瓜連城

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瓜連城
(茨城県)
城郭構造 複郭式平山城(城塞都市的城郭)
天守構造 なし
築城主 北条貞国(伝承)、楠木正家(南北朝期)、佐竹氏(室町期陣城)
築城年 鎌倉時代末期(伝)、延元元年/建武3年(1336年)
主な改修者 佐竹氏・鎌倉府(15世紀初頭・上杉禅秀の乱後、戦国期)
主な城主 北条氏、楠木正家、佐竹氏
廃城年 16世紀末(寺院境内地・集落化)
遺構 曲輪、土塁(大土塁、武者溜)、空堀、竪堀(連続竪堀)
指定文化財 茨城県指定史跡(1934年12月18日指定)
位置 北緯36度30分11.5秒 東経140度27分7.8秒 / 北緯36.503194度 東経140.452167度 / 36.503194; 140.452167座標: 北緯36度30分11.5秒 東経140度27分7.8秒 / 北緯36.503194度 東経140.452167度 / 36.503194; 140.452167
瓜連城の位置(茨城県内)
瓜連城
瓜連城
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瓜連城(うりづらじょう)は、常陸国久慈郡(のち那珂郡、現在の茨城県那珂市瓜連)にあった日本の城(平山城)。茨城県指定史跡。 南北朝時代初期の延元元年/建武3年(1336年)、南朝方の忠臣・楠木正成の一族である楠木正家が東国経営の拠点として築城・入城し、北朝方の常陸守護・佐竹氏との間で繰り広げられた激戦「瓜連城の戦い(瓜連合戦)」の舞台として知られる[1][2]。 近年の城郭史・地域史研究においては、鎌倉時代の久慈西郡政所および執権北条氏一族(北条貞国)の居館に端を発し、南北朝期の合戦拠点を経て、15世紀前半の上杉禅秀の乱後に鎌倉府軍が山入氏討伐のために再整備した大規模な陣城であったことが指摘されている[3][4]。城域は現在の本丸跡である常福寺境内のみにとどまらず、6つの街道が交わる交通要衝の宿場町(瓜連宿)全体を取り込んだ「城塞都市」的規模を持つ複合城郭であったと考えられている[5][4]。

概要

瓜連城は、久慈川南岸に面した台地北端部に築かれた平山城である。延元元年/建武3年(1336年)正月、後醍醐天皇より常陸国の旧北条氏領を賜った楠木正成の代官として楠木正家が派遣され、常陸における南朝方の根拠地として瓜連城に拠った[2][6]。北朝方の佐竹貞義・佐竹義篤父子と約1年間にわたり激しい攻防戦を展開したが、同年12月に南朝方の有力武将・那珂通辰が敗死し、佐竹義篤・伊賀盛光らの総攻撃を受けて落城した[2][7]。 戦前には南朝忠臣ゆかりの史跡として重視され、1934年(昭和9年)に茨城県指定史跡となった[4][1]。現在、主郭(本丸)跡には浄土宗常陸総本山である常福寺が建立されているが、境内には高さ数メートルにおよぶ大土塁、幅約8メートルの巨大な空堀、空堀内の移動を制限する連続竪堀などの極めて大規模かつ良好な土木遺構が残存している[4][8]。近年の研究では、現存する土塁や空堀遺構の多くは南北朝期のものではなく、室町時代から戦国時代にかけて佐竹氏や鎌倉府によって改修・再城郭化された陣城・拠点城郭の遺構であると評価されている[3][4]。

立地・環境

地形・立地

瓜連城は、久慈川南岸に広がる沖積低地を望む那珂台地(瓜連台地)の北東端、舌状に突き出た標高約40 - 45メートルの台地縁辺部に位置する[7][6]。主郭(本丸)跡にあたる常福寺境内の北東面は比高約20 - 30メートルの急崖となっており、眼下に水田地帯(旧湿地帯・河谷)が広がる後背堅固の天然の要害をなしている[6][8]。

交通の要衝

中世の瓜連は、水陸交通の結節点として極めて重要な位置を占めていた[9][4]。特に久慈川および山田川沿いに常陸北部から奥州へと通じる幹線道路「南郷道(依上道)」を押さえる要衝であり、加えて以下の6本の主要街道が瓜連の地で交差していた[9][4]。

  • 南郷道(依上道):久慈川沿いに北上し、白河・奥州方面へ結ぶ幹線。
  • 太田道:山田川・久慈川を渡河して佐竹氏の本拠である常陸太田城へ至る道。
  • 岩瀬道:西方の笠間・岩瀬方面へ連絡する街道。
  • 額田道:東方の額田城・那珂湊方面へ通じる道。
  • 比丘尼街道:近隣の寺社や集落を結ぶ古道。
  • 笠間道(静神社道):常陸国二宮である静神社を経て笠間方面へ結ぶ道。

