金砂山城

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金砂山城
(茨城県)
別名 金砂城、西金砂山城
城郭構造 山城
築城主 佐竹氏(伝・佐竹秀義)
築城年 平安時代末期(12世紀末)
主な城主 佐竹氏(佐竹秀義、佐竹貞義、佐竹義舜など)
廃城年 慶長7年(1602年)佐竹氏移封に伴い事実上廃絶
遺構 曲輪、土塁、空堀(竪堀・堀切)、切岸、土壇(館跡)
位置 北緯36度39分26秒 東経140度27分00秒 / 北緯36.65722度 東経140.45000度 / 36.65722; 140.45000座標: 北緯36度39分26秒 東経140度27分00秒 / 北緯36.65722度 東経140.45000度 / 36.65722; 140.45000
金砂山城の位置(茨城県内)
金砂山城
金砂山城
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金砂山城(かなさやまじょう、かなさざんじょう)は、現在の茨城県常陸太田市上宮河内町域内にあたる常陸国久慈郡の西金砂山にあった日本の山城。古記録では単に金砂城(かなさじょう、かなさのしろ)とも記され、東金砂山との対比から西金砂山城(にしかなさやまじょう)とも呼ばれる。

常陸源氏・佐竹氏の詰城・要塞として機能し、平安末期の治承・寿永の乱(金砂城の戦い)、南北朝内乱、室町・戦国期の山入の乱において、佐竹宗家が存亡の危機に際して立て籠もった「佐竹開運の城」「最後の砦」として知られる。山頂には西金砂神社が鎮座し、山岳寺院・修験霊場と城郭が一体化した宗教的要塞の性格を持つ。

概要

常陸太田市西部に位置する標高418m(比高約305m)の急峻な独立峰・西金砂山の山頂部から尾根一帯にかけて占地する。西面が約100mにおよぶ断崖絶壁となっており、古代以来の天台修験・山岳信仰の聖地(常陸五山のひとつ)であった険山をそのまま城塞として利用した。

常陸国奥七郡を支配した佐竹氏は、平時の居城である平地の太田城(舞鶴城)に対し、強敵の侵攻や本拠陥落といった非常時に金砂山城へ退去・籠城する防衛体制をとっていた。現地解説板等にも「城とはいえ城郭を構えたものでなく、天険の山そのものが城であった」と記されるように、大規模な人工削平や石垣を多用した近世城郭とは異なり、自然の急崖・尾根そのものを防御障壁とし、山頂の社寺空間を防衛拠点とした中世初期以来の山岳要害の典型例である。

名称・表記

本城郭は史料や時代、研究分野によって複数の呼称・表記が存在する。

金砂山城(かなさやまじょう、かなさざんじょう)
霊峰「金砂山」に築かれた山城としての地形的特質から、近世以降の地誌や現代の城郭専門書(『日本城郭大系』『図説 茨城の城郭』など)において標準的な項目名として広く採用されている呼称[1]。
金砂城(かなさじょう、かなさのしろ)
鎌倉幕府の編年史『吾妻鏡』治承4年11月4日条・5日条などに「常陸国金砂城」「金砂城」として登場する呼称[2]。合戦名(金砂城の戦い)や歴史事典などで広く知られ、2023年(令和5年)に茨城県教育委員会が発行した県内の城館遺跡の調査報告書『茨城県の中世城館』のほか[3]、常陸太田市教育委員会が現地に設置した標柱・案内板の表記も「金砂城址」となっている。
西金砂山城(にしかなさやまじょう)
山田川の谷を挟んで東に対峙する東金砂山(東金砂神社)との対比から、西側の山頂(西金砂神社境内)に位置する城郭であることを明確に特定するために用いられる呼称。

歴史・沿革

平安末期:金砂城の戦い

治承4年(1180年)、源頼朝が伊豆で挙兵して関東武士を糾合する中、平家と結びつきが深かった佐竹氏は頼朝の招降に応じなかった。同年10月の富士川の戦いで勝利した頼朝は、上総広常や千葉常胤らの進言を容れて佐竹氏討伐へ向かった。

当時、佐竹氏当主の父・佐竹隆義が平氏の命で在京中であったため、嫡男の佐竹義政と三男の佐竹秀義が迎撃に当たったが、義政は上総広常の謀略により国府近くの大矢橋(現小美玉市大谷)で誘い出されて謀殺された。正嫡となった秀義は、平地の本拠・太田城を捨てて一族郎党数千とともに天険の金砂山城へ籠城した。

