足利直義
|
水谷緑亭編『英雄百人一首』より | |
| 時代 | 鎌倉時代末期 -室町時代(南北朝時代)前期 |
| 生誕 | 徳治2年(1307年)(古説:徳治元年(1306年))[注釈 1] |
| 死没 | 正平7年2月26日[注釈 2](1352年3月12日) |
| 改名 | 幼名不詳→高国(初名)→忠義→直義→慧源(号) |
| 別名 | 下御所、錦小路殿、三条殿、高倉殿、副将軍、高倉前兵衛督入道、武衛褝門 |
| 神号 | 大倉宮、大倉二位明神 |
| 戒名 | 大休寺古山恵源 |
| 墓所 | 神奈川県鎌倉市浄明寺の浄妙寺 |
| 官位 |
従五位下・兵部少輔、左馬頭、正五位下、 相模守、従四位下、従四位上・左兵衛督、従三位 贈従二位、贈正二位 |
| 幕府 | 鎌倉幕府→室町幕府 |
| 主君 | 足利貞氏→足利高氏(尊氏)→後醍醐天皇→光明天皇・光厳上皇→崇光天皇・光厳上皇→後村上天皇[注釈 3]→崇光天皇・光厳上皇 |
| 氏族 | 河内源氏義国流足利氏 |
| 父母 | 父:足利貞氏、母:上杉清子 |
| 兄弟 | 高義、尊氏、直義 |
| 妻 | 正室?:本光院(渋川貞頼の娘) |
| 子 |
如意丸(如意王)[注釈 4] 養子:直冬 猶子または養子:基氏[6][7] |
| 花押 |
|
足利 直義(あしかが ただよし、徳治元年〈1306年〉または2年〈1307年〉[8] - 正平7年(観応3年)2月26日〈1352年3月12日〉)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将・公卿・政治家・歌人。足利貞氏の三男で[9]、室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。養子に直冬。初期室町幕府の幕政に尽力するも、のちに幕府執事の高師直と対立して観応の擾乱を引き起こした。
概要
定説では1306年(徳治元年)だったが、新出資料から1307年(徳治2年)生まれという説も有力となった[1]。
元弘3年(1333年)5月に元弘の乱で兄の尊氏に従って北条氏から離反し、後醍醐天皇や兄と共に鎌倉幕府を滅ぼした[10]。同年から始まった建武の新政では兄と同様、後醍醐から多大な恩賞を受け、後醍醐皇子の成良親王を奉戴して鎌倉将軍府の執権を務めた[11]。建武2年(1335年)に勃発した中先代の乱では北条時行に敗退し、鎌倉撤退の混乱の中、後醍醐皇子で前征夷大将軍の護良親王を殺害した[12]。乱鎮圧後の同年11月から始まった建武の乱では、尊氏とともに箱根・竹ノ下、京都、多々良浜、福山城、湊川の戦いなどを転戦した[13]。建武3年(1336年)8月の光明天皇の即位、同年10月の後醍醐方との講和、同年11月の是円らによる建武式目制定をもって室町幕府を正式に発足させ、尊氏と幕府機能の権限を分担し、尊氏が持つ恩賞充行権と守護補任権以外の事実上ほぼすべてを掌握して政治を主導した[14]。
邸宅があった三条坊門高倉にちなんで「三条殿」と称され、尊氏と並べる時には「征夷大将軍・左武衛将軍」「両将軍」などとも称された[15]。康永3年(1344年)9月には公卿の地位に登った。謹厳実直かつ厳格に政務に努めたといい[16]、保守的で先例重視[17]、鎌倉幕府以来の伝統的な秩序を維持する政策を行い[18]、安国寺利生塔の建設の推進など仏教信仰にも篤かった[18]。また北朝の光厳上皇との関係強化にも努めて厚い信頼を得た[19]。
その後、執事の高師直との間で、政策や養子の直冬の処遇を巡る対立関係が発生、観応の擾乱という武力闘争に発展する[20]。貞和5年(1349年)8月に直義によって執事を罷免された師直が御所巻を起こし[21]、失脚・出家する[22]。しかし南朝に降伏して兵を集め、観応2年(1351年)2月の打出浜の戦いに勝利して師直ら高一族を殺害した[23]。その後、共同政務相手である尊氏の息子の足利義詮との間に良好な関係を築けず京都を出奔、最終的に同年12月21日の薩埵峠の戦いで尊氏に敗れた[24]。鎌倉に蟄居の後、観応3年(正平7年)2月26日、師直が暗殺された丁度一年後という日付に死去した[25]。
冷静沈着・実直な人間であったとされ[注釈 5]、室町幕府の成立は直義の邁進による功績が大きい[27]。禅宗を篤く敬って庇護し、 臨済宗高僧の夢窓疎石(夢窓国師)との対話は『夢中問答集』として出版された[28]。また後醍醐帝鎮魂のため、尊氏・夢窓・光厳と共に天龍寺を創建した[29]。また、兄と同じく優れた武家歌人でもあり、『風雅和歌集』以下の勅撰和歌集に26首が入集した[30]。
生涯
誕生
直義は次兄の高氏(尊氏)と同じく父の足利貞氏の側室である上杉清子が産んだ子で、高氏ともども妾腹の出身であった[8]。長兄に貞氏の正室である釈迦堂殿(北条氏の出、金沢顕時の娘[31])が生んだ、高氏より8歳年上の[32]足利高義がいる。京都の情勢に詳しい上杉氏出身の母を持ったことは、元弘の乱における高氏・直義兄弟の動向に強い影響を与えたといわれる[33]。
生年は古くは『公卿補任』貞和5年(1349年)条等から徳治元年(1306年)とするのが通説だった[1]。しかし、『三宝院賢俊僧正日記』の暦応5年(1342年)2月条に「三条殿 卅六 丑未」とあり、これにしたがえば逆算して徳治2年(1307年)となり、通説とは1年異なる[34]。賢俊という尊氏・直義兄弟に近い人物による証言であり、さらに「門葉記130」(『大正新脩大蔵経 図像12』)という傍証もある[34]。2010年代時点で新説の徳治2年(1307年)説を採用する研究者には、森茂暁[34]・清水克行[35]・亀田俊和[1]等がおり、森・亀田は新説が有力であると述べている[1][34][36]。
