瓜連城の戦い
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| 瓜連城の戦い | |
|---|---|
| 戦争:延元の乱 / 建武の乱 | |
| 年月日:建武3年/延元元年2月 - 12月11日 (1336年3月 - 1337年1月13日) | |
| 場所:常陸国久慈郡瓜連(現・茨城県那珂市瓜連)周辺 | |
| 結果:北朝方(足利方)の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 南朝方(宮方) | 北朝方(武家方・足利方) |
| 指導者・指揮官 | |
| 楠木正家 那珂通辰(自害) 広橋経泰 小田治久 大掾高幹 相馬胤平 佐竹幸乙丸 |
佐竹貞義 佐竹義篤 佐竹義直 佐竹義冬 † 伊賀盛光 相馬胤頼 |
| 戦力 | |
| 不詳 | 不詳 |
| 損害 | |
| 瓜連城落城 那珂通辰自刃 |
佐竹義冬戦死
|
瓜連城の戦い(うりづらじょうのたたかい)は、南北朝時代初期の建武3年/延元元年(1336年)2月から12月にかけて、常陸国久慈郡瓜連(現在の茨城県那珂市瓜連)の瓜連城を主舞台として繰り広げられた南朝方(宮方)と北朝方(足利方)の戦いである。瓜連合戦とも呼ばれる。
南朝方の拠点として築城された瓜連城に集結した楠木正家や那珂氏惣領の那珂通辰ら南朝勢力と、足利方に呼応した常陸の在地武頭である佐竹氏当主・佐竹貞義およびその嫡男・佐竹義篤ら北朝勢力が激しい攻防を繰り広げ、北朝方の勝利に終わった。この合戦の結果、常陸国における南朝勢力は後退を余儀なくされ、勝者となった佐竹氏は常陸国内における守護大名としての支配基盤を固めた一方、敗れた那珂氏の嫡流は壊滅し、北朝方に帰順した一族がのちに常陸江戸氏へと発展する契機となった。
背景
元弘の乱による鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政が発足した。新政権において楠木氏惣領の楠木正成は功績を認められ、常陸国における北条氏の旧領(久慈西郡政所が置かれていた瓜連周辺)を恩賞として拝領した[1]。
建武2年(1335年)末、足利尊氏が建武政権から離反して延元の乱が勃発すると、東国においても武家方と宮方の対立が表面化した。常陸国内では、鎌倉末期以来勢力を扶植していた清和源氏庶流の佐竹氏第8代当主・佐竹貞義が足利尊氏に呼応して北朝方の盟主となった。これに対し、後醍醐天皇は常陸国内の武家方を牽制・討滅するため、楠木正成の一族である楠木正家(左近蔵人)を代官として派遣した[1][2]。
延元元年/建武3年(1336年)正月、常陸へ下向した楠木正家は、久慈川水運と6本の街道が交わる交通要衝の瓜連の地に瓜連城を築城・拡張し、南朝方の根拠地とした[1]。この城には、正家のほかに陸奥国司北畠顕家の代官である広橋経泰、八田知家の後裔である小田治久、常陸平氏惣領の大掾高幹、相馬氏の相馬胤平が集結した。さらに、平安時代末期以来那珂川流域に盤踞していた藤原秀郷流の有力武士団・那珂氏の当主である那珂通辰(下総守)が川野辺資鎮ら一族を率いて参陣し、強固な南朝方軍事拠点が形成された[1][3]。
戦争の経過
緒戦と佐竹義冬の討死
建武2年(1335年)12月の時点で、那珂通辰らは三箇原(みかのはら、現・常陸大宮市三箇)において佐竹貞義の軍勢を迎え撃ち、これを撃退していた[3]。
翌延元元年/建武3年(1336年)2月6日、佐竹貞義は勢力拡大を警戒し、子の佐竹義直・佐竹義冬らに命じて瓜連城を奇襲させた。しかし、城内の楠木正家、広橋経泰、小田治久、那珂通辰らの猛烈な反撃に遭って佐竹勢は敗退し、貞義の六男である義冬をはじめ多数の将兵が討死した(『密蔵院文書』所収「佐竹貞義軍忠状」)[1][4]。本拠の太田城を支えきれないと判断した貞義は、天険の要害である金砂山城へ退却して籠城を余儀なくされた[1]。