同年11月5日、頼朝軍は金砂山城への総攻撃を開始した。『吾妻鏡』には次のように記され、頼朝軍が城の峻険さと城兵の猛反撃に苦戦した様子が伝えられている[4]。

かの城郭は高山の頂に構ふるなり。御方の軍兵は麓の渓谷に進む。故に両方の在所すでに天地のごとし。しかる間、城より飛び来る矢石、多くもつて御方の壮士に中る。御方より射るところの矢は、はなはだ山岳の上におよびがたし。また巌石路を塞ぎ、人馬共に行歩を失ふ…… — 『吾妻鏡』治承4年11月5日条

正面攻撃の困難を悟った上総広常は、城外にいた秀義の叔父・佐竹義季(義憲)を調略した。義季は頼朝方に内応し、城の構造や間道を熟知していた義季の先導により、頼朝軍は背後から金砂山城を急襲した。背後から上がる鬨の声に城内は大混乱に陥り、城は落城した。秀義は城を脱出し、常陸奥郡・奥州境の花園城(花園山、現・北茨城市)へ逃れて雌伏した[5]。

南北朝時代:瓜連城の攻防と籠城

建武の新政瓦解後の南北朝内乱において、佐竹氏第8代当主・佐竹貞義は一貫して足利尊氏(北朝・室町幕府)を支持し、常陸守護に任じられた。これに対し、南朝方は楠木正成の代官として楠木正家を常陸へ派遣し、瓜連城(現・那珂市)を拠点として小田氏、那珂氏ら南朝方勢力を糾合した。

延元元年/建武3年(1336年)、佐竹軍は瓜連城を攻撃したものの撃退され、貞義の子・義冬が戦死するなど敗北を喫した。貞義は太田城から金砂山城へと退いて防戦態勢をとった。楠木正家や那珂通辰ら南朝方軍勢が金砂山城へ攻め寄せたが、佐竹軍は天険に拠ってこれを撃退し、那珂通辰を討ち取る戦果を挙げた。態勢を立て直した佐竹氏は北朝方の支援を得て同年12月に瓜連城を攻略し、常陸北部における優位を確立した[1]。

室町・戦国期:山入の乱と佐竹義舜の逆転

室町時代中期から後期にかけて、佐竹宗家と有力庶家である山入氏との間で100年余りに及ぶ内紛(山入の乱)が激化した。

延徳2年(1490年)、山入氏の攻勢によって太田城を追われた第15代当主・佐竹義舜は、母方の実家である大山氏を頼って孫根城(現・城里町)へ逃れた。しかし明応元年(1492年)頃から明応9年(1500年)にかけて山入氏義軍が孫根城に迫ったため、義舜はさらに奥地の金砂山城へと退去して籠城した。文亀2年(1502年)には山入軍が金砂山城を包囲し、義舜は進退窮まる危機に陥ったが、天険と激しい風雨(神風の伝承)に助けられて防戦に成功し、山入勢を退けた。

態勢を挽回した義舜は、永正元年(1504年)に山入氏義を太田城から掃討して同氏を滅ぼし、長きにわたる内紛に終止符を打って佐竹宗家の統一を果たした。このことから、金砂山は佐竹氏代々の「開運の霊山」「宗家再興の要塞」として一層深く崇敬されるようになった。

近世以降

戦国末期に佐竹氏は常陸一国を統一する大名へと成長したが、関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602年)、第20代当主・佐竹義宣が出羽国秋田へ減転封となったため、金砂山城も軍事拠点としての役目を終え、事実上廃絶した。江戸時代以降は水戸藩領となり、第2代藩主・徳川光圀による社寺改革等を経て、西金砂神社境内として保護・維持された。

構造・縄張

金砂山城は、西金砂山(標高418m)の自然地形を最大限に活用した山城である。

  • 主郭(本殿周辺):西金砂山山頂の西金砂神社本殿が建つ平坦面が主郭部にあたる。西側および北側は高さ約100mにおよぶ垂直の断崖絶壁(岩壁)であり、直登は不可能に近い。東面および南面には鋭い切岸と段郭状の平場が形成されている。
  • 中郭・館跡(拝殿・鳥居周辺):中腹の二之鳥居から拝殿に至る尾根筋や、社殿手前の平坦地(土壇)は「館跡」と伝承され、平時の居館または籠城時の物資集積・番所空間として機能したと推定されている。
  • 防御遺構:自然の岩尾根や谷を巧みに利用した構造であるが、参道沿いや尾根の分岐点には堀切、竪堀状の遺構、切岸、土塁の痕跡が確認できる。大手筋にあたる表参道の急坂・石段は狭小で、上方からの投石や弓射(矢石)に対して侵入側が極めて不利となる構造をなしている。