青少年時代
直義は幼少期から才覚が認められて大切に育てられ[37]、学芸・信仰に充実した環境で青少年時代を過ごしていたと推測されている[38]。
母方の上杉氏には歌人が多く、清子の兄の勧修寺重顕は玉葉集・新千載集・風雅集に入集、次兄の頼成も藤葉集と風雅集に入集している[39]。清子も風雅集に入集した他、延慶3年(1310年)に成立した『柳風和歌抄』にも清子とみられる人物(藤原頼重娘)の歌がある[39]。また足利氏執事の高階氏にも和歌好みが多かった[39]。兄の高氏も早くから作歌活動を始め、嘉暦元年(1326年)に成立した『後拾遺和歌集』に入選しており、このような環境下で後の作歌活動の基礎を培ったと推測されている[40]。
また直義は実際に僧侶になったわけではないが、建武期以前に無学祖元の頂相を拝して弟子の礼を取る「影前受衣」という形で受戒し、禅宗を厚く信仰していた[41]。足利家の菩提寺である浄妙寺の住持であり、上杉重兼が創建した報国寺の開山である僧侶・天岸慧広より「古山」の道号頌を、兄の尊氏の「仁山」号と同じく授けられていたことが『東帰集』からわかっている[40]。
- 天岸による「古山」の道号頌[40]
古山
巍巍生自微塵劫 高圧須弥千万峰
七仏至今看不破 年年青黯注蒼穹
(巍巍たるも微塵劫より生ず 高く圧す 須弥千万の峰
七仏 今に至るも 看て破れず 年年 青黯 蒼穹に注ぐ(『東帰集』)
倒幕から幕府創設まで
元服
文保元年(1317年)6月、直義が13歳の時に高義が早逝した[42]。直義の元服時期は不明だが、足利氏の慣例に従って高義・高氏の二人の兄と同様に、初めは得宗(鎌倉幕府執権)・北条高時より賜った偏諱により高国(たかくに)と名乗る[43]。直義は20歳まで無位無官だったが[33]、嘉暦元年(1326年)5月26日、21歳の時に兵部大輔に任じられ、同日に叙爵されて従五位下となったことが『公卿補任』にみえる[32]。元弘元年(1331年)6月、後醍醐天皇による元弘の変の企みが発覚するが、この時期の直義の動向は不明である[44]。同年9月の貞氏の死に伴い、実兄の高氏が足利の家督を継ぐ[43]。
倒幕
元弘3年(1333年)、後醍醐が配流先の隠岐島を脱出して鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、高氏とともに京都に派兵されたとみられており、倒幕時の直義の動向は『太平記』に詳しく書かれている[45]。それによると、同年3月に高氏が伯耆国船上山に拠点を置く後醍醐追討のため上洛する際に、幕府から妻の赤橋登子と嫡子の千寿王(のちの足利義詮)を人質として鎌倉に留め置き、異心なき旨の起請文を提出するように命じられる。直義はこの場面で初登場し「細謹(些細な事には顧慮しない)」ということわざを引いて、ゆれる尊氏の心を引き締めたという[46]。
高氏・直義の軍は同年3月7日に鎌倉を出発して、4月16日に京都に到着して船上山攻略に向うが、京都到着以前に高氏は後醍醐からの綸旨を得ており、同月22日に新田庶子の岩松経家に北条氏を討てという内容の書状を出している[47]。同月27日に幕府軍の大将である名越高家が戦死し、これを決定打として2日後の4月29日に、高氏は丹波国篠村の篠村八幡宮で倒幕の旗揚げを行い、北条仲時らの六波羅探題攻めに参加する[48]。『西源院本太平記』巻九での篠村での旗揚げ時には、高氏が鏑矢を奉納し、続いて高氏軍の人々も各々が一本ずつ奉納して社殿に塚のようになったいう描写があり、現在も篠村八幡宮の境内には「矢塚」と呼ばれる塚が存在する。

森茂暁によれば、この時期の直義には軍勢の催促や着到状などを出した形跡はなく、あくまで裏方としての補佐が役割であったという[49]。一方で桃崎有一郎は、優柔不断で受動的な高氏に対して、直義や吉良貞家などの足利一門が後醍醐の綸旨に熱心に反応し、既成事実を積み重ねて高氏に北条氏との決別を迫り、倒幕を決断させたと述べる[50]。今川了俊が晩年に著した『難太平記』の旗揚げの場面でも「両御所」(尊氏・直義)と書かれ、直義の存在が確認できる[51]。ただし、同書中にある高氏・直義兄弟の祖父足利家時の「三代のうちに天下をとらしめ給え」という置文の伝説は、足利家が源氏の嫡流で武家の棟梁としてふさわしいという正当性を裏付けるために、後年に直義と高師秋周辺で創作されたものではないかといわれている[52]。
元弘3年(1333年)5月22日に鎌倉幕府は滅亡し、同年10月10日、直義は正五位に叙された。この叙爵時点で名を高国から河内源氏の通字である「義」を用いた忠義(ただよし)、そして直義(ただよし)に改名した[43]。森は改名時期について、高氏が後醍醐天皇からの遍諱で尊氏と名乗るようになったのと同時期ではないかと推定している[43]。
建武期から幕府創設まで
任官と所領
元弘3年(1333年)6月12日、直義は後醍醐政権下の建武の新政で左馬頭に任じられ、10月10日に正五位下、11月8日に相模守となった[53]。木下聡によると、相模守と左馬守のセットでの官途任官は、北条得宗家と全く同じだった[54]。足利氏では3代当主の足利義氏以降、高義または直義まで左馬頭に任官できた足利氏の人間はおらず、後に関東の政治に携わった尊氏の2人の子息、義詮と足利基氏も左馬頭となっていることから、関東の統治にあたる人間は左馬権頭か左馬頭の官位になる必要があると認識が当時あり、義氏の左馬頭に倣って直義もこの官位に叙されたとみられている[55]。
