豊橋事件
豊橋事件(とよはしじけん)とは1970年(昭和45年)5月15日1時40分ごろ、日本の愛知県豊橋市八通町53番地(座標)にあった住宅で発生した未解決の現住建造物等放火・殺人事件[1]、およびそれに伴う冤罪事件[2][3]。文房具店兼住宅の2階から出火し、2階の焼け跡からこの家の主人であった男性A(当時33歳)の妻B(当時35歳)、長男C(同3歳)、次男D(同1歳)の母子3人が焼死体となって発見された[4]。豊橋母子三人殺し放火事件とも呼称される[5]。
Aが日本万国博覧会(大阪万博)に行っていた間に発生した事件であり[4]、Bは何者かに強姦された上で殺害され、子供2人は放火されたために焼死していた。愛知県警察はAの下で働いていた近隣住民の男性M(事件発生当時21歳[4]、第一審判決時点で25歳)を事件から3か月後の8月28日に逮捕し、名古屋地方検察庁豊橋支部はMを殺人、強姦致死、現住建造物等放火、窃盗の4つの罪で起訴したが、Mは捜査段階および刑事裁判の第一審初公判では犯行を認める供述をしていたものの、第2回公判からは一転して無実を主張した[1]。Mの犯行を裏付ける物的証拠はほとんどなく、逆に事件現場からはMの血液型であるA型でも、Bの血液型であるO型でもない、B型の血液反応が現れた物的証拠が3点発見されていた[1]。検察官はMに死刑を求刑したが[6]、名古屋地方裁判所豊橋支部は1974年(昭和49年)6月12日、Mの自白の信用性を否定し、また彼が犯人であることを証明する物的証拠もないとして、Mに無罪判決を言い渡し[1]、名古屋地検は控訴を断念したため、Mの無罪判決が確定した[5]。死刑求刑事件の第一審で無罪判決が言い渡され、検察官が控訴を断念した事件は過去に例がないとされ、また殺人事件(死刑求刑事件以外も含む)全体でも蛸島事件(1969年6月4日:事件当時16歳で、懲役12年を求刑されていた少年に無罪判決)以来とされる[5]。愛知県警はその後も再捜査を行ったが、未解決のまま、事件発生から15年後の1985年(昭和60年)5月15日に公訴時効が成立した[7]。
事件発生
1970年5月15日1時40分ごろ、豊橋市八通町の文房具店経営男性A(当時33歳)宅の2階付近から出火し、火は2時5分ごろに消し止められたが[8]、木造2階建ての建物約72 m2のうち、2階の36 m2が焼失した[4]。焼け跡からはAの妻B(当時35歳)と、A・B夫婦の長男C(同3歳)、次男D(同1歳)の母子3人が焼死体となって発見された[4]。現場は豊橋駅から南西約1.5 km離れた住宅地で、現場の建物は豊橋市立羽根井小学校から道路を隔てたすぐ東側にあり、また北西方向には羽根井公園があった[8]。建物は1階が店舗、2階が住宅として用いられており、階段を登りきった突き当りが台所となっており、そこから続いて6畳と北側の道路に面した10畳の間があり、死亡した3人は10畳の間で就寝していた[4]。後に被疑者として逮捕されることになる男性M(当時21歳)は事件前日の14日18時45分ごろに店を出たと証言していた[4]。事件当時、Aは14日朝から得意先の幼稚園・保育園児ら18人を招待して1泊2日で大阪万博の見物に出掛けていたため不在であり、死亡したB・C・Dの妻子3人が在宅していた[8][4]。またBは妊娠5か月だった[8]。司法解剖は古田莞爾(名古屋大学教授)が豊橋市民病院で行い[4]、その結果、Bは出火前に電気コードで絞殺され(死亡推定時刻は15日1時ごろ)、C・Dはそれぞれ焼死したものと判明した[9]。普段、A宅は20時から20時30分ごろに閉店しており、事件前日の14日も1階の店の電気照明は20時30分ごろには消えていたが、2階の照明はかなり遅くまで点いており、また発見時、子供2人はパジャマ姿だった一方、Bはセーターにスカートの普段着だったため、Bは殺害される際まで起きていたものと見られた[9]。
