比島決戦の歌
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| 「比島決戦の歌」 | |||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 軍国歌謡(戦時歌謡) | |||||||
| 出版 | 1944年12月10日[1] 『読売報知』紙上[1] | ||||||
| 録音 | 1944年12月26日[2] 音源未発見[2] | ||||||
| 時間 | 3分30秒(戦後再録音版) | ||||||
| レーベル | 日蓄レコード[2] | ||||||
| 作詞 | 西條八十[3] | ||||||
| 作曲 | 古関裕而[3] | ||||||
| |||||||
『比島決戦の歌』(ひとうけっせんのうた[注釈 1][6])は、第二次世界大戦末期の1944年〈昭和19年〉12月に発表された日本の戦時歌謡(軍国歌謡)で、フィリピン防衛戦の戦意を高めるために作られた[3][7]。敵将を名指しにした「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落し」という歌詞で知られる[8][9]。
作詞者は西條八十、作曲者は古関裕而[注釈 2]であるが、歌詞の一部に西條以外の手が入っているとされる[12][13](後述)。ラジオで盛んに放送され[14]、レコード化も予定されていたが[15]、実際にレコードが発売されたかどうかは疑わしい[16][2]。戦後は歌詞も楽譜も長らく流通しておらず“幻の曲”と見なされていた[4][17]。
製作と発表の経緯
第二次世界大戦末期の1944年〈昭和19年〉、フィリピン防衛戦に当たって日本放送協会と読売新聞社が国内の戦意高揚のための軍国歌謡を企画し、作詞を西條八十、作曲を古関裕而に依頼した[1]。歌詞の案がほぼ固まった段階[注釈 3]になって軍からの強い要望があり、歌詞が一部変更された[20](後述)。
完成した歌は1944年〈昭和19年〉12月10日の『読売報知』紙で発表され[1]、12月16日に陸海軍に献納された[21]。12月17日のラジオで初放送となり[21][14]、その後はラジオの各種音楽番組で繰り返し放送された[14]。
12月26日には酒井弘と朝倉春子の歌唱で録音を行い[22]、翌1945年〈昭和20年〉の2月(3月[23]とも)に日蓄レコードからレコードの発売を予定していたが[17][15]、実物のレコードや録音原盤は発見されておらず、本当に発売されたかどうか疑わしい[16][2][23]。物資不足により実際には製造されなかったのではないかと推測されている[2]。
ラジオ放送で繰り返し流されていたことから少なくとも放送用原盤は存在したと考えられるが[4]、それも発見されていない[4]。敵将を名指しで罵る歌詞(次節参照)を進駐軍に咎められると警戒した関係者が、終戦時に証拠隠滅のため廃棄したのではないかとの推測がある[4][24]。実際に廃棄したと回想するものもいる[25](後述)。
歌詞について
過激な歌詞
歌詞の1番から4番までのすべてに共通するリフレインの部分に、敵将のチェスター・ニミッツ(当時アメリカ海軍大将)とダグラス・マッカーサー(当時アメリカ陸軍大将)の名前を盛り込んだ以下の歌詞が出てくる[27]。
歌詞のこの部分はスローガンのようにも扱われ、ほぼ同じ文章[注釈 5]が垂れ幕や大看板として丸ビルなどに掲示されていたが[31][32][23]、当時から品位に欠けるとの批判を受けた(後述)。
敵将の名前だけでなく、歌詞の2番では「猛虎の山下将軍」(陸軍大将の山下奉文[27])や「鉄血大川内」(海軍中将の大川内伝七[27])と、日本側の司令官にも言及している。また歌詞の3番では特攻隊にも言及している[33][34]。
歌詞の変更
| 音楽・音声外部リンク | |
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(歌詞は外部リンク節の国立国会図書館デジタルコレクションのページを参照) |
作曲担当の古関裕而の回想[35]によれば、上記引用部分の歌詞は元々は
であった。しかし楽曲検討の会議で歌詞がほぼ決まりかけた段階[注釈 3]になって、会議出席者の軍人が、小学校唱歌『水師営の会見』[注釈 6]の歌詞にロシア軍のステッセルの名前が出てくることに倣い、この曲の歌詞にも敵将の名前をぜひ入れてほしいと言い出した[19][7]。作詞担当の西條八十はこの要求に抵抗したものの結局押し切られてしまい[19][7]、「レイテは地獄の三丁目」は「いざ来いニミッツ、マッカーサー」に差し替えられた[37][7]。