この左馬頭時代(元弘3年(1333年)6月12日 - 同年11月8日)の直義の所領は、相模国絃間郷(神奈川県大和市・相模原市)、相模国懐島(神奈川県茅ヶ崎市)、伊豆奈古谷(静岡県伊豆の国市)、武蔵国赤塚(東京都板橋区)、常陸国那珂東(茨城県那珂町)、遠江国谷和郷(各和郷)(静岡県掛川市)、遠江国下西郷(掛川市)、遠江国宇狩郷(静岡県袋井市[56])、伊与国久米良郷、近江国広瀬郷(滋賀県安曇川町)、備後国高野(広島県高野町)、播磨国垂水郷(兵庫県神戸市)、備後国城山(比定地不詳)、佐渡国羽茂郡(新潟県佐渡島相川町)、佐渡国吉岡(新潟県真野町)の15カ所である[57]。これらの所領は北条氏一門からの没収所領であったが[58]、尊氏が得た所領30カ所と比較すると九州の所領は尊氏には5か所あるが、直義にはなかった[59]。現在、絃間郷があった大和市役所には「足利直義公所領の地」の碑が設置されている。

鎌倉将軍府
同年(1333年)12月、鎌倉将軍府将軍成良親王を奉じて東下し、鎌倉で執権となり幼い成良にかわって関東の支配を行い[8]、後の鎌倉府の前身を築く[60]。
直義は相模守就任から1か月後の12月14日に京都を出発し、大晦日(29日)に鎌倉に到着した。桃崎はこの日付について、直義が源頼朝の鎌倉帰還と日程を一致させた可能性を指摘するとともに、頼朝が鎌倉帰還の翌日に行った垸飯の儀式(御家人たちが費用を出し合って豪華な食事を出す、鎌倉幕府が年始に必ず行った「傍輩」関係を再確認する儀礼儀式)を、直義も翌日の元日に行って幕府の再生を宣言したのではないかと推測している[61]。鎌倉将軍府の発足時から直義が幕府再興をもくろんでいたというのは現在の通説であり、鎌倉将軍府の統治も強力であったといわれている[62]。
鎌倉将軍府とは、関東八か国に甲斐・伊豆を合わせた10か国を管轄する、鎌倉幕府の統治機構を踏襲した行政機関である。二階堂貞綱の屋敷を成良の御所とした。統治機構には政所・小侍所・関東廂番(将軍御所の廂に側近集団がシフト制で待機したもの)・大御厩(将軍の馬の管理[63])などを備えた[64]。関東廂番は上杉憲顕(のちに越後・上野国守護と関東執事)、上杉重能(のちに伊豆国守護)、吉良定家(のちに奥州管領)らが、政所執事を長井広秀と二階堂時綱が務めた[62]。特に関東廂番については、後年に起こる観応の擾乱の際に吉良・上杉・高師秋らが直義方についた淵原になったとの指摘があり[65]、政所執事の広秀・時綱も観応の擾乱で直義方についた[62]。また時期は不明ながら、直義は御三家の一つで関東廂番の一番頭人を務めた渋川義季の姉妹(本光院)と結婚した[66]。
鎌倉将軍府時代に直義が発給した文書は10数点現存しており、特に前述の大御厩の管領に上杉頼成を任命した元弘4年(1334年)2月5日付の御行書は、直義が生涯で発した約700点の文書の中で最も古いものである[67]。直義はかつて鎌倉執権が発した文書と同じ、関東御行書という形式で寺社に関する文書を出した[68]。他にもこの時期には相模守として発した施行状や、成良親王の仰せを受けての下知状、建長寺正続院への寄進状などがある[68]。
森と桃崎は、まさに鎌倉将軍府は鎌倉幕府の再現であり、直義は鎌倉執権の地位にいたと評価する[69]。一方で亀田俊和は、鎌倉将軍府が制度上は建武政権の雑訴決断所の下部機構であったことや、同時期に設置された北畠顕家が率いる陸奥将軍府には認められていた恩賞充行や所領安堵を、鎌倉将軍府は原則行使できなかったことを挙げて、過大評価はできないと評価する[70]。建武元年(1334年)3月に北条譜代の臣である渋谷・本間が、高時の一族を奉じて極楽寺から鎌倉に侵入したのを義弟の渋川義季が討伐したり、8月には江戸・葛西らの関東の豪族が蜂起したりするなど[71]反乱が相次いでいたことからも、直義の関東統治が成功したかは疑わしいという[72]。この時期、関東以外では奥州北部・日向・越後・紀伊・北九州・長門・伊予・信濃と、全国で建武の新政に対する地方の反乱が起きており、特に信濃の乱は中先代の乱に繋がっていく[73]。
神奈川県立金沢文庫が所蔵する、旧称名寺所蔵の『千秋八講初日表白』は、建武2年(1335年)3月5日に直義も希望して参じた鎌倉の律宗寺院・千秋慈恩寺での法会で読み上げられた、春の法会の情景や「東国大守武将殿下」こと直義に対する賛辞などが連ねられた史料である[74]。櫻井唯により翻刻されたその内容から、中先代の乱の約3か月前にあたるこの日に、直義が浄妙寺にある父貞氏の墓所に参拝した後、千秋慈恩寺で浄光明寺の長老・高恵が主催する八講を聴いたことがわかっている[75]。
中先代の乱
建武2年(1335年)7月(もしくは6月)、高時の遺児・北条時行を奉じた諏訪氏らの軍が、信濃国で挙兵して関東へ向かい中先代の乱が起きた[76]。直義は飛騨国守護の岩松経家や、義弟の義季を武蔵国女影原(埼玉県日高市)へ派遣し、自身も武蔵国町田村井出の沢(現東京都町田市本町田)に出陣して反乱軍を迎撃しようとした。しかしいずれも敗れて、岩松・渋川らは戦死した[8]。

反乱軍が鎌倉へ迫ると、後醍醐・阿野廉子・尊氏との権力闘争に敗れて鎌倉に配流・幽閉されていた護良親王を、配下の淵辺義博に命じて混乱の中で殺害させた[77]。親王殺害について、時行と護良の連携を防ぐためという見解もあるが、亀田は時行軍が連携を望んでいたのは持明院統の皇族で、旧敵かつ大覚寺統の皇族である護良ではなく、直義は単に護良が足手まといで、緊急事態下でのはずみで暗殺を命じたとみている[78]。
直義は後年、護良を鎮魂するために鎌倉・浄光明寺に塔頭の慈恩院を建てたという寺伝がある[79]。直義が護良を鎌倉宮社殿の背後にある土牢に閉じ込めたというエピソードは『太平記』の「土篭」を誤解釈したものといわれている[80]。『新編相模国風土記稿』は「土の牢と解釈するのは誤りで東光寺の中の三方を土で塗った座敷牢のような場所に幽閉したのだろう」と述べており、『梅松論』や江戸幕府が編纂した地理誌『鎌倉攬勝考』も同様の見解を示している[80]。
