玉縄藩

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玉縄藩
玉縄城、その麓に玉縄陣屋が置かれた
立藩年 寛永2年(1625年)ころ?
初代藩主 松平正綱(本多正信説もあり)
廃藩年 元禄16年(1703年)
最終藩主 松平正久
国 相模国
居城 玉縄陣屋

本多家?
石高 1万石?
極位極官 従五位下
藩主 本多正信?

大河内松平家
石高 2万2000石→2万石
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玉縄藩(たまなわはん)は、相模国に1625年(寛永2年)ころから1703年(元禄16年)まで存在した譜代大名による藩。異説はあるものの、本多正信が初代藩主をつとめたとされており、以降は大河内松平家が藩主を務めた。藩庁は玉縄陣屋(現在の神奈川県鎌倉市)に置いた。大河内松平家時代の石高は、2.2万石、のちに2万石である。甘縄藩(あまなわはん)とも呼ばれる[注釈 1]。

玉縄藩の歴史は、家康側近の本多正信に始まるというのが、通説となっている。しかし、その確固たる証拠はなく、異説も多い。寛永2年(1625年)になり、大河内松平家の松平正綱が玉縄を含む領地の朱印状を発給し、玉縄藩は成立したとされる。しかし、それ以前からも玉縄を預地として領し、玉縄に居住したという。松平正綱以降、松平正信、松平正久が跡を継いだ。松平正久の代になり、元禄3年(1690年)に大多喜藩へ転封となり、玉縄藩は廃藩となった。

藩史

家康の関東入封後の玉縄

玉縄城は、小田原の後北条氏の属城であったが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で落城する[1]。その後、秀吉の命で徳川家康が関東に入部したとき、家康の参謀・本多正信の所領となったとされている[2][3]。

しかし、本多正信による立藩の真偽は明らかでない[4]。玉縄城およびその周域に関しては、明確な史料が残っておらず、本多正信が入封したかでさえ、疑問視されている[2]。本多正信の家譜には、天正18年(1590年)に10万石を得たとあるが、その所領は上総国や下総国佐倉など、甘縄(相模国玉縄と同一か不明)など複数の説が存在している[4]。逆に、青山忠成や水野忠守、酒井重忠の系譜には、同時期に玉縄を拝領された、もしくは玉縄城を防衛したともある[4]。

大河内松平家による支配

玉縄を含む鎌倉郡5村は、天正18年(1590年)より長沢松平家の松平正次が預地ないし、一部は知行地として付与されていたとされている[5][6]。

天正15年(1587年)に、大河内秀綱の次子・松平正綱は、徳川家康の命により松平正次の養子となった(以降、この家系を大河内松平家と呼ぶ)[7]。慶長元年(1596年)に相模国淘綾郡万田村に380石を与えられたことを機に、同7年(1602年)に500石を加増、同15年(1610年)に3000石を加増されるとともに、近習出頭人や勘定奉行をつとめた[7]。元和2年(1616年)には、さらに780石を加増されている[7]。元和5年(1619年)には、養父正次が領していた玉縄領預かりを命じられた[6][3][7]。この際に玉縄城南側山麓に玉縄陣屋を置き、居住していた[6][8][9]。寛永2年(1625年)には、相模国・三河国・武蔵国・大和国において2万2000石の朱印状を得た[5][6]。

慶安元年(1648年)、松平正綱は死去し、その子松平正信が継承した[6]。その際、新田高を含む3000石を弟の松平正朝に分与したため、玉縄藩の石高は2万石となった[6]。慶安3年(1650年)には、相模国の領地の検地をおこなっている[6]。正信は、万治2年(1659年)から貞享3年(1686年)まで奏者番をつとめたほか、鶴岡八幡宮の修造奉行や日光東照宮の修理奉行をつとめた[6]。

元禄3年(1690年)、松平正綱は隠居し、松平正久が跡を継いで藩主となった[10]。相続の際、新田高3000石を弟の松平正基に分与している[10]。松平正久は、奏者番や若年寄をつとめた[10]。元禄11年(1698年)、玉縄藩領のうち、相模国・武蔵国分が三河国に移された[10]。同16年(1703年)に上総国大多喜藩に転封となり、玉縄藩は廃藩となった[10]。

歴代藩主

大河内松平家

譜代大名、石高:2万2000石→2万石

代 氏名 在職期間 [11] 出自
1 松平正綱
まつだいら まさつな
寛永2年7月 - 慶安元年6月22日
(1625年 - 1648年8月10日)
大河内秀綱の子
松平正次の養子
2 松平正信
まつだいら まさのぶ
慶安元年7月20日 - 元禄3年4月
(1648年9月7日 - 1690年)
先代の子
3 松平正久
まつだいら まさひさ
元禄3年(1690年)4月 - 元禄16年2月10日
(1690年 - 1703年3月26日)
先代の子

脚注

注釈

  1. ↑ 参考までに、参考文献で用いている主たる表記は以下のとおりである。「玉縄藩」…「三百藩藩主人名事典」。「甘縄藩」…「藩史大事典」「」

出典

  1. ↑ 平井ほか 1980 pp.336-339
  2. 1 2 鎌倉市 1990 p,122
  3. 1 2 馬場 2006 p,436
  4. 1 2 3 中丸 1974 p,161
  5. 1 2 鎌倉市 1990 p,123
  6. 1 2 3 4 5 6 7 8 神崎 1986 p,453
  7. 1 2 3 4 神崎 1986 p,682
  8. ↑ 鎌倉市教育委員会 1996 p.14
  9. ↑ 鎌倉市教育委員会 2013 pp.1-7
  10. 1 2 3 4 5 神崎 1986 p,454
  11. ↑ 神崎 1986 p,452,453

参考文献

関連項目

座標: 北緯35度21分03.5秒 東経139度30分52.4秒 / 北緯35.350972度 東経139.514556度 / 35.350972; 139.514556