那珂通辰

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那珂 通辰
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 生年不詳
死没 延元元年/建武3年12月11日(1337年1月13日)
建武4年/延元2年(1337年)とする説もある。
別名 彦五郎(通称)
墓所 正宗寺(旧勝楽寺
茨城県常陸太田市増井町)
官位 下総守
主君 後醍醐天皇
氏族 藤原北家秀郷流那珂氏
子 盛通(四郎常泰)
通泰(五郎、諸説あり)
特記
事項
常陸南朝方の有力武将
瓜連城の戦い
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那珂 通辰(なか みちとき / なか みちたつ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武士。南朝方の武将。藤原北家秀郷流那珂氏の当主。官位は下総守。通称は彦五郎。 常陸国における南朝方の中心武将の一人として、楠木正家らとともに瓜連城を拠点に北朝方の佐竹氏と争った(瓜連城の戦い)。瓜連城落城後に自刃したが、その子孫は北朝方に帰順して水戸城主となる常陸江戸氏へと発展した。

生涯

出自

藤原秀郷流那珂氏は、平安時代末期に藤原秀郷の後裔である太田太夫公通(常陸太田郷を本拠とした常陸藤原氏の祖)の子・通直(河辺大夫)が那珂郡川辺郷野口(現在の茨城県常陸大宮市野口)に築城し、その子・通資が那賀郷(現在の常陸大宮市那賀)に移って「那珂氏」を称したことに始まると伝えられる[1][2]。 同族には北常陸の豪族である小野崎氏があり、分流として戸村氏などが分立した[1]。通辰は通資から数えて9代目の当主とされる[3]。ただし、中世の系図集『尊卑分脈』には公通や通直の名は見えず、在地の古代豪族(仲国造や久自国造、長幡部氏など)の後裔が後世に秀郷流を冒したとする説もある[2]。

南北朝の内乱と南朝方蜂起

元弘の乱を経て建武の新政が始まると、後醍醐天皇方として重用された楠木正成の代官である楠木正家(左近蔵人)が常陸国司・守護として東国へ下向した[4][1]。通辰は一族の川野辺氏らとともに宮方(南朝方)に属し、楠木正家を迎え入れて久慈郡の要衝に瓜連城(現在の那珂市瓜連)を築城・支援した[4][1]。 建武2年(1335年)、足利尊氏が建武政権から離反すると(延元の乱)、常陸国内は北朝方の守護・佐竹貞義・義篤父子と、南朝方の楠木正家、那珂通辰、大掾高幹、小田治久、広橋経泰、相馬胤平らの間で激しい争乱となった(瓜連城の戦い)[4]。 同年12月、通辰らは三箇原(みかのはら、現・常陸大宮市三箇)の戦いで佐竹貞義の軍勢を撃破した[3]。翌延元元年/建武3年(1336年)2月には、南朝方は佐竹貞義の子である佐竹義直・佐竹義冬と戦って義冬を討ち取り、さらに佐竹一族の佐竹幸乙丸が南朝方に寝返って瓜連城に合流するなど、一時常陸における南朝勢力は優勢を極めた[4]。

瓜連城落城と最期

しかし同年5月、湊川の戦いで楠木氏惣領の楠木正成が敗死し、足利尊氏が京都を掌握すると戦況は一転した。常陸国には足利方から相馬胤頼や伊賀盛光らの援軍が続々と投入され、勢力を回復した佐竹氏が猛反攻に転じた[4]。 同年12月11日(1337年1月13日)、北朝方の総攻撃により瓜連城は落城した[4][5]。通辰は形勢逆転を期して佐竹貞義が籠城する西金砂山城(西金砂城)への攻撃を試みたものの撃退され[3]、主従34名(43名とも伝わる)とともに源氏川沿いを南下し、久慈郡増井郷(現在の常陸太田市増井町)にある佐竹氏の菩提寺・勝楽寺(現・正宗寺)境内に逃れた[3]。しかし佐竹軍に包囲され、同寺裏山の一本松の峰で自刃した(討ち死にしたとする説もある)[3][5]。

死後・後裔

通辰の敗死によって秀郷流那珂氏の宗家は壊滅的打撃を受けたが、生き残った子(または弟)の那珂通泰(五郎)は北朝方に帰順し、足利尊氏に仕えた[1]。通泰は観応年間に軍功によって那珂郡下江戸(現在の那珂市下江戸)を拝領して下江戸城を築き、在名から「江戸氏(常陸江戸氏)」を称するようになった[1]。江戸氏はその後、河和田城、水戸城へと進出し、戦国時代末期に佐竹義宣に追われるまで、水戸地方一帯を支配する有力武家へと発展した[1]。 一方、通辰の長男・盛通(四郎常泰)も父に従って増井で自刃したが、その遺児であった千代太郎(石川光通)は幼少であったため助命された[6]。光通は母方の姓を冒して「石川氏」を名乗り、旧本拠である那賀郷(旧緒川村)に留まって那賀鹿島神社の宮司や郷士として家系を後世に伝えたとされる[6]。