信仰と神社

金砂山城の最大の特徴は、古代山岳信仰・天台修験の拠点である西金砂神社および東金砂神社と不可分に結びついた宗教的拠点城郭であった点にある。

西金砂神社

西金砂山の山頂(城郭の主郭部)に鎮座する神社。社伝によれば大同元年(806年)平城天皇の勅願により宝珠上人が開山し、比叡山日吉神社(日吉山王権現)の分霊を勧請した天台宗系の山岳寺院に始まるとされる。

佐竹氏の祖・源昌義以来、一族は金砂大権現を守護神として篤く尊崇した。佐竹氏にとって金砂山城への籠城は、単なる軍事的防衛にとどまらず、氏神・守護神の懐深くに退いて神仏の加護を乞う宗教的行為(神籠もり)でもあった。治承4年の落城、南北朝期の防戦、戦国期の山入氏撃退など、いずれも最終的に佐竹宗家の存続・復権につながったことから、金砂山は「佐竹開運の山」と称えられた。

東金砂神社

山田川の渓谷を挟んだ東方、東金砂山(標高494m、常陸太田市天下野町)の山頂に鎮座する神社。西金砂神社と同じく大同元年(806年)に宝珠上人によって開かれ、翌年には坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に多宝塔を建立したと伝える。

西金砂神社と東金砂神社は山田川を挟んで一対をなし、72年に一度斎行される国指定無形民俗文化財の「金砂神社磯出大祭礼」や6年ごとの小祭礼を共有するなど、信仰圏・地域社会において表裏一体の関係にある。

治承4年の金砂城落城後、源頼朝は金砂山が再び佐竹氏の軍事・抵抗拠点となることを警戒し、西金砂山を中心としていた信仰・権益を意図的に東金砂山へと移管・分散させたという伝承が残されている。異なる山頂に東西の「金砂神社」が並立する背景には、中世初期の頼朝による宗教的・軍事的政策が影響したとも考えられている。

常陸五山と修験ネットワーク

西金砂山・東金砂山は、真弓山、竪破山、花園山とともに「常陸五山」と総称される天台修験の霊山群を形成していた。いずれも日吉山王権現を勧請した山岳寺院であり、日吉山王の神使は「猿」とされる。

治承4年に金砂山城を脱出した佐竹秀義が真弓山・竪破山の僧徒に匿われながら北茨城の花園山(花園城・猿ヶ城)に逃れ、「猿に食糧を与えられて岩窟で冬を越した」という伝承は、これら常陸五山の山岳寺院・修験者ネットワークが佐竹氏の軍事・逃走ルートを強力に支えていた歴史的実態を反映したものと解釈されている[5]。

現地情報

所在地

  • 茨城県常陸太田市上宮河内町1915(西金砂神社境内)

交通アクセス

  • 自動車:常磐自動車道 那珂ICより車で約40 - 50分。二之鳥居前に参拝・登山用駐車場あり。
  • 公共交通機関:JR水郡線 山方宿駅よりタクシーで約25分。または常陸太田駅より茨城交通バスで「大藪」下車、徒歩約50分。

脚注

  1. 1 2 茨城城郭研究会編『改訂版 図説 茨城の城郭』国書刊行会、2006年。
  2. ↑ 『吾妻鏡』治承4年11月4日条・11月5日条。
  3. ↑ 茨城県教育庁総務企画部文化課 2023 p.223
  4. ↑ 『吾妻鏡』治承4年11月5日条。
  5. 1 2 北茨城市史編さん委員会編『図説 北茨城市史』北茨城市、1986年、158頁。

参考文献

  • 茨城城郭研究会編『改訂版 図説 茨城の城郭』国書刊行会、2006年。
  • 北茨城市史編さん委員会編『図説 北茨城市史』北茨城市、1986年。
  • 高橋修「内海世界をめぐる武士勢力の連携と統合-金砂合戦〈佐竹攻め〉の評価をめぐって-」(市村高男監修・茨城県立歴史館編『中世東国の内海世界 霞ヶ浦・筑波山・利根川』高志書院、2007年)。
  • 高橋裕文『中世佐竹氏の研究』青史出版、2020年。ISBN 978-4-921145-69-9。
  • 常陸太田市史編さん委員会編『常陸太田市史 通史編 上巻』常陸太田市、1984年。
  • 茨城県教育庁総務企画部文化課 2023「0156.金砂山城と周辺城館」『茨城県の中世城館』茨城県教育委員会 p.174

関連項目