愛知県警察捜査一課と豊橋警察署が調べたところ、Bの首には電気スタンドのコードが3重に巻きつけられ、上から布団が被せてあったことや、手提げ金庫から現金約10万円がなくなっていたことが判明したため、県警は強盗殺人、放火事件と断定して豊橋署に捜査本部を設置した[4]。当時、愛知県警で設置されていた特別捜査本部はこの事件が9件目だった[10]。その上で、Aが留守であることを知っている者か、物取り目的で侵入した犯人が、Bに見つけられたため絞殺、放火して逃走したとの見方を強め、当時A宅に出入りしていた者を調べた[4]。犯行現場である2階10畳間にあった手提げ金庫からは現金12 - 13万円がなくなっていた一方、小切手、約束手形、領収書などが燃え残っており[11]、またオリンピック硬貨1000円分1枚と、その隣にあった金属製の宝石箱が中身ごとそのまま残されていた[12]。
目撃証言
出火前の0時過ぎ、A宅から約100 mにあった豊橋市消防署西部分遣所の消防士が、窓を開けていた2階の宿直室で仮眠中、「ドロボウ」という女性の悲鳴を聞いており、1階にいた別の消防士も、男の声とバタンバタンという車のドアが閉まるような音を聞いたようだと証言していた[4]。また出火時刻に近い15日1時30分から40分ごろ、現場北側の工場に深夜勤で務めていた工員が、A宅から「パーン、バーン」という小さな物音が聞こえ、それと前後して工場東側の道路を北へ走り去る若い男の姿をシャッターの隙間越しに確認、その直後にA宅から出火するのが見えたと証言していた[13]。
事件現場から約1.5 km離れた豊橋市新栄町島畷の住民から、事件直後の6時ごろ、20歳前後で黒っぽいズボンを穿き、紺のセーターを着た眼鏡の男が逃げるように走っていったという証言がなされた[8]。
捜査
愛知県警捜査一課と豊橋署の特捜本部は事件発生直後から、「事件当夜、Aが万国博旅行に行って留守だったことを知っている」[注 1]「一階表戸があいており、深夜に被害者のBが迎え入れた形跡がある」[注 2]「放火に先立ってわかりにくい二階雨戸が引いてあった」「階下など内部の事情をよく知って物色している」「放火によって決定的な証拠隠滅をはかっている」などの点から、A一家と深い関係にある人物の犯行とみて捜査し、Aの店で働いていたMをはじめ、出入り関係者や親類などを調べていた[14]。犯罪心理上、殺人放火事件(被害者を殺害してから放火する)はバラバラ殺人と同様、証拠隠滅を図ったものや被害者への憎悪のあまり放火したものが多く、被害者と加害者との間に密接な人間関係がある場合が多いとされていた[10]。特にMは当初から重要参考人としてマークされ、5月下旬には連続3日間任意出頭を求め、毎日12時間以上取り調べていた[14]。Mは犯行を否認し、取り調べを受け始めた当初は事件発生直前の5月14日夜、豊橋市立高校(定時制)で友人たちとバスケットボールの練習をした後、23時過ぎに下宿先に帰り、そのまま1人で寝たと供述していたが、その後も特捜本部は彼を度々任意で取り調べたり、尾行を続けて盗まれたと見られていた金の使い方などを調べており、8月14日にはMの実弟(当時19歳)を盗みで逮捕し、それを理由に事件以来Mが借り受けていた下宿先などを家宅捜索し、24日からその盗みの件を併せてMを取り調べていた[14]。事件発生から106日目の8月28日、Mはそれまでのアリバイの主張を翻し、14日夜遅くにA宅を訪れたと供述し始め、県警はMを被疑者として強盗殺人、放火容疑で逮捕した[14]。