さらに2月25日には、佐竹一族の佐竹幸乙丸が北朝方から離反して瓜連城内の南朝方に合流した(『薬王院文書』)[1]。4月には、京都から陸奥へ下向する途上にあった北畠顕家軍が常陸に到達し、北朝方に属していた下野国の茂木氏、常陸国の筑波北条氏、田中氏、村田氏(小山氏一族)、小栗氏などを次々と撃破・追討したため、常陸国の戦況は南朝方の一時的圧倒的優勢となった[1]。
北朝方の反攻と武生城集結
しかし、同年5月25日に畿内で行われた湊川の戦いで楠木正成が敗死し、足利尊氏が光明天皇を擁立して京都を制圧すると、戦況は急速に暗転した。
劣勢に立たされていた佐竹氏は態勢を立て直し、貞義の嫡男・佐竹義篤を中心として反撃に乗り出した。7月から8月にかけて、足利方から陸奥の伊賀盛光や下総の相馬胤頼らの援軍が常陸へ送り込まれた。義篤は武生城(常陸太田市)に伊賀盛光ら北朝方の兵力を集結させ、瓜連城攻撃の機を窺った[1][4]。小田治久や広橋経泰らは楠木軍を支援するため久慈郡小里や花房山大方河原(常陸太田市)に出撃して北朝軍と交戦したが、北朝側の包囲網は徐々に狭まっていった[1]。
那珂通辰の敗死と瓜連城落城
同年12月、金砂山城を攻めていた南朝方の那珂通辰軍に対し、武生城から出撃した佐竹義篤・伊賀盛光の軍勢が奇襲・挟撃を仕掛けた[1][3]。金砂山城の峻険な地形を生かした佐竹勢の反撃によって那珂軍は壊滅し、瓜連城へ退却を図ったものの退路を遮断された。通辰は主従43名(一説に34名)とともに源氏川沿いを南下し、佐竹氏の菩提寺であった久慈郡増井郷の勝楽寺(現・正宗寺)裏山の一本松の峰に追い詰められ、全員自刃して果てた(討死したとする異説もある)[3][5]。
有力な主力部隊であった那珂勢を壊滅させた佐竹義篤・伊賀盛光らは、岩出河原(常陸太田市)において小田・広橋らの援軍を撃破し、そのまま瓜連城を完全包囲して総攻撃を開始した[1]。
12月11日、北朝軍の猛攻に抗しきれず瓜連城はついに落城した(『飯野八幡社文書』所収「伊賀盛光軍忠状」)[1]。城主の楠木正家は城を脱出し、本国の河内国へと落ち延びた[1]。これにより、およそ1年に及んだ瓜連城を巡る攻防戦は北朝方の全面的な勝利に終わった。
戦後の影響
那珂氏の没落と常陸江戸氏の台頭
南朝方の主力を担った藤原秀郷流那珂氏は、当主の那珂通辰および嫡男の盛通(四郎常泰)が自刃したことで、平安時代末期以来の宗家が事実上壊滅した[3]。通辰の死後、生き残った子の那珂通泰(五郎、弟ともされる)は抗戦を断念して北朝方に帰順し、足利尊氏に仕えた[3]。
通泰は観応の擾乱などで足利方の武将として軍功を挙げ、那珂郡下江戸(現・那珂市下江戸)の所領を宛行われて下江戸城を築城し、在名から「江戸氏(常陸江戸氏)」を称した[3]。江戸氏はその後、河和田城、さらには大掾氏の拠る水戸城を奪取して進出し、戦国時代末期に佐竹義宣によって追われるまで、中常陸を牛耳る有力国人領主へと成長することとなる[3]。
一方、通辰の長男・盛通の遺児であった千代太郎(石川光通)は幼少であったため助命され、母方の姓を名乗って「石川氏」となり、旧領の那賀郷に留まって那賀鹿島神社の宮司として家系を伝えた[3]。
佐竹氏の覇権確立と常陸守護職の定着
佐竹氏は一族の義冬を失う激しい消耗戦を強いられたものの、南朝方の強固な橋頭堡であった瓜連城を奪回したことで、北常陸および那珂川流域における軍事的優位を確立した[4]。