作詞者の西條、作曲者の古関、および楽曲検討会議に同席していた日本放送協会の丸山鉄雄[14]はいずれも、歌詞に敵将の名前を入れろと言い出した軍人の名は明かしていない[38][19][18]。しかし西條の戦前からの弟子[39][34]だった丘灯至夫によれば、差し替え部分の歌詞「いざ来いニミッツマッカーサー」を実際に考えたのは大本営陸軍報道部の親泊朝省中佐(階級は当時)だという[12][31][34]。敵将の名前を入れろと言い出したのも親泊中佐とする文献もある(例えば[40][41][37][3][6][9]など)。
「いざ来い」か「出て来い」か
リフレインの部分の歌詞は正確には
いざ来いニミッツマッカーサー 出てくりゃ地獄へ逆落し (太字強調は引用者、以下同様)
であり[37][33]、発表当時に『読売報知』[1][21]や『写真週報』[28]に掲載された歌詞も後年の『古関裕而作品集』[42](1980年)や『西條八十全集』[30](1996年)に収録された歌詞もこの通りである[注釈 4]。しかしこの部分は、しばしば誤って
出て来いニミッツマッカーサー 出てくりゃ地獄へ逆落し
と言及される[37][33]。この誤りは古くから広く見受けられる。戦後間もない昭和20年代の文献にも、「いざ来い」の部分を「出て来い」(あるいは表記揺れで「出てこい」)とした言及が複数存在する(例えば[43][44][45][46][47][12][48]など)。作詞者の西條八十の回想録[49][13]や作曲者の古関裕而の自伝[35]までもが、「いざ来い」ではなく「出て来い」と表記している[37]。
評価
同時代の評価
「いざ来い(出てこい)ニミッツマッカーサー」を子供は面白がって歌ったが[50][14]、大人には下品で無礼な歌詞だと受け止められて不評であった[31][32][14]。発表当時、福田正夫や千々波敬太郎を始めとする文化人100人が連名で「行き過ぎた良識なき行為は、今後日本文化の名誉のため慎まれたい」との旨を情報局に申し入れた[31][32][9]。また新聞の投書欄にも「低調下等な歌」で歌うに堪えないとする声が寄せられた[51]。
後世の評価
戦後に書かれた文章では、『比島決戦の歌』は大戦末期に作られた戦時歌謡のひどい歌詞の例として言及されることが多く、「児戯に類するといふも猶ほ愚かな歌」(里見岸雄)[52]、「低俗」(木村毅)[44]、「最後のアガキのような歌」(丘灯至夫)[12]、「から元気」(鶴見俊輔)[53]、「品性卑しい歌詞」(原田勝正)[54]、「時流に迎合した愚にもつかない作品」(小木新造)[55]、「ものすごい曲 〔中略〕 詩情もへったくれもない、ヤクザの出陣歌みたい」(山中恒)[56]、「文字通り末期症状を示す曲 〔中略〕 すさまじい歌詞」(南博)[57]、「一見威勢のよさそうで幼稚極まる歌」(八巻明彦)[58]、「痩せ犬の遠吠えに似た品のないフレーズ」(塩澤実信)[59]、「やけっぱちの歌」(川柳川柳)[60]などと酷評されている。
歌詞についてはこのように低評価ばかりであるものの、メロディーについては評価が分かれている。メロディーは良いとする意見(丸山鉄雄[61]、江口浩司[4]、八巻明彦[33])もあれば、明るいだけで力強さや悲愴感に欠け、古関メロディーの中では優れたものとは言えないとの意見(菊池清麿[9])や、同じ戦時歌謡でも戦況の良かった頃に作られた『空の神兵』(1942年〈昭和17年〉発表)に比べると歌詞もメロディーも下品であるとの感想(黒羽清隆[62])もある。
作者自身による評価
作詞者の西條八十は、1962年〈昭和37年〉に日本経済新聞に連載した『私の履歴書』で、歌詞の「出て来い〔ママ〕ニミッツ、マッカーサー」の部分を「ひどい詞句」[49]と評している。
作曲者の古関裕而は1980年〈昭和55年〉に発表した自伝『鐘よ鳴り響け』で、「いやな歌」[63]、「今さら歌詞も楽譜もさがす気になれない」[26]と述べている。古関は同年にこの曲の楽譜を再公表したものの[42]、それまでは関係者に口止めして楽譜の公表を遅らせていた[58][33]。またこの曲の蘇演を持ち掛けられた際には拒否していた[4](後述)。
戦後
マッカーサー来日
本曲の発表後1年足らずで日本は降伏し、歌詞で名指しされていたダグラス・マッカーサーは1945年〈昭和20年〉8月30日に進駐軍の最高司令官として厚木飛行場に降り立った[64][65]。“出て来いと呼んだら本当に来てしまった”、“地獄に逆落としにするはずの相手に支配されることになった”というように皮肉を交えて言及される(例えば[52][64][66][41][37][67][68][69][24][65]など)。