この時点でもMは犯行については全面的に否認していたが[14]、29日に犯行を自供[15]、30日に強盗殺人、放火容疑で名古屋地方検察庁豊橋支部へMの身柄を送検した[16]。愛知県警はそれまで「地取りの愛知」として地道に現場付近の聞き込み捜査を続ける方式を捜査の常道としていた一方、このころには東名高速道路や名神高速道路の開通などによるモータリゼーションの進行から、犯罪のスピード化、広域化の傾向が見られ、1966年に発生した岡崎母娘3人殺しを始め、1965年以降で15件の未解決事件を抱えていたことから、Mの逮捕を突破口に、山積していた未解決事件の解決に意欲を燃やしていると報じられていた[15]。
Mは逮捕当初、犯行動機について、犯行当夜は父親、弟などのことで気分がむしゃくしゃしており、バスケットボールの練習[注 3]をして23時過ぎに店に戻って夜食などを食べ、その後もテレビを見ていたらBからきつく注意されたため、カッとなって殺したと自供していたが、後に供述を変遷させ[18]、Bに好意を抱いており、言い寄ったところ激しく抵抗されたので殺したと自供した。犯行当時の供述は凶悪な犯行の動機としては単純すぎると見られていた一方、新供述は事件直後の現場検証で確認されたBの着衣の乱れや解剖結果などと合致すると評された[19]。Mは9月19日、名古屋地方検察庁豊橋支部によって強姦致死・殺人・放火・窃盗の4罪で名古屋地方裁判所豊橋支部へ起訴された[20]。起訴状では、Mは事件前夜の5月14日23時ごろ、勤め先であるA宅を訪れ、Aが泊まりがけで万博見物に行っており留守であることを知ったため、Bに乱暴しようとしたが、抵抗されたため、傍にあった電気コードで絞殺した上、強盗の犯行に見せかけるため、手提げ金庫にあった114000円余りとBの免許証入れを盗み、一連の犯行を隠すため、Bの衣類や新聞紙など、2階の居間6か所にマッチで放火し、家の2階44 m2を全焼させ、Bとともに2階の居間で寝ていたCおよびDの2人を焼死させた、とされていた[21]。しかしMの犯行を裏付ける物的証拠はなく、愛知県警や名古屋地検豊橋支部は事件前後のMの行動などの状況証拠のみで逮捕・起訴に至っていた[22]。また特捜本部は当初、強盗殺人事件として捜査していたが、現場から失われた金品についてMは当初、紙幣(現金約10万円)は破り捨て、指輪などは奥三河の川に捨てたと供述、後にそれらの物品は下宿先のトイレに捨てたと供述を変遷させたものの、それらの被害品は発見されず[17]、最終的には殺人罪と窃盗罪で立件された。
刑事裁判
Mの無罪主張
1969年11月4日に名古屋地方裁判所豊橋支部(小森武介裁判長、鈴木輝隆、水谷厚生両裁判官)で刑事裁判の第一審初公判が開かれ[23]、被告人Mは罪状認否で全面的に起訴内容を認めた[21]。しかし翌1970年(昭和45年)3月17日に同地裁支部(鈴木輝隆裁判長)[注 4]で開かれた第2回公判で、Mはそれまでの供述を全面的に翻し、犯行を全面的に否認し、その理由について「弁解してもわかってもらえない。宿命と思いあきらめていた」と述べた[24]。
Mの弁護人は当初、国選弁護人が務めていたが[25]、1972年(昭和47年)7月5日に名古屋地裁豊橋支部(鷲田勇裁判長)で開かれた第11回公判以降[26]、それまでの国選弁護人に代わり[25]、郷成文、石川康之、成瀬欽哉の3弁護士による弁護団が務めることになった[26]。主任弁護人は郷である[27]。彼らはMが逮捕された1970年8月28日から豊橋刑務支所へ移監された同年11月7日まで、豊橋警察署の代用監獄にいた事実を指摘、警察・検察におけるMの自供やそれに基づく初公判での供述、そしてA宛に送った謝罪の手紙(犯行を認める内容)はいずれも警察署に拘置されていた時のものであり、任意性がないと主張した[26]。
