森安五郎

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森 安五郎
Second Lieutenant Mori Yasugoro
生誕 1913年5月6日
日本の旗 日本、静岡県
死没 1937年11月7日
中華民国の旗 中華民国、上海
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1935[1]-1937
最終階級

見習士官

陸軍少尉(戦死後特進)
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森 安五郎(もり やすごろう、1913年(大正2年)5月6日[2] - 1937年(昭和12年)11月7日[3][4])は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍歩兵少尉。第二次上海事変の英雄[要出典]。殊勲甲、勲六等功四級[5]。静岡県出身。

経歴

静岡県立静岡中学校[6][注釈 1]、1936年静岡高等学校 (旧制)卒業を経て、東京高等師範学校卒業[1]。東京高等師範学校卒業後は宮城県の古川中学校の教諭を務めた[1]。大日本帝国陸軍補充員の見習士官[7]。

1937年(昭和12年)11月7日に上海蘇州河南岸の趣家宅で戦死[3][4]。殊勲甲、陸軍歩兵少尉に特進[7]。

森の戦死後の11月20日に、森の少尉任官が昭和天皇により(実質自動的に)裁可。11月22日、森の少尉任官を発令。その後、既に戦死していたことが判明したため、12月13日、杉山元陸軍大臣が任官取消を奏請。12月15日、近衛文麿首相が任官取消を上奏している[8]。また12月13日に、杉山陸軍大臣から近衛首相に、11月7日付けでの森の少尉任官を含む奏請書も提出されている。[9]

戦闘の経緯

1937年8月に始まった第二次上海事変の戦いは苛烈を極め、第三師団歩兵第34連隊(静岡連隊)は戦時編成3,800人、戦死者1,248人、戦傷者2,146人。連隊死傷率は90%を超えた。要塞(トーチカ)・ 陣地・水濠(クリーク)を張りめぐらした中国国民革命軍第36師(師長:宋希濂陸軍中将)[要出典]の強力な抵抗に苦戦。10月、軍部は緊急に[要出典]1,200名の補充員を配置。森見習士官は10月11日に上海北部の呉淞に上陸[10]、10月13日[11]、森安五郎は補充員小隊長として、平井定大尉指揮の歩兵第三十四聯隊第一大隊第三中隊に第三小隊長[1]として入隊。16日から25日にかけて、大場鎮近くの攻略作戦に参加。小隊を率い中国軍の16人目の兵士を捕虜にする[要出典]。

森小隊は25日日中に大場鎮西方で走馬塘クリークを敵前渡河した[12]。

歩兵第三十四聯隊は、10月31日から蘇州河の敵前渡河攻撃を開始し、第十一中隊と第九中隊第一小隊が南岸に渡るが、前進を阻まれ南岸に孤立してしまう[13]。

3日と4日は雨だった[14]。

平井定大尉は第三中隊長だったにも関わらず、5日に、連隊の予備として後方に位置していた第一中隊と第四中隊を率いて、蘇州河を渡河し、対岸の薛家野の攻撃を行うことになった[13]。5日、雨が降り続く中、午前10時に砲撃が開始された。砲撃の効果を得るために、砲撃は突撃待機中の部隊のわずか40〜50m前方の蘇州河南岸の掩蓋機関銃陣地(トーチカ)を狙って行われた[14]。砲撃終了の発煙弾を待つことなく[14]、第一、第四中隊が薛家野に突入、12時20分頃、薛家野の東端および東北の一角を占拠した[14]。その後、第一大隊本部と第三中隊も蘇州河を渡った[14][15]。

翌6日、降り止まない雨の中、午前8時30分から野砲兵第三聯隊第一大隊が薛家野の砲撃を開始した。その後、12時10分頃に、第一大隊は薛家墅に突入し午後3時頃までに薛家墅を占領した。このときの攻撃に森の小隊も参加している[16]。国民革命軍の遺棄死体は500〜600を数えたとされる[14]。また、この日、連隊本部も蘇州河南岸の金家頭に進出した[17]。

なお、28日[要出典]、歩兵第34連隊が渡河作戦を開始、森小隊は最初に川を渡った部隊に属する。11月3日、小隊は中国軍の2つのトーチカを占領[要出典]。5日、蘇州河南岸の薛家墅を占領[要出典] した、とする出典不明の説もある。

7日は「嵐」(豪雨)だった[16]。7日、第一大隊は、薛家野西端付近において第一中隊に右側を掩護させ、第二中隊(長・田村吾作中尉)、第三中隊(長・平井定大尉)を第一線として南方の虹橋路に向かって攻撃を続行した[18]。