「いざ来いニミッツマッカーサー」の部分の真の作詞者(上述)ともされる陸軍の親泊朝省大佐は、日本の降伏文書の調印式が行われた同年9月2日[70]に自決した[12][71]。
日本放送協会のアナウンサーだった藤倉修一は、終戦直後に放送会館で戦犯資料となりそうな文書やニュース原稿や軍歌のレコードなどを破棄したと回想しており、破棄したレコードの例として「出てこい〔ママ〕ニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落し」を挙げている[25]。
風説
作詞者の西條八十は終戦後、この歌詞のせいで(戦犯として)「進駐軍に絞首刑にされるだろう」[49]などと新聞に書かれ、本人も拘束される覚悟をしていた[38][72]。作曲者の古関裕而も同様に戦犯になると噂された[26]。実際には西條も古関も進駐軍からの処分は受けなかった[37]。
35年ぶりの楽譜公表と50年ぶりの再録音
前述したように発表当時の音源は一切見つかっていない[4][14][2][23]。発表当時に『読売報知』紙(1944年12月10日号[1])や『写真週報』誌(1945年1月31日号[28])に歌詞とメロディーのみの簡単な楽譜が掲載されていたが、それも一時忘れられていた。戦後に軍歌研究者の八巻明彦が『写真週報』の楽譜を発見して作曲者の古関裕而に知らせたところ、まだ公表しないでほしいと古関に口止めされたという[58][33]。このように録音も楽譜も手に入らない状態が続き、“幻の曲”と見なされていた[4][17]。
『比島決戦の歌』の楽譜は1980年〈昭和55年〉出版の『古関裕而作品集』(全音楽譜出版社)に掲載された[42]。これが戦後初、35年ぶりの楽譜公表であった[58][33]。この楽譜[29]は発表当時の楽譜[1][28]よりも情報量の多いリード・シートとなっており、歌詞とメロディーに加えてコードや前奏・間奏・後奏の音型も書き込まれている。また1996年〈平成8年〉出版の『西條八十全集 第九巻』(国書刊行会)には歌詞のみが掲載されている[30]。
古関の生前、テレビの軍歌番組がこの曲の蘇演を企画したものの、「これだけは演奏するのはやめていただきたい」と古関に拒絶されて見送りとなった[4]。古関の死後の1995年〈平成7年〉に古関の軍歌を集めたアルバムが企画された際、江口浩司が新たに編曲を担当して、50年ぶりの再録音が実現した[4][17]。
引用
『比島決戦の歌』を引用している創作物として以下のものがある。なお上述したように、この曲の歌詞の「いざ来い」の部分はしばしば「出て来い」という誤った形で引用されるため、各引用での歌詞の正誤も補足する。
1945年〈昭和20年〉2月公開の映画『必勝歌』(松竹)の中に『比島決戦の歌』が断片的に出てくる[22]。映画の開始20分付近で、集団登校する子供たちが2番の歌詞を歌っている。「いざ来い」の部分は、この映画の中では正しい形の「いざ来い」で歌われている。
中野重治は複数の文芸評論や随筆で、詩人の戦時下での時流迎合的な創作活動に話が及んだ際に、西條の「出て来い〔ママ〕ニミッツ、マッカーサー」を引き合いに出している[46][74][75][76][77]。西條以外の詩人についての文章(例えば高村光太郎に関する評論[76]や三好達治に関する評論[77])でも、中野はわざわざ西條の名前を出して『比島決戦の歌』の歌詞を引用している。いずれの言及でも歌詞の「いざ来い」の部分は「出て来い」となっている。
梁取三義が1954年〈昭和29年〉に発表した小説『二等兵物語 第四部 東京空襲の巻』には、児童たちが『比島決戦の歌』を口ずさむ場面が2回出てくる[48]。歌詞の「いざ来い」の部分は「出て来い」で歌われている。
柏原兵三が1969年〈昭和44年〉に発表した自伝的小説『長い道』には、主人公の通学する北陸地方の小学校で、教員の音頭に従い生徒たちが『比島決戦の歌』を斉唱する場面が2回出てくる[78]。歌詞の「いざ来い」の部分は「出て来い」で歌われている。
野坂昭如は複数の著作で、太平洋戦争期の軍歌の例として「出てこい〔ママ〕ニミッツ・マッカーサー」を挙げている[79][80][81][82][83][84]。いずれの言及でも野坂は歌詞の「いざ来い」の部分を「出てこい」としている。
浅田次郎が1993年〈平成5年〉8月に発表した小説『日輪の遺産』[85]、およびそれを原作とする2011年〈平成23年〉8月公開の映画『日輪の遺産』(角川映画)には、登場人物が『比島決戦の歌』を口ずさむ場面が複数出てくる(原作小説[85]では13章、間章、25章など、映画[86]では開始38分付近、開始45分付近、開始1時間55分付近など)。歌詞の「いざ来い」の部分は、原作小説[85]でも映画[86]でも「出てこい」で歌われている。
