竹腰正旧

ウィキペディアから、無料の百科事典

竹腰 正旧(たけのこし まさもと、旧字体: 竹腰󠄁 正舊、嘉永4年2月2日(1851年3月4日) - 明治43年(1910年)8月22日)は、尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第10代当主で初代藩主、知藩事。

三河国田原藩主三宅康直の四男。正室は中勘弥(中勘助の父)の養女タカ(孝子)。長男は竹腰正己。官位は従五位下、伊予守。

生涯

嘉永4年(1851年)2月2日、誕生。幼名は竜若。

文久2年(1862年)10月、竹腰正富の隠居により、養子として家督を相続した。

慶応4年(1868年)1月27日、今尾領は新政府の計らい(維新立藩)により今尾藩として認められ、正旧はその初代藩主となる。

2月、御三家の付家老の独立に際し、各家は藩政に支障が出るとして、引き続き政務を執らせたいと新政府に願うものの、竹腰家だけは除外されていた。養父の正冨と前尾張藩主の徳川慶勝の対立によるものと考えられる。

4月、上洛し、従五位下・伊予守に叙任した。5月には朝廷からの徴兵により士卒を派遣した[1]。

明治元年(1868年)10月27日、新政府から竹腰家の家祖・竹腰正信が徳川義直から与えられた知行1万石を尾張藩に返すことを命じられた。しかし、この措置は竹腰家にとって財政的に厳しく、返還運動を展開する。

明治3年(1870年)10月29日、1万石を取り戻している。

明治2年(1869年)2月16日、版籍奉還を願い出た。6月23日(7月31日)、版籍奉還にともない今尾藩知事となり、同4年に廃藩置県となり免官となる。

明治5年(1872年)、今尾藩士で竹腰家の家令を務めていた中勘弥を伴い、上京。

明治10年(1877年)12月、隠居し、長男の正己に家督を譲る。

明治43年(1910年)8月22日、60歳で死去。法号は清涼院殿正堂宗旧大居士。墓所は岐阜県関市の円泰寺にある。

系譜

父母

妻

子女

脚注

  1. ↑ 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X
当主
先代
竹腰正富
竹腰家
1862年 - 1877年
次代
竹腰正己