敗れた直義は東海道を下り、承久の乱以降足利氏の拠点となっていた[81]三河国矢作(愛知県岡崎市)へと逃れた[82]。成良親王は京都に送り返された[83]。亀田は、直義が成良を人質や新しい武家政権の王としなかったことから、この時点では直義に建武政権への翻意はなかったと考えているが[83]、佐藤進一は、成良を京に送って矢作川に留まったことは、矢作以東に独立の政権を作る決意のあらわれだと評している[84]。尊氏嫡男の義詮は三河国まで直義とともに逃れ[84]、尊氏が鎌倉を奪還するまでは矢作宿から少し離れた、足利義氏の代からの縁があるこの地の古刹・瀧山寺で保護されたという[85]。
同年8月2日、後醍醐天皇に無断で来援した尊氏と合流すると、東海道を東へ攻勢に転じ、反乱軍から8月19日に鎌倉を奪還する[82]。奪還後も鎌倉に留まった尊氏は同年9月27日以降、自身の被官ではない一般の武士にも独自に論功行賞などを行うようになる[86]。後醍醐は反乱鎮圧後に尊氏を従二位に叙し、中院具光を勅使として尊氏に帰京を命じたが[87]、この帰京を直義が強く止めたという[88][89]。実際に直義が止めた通り、新田義貞を中心に、上洛する尊氏を途中で討ち取ろうという計画が進められていたと『保暦間記』にあり[90]、亀田はこの時に直義が建武政権への叛意を抱いたと考えている[88]。直義は義貞を追討するための軍勢催促状を同年11月2日付で広範囲に出し、この軍勢催促状を見た後醍醐は、尊氏と直義の追討を決める[91]。
建武の乱
建武2年(1335年)11月19日、朝廷は尊氏・直義兄弟の追討令を発して新田義貞を将軍とする官軍を派遣し、同時に東山道から洞院実世率いる追討軍も鎌倉に向かった。奥州の北畠顕家にも同様の命令が出された[91]。同月26日には尊氏の全官位が取り消され、直義も同様の処分を受けたと推測されている[92]。後醍醐と戦う気がなかった尊氏は赦免を求めて出家して髻を切り、浄光明寺(『太平記』では建長寺)に隠棲して[93]、直義に政務を譲った[92]。

直義は尊氏に代わって恩賞充行権を行使し、富士浅間宮への所領の寄進や、山城国報恩院への戦勝祈願の祈祷命令などの行動を起こしたが、尊氏が先遣隊として三河国に派兵していた高師泰が矢作川で尊氏の命を無視して戦い、敗北する[94]。直義自身も駿河国手越河原(静岡県静岡市駿河区)で義貞を迎撃するが敗北する(手越河原の戦い)。このまま箱根山を新田軍に突破されれば鎌倉は落ちたも同然で、これを受けて『梅松論』によれば「守殿(直義)命を落されば、我ありても無益なり」と尊氏は決断し、蟄居の姿勢から一転して12月8日に鎌倉から出陣した[95]。直義はこの軍に合して箱根・竹ノ下の戦いで義貞の追討軍を破った[96]。『太平記』には、直義が偽の後醍醐の綸旨を作成し、尊氏をだまして出陣させたという話があるが真偽は不明である[97]。
京都への進軍
退却する義貞軍を追って[98]、足利軍は京都へ進撃する[8]。『梅松論』には新田軍に勝利した後に軍議が行われ、源頼朝のように鎌倉に残って京都と距離を取りながら力を蓄えるか、京都へ進軍するかを決めたとあり、直義は鎌倉に残ることを主張したが結果は尊氏の京都へ進軍するという主張が通ったとみられている[99]。また一時は政務を直義に譲った尊氏だが、恩賞充行を12月11日から再開し、足利家当主に復帰している[100]。
建武3年(1336年)正月11日、足利軍は入京を果たした[101]。入京時の戦いで直義は、師泰を副将として楠木正成を除く三木一草の面々が守る、近江国瀬田方面を攻撃した[101]。京都を奪われた後醍醐は比叡山に移るが、同月11日に陸奥国から上洛した北畠顕家や楠木正成、同月16日には新田義貞らの援軍が到着し、足利軍は同月27日に行われた京都市街戦に敗れる[101]。この戦いで母方の伯父である上杉憲房が戦死しており、『梅松論』によれば、尊氏と直義は憲房たちが戦う間に急場を離脱することができたという[102]。
足利軍は山崎(京都府大山崎町)に退却し、同日中に京都を一時奪還したが、同月30日には摂津国の豊島河原の戦いに敗れて丹波国篠村(京都府亀岡市)に撤退し、2月3日には摂津国兵庫嶋に退いた。同月10日に同国の西宮(兵庫県西宮市)で楠木正成と合戦、翌日には瀬田で新田義貞と戦い、ここで赤松円心の進言により九州へ西走することを決める[103]。また大覚寺統の後醍醐に対抗するため、持明院統の光厳上皇の院宣を獲得することを決めた[104]。
直義は摩耶山に陣を構えて京都への進撃を続けようとしたが、尊氏からの説得を受けて軍を兵庫に戻し、船で播磨国室津(兵庫県たつの市[105])へ移動した[106]。室津での軍議で尊氏は、播磨に円心、備前に石橋和義ら、備中・備後に桃井盛義と小早川氏などを置くことを決め、新田義貞の前任の播磨国守護であった円心は、赤松城(上郡町)に立て籠って新田勢と戦うことになる[107]。九州に撤退する時に直義は航海の無事を祈り、仏舎利と剣を海に沈めたという[106]。
九州への西走
同年2月12日[108]、足利軍が道中の備後国鞆の浦にいた時に光厳上皇の勅使である三宝院賢俊が到着し(『太平記』巻十五では、院宣を得たのは丹波国から摂津国へ向かう時となっている)、無事に光厳上皇の院宣を得た[106]。これにより直義たちは朝敵の汚名を免れることになる[109]。

『梅松論』によればその後、2月20日に鞆から長門国赤間関に到着した足利軍は、同月25日に北九州の少弐頼尚に出迎えられ、直義は頼尚から尊氏と共に錦の直垂を受け取っている[106]。同月29日には九州に上陸し、3月1日に宗方大宮司の邸宅に到着して大宮司から鎧と馬を献上された[110]。