落語家の川柳川柳が1970年〈昭和45年〉頃から演じていた歌う新作落語の『ガーコン』は、近代日本史を流行歌を通して振り返るという内容である[87]。言及される流行歌の多くが軍歌で、『大東亜決戦の歌』『英国東洋艦隊潰滅』『同期の桜』『若鷲の歌』などに加えて『比島決戦の歌』も紹介される[87][60]。歌詞の「いざ来い」の部分を川柳川柳は「出てこい」で歌っていたが[88][87][89]、『ガーコン』の文字起こし[60]では正しい歌詞の「いざ来い」に修正されている。
2020年〈令和2年〉に放映されたNHK連続テレビ小説の『エール』は、主人公のモデルが古関裕而であった[90]。『エール』の第18週第89回(初回放送2020年10月15日、開始7分付近が該当部分)[91]では、『比島決戦の歌』の歌詞改変のエピソード(上述)が取り上げられた。歌詞の原稿が画面に映るのみで歌う場面はないが、画面に映る歌詞は正しい歌詞の「いざ来い」となっている。
関連項目
脚注
注釈
- ↑ 『比島決戦の歌』の読みがな「ひとうけっせんのうた」は日本音楽著作権協会(JASRAC)での登録情報に従う。JASRACの作品データベース検索サービス「J-WID」[5]で作品コード「072-5510-1」あるいは作品タイトル「比島決戦の歌」を検索し、検索結果の詳細ボタンを押して別ウィンドウに表示されるページの「作品タイトル一覧(正題・副題)」の項を参照。
- ↑ 西條八十と古関裕而のコンビによる歌謡曲として、本曲以外に軍歌や戦時歌謡では『みんなそろって翼賛だ』[10]、『若鷲の歌』(予科練の歌)[10]、『輝く黒髪』(女子挺身隊の歌)[10]、軍歌以外では『ミス仙台』(仙台小唄)[10]、『野球の王者』(巨人軍の歌)[10]、『山形県スポーツ県民歌』[10]、二代目の『水戸市歌』[11]などがある。
- 1 2 この歌の製作過程で歌詞とメロディーのどちらが先に作られたのかについては、関係者の証言に不一致がある。楽曲検討会議に立ち会った日本放送協会の丸山鉄雄[14]が1967年の座談会(古関裕而も参加していた)で証言したところによれば、まず古関が用意してきた2曲のメロディーから1曲を選び出し、次にそのメロディーに西條八十が歌詞をつけたという[18]。一方で作曲者の古関の1980年の自伝によれば、歌詞が先に完成してそれに古関がメロディーをつけたという[19]。
- 1 2 歌詞の読点の打ち方、空白文字の挿入場所、改行の有無などは出典により若干異なる。以下にそれぞれを示す。仮名遣い(旧字旧仮名/新字新仮名)や捨て仮名の表記はいずれも出典に従う。
- 「いざ來い、ニミツツ、マツカーサー/出て來りや地獄へ逆落し」(『読売報知』1944年12月10日号[1]※「/」は改行の代用)
- 「いざ來いニミツツ、マツカーサー、出て來りや、地獄へ逆落し」(『読売報知』1944年12月17日号[21])
- 「いざ來い ニミッツ マッカーサー/出て來りや 地獄へ 逆落し」(『写真週報』1945年1月31日号[28]※「/」は改行の代用)
- 「いざ来いニミッツ マッカーサー/出て来りゃ地獄へ 逆落し」(『古関裕而作品集』1980年、改訂復刻版2008年[29]※「/」は改行の代用)
- 「いざ来いニミツツ、マツカーサー/出て来りや地獄へ逆落し」(『西條八十全集 第九巻』1996年[30]※「/」は改行の代用)
- ↑ 元の歌詞は
- 「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出て来りゃ地獄へ逆落し」(注釈4参照)
- ↑ 小学校唱歌の『水師営の会見』は佐佐木信綱作詞、岡野貞一作曲[36]。日露戦争の旅順攻囲戦を終わらせた「水師営の会見」での乃木希典大将とアナトーリイ・ステッセリ(ステッセル)中将の様子を歌っている[36]。1913年〈大正2年〉の国定教科書『尋常小学唱歌 第五学年用』に初めて掲載され、その後1932年〈昭和7年〉の『新訂尋常小学唱歌 第五学年用』や1942年〈昭和17年〉の『初等科音楽 第四』にも掲載されていた[36]。『水師営の会見』の歌詞全文は外部リンク節の国立国会図書館デジタルコレクションのページを参照。
出典
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- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 朝日新聞 1995.