捜査員への尋問
1973年(昭和48年)12月12日に名古屋地裁豊橋支部(鷲田勇裁判長)で開かれた第24回公判では、捜査が行われていた当時、それぞれ愛知県警捜査一課課長補佐を務めていた天日正次(既に退職)と丹羽照邦(当時、県警捜査四課次長)の2人が弁護人側の証人として出廷し、被害者方の家庭状況、親類、店員、取引先などの出入り関係を中心に捜査を担当していた天日は、Mの犯人説に否定的な証言をした[28]。事件当時の捜査員が弁護人の証人として出廷したことは異例のことであり[28]、丹羽はこの日の公判で、捜査本部がMを犯人視した根拠として、「事件当夜、Mがアパートに帰ってテレビを見ていたという供述は時間的に合わず、被害者方で見たと推定できる」「事件直後、Mの顔や手にひっかきキズのようなものがあった」などと証言した[29]。一方、天日は検察官からMが犯人であることを裏付ける有力な証拠として主張されてきた「事件当時、Mの顔、手にひっかき傷のようなものがあった」「事件当夜、Mにアリバイがない」の2点について、「事件の数日前、Mの顔にあったのはブツブツで、ひっかき傷ではない」「Mにアリバイがないと証言したアパートの同居人の記憶は時間的にあいまいだった」と証言し、また被害者宅にあったカーディガンや男物下着に付着していた血液がB型であり、それはMの血液型であるA型と異なることは、捜査本部の公式な場では聞いたことがないとも証言した[28]。
弁護人は翌1974年(昭和49年)1月9日の第25回公判で、捜査当時にMの逮捕状を出した名古屋地裁豊橋支部裁判官の水谷厚生(同日時点で東京地方裁判所裁判官)からの回答書を証拠に、水谷自身、逮捕状請求時に県警から出された資料だけでは起訴するには不十分であると思っていたことなどを証言した一方、丹羽は弁護人からの反対尋問で、現場に残されていた男物下着の血液型とMの血液型が違うことについては、Aも死亡したC・DもB型であり、また火事現場という特異な現象もあったため、衣服の血液型とMの血液型が異なることはMの無罪の決定的証拠にはならないと反論した[29]。
死刑求刑
検察官は1974年(昭和49年)2月6日に開かれた第26回公判で論告求刑を行い、Mを犯人とみなして死刑を求刑した[6][30]。一方、主任弁護人の郷、弁護人の石川、成瀬は同年3月6日に開かれた第27回公判で、Mは無罪であり、真犯人は現場に残された物的証拠などから、血液型B型の中年男性であるとする最終弁論を行い、第一審の公判は結審した[27][31]。このように名古屋高等裁判所管内で検察官と被告人側の主張が真っ向から対立した事例は名張毒ぶどう酒事件以来であり、また弁護人が法廷で真犯人像をかなり具体的に指摘し、再捜査を要求したことは異例であった[27]。
無罪判決
1974年6月12日に第一審の判決公判が開かれ、名古屋地裁豊橋支部(鷲田勇裁判長)はMを無罪とする判決を言い渡した[1]。捜査と刑事訴訟の近代化がほぼ確立した後に発生した事件で死刑を求刑された被告人に無罪判決が言い渡された事件は異例のものとして報じられている[1]。名古屋地方検察庁豊橋支部は控訴を検討したが、控訴期限となる同月26日、控訴審で第一審の認定を覆せるだけの新たな証拠を求めることが困難であるとして、控訴を断念したため、Mの無罪判決が確定した[5]。
物証の隠蔽
無罪確定から5年後、物証が明るみに出た。「犯人のものと思われる、B型の精液が付いたサルマタ」が、現場から発見されていた。[要出典]
当初、捜査本部は「Bの夫Aのもの」と弁解していたが、Aは非分泌型の血液型のため、Aの精液であれば血液型が判明するはずがなかった。Mの血液型はA型であったため、彼の潔白の証明となった。[要出典]
