毛利就禎

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毛利 就禎
時代 江戸時代中期
生誕 延享2年(1745年)
死没 享和元年11月27日(1802年1月1日)[1]
別名 通称:勝九郎、宮内、伊勢
幕府 江戸幕府
藩 長州藩
氏族 阿川毛利家
父母 父:毛利広漢、母:毛利元連の娘
兄弟 毛利就禎、国司禎喜
妻 正室:宍戸広周の娘
継室:藤木土佐の娘
継々室:堤代長の娘
子 養子:信任
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毛利 就禎(もうり なりさだ)は、長州藩一門家老である阿川毛利家の8代。

生涯

延享2年(1745年)、一門家老毛利広漢の長男として生まれる。宝暦4年(1754年)、広漢が藩主毛利重就と対立して処罰され、隠居したため家督を相続することとなる。元服して重就より偏諱を授かり就禎と名乗る。明和2年(1765年)、後潟で38町2反の干潟の開作(干拓)を行う。明和7年(1770年)1月、当職毛利広圓が没し、代わって当職(執政・国家老)となる。安永9年(1780年)、隠居して家督を養子の信任に譲る。享和元年(1801年)11月27日死去。享年57。

脚注

  1. ↑ 『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年、p.85。

参考文献

  • 石川卓美著「防長歴史用語辞典」
  • 小川國治著「毛利重就」