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- 1 2 3 4 辻田 2020, pp. 193–194.
- ↑ 刑部 2019, pp. 129, 130.
- 1 2 3 4 菊池 2020, p. 152.
- 1 2 3 4 5 6 古関裕而記念館 2020.
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- 1 2 西條 2007, pp. 178–179.
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- 1 2 辻田 2020, p. 195.
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- 1 2 3 4 5 読売報知 1944b.
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参考文献
新聞雑誌記事
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- 「シネマの週末・この1本:日輪の遺産」『毎日新聞東京夕刊』毎日新聞社、2011年8月19日、5面。
- バトルロイヤル風間「バカなことはヨセ! 第356回」『東京かわら版』第568号、有限会社東京かわら版、2020年12月、53頁。
- 丸山鉄雄「戦時音楽の反省とこれからの音楽」『潮流』第1巻第5号、吉田書房、1946年、69-71頁、NDLJP:8823872/39。
- 八巻明彦「雄叫考 酉年の軍隊(下) 『比島決戦の歌』と最後の軍歌『軍歌・陸軍』」『偕行』第507号、偕行社、1993年3月、60-61頁、NDLJP:11435589/31。
- 八巻明彦「雄叫考 第274回 『噫 一誠特別攻撃隊』と特攻隊も登場『比島決戦の歌』」『偕行』第642号、偕行社、2004年6月、24-25頁、NDLJP:11435724/13。
書籍
- 浅田次郎『日輪の遺産』(Kindle版)角川書店、2011年。ASIN B009SKXYJC。※初出: 1993年青樹社。
- 岩佐東一郎『風船虫: 岩佐東一郎随筆集』青潮社、1950年、92頁。NDLJP:12410760/52。
- 大野敏明「比島決戦の歌」『軍歌と日本人 国民を鼓舞した197曲』産経新聞出版、2019年、241-242頁。ISBN 978-4-8191-1365-6。
- 丘灯至夫『歌暦五十年』全音楽譜出版社、1954年、489頁。NDLJP:1353828/273。
- 丘灯至夫「西条八十とひとりの押しかけ弟子」『昭和の流行歌手: 佐藤千夜子からピンク・レディーまで』朝日新聞社、1978年。NDLJP:12438531/28。
- 小木新造『昭和庶民文化史 下』日本放送出版協会、1971年、201頁。NDLJP:12230185/105。
- 刑部芳則「比島決戦の歌」『古関裕而 ――流行作曲家と激動の昭和』中央公論新社〈中公新書 2569〉、2019年、128-130頁。ISBN 978-4-12-102569-2。
- 長田暁二「昭和19年 歌謡の末期的症状」『わたしのレコード100年史 : わが音楽半世紀の足跡 随想』英知出版、1978年、117-121頁。NDLJP:12434730/61。
- 小村公次「替え歌にみる抵抗」『徹底検証・日本の軍歌 ――戦争の時代と音楽』学習の友社、2011年、190-196頁。ISBN 978-4-7617-0671-5。
- 柏原兵三「長い道」『柏原兵三作品集 第4巻』潮出版社、1973年、5-215頁。NDLJP:12490962/96。※初出: 1969年講談社。
- 川柳川柳 著「特別寄稿 大ガーコン」、落語ファン倶楽部 編『新作落語傑作読本 (3)』白夜書房〈落語ファン倶楽部新書 7〉、2013年、251-289頁。ISBN 978-4-86191-995-4。
- 菊池清麿「比島決戦の歌」『[新版]評伝古関裕而』彩流社、2020年、150-154頁。ISBN 978-4-7791-2674-1。
- 木村毅『講演世界文学史』読書展望社、1947年、16頁。NDLJP:1126934/16。
- 黒羽清隆『太平洋戦争の歴史』講談社〈講談社学術文庫〉、2004年、137-138頁。ISBN 4-06-159669-1。