このように交通の結節点であった瓜連を掌握することは、軍勢の移動や補給路の遮断・確保に直結しており、南北朝期の瓜連城の戦いや室町期の陣城設置において最重要の軍事拠点とされた主因であった[9][4]。

歴史・沿革

鎌倉時代(原初・政所と北条貞国の居館)

鎌倉時代の瓜連は、常陸国久慈西郡の政所が置かれた郡行政の中心地であった[10][9]。宿を経営・統括する沙汰人や政所を管理する代官が常駐し、物資が集散する初期中世都市が形成されていた[10][4]。鎌倉幕府の執権北条氏の一族(金沢流北条氏ら)が瓜連の地を領掌し、「瓜連」を名字として名乗る者も存在した[10]。 瓜連城跡の南西に位置する字古屋敷には、北条貞国(金沢貞顕の弟)の居館伝承地が残る[4]。そのすぐ東隣には、元弘2年(1331年)に貞国が建立したと伝えられる西福寺が所在する[4]。城郭研究者・歴史学者の五十嵐雄大らは、この北条貞国居館伝承地を中心とした在地領主居館・政所施設の一帯が、後世の瓜連城の原型(「原初」瓜連城)であった可能性を指摘している[4]。

南北朝時代(楠木正家の進出と瓜連城の戦い)

鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政において後醍醐天皇に功績を認められた楠木正成は、北条氏の旧領であった瓜連一帯を恩賞として与えられた[8]。建武2年(1335年)末に足利尊氏と後醍醐天皇が対立して延元の乱が勃発すると、正成は一族の楠木正家(通称・左近蔵人)を代官として東国へ派遣した[2]。 延元元年/建武3年(1336年)正月、正家は瓜連に入城して城郭を整備・拡張し、南朝方の東国経営拠点とした[6][2]。瓜連城には、陸奥の北畠顕家と連携する南朝勢力として、城主の正家をはじめ、那珂城主の那珂通辰、川野辺資鎮ら那珂・川野辺氏一族、大掾高幹、長岡宣政ら大掾氏一族、広橋経泰、小田治久、千葉氏一族の相馬胤平らが集結した[2][7]。さらに2月25日には、北朝方であった佐竹氏の一族・佐竹幸乙丸が南朝方に寝返り、瓜連城の正家に合流した(『薬王院文書』)。 これに対し、常陸国の北朝方武頭であった佐竹氏惣領の佐竹貞義・義篤父子は瓜連城の排除を図った。

  • 佐竹義冬の討死と金砂山城籠城:同年2月6日、佐竹貞義は子の佐竹義直・佐竹義冬らを派遣して瓜連城を急襲させたが、広橋経泰・小田治久・楠木正家らの迎撃に遭い、義冬をはじめとする多数の将兵が討死して敗退した(『密蔵院文書』佐竹貞義軍忠状)[2]。劣勢に追い込まれた貞義は本拠の太田城を支えきれないと判断し、天然の天険である金砂山城へ籠城を余儀なくされた[7]。
  • 北畠顕家の北上と戦局の好転:4月、京都から陸奥へ下向する途上の北畠顕家軍が常陸に到達し、足利方についていた下野茂木氏、常陸の筑波北条氏、田中氏、小山氏一族の村田氏、大掾一族の小栗氏などを次々と撃破・追討した[2]。これにより南朝方が一時的に圧倒的優勢を誇った[2]。
  • 湊川の戦いと北朝方の反攻:しかし5月25日、畿内の湊川の戦いで楠木正成が敗死し足利尊氏が上洛を果たすと、東国の戦況も暗転した[2]。7月から8月にかけて、北朝方の援軍として相馬胤頼や陸奥の伊賀盛光らが常陸に参戦し、佐竹義篤は武生城(常陸太田市)に兵力を集結させて反撃態勢を整えた[2]。
  • 那珂通辰の敗死と瓜連城落城:同年12月、金砂山城を攻めていた南朝方の那珂通辰軍に対し、武生城から出撃した佐竹義篤・伊賀盛光の北朝軍が奇襲を仕掛けた[2][7]。天険を利用した佐竹勢の反撃によって那珂軍は壊滅し、瓜連城へ退却する途中で退路を遮断され、那珂通辰をはじめとする一族郎党43人(一説に34人)は全員自刃して果てた[7]。勢いに乗る佐竹義篤らは岩出河原で小田・広橋勢を破り、そのまま瓜連城を完全に包囲・総攻撃した[2]。12月11日、瓜連城は猛攻を受けてついに落城し、楠木正家は城を脱出して本国の河内国へ逃れた(『飯野八幡社文書』伊賀盛光軍忠状)[2]。この一連の戦いを「瓜連城の戦い(瓜連合戦)」と呼ぶ。

