけられないが、庶民の住宅である民家については間取りに地域的変化があり、たとえば咸鏡道・平安道北部・江原道北部では台所との間仕切りのないオンドル床である浄地(チョンジ、정지)がかまえられるほか、平安道・黄海道北部ではマルを設けない[74]。

植民地時代

朝鮮総督府庁舎(1926年)

前年に結ばれた第二次日韓協約(乙巳条約)を背景に、1906年には日本によって統監府が設置された。日本は朝鮮を長期統治するために官庁設備を整備する必要があり、このため同年に度支部建築所が設置された[75]。同事務所はおおむね日本人により構成されており、当時の日本の建築界を反映して擬洋風ないし和洋折衷建築がつくられた[76]。

1910年の日韓併合により、朝鮮のすべての行政は朝鮮総督府がとりおこなうこととなった[77]。当初総督府は統監府の事務所を用いていたが、1926年には景福宮敷地にゲオルグ・デ・ラランデおよび野村一郎・國枝博の設計である朝鮮総督府庁舎が建造された[78]。また、この時代には多くの日本人が朝鮮半島に移住し、日式家屋を建築した。日式家屋は従来の朝鮮の民家にも影響を与え、たとえば便所・浴室の屋内化、玄関の設置などがはじまった[79]。

和信百貨店(1937年)

1916年には京城工業専門学校(朝鮮語版)が設立され、植民地朝鮮における建築を含む工学教育がはじまった[80]。当時の朝鮮における朝鮮人の教育機会は限られており[80]、同校建築科の卒業生も84.4%が日本人であったが、1919年には朴吉龍(朝鮮語版)・李起寅(이기인)が朝鮮人としてはじめて同科を卒業した[81]。当時の朝鮮に建築に関する大学教育機関は存在しなかったため、日本、あるいは朴仁俊(박인준)のようにアメリカに留学する者もいた[82]。

泰和基督教社会館(1932年)

朴吉龍は同校卒業後、総督府建築課を経て1932年に独立し、朴吉龍建築事務所を開いた。これは朝鮮人によるはじめての建築事務所であり、事務所時代の彼の作品としては1937年の和信百貨店がある。同時期に活動した朝鮮人建築家としては、朴東鎭(박동진)、姜允(朝鮮語版)などがいる。姜允は日本関西高等工業学校を卒業した後ウィリアム・メレル・ヴォーリズの事務所で働き、1932年には韓様折衷の外観を有する泰和基督教社会館を設計した[83]。

独立後

1945年の第二次世界大戦後、日本の植民地であった朝鮮半島はアメリカとソビエト連邦に分割占領された。1948年には大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の2国が成立し、1950年から1953年の朝鮮戦争を通して南北分断が固定化した[84]。

大韓民国

三一ビルディング(1970年)を中心とするソウルの風景

朝鮮戦争後、韓国においては大韓住宅営団(朝鮮語版)の主導により、住宅の量的供給が進んだ[85]。独立当初の韓国において、建築は純粋に工学に属するものだとみなされていたが、1955年より大韓民国美術展覧会(朝鮮語版)に建築部門が新設されるなど、建築を美術の一部と捉える見方も勃興していった[86]。

独立後の韓国においては国際様式建築が盛んに建造された[87][88]。金重業が1970年に建造した三一ビルディング(英語版)は、ミース・ファン・デル・ローエのシーグラム・ビルディングを参考にした建築であり、戦後韓国における国際様式建築の代表作のひとつである[87][89]。また、1961年の第三共和国成立にともなう民族主義の台頭も背景に[87][90]、コンクリート構造技術を用いて伝統的意匠を再現した建造物がつくられた[90]。1966年に姜奉辰(강봉진)が手掛けた国立民俗博物館は、既存の歴史的建造物の模倣がコンペの条件であったこと、その結果として採用された建築があまりにも伝統建築そのままであったことなどを背景に、大きな議論を呼んだ[87][90]。

空間社屋(1971年-1976年)

1960年代には、多くの韓国人建築家がこうした安易な形態模写からは距離を取りつつ伝統建築の再解釈に挑んだ[91][90]。金重業は1961年の駐韓フランス大使館(朝鮮語版)にて、韓国伝統建築の屋根を大幅に簡略化したものをモチーフとして利用した[92]。金壽根は韓国の伝統について考えるうえで形態ではなく空間に着目し、1971年には複数の建物が複数の庭によって区切られる韓屋の構造を再解釈した空間社屋(공간사옥)を設計した[93]。

1962年に大韓住宅営団は大韓住宅公社に改称するとともに、法的地位と機能を大幅に強化された。これ以降韓国政府は都市地域にはアパート団地、農村地域には改良住宅を建設した[94]。1965年に建築士の認可制度が整備されたことを背景に、1960年代後半から1970年代にかけてジョンリム建築設計事務所(朝鮮語版)、原都市建築研究所(원도시건축연구소)といった企業が設立された[95]。1970年代以降は民間資本による建設ブームを背景に、韓国の住宅開発は従来の戸建て中心からアパート中心のものへと変遷した[94]。1980年代以降には海外事務所も韓国国内でのビル設立に参与するようになったこと、ソウルオリンピックといった大規模イベントにより建築需要がさらに増したことを背景に、金壽根の空間社、あるいはジョンリム、原都市といった建築事務所は大規模化していった[96]。この時期には中東建設ブームを経て技術を蓄積した、現代建設をはじめとする財閥系ゼネコンも勢力を強めた[97]。

1980年代後半から1990年代前半にかけての民主化を経て、それまでの韓国建築界で強く意識されてきた近代性と伝統の対立というナラティブは弱まり、超越的でない価値が重視されるようになった[98]。1987年の青年建築家協会(청년 건축가 협회)[99]、1990年の4.3グループ[100]、1992年の建築の未来を準備する会(건축의 미래를 준비하는모임)など、この時期には若手建築家による組織が多くつくられ、大規模事務所やゼネコンに対するカウンター的存在として機能した[99]。4.3グループの承孝相 (英語版)は金壽根の空間思想を継承しつつ、1991年に北村韓屋村の空間が有する路地と中庭の連続性を都市における公共空間のありかたとして引用した守拙堂(수졸당)を設計した[99][101]。

朝鮮民主主義人民共和国

平壌大劇場(1960年)

朝鮮戦争後、北朝鮮はソ連をはじめとする東側諸国の援助を受けながら戦後復興を進めた[102]。同国の指導者である金日成は建築デザインの規格化・資材の工業化・建設作業の機械化を指示し[103]、1950年代にはソ連式の労働者住宅が導入された。北朝鮮においてはレンガの規格化とプレハブ工法の導入が進み、多くの都市住宅・農村住宅が一定の規格にのっとって建設された[104]。

未来科学者通り(2015年)

1955年以降、北朝鮮においては主体思想を中心とする政治がとりおこなわれるようになり、1960年の平壌大劇場など、民族主義的性質をもった建築が築かれるようになった。同年の玉流館、1974年の人民文化宮殿や1978年の国際親善展覧館など、北朝鮮では伝統的意匠を鉄筋コンクリートで再現した建築物が主体思想を体現するものとして扱われ、1976年の錦繍山太陽宮殿のような建築においても斗栱が装飾としてあしらわれている[105]。1980年代から1990年代にかけては柳京ホテルのような民族的意匠と無関係なモダニスト的建築も建造されるようになり、これは金正恩政権においても2015年の未来科学者通りなどにみられるよう継承されている[106]。

出典

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