足利尊氏からの信任を厚くした佐竹貞義・義篤父子は、恩賞として瓜連を含む没収地を加増された。貞義の隠居・没後は義篤が跡を継ぎ、室町幕府の常陸国守護職を確立させた。その後、佐竹氏は南北朝の争乱を通じて常陸国内の南朝方諸勢力(小田氏など)を圧倒し、室町・戦国期を通じて常陸国第一の守護大名・戦国大名へと飛躍する礎を築いた[4][6]。
常陸南北朝動乱の展開
瓜連城の陥落により常陸北部の南朝勢力は駆逐されたが、延元3年/暦応元年(1338年)秋、南朝の重鎮である北畠親房が東国経営のため常陸国へ上陸し、小田治久の小田城に入城した。これにより常陸国の戦局は再び激化し、小田城、関城、大宝城を巡る「常陸合戦」へと引き継がれることとなった。
なお、主戦場となった瓜連城跡には、延文3年/正平13年(1358年)に了実上人によって常福寺が創建され、佐竹義篤が寺地を寄進して一族の祈願所とした。応永12年(1405年)には城跡(本丸跡)へ寺院が移転され、近世には徳川家康から朱印状を拝領して関東十八檀林の1つに数えられたことで、現在も城郭遺構(大土塁・空堀)が極めて良好に残存している[1]。
関連史跡
- 瓜連城跡(常福寺)(茨城県那珂市瓜連) - 主郭(本丸)跡。高さ数メートルの大土塁や幅約8メートルの空堀が残る。茨城県指定史跡。
- 那珂通辰の墓(茨城県常陸太田市増井町) - 佐竹氏の菩提寺であった勝楽寺(現・正宗寺)裏山の一本松の峰に所在。通辰および自刃した一族の墓とされる五輪塔・小塚が残る。常陸太田市指定史跡。
- 金砂山城跡(茨城県常陸太田市上宮河内町) - 佐竹貞義が籠城した天然の天険。西金砂神社境内。
- 武生城跡(茨城県常陸太田市下高倉町) - 佐竹義篤・伊賀盛光らが軍勢を集結させて瓜連城を攻めた拠点。
- 那賀城跡(茨城県常陸大宮市那賀) - 南朝方主将・那珂通辰の本来の本拠と比定されている平山城。
脚注
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 茨城県立歴史館: “瓜連城の戦い(那珂市)”. 茨城県立歴史館. 2026年10月10日閲覧。
- ↑ 那珂町史編さん委員会編『那珂町史 中世・近世編』(那珂町、1995年)
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 水戸市史編さん委員会編『水戸市史 中巻(一)』(水戸市、1968年)435-440頁。
- 1 2 3 4 高橋裕文『中世佐竹氏の研究』(青史出版、2020年)ISBN 978-4-921145-69-9
- ↑ 常陸太田市観光物産協会「那珂通辰」解説資料。
- ↑ 佐々木倫朗 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三十巻 常陸佐竹氏』(戒光祥出版、2021年)ISBN 978-4-86403-375-6
参考文献
- 水戸市史編さん委員会 編『水戸市史 中巻(一)』水戸市、1968年。
- 那珂町史編さん委員会 編『那珂町史 中世・近世編』那珂町、1995年。
- 『瓜連町史』瓜連町史編さん委員会、1986年。
- 高橋裕文『中世佐竹氏の研究』青史出版、2020年。ISBN 978-4-921145-69-9。
- 佐々木倫朗 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三十巻 常陸佐竹氏』戒光祥出版、2021年。ISBN 978-4-86403-375-6。
- 吉田一徳『常陸南北朝史研究』茨城新聞社、1980年。
- 五十嵐雄大「中世瓜連城と宿の景観について」『常総中世史研究』第4号、2016年。
- 東京帝国大学文学部史料編纂掛 編『大日本史料 第六編之三』東京帝国大学、1903年。