
善光寺の地元信濃国出身、全国の英才が集う大本山の東叡山寛永寺護国院に入寺する。
東叡山護国院の住職を経て、江戸時代では唯一である地元信濃国出身者として信州善光寺別当大勧進第80世貫主に就任する[1] 。 有能なエリート学僧だったが、1783年(天明3年)に起きた浅間山の天明大噴火では、被災地の上野国鎌原村(現・群馬県嬬恋村鎌原)に入り、惨状を目のあたりにする。30日間念仏を唱え、食糧の調達に奔走して計3000人に金銭を施し、1490人の名を記した経木塔婆を贈るなど被災者救済に尽くした等順の活躍は鎌原の人々によって「浅間山噴火大和讃」の中で「聖」として語り継がれ、鎌原観音堂に顕彰碑が建立されている[2]。
浅間山大噴火の被災者に融通念仏の儀式を簡略化して授与した血脈譜は評判を生む。全国的な飢饉の時代に人々の心を平穏にする融通念仏血脈譜を求めて全国から善光寺に参拝者が集まるようになった[1]。 等順一代で180万枚の血脈譜を授与、落語『お血脈』の由来となった[3][4]。
天明の大飢饉に苦しむ民衆の心に寄り添い、善光寺の蔵米を全て放出して民衆を飢餓から救う。極楽への道筋を可視化するため善光寺を整備、 1785年(天明5年)の浅間山大噴火三回忌の年に善光寺本堂における最初の御開帳を執り行い、四年間に及ぶ全国開国開帳を実施、善光寺信仰を布教する。 全国各地での開国開帳で被災者の融通念仏供養を行ったことで、善光寺信仰は一気に拡大し、多くの寺院が善光寺と結びつき、善光寺は民衆救済の寺として全国から信仰を集めるようになったした[5]
歴代善光寺住職の中でも本堂を再建した慶運と並ぶ「善光寺中興の祖」として[6]、民衆の間に「善光寺信仰」を確立した名僧である[7]。
寛政9年(1797年)、京都の御所に参内して光格天皇に三帰戒及び十念を授け奉る。善光寺退任後は京都養源院にて皇室に尽くした。
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