無罪判決確定後
愛知県警はMの無罪確定後も再捜査を行ったが、真犯人は逮捕されることなく、未解決のまま1985年(昭和60年)5月15日0時をもって公訴時効が成立した[7]。この時点で、妻子3人を失ったA(当時47歳)は再婚して子供5人をもうけ、事件当時の現場とは異なる市内の別の住宅に移住していた一方、M(当時36歳)は豊橋を離れて東京に在住していた[7]。
脚注
注釈
- ↑ BはAが万博に行っていることを近所で気軽に話していたため、Aが留守であることは近隣住民に広く知れ渡っていた[9]。
- ↑ 14日21時過ぎ、Aの妹(Bの義妹)がA宅を訪れた際、来客中の様子だったため、そのまま帰ったという[9]。またA宅の南隣の住民によれば、15日0時過ぎまで2階10畳の間に電灯が点いており、男の話し声が聞こえたという[9]。
- ↑ Mは事件前からバスケットボールの練習帰りにA宅に寄って風呂へ入る習慣があったが、この供述のように深夜0時過ぎまでいたことは一度もなかったと報じられている[17]。またBも用心深く、店員とはいえAが不在だった時に深夜までMを家の中に入れておくことは不自然であると指摘されていた[17]。
- ↑ 初公判以降、小森が病気のため第2回公判は開廷が遅れ、第2回公判は鈴木が裁判長、加藤と水谷が陪席裁判官を務めた[24]。
出典
- 1 2 3 4 5 6 『中日新聞』1974年6月12日夕刊E版1頁「【豊橋】豊橋の母子三人殺し M被告に無罪の判決 名古屋地裁豊橋支部 自白、信用性薄い 物的証拠存在せぬ 警察、検察側の黒星 〝疑わしきは罰せず〟」(中日新聞社) - 縮刷版329頁。
- ↑ 第84回国会 衆議院 法務委員会 第12号 昭和53年3月31日 国会会議録検索システム
- ↑ 誤判原因と被疑者の取調--仁保,松山,豊橋事件を素材として 東北学院大学論集. 法律学 (通号 31・32) 1988.03 p.p101~135 国立国会図書館オンライン
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- 1 2 『中日新聞』1974年2月7日朝刊第12版15頁「【豊橋】M被告に死刑を求刑 豊橋の母子三人殺し 名地裁豊橋支部 〝自供信用できる〟」(中日新聞社) - 縮刷版163頁。
- 1 2 3 『中日新聞』1985年5月15日朝刊第12版20頁「【豊橋】豊橋の母子3人殺人放火 ついに時効成立」(中日新聞社) - 縮刷版426頁。
- 1 2 3 4 5 『中日新聞』1970年5月15日夕刊E版1頁「【豊橋】豊橋 母子三人を殺し放火 夫が万国博見物中に強盗 若いメガネの男捜査」(中日新聞社)
- 1 2 3 4 5 『中日新聞』1970年5月16日朝刊第12版15頁「【豊橋】豊橋の放火殺人 夫の不在知って襲う? 〝男の声聞いた〟と隣人 母親絞殺、二児は焼死」「【豊橋】注射でがんばる祖母 三遺体、悲しみの通夜」(中日新聞社)
- 1 2 『中日新聞』1970年5月15日夕刊市民版10頁「人間関係追及がカギ 豊橋の殺人放火 発覚を恐れて放火? 県下で九件目の特捜本部」(中日新聞社)
- ↑ 『中日新聞』1970年5月16日夕刊E版11頁「【豊橋】豊橋の殺人放火 盗まれていた12万円 念入りに聞き込み」(中日新聞社)
- ↑ 『中日新聞』1970年5月18日朝刊第12版15頁「【豊橋】豊橋の殺人放火 宝石箱は手つかず 顔見知りの線強まる」(中日新聞社)
- ↑ 『中日新聞』1970年5月17日朝刊第12版15頁「【豊橋】豊橋の殺人放火 出火前後に若い男 新たな目撃者出る」(中日新聞社)