翌日の建武3年(1336年)3月2日、多々良浜の戦いで建武政権側の菊池武敏に苦戦を強いられながらもこれを撃破する。直義は頼尚から献上された直垂に、紫皮威の鎧をつけ、宗方大宮司から献上された栗毛の馬に乗って篠作の太刀に弓矢を装備していたという[110]。また『梅松論』には、戦いに向かう直義軍が香椎宮(福岡県福岡市)の前を通った際に、直義の兜の上に烏が杉の葉を1つ落としたのを香椎宮の加護だとみて、馬を降りて杉の枝を鎧の左袖に挿したという話がある[111]。
合戦が始まると『太平記』では数万の菊池軍に対して数百騎という劣勢で、切腹しようとした尊氏を諫めて出陣したとあるが、『梅松論』では尊氏の作戦によって直義が先陣を務めている[110]。同史料には、敵の大軍を前にしり込みして引き返した自軍の大高重成に対して臆病者だと笑った話や、戦いの最中に尊氏に使者を送り「自分はここで討ち死にする」と直垂の右袖を切って進上したという話もある[112]。鎌倉の浄光明寺には「矢拾地蔵」という、もともとは同寺塔頭の慈恩院の本尊があり、この戦いの最中に矢を射つくした直義の前にこの地蔵が小僧の姿をとって現れ、矢を拾い集めて直義の窮地を救ったという伝説がある[113]。

この戦いに勝利した足利軍は、西国の武士の支持を集めて態勢を立て直し、京都に向かって東上を開始する[104]。『梅松論』によれば、4月3日に博多を出て長門国府中(山口県下関市)に逗留、5月5日には以前光厳上皇からの院宣を得た備後国鞆(広島県福山市)の地に到着し、尾道の浄土寺に参詣して尊氏らと共に和歌を奉納した[114]。さらに足利軍は、頼尚の進言により海路の尊氏・高師直軍、陸路の直義・高師泰軍に分かれて進む。5月15日から18日にかけて新田大江田氏衛が籠城する福山城を攻め、さらに三石城(岡山県備前市)を囲んでいた脇屋義助を没落させた[114]。再度足利軍が東進するまで持ちこたえた円心と戦っていた新田軍を兵庫津へと撤退させ[115]、播磨国加古川(兵庫県加古川市)に進出し[116]、5月25日の湊川の戦い(兵庫県神戸市)で新田・楠木軍を破り、ついに再びの入京を果たす[104]。

入京した直義は赤山禅院(京都市左京区)に本陣を置き、後醍醐のいる比叡山を包囲したが、同年6月20日に行われた合戦に敗北して高師久が捕縛・処刑されるなど大きな損害を受けた[117]。この時に直義が撤退して本陣を移したのが下京の三条坊門で、直義はこの地に長く暮らすことになる[118]。
室町幕府創設
建武式目
その後、戦を重ねるうちに後醍醐との戦局は足利方が有利となり[119]、建武3年(1336年)8月15日、持明院統の光明天皇が即位して光厳上皇が院政を開始する。この2日後に尊氏は清水寺に「この世は夢のごとくに候~」で始まる、自分は隠居するので直義を安穏に守ってほしいという旨の願文を納め、後醍醐の同意を得ない形での将軍就任を望まない意思をこぼした[120]。同年10月10日には後醍醐との講和が成立し、11月2日に三種の神器が光明天皇に譲渡され、光明天皇の皇太子には後醍醐の子である成良が選ばれた[121]。新田義貞は後醍醐に反発し、恒良親王と尊良親王を連れて越前国の金ヶ崎城に立て籠った[122]。
こうした状況下で足利尊氏は明法家(法学者)の是円(中原章賢)・真恵兄弟らへの諮問のもと11月7日に『建武式目』を制定して幕府を成立させるが[123]、この式目の制定には直義の意向が強いとされる[124]。特に第一項の武家の本拠地を鎌倉か京都にするかという答申と、聖徳太子の憲法十七条を意識したとみられる第二項の「政道事」全17条にある質素倹約の実践、守護職は行政官たるべきであること、賄賂を受け取ったものは公職から外すといった内容からは、直義が北条義時・北条泰時の頃の鎌倉幕府や建武政権の政治体制を理想としていたことが読み取れる[125][126][127][128]。
同月25日、尊氏が権大納言に就任し、建武政権に解かれた官位も従二位に戻された。直義も尊氏と同様に従四位下[129]に復職したと見られている[130]。
北畠顕家・新田義貞との戦い
同年12月21日、花山院に幽閉されていた後醍醐が吉野へ亡命して南朝が発足する[123]。後醍醐はこの時に「直義が行いが自身の意思に反していることが脱走の原因」だと述べた[130]。後醍醐の亡命に伴い、成良は皇太子を廃された[131]。翌年の建武4年(1337年)に足利軍は義貞が籠る金ヶ崎城を落城させ、これにより新田義顕と尊良親王は自害し、恒良は捕縛されて京都に戻された[122]。
同年8月、奥州の北畠顕家が義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて西進・上洛を開始する[122]。その最中の同年12月18日には光明天皇の即位式が挙行された[131]。顕家軍は建武5年(1338年)正月に美濃国青野原(岐阜県大垣市)で足利軍を破り、伊勢経由で吉野へ向かう[122]。3月8日に顕家軍が摂津国天王寺で足利軍を撃破すると、直義はその翌日に光厳上皇と光明天皇を三条坊門殿に避難させ、自身は東寺に出陣した[132]。顕家は5月22日に師直・師泰率いる足利軍を相手に和泉国堺で戦死し[122][133]、その2か月後には越前にいた義貞が味方救援のため藤島城に移動する途中、斯波高経率いる足利軍の矢にあたって自害した[122]。
顕家と義貞が斃れたことにより北朝側の軍事的優位が確立し、建武5年(1338年)8月11日に尊氏が征夷大将軍に、直義は左兵衛督に任ぜられた[134]。この時にいわゆる「二頭政治」が始まったといわれる[129]。翌年の暦応2年(1339年)8月16日、吉野で後醍醐が崩御した[135]。