森小隊は、命を受け林肯路を落とすが、部隊の進軍は趣家宅に阻まれる。午後2時40分、森小隊長と小隊が餌として中国軍の火力を集めて北に移動。趣家宅トーチカの下に移動した時、森は中国軍の機関銃が日本軍に向けて掃射されているのを見た。傷を負った森は、自らの身体で特火点の射撃孔を塞ぎ戦死[要出典]。その壮烈な姿に鼓舞された部隊は直ちに趣家宅を攻め、敵の大隊を壊滅[要出典]、とする伝説があるが由来は不明。

第三中隊は、7日午後4時頃に西部趣家宅を占領した。日没とともに、国民革命軍は、第一大隊に数度にわたり第二次上海事変の上海市域での戦いで最後の猛烈な逆襲[19]をしかけてきた[18]。午後6時頃、森見習士官の頭部を銃弾が貫通し森見習士官は戦死[3][16]。

翌8日の朝を迎え、9日間悩まされ続けた雨もようやく上がった。深まった秋の朝は冷え込んだ。午前10時過ぎ、第一大隊に「敵ハ逐次、蘇州河ノ陣地ヲ撤シ、西方ニ向ケ移動中ナリ」との軍情報がもたらされた[20]。9日、蔣介石の上海から撤退命令を受けて、蘇州河南岸の国民革命軍は撤退を開始した。第二次上海事変は終結に向かう。

1938年10月7日、第四回支那事変論功行賞、前例を破り功四級金鵄勲章を追贈。

栄典

1936年7月10日

勲七等瑞宝章を授与[21]

1937年(昭和12年)11月7日

脚注

出典

  1. 1 2 3 4 支那事變忠勇列伝 陸軍之部 第拾参巻 p.一〇四
  2. ↑ “支那事変忠勇列伝 陸軍之部 第13巻”. 2024年8月29日閲覧。
  3. 1 2 3 支那事變忠勇列伝 陸軍之部 第拾参巻 p.一〇四-一〇七
  4. 1 2 “附表並附録”. www.jacar.archives.go.jp. 2021年1月11日閲覧。
  5. 1 2 3 4 同盟旬報 第二巻 第二十八号 昭和十三年上旬号 p8 (第四回論功行賞)
  6. ↑ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 59頁。
  7. 1 2 JAPAN, 独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF. “任免裁可書・昭和十二年・任免巻百二十七”. 国立公文書館 デジタルアーカイブ. 2021年1月11日閲覧。
  8. ↑ 『森安五郎任官取消ノ件』(任B02281100-00700)国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/item/3307939
  9. ↑ “ビューア | 陸軍歩兵少尉黒河正蔵外百二十一名任官ノ件”. www.digital.archives.go.jp. 2026年10月14日閲覧。
  10. ↑ 尾焼津弁次『鎮魂上海戦八十日』新人物往来社 1995年 p.201
  11. ↑ 歩兵第三十四聯隊 Wenzaobin「クリーク」附近 戦闘詳報 3/5 昭和十二年十月三日~十二年十月十五日 戦闘経過 防衛省防衛研究所 JACAR Ref. C11111774400
  12. ↑ 支那事變忠勇列伝 陸軍之部 第拾参巻 p.一〇五
  13. 1 2 静岡聯隊史編纂会 編『歩兵第三十四聯隊史 岳南聯隊五十年の歩み』静岡新聞社 1979年
  14. 1 2 3 4 5 6 歩兵第三十四聯隊 戦闘詳報 5/5 蘇州河附近戦闘詳報 昭和十二年十月二十八日~十二年十一月八日 防衛省防衛研究所 JACAR Ref. C11111776000
  15. ↑ 静岡聯隊史編纂会 編『歩兵第三十四聯隊史 岳南聯隊五十年の歩み』静岡新聞社 1979年
  16. 1 2 3 尾焼津弁次『鎮魂上海戦八十日』新人物往来社 1995年 p.206
  17. ↑ 静岡聯隊史編纂会 編『歩兵第三十四聯隊史 岳南聯隊五十年の歩み』静岡新聞社 1979年
  18. 1 2 藤田勝『水天一碧』1989年 p.276
  19. ↑ 尾焼津弁次『鎮魂上海戦八十日』新人物往来社 1995年 p.207
  20. ↑ 藤田勝『水天一碧』1989年 p.277
  21. ↑ “4th class Golden Kite to Sergeant Major Who Died Heroically in the Second Battle of Shanghai” (英語). Medals of Asia. 2026年10月14日閲覧。

注釈

  1. ↑ 静岡中学46回、同期に宇佐美一夫、山本敬三郎、石上良平、川瀨健治、村松道平ら。

参考文献

関連項目