財前 宣之
名前
愛称 ザイ・天才
カタカナ ザイゼン ノブユキ
ラテン文字 ZAIZEN Nobuyuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1976-10-19) 1976年10月19日(48歳)
出身地 北海道室蘭市
身長 170cm[1]
体重 66kg[1]
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
ユース
1989-1994 日本の旗 読売
クラブ1
年 クラブ 出場 (得点)
1995-1998 日本の旗 ヴェルディ川崎 0 (0)
1996 → スペインの旗 ログロニェス (loan) 0 (0)
1999 クロアチアの旗 リエカ 0 (0)
1999-2005 日本の旗 ベガルタ仙台 154 (18)
2006-2009 日本の旗 モンテディオ山形 105 (5)
2010 タイ王国の旗 ムアントン・ユナイテッド 11 (0)
2011 タイ王国の旗 BECテロ・サーサナ 10 (0)
通算 280 (23)
代表歴
1993  日本U-17 4 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

財前 宣之(ざいぜん のぶゆき、1976年10月19日 - )は、北海道出身の元プロサッカー選手・サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー。実兄は元サッカー選手の財前恵一。

来歴・人物

中田英寿も認めた才能の持ち主[2](運動量なら中田、パスセンスなら財前と言われていた)だったが、度重なる膝の怪我に苦しんだ(靭帯断裂を3度)。戸塚哲也、菊原志郎、山口貴之と続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。1993年のU-17世界選手権U-17日本代表のチームメイトからは中田を含め4人が後の日本代表に選出されたが、彼らはまず如何にして財前に認められるかを考えていたという。

中学時代から読売ユースに所属。読売への入団テストでは、当時の小見幸隆コーチをして「ボールをもった瞬間に合格」と言わしめ、サッカーファンは「まだ見ぬ財前」に期待を高めた。高校時代は東京実業高校に通いながら読売ユースに所属し、1993年のU-17世界選手権ではU-17日本代表の中心選手として、リーグ戦3試合全てでマンオブザマッチを獲得しベスト8進出に貢献、大会ベストイレブンにも選出された。

1995年にヴェルディ川崎のトップチームに昇格し、直後にイタリア、セリエAの名門SSラツィオへと留学。ラツィオではプリマヴェーラ(ユース)所属だったが、トップチームの紅白戦にも出場した。また、アジアから唯一世界選抜チームに選出され出場した。

1996年にスペイン1部リーグ、リーガ・エスパニョーラのログロニェスに移籍。しかし当時監督を務めていたミゲル・アンヘル・ロティーナがリクエストしたのはフォワードであり[3]、同じ日本人の三浦知良だった[4]。スペイン入りの前に痛めていた膝前十字靭帯を再度痛めたことにより、早期退団を余儀なくされた[5]。

帰国から約1年後にV川崎にて公式戦初出場。クロアチア1部リーグ、1.HNLのリエカを経て、清水秀彦監督の誘いに応じて1999年にベガルタ仙台入団。ここでクラブの中心選手として存在感を発揮。2001年J2最終戦、京都パープルサンガ戦で試合終了直前にチームを初のJ1昇格に導く決勝ゴールを挙げた。

2005年シーズン終了後、仙台から戦力外通告を受け退団。この時、財前の戦力外撤回を求める仙台サポーターの署名が1万人以上集まった。

翌2006年からは同じ東北をホームとするモンテディオ山形に移籍し、4年間プレーしたが2009年に戦力外通告を受け、同年シーズン終了を以って退団。

2009年のシーズン終了直後にタイ・プレミアリーグに所属するムアントン・ユナイテッドFCから獲得を前提とした練習参加のオファーが届いた。財前はすぐにタイへ飛び、プレ・シーズンマッチにもトップ下で出場し存在感を発揮、ムアントン・ユナイテッドへの正式加入が決まった[1]。

2011年シーズンより同リーグに所属するBECテロ・サーサナFCへ移籍した。

2012年1月19日、本人のブログ上で現役引退が発表され、引退後は古巣・仙台の育成コーチとしてサッカースクール指導や中学生以下のスカウトを担当していた[6]。

2016年4月、仙台市内にサッカースクールを開設した[7][8]。

所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

背番号10

上記のプレースタイルから1993年のU-17世界選手権で背番号10を背負っていた財前は、Jリーグでは仙台移籍2年目の2000年に初めて10番を背負い、以後チームの顔として2005年まで背負い続けた。Jリーグが1997年の固定背番号制を導入以後、同一チームで10番を背負う期間は澤登正朗(清水エスパルス・1997年-2005年)、藤田俊哉(ジュビロ磐田・1997年-2003年8月、2004年-2005年6月…FCユトレヒト移籍中は空き番)に次いで長かった。

山形へ移籍した2006年は、入団当時既に27番まで埋まっていたので、背番号は事務的に充てられたものと思われる28番だった。そして、山形移籍2年目の2007年、本橋卓巳から譲られる形で再び背番号10が与えられた。本橋はベテラン・永井篤志の仙台移籍で空いた8番を背負うこととなったが、仙台時代の2000年、財前に10番を譲った中島浩司がベテラン・越後和男の引退で空いた8番を背負ったのと似たケースとなった。 2010年はタイのムアントン・ユナイテッドFCに移籍したが、背番号は28「2+8=10」という、山形入団初年度と同じ事態が起こった。

エピソード

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1995V川崎-J00-0000
スペイン リーグ戦 国王杯オープン杯 期間通算
1996-97ログロニェス-プリメーラ00--00
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1997V川崎42J00000000
19981300400040
クロアチア リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
1998-99リエカ-1.HNL00--00
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1999仙台29J261000061
2000102020010212
20013971030437
2002J11806021261
2003804110131
2004J2365-00365
2005273-10283
2006山形28354-00354
200710381-20401
2008210-00210
2009J11104020170
タイ リーグ戦 リーグ杯FA杯 期間通算
2010ムアントン・ユナイテッド28プレミア110--110
2011テロ・サーサナ37100--100
通算日本J1 37018151602
日本J2 22223107023023
スペインプリメーラ 00--00
クロアチア1.HNL 00--00
タイプレミア 210--210
総通算 2802319112131125

代表歴

1993年 FIFA U-17選手権ベスト8、ベストイレブン選出 (日本選手として唯一)

指導歴

脚注

  1. 1 2 3 財前宣之選手 ムアントン・ユナイテッドへ完全移籍のお知らせ モンテディオ山形 2010年1月7日
  2. ↑
  3. ↑ “中田英寿を上回る天才に起きた悲劇。リーガに「ぶっとんだ自信」で挑んだ (3/5)”. web Sportiva (2020年5月18日). 2020年8月25日閲覧。
  4. ↑ “[東京V]ロティーナ監督、リーガで指揮を執っていた96年に三浦知良と「契約する可能性があった」ことを明かす”. BLOGOLA (2017年5月5日). 2020年8月25日閲覧。
  5. ↑ “中田英寿を上回る天才に起きた悲劇。リーガに「ぶっとんだ自信」で挑んだ (4/5)”. web Sportiva (2020年5月18日). 2020年8月25日閲覧。
  6. ↑ コーチ 財前サッカースクール
  7. ↑ ★お知らせ★ ZAIのブログ 2016年3月3日
  8. ↑
  9. ↑ STADIUM, LEGENDS. “【今日の誕生日】4月20日/日本人のスペイン進出の先駆け――安永聡太郎”. www.legendsstadium.com. 2021年10月27日閲覧。

関連項目

外部リンク


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