京都に戻された恒良と皇太子ではなくなった成良のその後について、『太平記』は延元3年/建武5年(1338年)4月に直義が「ちん毒」で毒殺したと記すが、森の研究から成良の身柄は近衛基嗣に預けられ、康永3年(1344年)1月6日に亡くなったと『師守記』に記されていることがわかっており、少なくとも成良毒殺の可能性は疑問視される[131]。
二頭政治期
暦応元年(1338年)から、直義は政務担当者として尊氏といわゆる「二頭政治」を行い「両将軍」「両所」と併称された[136]。同年に直義は1回目の自身の花押の改版を行った[137]。直義の花押は生涯でおよそ5種類ある[138]。『梅松論』には、尊氏が幕政を担う直義に対して、重々しく振舞うように求めたという話や、尊氏が直義に政務の全権を譲渡したという話がある[139]。
二頭政治とは、半世紀以上まえに佐藤進一が提唱した尊氏・直義の権力区分で、尊氏が軍事指揮権と行賞権といった「主従制的支配権(将軍-御家人の主従関係における主人の地位にともなう支配権)」を、直義が評定・安堵方・引付方・禅律方などを管轄する「統治権的支配権(社会全体を安定的に運営していくための支配権)」を持ったという、将軍権力二元論である[140][141][142][143]。しかし現在では、呉座勇一や亀田俊和が残存文書や文書発給を研究した結果、直義が実質的な最高権力者として、幕府の将軍が持つほぼ全権を掌握していたと結論付けられている[143]。
佐藤の論では尊氏が持っていたとされた軍事指揮権も、幕府発足後は直義が軍勢催促状や感状を発給していることから直義の権限であった[144]。尊氏は恩賞充行と守護職補任の権限を持ち、その他の幕府機能はすべて「三条殿」として直義が掌握した[127][145]。ただし尊氏と直義の間には上下関係があり、直義の立場はあくまで将軍尊氏の下でのものである[146]。象徴的な存在である将軍尊氏と、政務の中心となった直義という役割分担は、鎌倉幕府の将軍・執権をモデルとしたといわれる[147]。

同年8月27日付の直義による裁許状(所領裁判の判決書[140])が確認できることから、幕府の訴訟機関もこのころから本格的に動き始め[149]、直義による幕政主導は13年間続き、宗教政策や文化事業も活発に展開された[150]。
暦応・康永・貞和年間の出来事
妙法院焼き討ち事件・塩谷高貞の謀反
暦応3年(1340年)10月、佐々木道誉とその息子の佐々木秀綱が、光厳上皇・光明天皇の兄弟で天台座主である亮性法親王が住まう妙法院を焼き討ちした[151]。事件から2か月後に道誉は出羽国、秀綱は陸奥国に流罪となって官位も剥奪されたが、実際には流罪先までは出向かなかったとみられており[151]、直義は消極的に道誉を支持していたとみられる[152]。
暦応4年(1341年)3月24日には、出雲・隠岐両国守護の有力武将塩冶高貞を謀反人と責め、桃井直常・山名時氏を主将とする追討軍を派兵して数日のうちに自害に追い込んだ[153][154]。鈴木登美恵や亀田俊和らの主張によれば、高貞謀反が事実の可能性は十分にあり、皇族早田宮出身という説もある妻を介して、義弟(義兄?)に当たる南朝公卿で九州方面軍を指揮する源宗治らと内通していたのではないかという[153][155]。
病で倒れる・土岐頼遠狼藉事件
暦応5年(1342年)正月、直義は病で倒れた[156]。正月19日には一度回復したが、再び悪化して同月30日には再び三宝院賢俊による五大虚空蔵護摩などが修され、2月3日には泰山府君祭が行われた[157]。この年の正月21日には師直も病にかかっており、この際に師直の屋敷に軍勢が集まった混乱を受けてか、幕府が直義の見舞いを理由とした島津氏などの参洛を止めている[158][157]。また太平記のエピソードだが、公家たちが重病の直義を平重盛に例えて心配し、光厳上皇は石清水八幡宮に「左兵衛督源朝臣は、ただ爪牙の良将たるのみにらず、股肱の賢い弻たり(ただ君主を守る良将であるのみならず、最も信頼すべき賢臣である)」と願文を納め、その3日後に直義の病が快癒したというエピソードがある[159]。

同年9月6日、美濃国守護の土岐頼遠が笠懸の帰りに、光厳上皇の牛車に矢を放つという狼藉事件を起こし、怒った直義を恐れて頼遠は美濃に逃亡した[161][162]。頼遠は幕府の召喚を受けて同月30日に夢窓疎石のいる臨川寺に入って夢窓に取りなしを頼むも、侍所の細川顕氏に身柄を拘束され、その2日後に直義は京都の六角壬生で頼遠を処刑した[161]。なお夢窓との妥協で、土岐氏の子孫は許された[162]。森はこの厳しい処罰を直義と顕氏の職務権限における専断処罰とみており、頼遠が美濃で荘園押領を繰り返していたことからの見せしめだったのではないかと考えている[163]。
不和の噂
康永2年(1343年)に、直義と師直不和の噂が、常陸国にいた南朝の北畠親房の耳に届いている[164]。またこの頃を、尊氏と直義の仲が悪化し始めた時期だと考える研究者もいる。黒田日出男は前年の康永元年(1342年)12月23日に母の清子が亡くなったことで、尊氏・直義の兄弟仲が悪化し始めたとみている[165]。森も先述の土岐処断が尊氏との関係を悪化させたとみている[166]。直義は清子の菩提を弔うため、貞和2年(1346年)4月23日に高野山金剛三昧院へ岸和田庄(大阪府岸和田市)を寄進したり、同年6月23日に同院へ釈迦三尊像を施入したりするなど、23日という日付に寄進や奉納を繰り返した[167]。