- 神津善行「放送禁止の歌」『音楽の落とし物: そして…その落とし物』講談社、1980年、136頁。NDLJP:12431557/72。
- 古関裕而「比島決戦の歌・比島沖の決戦」『古関裕而作品集』全音楽譜出版社、1980年、265、266頁。 NCID BA8195442X。※この書籍自体の本文や奥付には出版年の記載がないが、下記復刻版(2008年)の目次最終ページに「1980年に出版した『古関裕而作品集』」の改訂復刻版だとの説明がある。
- (復刻版)古関裕而「比島決戦の歌・比島沖の決戦」『古関裕而作品集』全音楽譜出版社、2008年、265、266頁。ISBN 978-4-11-773011-1。
- 古関裕而「幻の、いやな歌」『鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝』集英社〈集英社文庫〉、2019年、148-150頁。ISBN 978-4-08-744059-1。※初出: 1980年主婦の友社。
- 古茂田信男、島田芳文、矢沢保、横沢千秋「エゲツなき比島決戦の歌」『日本流行歌史』社会思想社、1970年、119-121頁。NDLJP:12438458/66。
- 西條八十「私の履歴書 西條八十」『私の履歴書 第17集』日本経済新聞社、1962年、71-130頁。NDLJP:2972795/63。
- 西條八十「比島決戦の歌」『西條八十全集 第九巻 歌謡・民謡Ⅱ』国書刊行会、1996年、176頁。ISBN 4-336-03309-9。
- 西條八十「我愛の記 絞首刑」『西條八十全集 第十七巻 随想・雑纂』国書刊行会、2007年、178-179頁。ISBN 978-4-336-03317-8。※初出: 1962年西日本新聞夕刊。
- 佐伯孝夫、古関裕而、藤山一郎、丸山鉄雄/総合司会: 島浦精二「ラジオと歌謡曲」『放送夜話: 座談会による放送史』日本放送協会、1968年、117-127頁。NDLJP:2518363/67。※初出: 『放送文化』第22巻第7号、日本放送出版協会、1967年7月、NDLJP:1796833/34。
- 櫻本富雄「《比島血戦〔ママ〕の歌》をめぐって」『歌と戦争 みんなが軍歌をうたっていた』アテネ書房、2005年、190-197頁。ISBN 4-87152-235-0。
- 里見岸雄『敗戦と建設の核心』創造社、1946年、260頁。NDLJP:3857308/137。
- 塩澤実信「いざ来いニミッツ マッカーサー」『昭和の戦時歌謡物語: 日本人はこれを歌いながら戦争に行った』展望社、2012年、326-332頁。ISBN 978-4-88546-241-2。
- 清水幾太郎「或る社会学者への手紙」『現代文明論』岩波書店、1953年、193-228頁。NDLJP:2977140/117。
- 袖井林二郎、福島鋳郎「〽いざ来い、ニミッツ、マッカーサー……」『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』日本放送出版協会、1982年、159頁。NDLJP:12227153/163。
- 高木東六「歌謡曲」『実録昭和史: 激動の軌跡』 2巻、ぎょうせい、1987年、184-185頁。NDLJP:12396867/95。
- 辻田真佐憲「最末期の軍歌は録音されず?」『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』文芸春秋社〈文春新書 1256〉、2020年、193-195頁。ISBN 978-4-16-661256-7。
- 鶴見俊輔「マスコミ時評 軍歌退化の歴史」『限界芸術論』勁草書房、1967年、287-289頁。NDLJP:2512455/151。※初出: 『思想の科学』1959年2月号。
- 中野重治「解説」『日本現代詩大系 第10巻』河出書房、1951年、329頁。NDLJP:1356397/175。
- 中野重治『中野重治全集』 13巻、筑摩書房、1997年。ISBN 4-480-72033-2。
- 中野重治『中野重治全集』 19巻、筑摩書房、1997年。ISBN 4-480-72039-1。
- 野坂昭如「あとがき」『軍歌・猥歌』講談社、1968年、222-224頁。NDLJP:1650675/115。