室町時代・戦国時代(再城郭化・鎌倉府の陣城)

瓜連合戦の終結後、瓜連の地は佐竹氏の支配下に入った[4]。延文3年/正平13年(1358年/1359年)、浄土宗の高僧・了実上人により瓜連白蓮塚に常福寺が創建され、佐竹義篤は寺地や仏供料を寄進して一族の祈願所とした[11][6]。元中5年/嘉慶2年(1388年)の火災を経て、応永12年(1405年)に常福寺は旧城跡(本丸跡)である現在地へ移転・再建された[11][4]。 しかし、応永23年(1416年)に上杉禅秀の乱が勃発すると、関東地方は再び大動乱に見舞われた。乱の鎮圧後、禅秀に同調した常陸領主層の残党(佐竹庶家筆頭の山入氏など)に対する大規模な討伐戦が展開され、瓜連の町や寺院も荒廃した[4]。この際、鎌倉府および佐竹宗家は山入方の拠点(稲木城、山方城、長倉城など)を攻撃・制圧するための巨大な軍事陣所(陣城)として、交通結節点である瓜連城を大規模に再整備したとされる[4]。当時の記録に「瓜連に参陣」との記述が見られることから、諸将が軍勢を結集できる拠点城郭として普請されたと考えられている[4]。 近年の発掘調査および縄張研究では、現在常福寺境内に残る高さ数メートルの大土塁、幅約8メートルの大空堀、連続竪堀などの高度な遺構は、短期間で落城した南北朝期の楠木正家による築城ではなく、この15世紀前半の鎌倉府陣城期から16世紀の戦国期にかけて佐竹氏らによって改修・強化された遺構である可能性が極めて高いと結論づけられている[3][4]。

近世以降

関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602年)、佐竹氏が秋田藩(久保田藩)へ減転封されると、瓜連城は軍事拠点としての役割を完全に終えた。一方、城跡に位置する常福寺は徳川家康より寺領100石の朱印状を賜り、浄土宗の「関東十八檀林」の1つとして重きをなした[11]。近世を通じて常福寺の境内地として保護されたことにより、本丸周囲の大規模な土塁や空堀などの遺構が破却を免れ、良好な状態で後世に伝えられることとなった[11][8]。

近現代

1934年(昭和9年)12月18日、楠木正家が拠った南朝方の重要拠点として、茨城県指定史跡(指定名称「瓜連城跡」)に指定された[1][6]。これは戦前の皇国史観・南朝史観に基づく顕彰の側面が強かったものの、中世城郭遺跡としての残存度の高さが公的に評価された契機となった[4]。現在も常福寺境内一帯が史跡として整備・保存されている。

縄張・構造

本郭(本丸)と主郭部遺構

現在の常福寺境内が瓜連城の主郭(本丸)跡にあたる[6]。本丸は台地北東端の縁辺部に位置し、北東側は比高20 - 30メートルにおよぶ急峻な崖によって久慈川低地に面している[6][8]。

  • 大土塁・物見台:常福寺本堂の裏手(北側から西側)にかけて、非常に長大で重厚な大土塁が巡っている[8]。土塁は2段に構築されており、所々に小規模な出丸あるいは「武者溜(武者だまり)」と呼ばれる平坦面が設けられている[11][6]。土塁北端の高まりは物見台(櫓台)と推測され、現在は源太郎稲荷が鎮座している[7][8][4]。また本堂南側の忠魂碑付近にも櫓台状の張り出しを伴う土塁が確認される[7]。
  • 大空堀・連続竪堀:大土塁の外側には、幅約8メートルに達する大規模な空堀が掘削されている[4]。空堀は台地の中腹から南東方向へ横堀となって延びており、一部は堀底が通路としても活用されている[7][8]。さらに特筆すべき構造として、台地斜面や空堀内の横移動を厳重に遮断・制限するための「連続竪堀」が複数条施工されている点が挙げられる[4]。