康永3年(1344年)3月、直義は訴訟業務を担当する引付方について、それまで鎌倉幕府末期の関東や六波羅の五番制をそのまま踏襲していたものを編成替えし、三方制内談方を併設した[168]。一番引付には吉良満義や細川顕氏ら19名、二番引付には吉良定家や佐々木道誉ら19名、三番引付には石橋和義や長井広秀、粟飯原清胤とみられる人物ら19名、四番引付には上杉朝定や佐々木秀綱ら19名、五番引付には高師泰や高重茂とみられる人物ら18名を編成した[169]。さらに新たに創設した三方制内談方のうち、一方は高師直をはじめとする11名、もう一方は上杉弾正少弼ら12名、さらにもう一方は上杉重能ら11名が編成された[170]。この師直ら3人の役職を内談頭人という[171]。田中誠(2012)によると、暦応三年の室町幕府追加法六条による直義の親裁権強化と併せ、この康永改編は裁判の迅速化・強制的裁許の強化を目的とするという。内談方での審理結果はさらに評定に上げられ、そこで直義裁許状として発給されるが、内談方は引付方と比べ上﨟奉行人と評定衆の占める割合がやや大きい。改編後、論人弁明・召喚を命じる内談頭人奉書が大きく減少し直義裁許状の現存数が倍増することは、史料残存の偶然性ではなく審理の迅速化の表れであろうと田中は推測する。
足利直冬の上洛
同年6月17日、足利基氏とみられる直義の子息が学問始・深削・着袴・馬乗始・弓始の儀式を行い、学問始の師読は禅律頭人の日野有範が務めた[172]。『大日本史料』は足利直冬(当時最も若く見積もっても15歳)に比定するが、これらの儀式は幼少期のものであることや、基氏は直義の猶子となっていたと書く系図があることから、当時5歳だった基氏を指すと考えられている[173]。この頃の直義夫妻の間には子どもがなく、他にも尊氏の娘1人を自分の養子としていた[172]。
同年8月15日、伊賀国の悪党鎮圧が遅れていることを不満に思った東大寺の僧侶が東大寺八幡宮の神輿を担いで入京し、五条大橋の上に神輿を遺棄したため、直義は翌日に神輿が東寺に移るまで庭に畳を敷き、その上に座って事態終息を待った[174]。康永4年(1345年)8月29日には天龍寺供養が行われ、その様子は『園太暦』に「天下の壮観」と書かれた[175]。
貞和年間(1345年-1349年)の前半、尊氏の庶子の足利直冬が上洛し、尊氏が認知しない彼を引き取って「直」の一字を与えて養子とした[176]。森はこの頃に義詮への将軍移譲を考え始めた尊氏に対して、直義が直冬を将軍にしようとしたことが、観応の擾乱の原因だと述べている[177]。
嫡男の誕生
貞和3年(1347年)6月8日には、正妻の渋川貞頼の娘が二条京極の吉良満義の邸で男児(足利如意王)を出産した[5]。直義夫妻は同い年の41歳で、直義は出産前の5月25日に水無瀬神宮や祇園社に願文を納めて夫人の安産を祈ったが、出産当日には無事を願うあまりか背中に腫物を患って発熱し、産所の吉良邸を訪問できなかった[5]。

諸大名や尊氏、光厳上皇、公卿たちは馬や太刀、使者を送って直義の嫡子の誕生を祝った[178]。しかしこの4か月後の10月14日には、養女としていた尊氏の娘(法名了清[179])が5歳で亡くなっている[172]。
正行の反乱・吉野攻撃
同年8月、楠木正行・正時兄弟が河内国で挙兵する[180]。山名時氏や細川顕氏ら幕府の討伐軍が大敗した後、同年11月には光厳上皇の院宣もあり、直義のもとで吉野への攻撃が決定されて師直が出陣し、同年12月に四条畷の戦いで楠木兄弟を討ち取った[180][181]。翌年の貞和4年(1348年)1月、師直は南朝本拠地の吉野行宮を陥落させた[166]。この時に吉野の蔵王堂が焼けたことを公賢は『園太暦』で批判したが、これは師直のみの責ではなく、指揮した直義の責でもある[182]。
正行討伐の功績で幕府内での師直の力が増した結果、直義は師直に対抗するために光厳上皇の院宣を得て、直冬を従四位・左兵衛佐に任命させた[183]。直義は同年4月16日付で軍勢を催促し、当時南朝勢が蜂起していた紀伊国に直冬を遠征させた[183]。直冬はこれを成功させたが戦果は師直・師泰ほどではなかったとみられている[184]。帰洛した直冬への尊氏の覚えもよくなく、直冬は翌年の貞和5年(1350年)に長門探題として西国へ下向することとなった[185]。

同年10月には、師直と朝定が内談頭人を辞し、仁木義氏と石橋和義へと交代した[171]。同じ10月には、それまで尊氏が発給していた所領の返還に関する下文を直義が発給するようになり、その執行のための施行状を直義腹心の上杉重能が発給するようになった[187]。それまで施行状を発給していたのは師直であり、直義によって権限の一部を奪われたことになる[188]。『太平記』巻二十六には、夢窓の兄弟弟子である妙吉という僧侶が直義へ師直・師泰兄弟に関する讒言をしたエピソードがある[189]。
さらに直義の花押がこの頃は巨大化しており、直義の政治的自信の現れ[190]、直義の勢威が高まった「得意の絶頂」とみる説がある[191]。黒田と森は、如意王が3歳となった貞和5年(1349年)の閏6月ごろからこの花押が始まることから、自身の地位・権力を愛息の如意王に移譲させたいという願望の反映ではないかと推測している[192][193]。一方で亀田と呉座勇一はこの論には懐疑的で、如意丸の誕生が直義に野心を抱かせるならばそれは如意丸を「将軍」にしようとしたときだが、その後の直義の行動をみた時にそこまでの野心は読み取れないという[194][195]。
観応の擾乱
三条坊門殿周辺の騒擾・師直の執事罷免
直義と師直の不和は続き、『太平記』巻二十七には、重能と畠山直宗、大高重成、粟飯原清胤、斎藤季基らが直義と共に師直の暗殺計画を練ったが、心変わりした清胤と季基が目配せをして師直に危険を知らせ、その夜に師直邸に赴いて暗殺計画があったことを密告したというエピソードがある[196]。ただし呉座は、このエピソードには目配せなど作り話めいた要素が多く、全面的に信じることは難しいと評している[197]。