- 野坂昭如「貧きわまりて笑い転げたこの一年」『窮鼠の散歩』朝日新聞社、1975年、263-266頁。NDLJP:12546048/137。
- 野坂昭如「歌を忘れた若者たち」『女わざ・男わざ エッセイ集』実業之日本社、1977年、221-224頁。NDLJP:12546112/116。
- 野坂昭如『行き暮れて雪』中央公論社、1984年、72頁。NDLJP:12546385/40。
- 野坂昭如「わが庵の下、都大路のシュプレッヒコール」『我が闘争こけつまろびつ闇を撃つ』朝日新聞社、1984年、57-60頁。NDLJP:12546427/32。
- 野坂昭如「雲に聳ゆる高千穂の高根おろしに草も木もなびきふしけん大御世を」『還暦まで千人斬り』文藝春秋社、1989年、107-112頁。NDLJP:13503869/60。
- 秦郁彦、袖井林二郎『日本占領秘史 下』朝日新聞社、1977年、160-161頁。NDLJP:12227108/85。
- 原田勝正 著「終戦前後(帝国の没落)」、東京12チャンネル報道部 編『証言私の昭和史 5(終戦前後)』学芸書林、1969年、328-333頁。NDLJP:12283799/168。
- 日高六郎 編「親泊朝省」『戦後日本思想大系 第1』筑摩書房、1968年、412頁。NDLJP:2971892/212。
- 藤倉修一「終戦直後」『マイク人生うらおもて』エイジ出版、1982年、83-87頁。NDLJP:12259855/45。
- 保阪正康『敗戦前後の日本人』朝日新聞社〈朝日文庫〉、1989年、274頁。NDLJP:13331064/139。※初出: 1985年朝日新聞社。
- 堀内敬三「水師営の会見」『日本の軍歌: 定本』実業之日本社、1969年、230-231頁。NDLJP:12434396/118。
- 丸山鉄雄「出て来いと歌が呼んでるマッカーサー」『歌は世につれ』みすず書房、1983年、158-159頁。NDLJP:12438612/88。※初出: 1958年東京新聞。
- 水戸市市長公室公聴広報課 編「水戸市歌」『活力ある文化都市水戸: 市民ガイドブック1989』水戸市市長公室公聴広報課、1989年、96頁。NDLJP:9776225/54。
- 南博、社会心理研究所『昭和文化 1925~1945』勁草書房、1987年、500頁。NDLJP:12230160/259。
- 梁取三義『二等兵物語 第四部 東京空襲の巻』彩光社、1954年、86、110頁。NDLJP:1666050/47。
- 八巻明彦『軍歌歳時記』ヒューマンドキュメント社、1986年。NDLJP:12434591/96。
- 山中恒『ボクラ少国民と戦争応援歌』音楽之友社、1985年、217-220頁。ISBN 4-276-21282-0。
ウェブサイト
- “エール (89)「戦場の歌」”. NHKオンデマンド. 日本放送協会 (2020年10月15日). 2025年9月14日閲覧。
- “古関裕而・金子夫妻をモデルとした連続テレビ小説「エール」が2020年前期に放映されました!”. 福島県福島市 (2025年7月1日). 2026年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年9月15日閲覧。
- “作曲一覧 作詞家別 さ行”. 福島市古関裕而記念館. 福島市振興公社 (2020年). 2021年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年10月3日閲覧。
- 池袋秘密倶楽部 [@gahcon]「談之助師おまけ~比島決戦の歌……」2021年12月30日。2021年12月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。X(旧Twitter)より2025年9月11日閲覧。※「池袋秘密倶楽部」は川柳川柳のファンクラブで、川柳川柳の高座の録音CD(『川柳百席』シリーズ)を製作販売していた。ツイートに出てくる「談之助」は落語家の立川談之助を指す。
- 松田健次 (2021年12月8日). “【追悼 川柳川柳師匠】軍歌を歌い続け「戦争体験」を伝え続けたオンリーワンの落語家”. livedoor ニュース(BLOGOS). 2022年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年9月11日閲覧。