外郭と「城塞都市」構造

瓜連城の城郭規模は、常福寺境内(本丸)にとどまらない。瓜連の集落・町場内(旧瓜連宿)には各所に土塁や堀の残存遺構が点在している[11][6]。 城郭研究者の川崎春二による縄張図や五十嵐雄大による復元考察では、本丸の西側に広がる西福寺、南西の素鵞神社、旧十輪寺跡を含む宿場町全体を三重・四重の堀や土塁で包括した外郭(惣構)が存在したことが指摘されている[5][4]。これら外郭遺構を含めた城域は東西約700メートル、南北約700メートル四方におよぶ広大なものであり、6つの街道が合流する交通要衝の市場・宿場町そのものを防衛線内部に取り込んだ、関東地方でも屈指の大規模「城塞都市」であった可能性が高いと考えられている[11][6][4]。

関連寺社・史跡

  • 常福寺:浄土宗常陸総本山、関東十八檀林。瓜連城本丸跡に建立。国の重要文化財である『紙本著色拾遺古徳伝』『絹本著色法然上人画像』をはじめ、多数の文化財を所蔵する[11]。
  • 西福寺:元弘2年(1331年)に北条貞国が建立したと伝わる寺院。境内周辺は北条貞国居館伝承地(字古屋敷)であり、室町時代の五輪塔、鎌倉時代作の木造地蔵菩薩像、中世板碑などが残る[4]。
  • 素鵞神社:大同年間創建と伝わる古社。外郭の南西端付近に位置する。永禄2年(1559年)に佐竹義昭が社殿を再建した際の棟札が残る[4]。
  • 十輪寺跡:常福寺の末寺であった寺院跡(江戸時代に廃寺)。道路改修時に康永3年/興国5年(1344年)銘の中世板碑が出土した[4]。
  • 瓜連白蓮塚:常福寺の創建当初の旧地とされる場所[11]。

現地情報

所在地

  • 茨城県那珂市大字瓜連字入門前1221 - 1222番地ほか(常福寺境内周辺)

文化財指定

  • 茨城県指定史跡「瓜連城跡」(1934年〈昭和9年〉12月18日指定、指定面積:9,170.7平方メートル、所有者・管理者:常福寺)[6][11]

交通アクセス

脚注

出典

  1. 1 2 3 茨城県教育委員会: “県指定文化財 史跡 瓜連城跡”. 茨城県教育委員会. 2026年10月10日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 茨城県立歴史館: “瓜連城の戦い(那珂市)”. 茨城県立歴史館. 2026年10月10日閲覧。
  3. 1 2 3 五十嵐雄大「中世瓜連城と宿の景観について」『常総中世史研究』第4号、2016年。
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 五十嵐雄大「瓜連城の構造と変遷」茨城城郭研究会歴史講演会資料、2017年。
  5. 1 2 川崎春二「瓜連城縄張図」所収(五十嵐雄大『瓜連城の構造と変遷』参照)。
  6. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 那珂市教育委員会: “26.県指定文化財【瓜連城跡】”. 那珂市公式ホームページ (2016年3月28日). 2026年10月10日閲覧。
  7. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 平凡社編『日本歴史地名大系 第8巻 茨城県の地名』平凡社、1982年、「瓜連城跡」項。
  8. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 茨城城郭研究会 編『図説 茨城の城郭』国書刊行会、2006年、122-123頁。
  9. 1 2 3 4 高橋修「中世の南郷道―「依上道」試論」『南郷道』常陸大宮市歴史民俗資料館、2014年。
  10. 1 2 3 小森正明「常陸国久慈西郡と金沢称名寺について」佐藤博信編『中世東国の社会構造』岩田書院、2007年。
  11. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 那珂市教育委員会設置現地案内板『県指定史跡 瓜連城跡 / 常福寺』解説文。

参考文献

  • 五十嵐雄大「瓜連城の構造と変遷」茨城城郭研究会歴史講演会資料、2017年。
  • 五十嵐雄大「中世瓜連城と宿の景観について」『常総中世史研究』第4号、2016年。
  • 茨城城郭研究会 編『図説 茨城の城郭』国書刊行会、2006年。
  • 峰岸純夫・齋藤慎一 編『関東の名城を歩く 北関東編』吉川弘文館、2011年。
  • 齋藤慎一・向井一雄『日本城郭史』吉川弘文館、2016年。
  • 高橋修「中世の南郷道―「依上道」試論」『南郷道』常陸大宮市歴史民俗資料館、2014年。
  • 小森正明「常陸国久慈西郡と金沢称名寺について」佐藤博信 編『中世東国の社会構造』岩田書院、2007年。
  • 『瓜連町史』瓜連町史編さん委員会、1986年。
  • 那珂市教育委員会『那珂市の文化財』那珂市教育委員会。
  • 東京帝国大学文学部史料編纂掛 編『大日本史料 第六編之三』東京帝国大学、1903年。

関連項目