本拠地・居城をめぐる議論

近世の水戸藩領内で編纂された郷土史料(豊田天功『常州義軍考』や栗田寛補筆『新編常陸国誌』など)では、通辰の居城を「那珂西城」(現在の東茨城郡城里町那珂西)とする見解が定着していた[7][8]。 しかし近代以降、網野善彦らによる『大中臣氏略系図』の発見・分析および吉田一徳『常陸南北朝史研究』などの研究が進展した結果、以下の点が判明し、現在では居城の比定が見直されている[9][7]。

  • 那珂西城が所在する中郡庄(那珂西郡)は、鎌倉幕府御家人であった大中臣姓那珂氏(那珂実久流)の支配領域であり、那珂西城は大中臣那珂氏の本拠であった。
  • 藤原秀郷流那珂氏(通直・通資・通辰)の居城は、那珂川上流の那賀城(那珂城/旧緒川村那賀、現常陸大宮市那賀)および野口城であった可能性が極めて高い。

このため、現代の自治体史(『常北町史』『那珂町史』『桂村史』『水戸市史』など)では、那珂西城は大中臣姓那珂氏の城館であり、南朝方として戦った藤原姓那珂通辰の居城は那賀城とする説が有力とされている[7][8]。

墓所・史跡

通辰が最期を遂げたとされる茨城県常陸太田市増井町の正宗寺(旧勝楽寺)裏山(一本松の峰)に「那珂通辰の墓」が現存する[3]。元は五輪塔であったが、明治時代に馬鬣(ばりょう)風の墓に改められ、昭和年間の建武中興600年記念事業に際して元の五輪塔の姿に復元された[3]。同所に散在する小塚は、共に自刃した一族・主従の墓と伝えられている[3]。1967年(昭和42年)8月31日に常陸太田市の指定文化財(史跡)に指定された[10]。

系図

  • 藤原秀郷
    • (5代略)
      • 藤原公通
        • 太田通延(小野崎氏祖)
        • 那珂通直(河辺大夫、野口城主)
          • 那珂通資(那賀郷に移住、那珂氏祖)
            • (数代略)
              • 那珂通辰(下総守、瓜連城戦後に自刃)
                • 盛通(四郎常泰、父と共に自刃)
                  • 石川光通(千代太郎、母方姓を冒す、那賀鹿島神社宮司)
                • 那珂通泰(五郎、下江戸城主、常陸江戸氏祖)
                  • 江戸通高
                    • 江戸通景(河和田城主)
                      • 江戸通房(水戸城主)

脚注

注釈

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 水戸市史編さん委員会編『水戸市史 中巻(一)』水戸市、1968年、435-440頁。
  2. 1 2 那珂町史編さん委員会編『那珂町史 中世・近世編』那珂町、1995年、88-92頁。
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 常陸太田市観光物産協会「那珂通辰」解説資料。
  4. 1 2 3 4 5 6 峰岸純夫・齋藤慎一編『関東の名城を歩く 北関東編』吉川弘文館、2011年、144-146頁。
  5. 1 2 コトバンク「那珂通辰」
  6. 1 2 茂木和平『埼玉苗字辞典』第5巻、石川(三十九)項。
  7. 1 2 3 吉田一徳『常陸南北朝史研究』茨城新聞社、1980年。
  8. 1 2 桂村史編さん委員会編『桂村史 通史編』桂村、2004年。
  9. ↑ 網野善彦「桐村家所蔵『大中臣氏略系図』について」『茨城県史研究』第48号、1982年。
  10. ↑ “指定・登録文化財一覧”. 常陸太田市. 2026年10月12日閲覧。

参考文献

  • 峰岸純夫・齋藤慎一 編『関東の名城を歩く 北関東編』吉川弘文館、2011年。
  • 水戸市史編さん委員会編『水戸市史 中巻(一)』水戸市、1968年。
  • 那珂町史編さん委員会編『那珂町史 中世・近世編』那珂町、1995年。
  • 常北町史編さん委員会編『常北町史』常北町、1988年。
  • 桂村史編さん委員会編『桂村史 通史編』桂村、2004年。
  • 吉田一徳『常陸南北朝史研究』茨城新聞社、1980年。
  • 網野善彦「桐村家所蔵『大中臣氏略系図』について」『茨城県史研究』第48号、茨城県史編さん中世史部会、1982年。
  • 茂木和平『埼玉苗字辞典』第5巻、埼玉苗字辞典刊行会、2004年-2008年。

関連項目