- 1 2 3 4 5 『中日新聞』1970年8月29朝刊第12版1頁「【豊橋】豊橋の母子三人殺し 店員のMを逮捕 〝当夜、被害者宅へ〟 追及され アリバイくずれる 現場にくつ下残す」「裏付け捜査が勝負 捜査当局 今一つほしい決め手」(中日新聞社)
- 1 2 『中日新聞』1970年8月30日朝刊第12版15頁「【豊橋】豊橋の母子三人殺し M ついに犯行を自供 こごといわれ逆上 もみ合い コードで首絞める ふとんかぶせ放火」「【豊橋】鋭い追及に観念 水を要求 ワーッと泣き、自供」「動機になお疑問点 直接の原因は金銭問題?」「【豊橋】言い表せぬ寂しさ なぜ罪のない子供までを… A」「未解決事件の突破口に 意気あがる愛知県警」(中日新聞社)
- ↑ 『中日新聞』1970年8月31日朝刊第12版15頁「【豊橋】豊橋の母子三人殺し 捨て場所あいまい 指輪などなお追及」(中日新聞社)
- 1 2 3 『中日新聞』1970年9月3日朝刊第12版15頁「【豊橋】母子三人殺しの森 疑問多い自供内容 検証と食い違いも」(中日新聞社)
- ↑ 『中日新聞』1970年9月10日朝刊第12版15頁「【豊橋】豊橋の母子三人殺し M、自供を変える 「奥さんを襲った」」(中日新聞社)
- ↑ 『中日新聞』1970年9月10日夕刊E版11頁「【豊橋】豊橋の母子三人殺し 痴情と金ほしさ 自供いよいよ核心へ」(中日新聞社)
- ↑ 『朝日新聞』1974年6月12日名古屋夕刊第3版1頁「豊橋の母子3人殺し M被告に無罪判決 自白、信用性なし 疑わしきは罰せず 名地裁支部 自供の信用性は認める」「解説 物証欠く捜査に弱点」「基本的には控訴の方針」(朝日新聞名古屋本社)
- 1 2 『朝日新聞』1970年11月4日名古屋夕刊第5版10頁「【豊橋】豊橋母子三人殺し初公判 M、あっさり罪状を認める」(朝日新聞名古屋本社)
- ↑ 『朝日新聞』1971年3月17日名古屋夕刊第5版11頁「【豊橋】豊橋の母子殺し公判 M、自供をひるがえす」(朝日新聞名古屋本社)
- ↑ 『中日新聞』1970年11月4日夕刊E版11頁「【豊橋】母子三人殺しのM 初公判開く 素直に犯行認める」(中日新聞社)
- 1 2 『中日新聞』1971年3月17日夕刊E版9頁「【豊橋】豊橋の母子三人殺し公判 〝認めた犯行〟を否認 M、肝心な点は沈黙」(中日新聞社)
- 1 2 『朝日新聞』1974年6月12日名古屋夕刊第3版11頁「豊橋母子殺し事件裁判経過」(朝日新聞名古屋本社)
- 1 2 3 『朝日新聞』1972年7月6日名古屋朝刊第13版14頁「豊橋の母子三人殺し 自白でっちあげ強調 弁護団が冒頭陳述」(朝日新聞名古屋本社)
- 1 2 3 『中日新聞』1974年3月7日朝刊第12版18頁「『母子三人殺し』結審 名地裁豊橋支部 〝真犯人は中年男〟弁護側、再捜査を要求 判決は6月12日」(中日新聞社) - 縮刷版182頁。
- 1 2 3 『朝日新聞』1973年12月13日名古屋朝刊第13版14頁「豊橋の母子三人殺し公判 元捜査員が証言 〝Mクロ説〟に否定的」(朝日新聞名古屋本社)
- 1 2 『朝日新聞』1974年1月10日名古屋朝刊第13版14頁「豊橋、母子殺しで弁護側提出 「逮捕時に証拠不足」 令状交付の裁判官回答」(朝日新聞名古屋本社)
- ↑ 『朝日新聞』1974年2月7日名古屋朝刊第13版14頁「豊橋の母子3人殺し M被告に死刑求刑 証拠すべてクロ 自供の強要なし 論告」(朝日新聞名古屋本社)
- ↑ 『朝日新聞』1974年3月7日名古屋朝刊第13版15頁「豊橋の母子殺し結審 弁護側、M被告の無罪強調 真犯人像で異例の陳述 「血液B型の中年男」 「公正な裁判を」M被告」(朝日新聞名古屋本社)