藤原嬉子

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藤原 嬉子
第70代天皇母
皇太后 (追贈)寛徳2年8月11日
(1045年11月27日)

誕生 寛弘4年1月5日
(1007年1月26日)
薨去 万寿2年8月5日
(1025年8月30日)
陵所 宇治陵
諱 嬉子(きし/よしこ)
氏族 藤原氏(北家・御堂流)
父親 藤原道長
母親 源倫子
配偶者 敦良親王
入内 寛仁5年(1021年)
子女 後冷泉天皇
身位 尚侍 → 東宮妃 → 皇太后(追贈)
立后前位階 従三位、贈正一位
女官職 尚侍(1018年~1025年)
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藤原 嬉子(ふじわら の きし/よしこ、1007年1月26日〈寛弘4年1月5日〉- 1025年8月30日〈万寿2年8月5日〉)は、摂政藤原道長の六女。母は源倫子。幼名は千子。尚侍。皇太子敦良親王(後の第69代後朱雀天皇)の妃、第70代後冷泉天皇生母。贈皇太后。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・妍子・威子。乳母は小式部乳母(藤原泰通室)。

生涯

道長・倫子夫妻の末子で、両親から非常に溺愛されながら育った。七夜の産養の儀は姉彰子が担当した。寛仁2年(1018年)、尚侍に任官。同3年(1019年)着裳、従三位に叙される。同5年(1021年)、子のいなかった兄頼通の養女として皇太子敦良親王に入内。万寿2年(1025年)2月に懐妊が判明。道長は外孫と娘からの子供誕生という一族の栄華をさらに1段上に上げるこの慶事に大喜びし、出家の身ゆえすぐには駆けつけられなかったものの、嬉子が内裏を退出した当日に早速会いに行った。初めは嬉子は一条院の別棟に入っていたものの、1ヶ月あまりで道長・倫子夫妻や彰子もいた土御門殿に移り、姉が出産した由緒ある屋敷で妊娠期間を過ごす。敦良親王が1日中嬉子のことを心配していると彰子から聞いた道長は、6月25日に敦良親王の土御門殿行啓を実現させており、嬉子は敦良親王の見舞いを受けている。『栄花物語』によれば、妊婦となった嬉子を敦良親王がまじまじと見つめ、嬉子は恥ずかしがり、それを見て敦良親王も恥ずかしがるといった微笑ましい夫婦のやり取りを伝えており、敦良親王は1週間余りの滞在の後、内裏に戻って行った。しかし、7月28日に臨月を迎えていた嬉子は流行していた赤斑瘡(あかもがさ、現在の麻疹にあたる)に感染。ただし、祈祷の甲斐もあり翌日に熱は下がった(『小右記』)。しかし、嬉子はそれから1週間も経たない8月2日に陣痛が始まり、病が完治せず、体力が衰えていく中で初産に臨まなければならなかった。何度も産気があるにも関わらず出産に至らない相当な難産となってしまい、この状況下に両親は大泣きしていたという(『小右記』)。8月3日の夕方頃にようやく親仁親王(後の第70代後冷泉天皇)を出産するが、わずか2日後の8月5日に人事不省に陥り、同日夕方に薨去。享年19。同29日正一位を追贈。寛徳2年(1045年)、後冷泉天皇即位に伴い皇太后を追贈される。

道長・倫子夫妻の末娘で、三后を占めた姉たちと共に東宮妃として、またいずれは国母として輝かしい将来を約束されていたはずの嬉子だったが、夫東宮の即位を待たず姉妹の中で最も早くに亡くなった。入内した道長一族の娘たちの中で、嬉子の産んだ後冷泉天皇が結果的に最後の皇子となり、その後冷泉天皇にもついに世継ぎができなかったため、彼女の死が摂関家の斜陽の始まりであったといえる。

嬉子の死去を聞いて父・道長は動揺し、陰陽師・中原恒盛らを呼んで、中国の故事にある「屋敷の東の屋根に上り、衣を振って三回名前を呼ぶ」(『礼経』檀弓編三)に従って「魂呼(たまよばい)」という蘇生の儀式をさせている事が『小右記』『権記』に記録されている。後に恒盛はかの魂呼の儀式が陰陽師の職務行為に反しているとして注意を受けている(『小右記』)。

主な女房

  • 藤原範基母 - 乳母

登場作品