直冬の長門探題赴任に対し、貞和5年(1349年)閏6月2日に師直が直義のいる京都の三条坊門周辺で騒擾を起こし、初めての本格的な反撃を起こした[198]。公賢は浮説としながらも、直義派の大高重成らの邸が差し押えられ、吉良満義が転居させられたと『園太暦』に記した[198]。この事件の2日後の閏6月4日、直義はおそらくは師直との一件について、妙吉を備後国鞆にいる直冬の元へ密使に出した[199]。
師直の攻撃と見る森に対し、亀田はこの事件を『太平記』にある暗殺計画が失敗したため、師直が報復したときに備えて直義が三条坊門殿の周りを強化したもので、先制攻撃をしたのは直義だと述べる[196]。これに対して呉座は、直義が本当に暗殺計画を企てたかは不明だが『園太暦』の記事を信じるならば先に兵を集めたのは師直であるといい、暗殺計画のような噂が流れて怒った師直が軍勢を集めたのは恐らく事実で、直義側の不穏な動きに過剰反応した結果だとみている[200]。
閏6月15日、直義は尊氏に申し入れた上で、師直を執事職から解任し、後任に高師世を充てた。これに伴い、内談頭人に上杉朝房が就任している[201]。
御所巻
同年8月13日、師直が一族を率いて直義を討とうと三条坊門殿に出兵し、弟の師泰も留守を畠山国清に任せて兵を率いて入京し、直義が逃げ込んだ近衛東洞院にある尊氏邸を大軍で包囲した。直義方の軍勢は師直の半分に満たず、師直方の圧倒的優勢だった[202][203][204]。
尊氏と師直の使者が交渉して直義の腹心である上杉重能・畠山直宗・妙吉・斎藤利康・修理進入道ら5名の処分と、直義が政務を引退して代わりに尊氏の子の義詮が政務を担当することが決まり、重能と直宗は即流罪に処された[202]。流罪途中での殺害事例はしばしば見受けられており[205]、公賢はきっと「路」において「事」があるだろうと『園太暦』に記したが、その推測通りに重能と直宗の2人は、師直の指示を受けた越前守護代の八木光勝により殺害された[206]。
この御所巻について同時代人である公賢は、尊氏と師直が内通していたとみて『園太暦』にその旨を記しているが[207]、呉座は、家臣に軍事力で脅かされるというのは当時の認識でもみっともないことであり、尊氏が自らの権威を傷つけるような真似をするかという点で、尊氏黒幕説に疑問を示している[208]。
その後、夢窓の調停によって直義は政務を継続し、そのもとで8月21日に師直は執事職に復帰した[209][207]。重能の没落を受けて直義は2回目の引付の編成替えを行い、三方制内談方は廃止されたとみられる[210]。直義は9月に左兵衛督を辞し、同月9日には基氏が鎌倉に下向[211]、翌10日には師直が備後国鞆にいる直冬の討伐命令を下し、直冬は九州に逃亡した[204]。
10月には鎌倉から上京した義詮が直義に変わって三条坊門殿に入り、政務を取り始めた[209]。直義は京都の錦小路堀川にある細川顕氏の宿所に入り、12月8日に夢窓の元で出家して法名を恵源と号し、政務から完全に引退した[212][207][211]。このため錦小路殿と称されることもある[213]。「東寺王代記」は、師直の怒りがおさまらないための出家だったと記している[209]。
京都脱出・南朝へ降る
翌観応元年(1350年)10月28日、尊氏・師直らが直義の養子直冬を討つために中国地方へ遠征すると、その留守に乗じて京都を脱出して大和に向かった[214][215]。出奔前に、大和の越智氏、または河内の楠木を通じて吉野の南朝に和睦を申し入れた形跡がある[216]。11月3日付で直義が「師直、師泰誅伐の事」を呼びかける軍勢催促状を一斉に出すと[217]、上杉氏や桃井直常、石塔頼房らが呼応して軍事行動を起こし、細川顕氏や畠山国清も直義の味方に付いて、国清は11月21日に自城の河内国石川城に直義を迎え入れた[214]。直義はここから吉野に三カ条の和睦条件を送った[218]。この軍勢催促状を出した観応元年(1350年)11月からの直義の花押は、巨大花押に転ずる前の形に戻っており、かつ生涯で使用した最後の花押の形となる[219]。
これに対して尊氏は、11月16日に光厳上皇に直義追討の院宣を下すことを要請し、直義は朝敵となる[220]。直義は11月23日付で南朝に降伏が認められた[221]。南朝内では即刻処刑すべきなどの議論があったものの、北畠親房の考えもあって12月13日には後村上天皇の綸旨を得た[222][223]。しかし直義は、南朝に降ったのちも発給文書には北朝で用いられた観応の年号を使用しており、降伏は便宜的なものであったと解釈されている[224]。11月29日、師直と師泰の身を引き渡すように尊氏に使者を送り、激怒した師直は使者を仁木頼章の許に抑留させた[225]。
打出浜の戦い
観応2年(1351年)正月7日、石清水八幡宮に入った直義のもとに斯波高経や今川範国、上杉朝定などが投じ、桃井直常は比叡山に陣取った。やがては佐々木氏頼や師直被官の薬師寺公義なども直義に降った[220][226]。尊氏は直義を誅伐する意思を明確に示しており、正月15日に一度入京するが、翌16日には従っていた将たちが直義方に付いたために、丹波から播磨へと逃れた[227][220]。また同じ16日には義詮が天皇・上皇を放棄して京都から脱出したため、同月17日に直義は世上を騒がせたことを詫びるため、北朝の持明院殿に使いを送り、19日には銭三万疋を奉じた[228][229][230]。これは南朝への背信行為かつ公卿を通り越した直接のやり取りで公賢が憤慨している[231]。2月3日、関東で高師冬を倒した上杉憲顕が上洛する意思を示したが、直義はこれを制した[232]。奥州では直義方についていた吉良貞家が、尊氏方の畠山高国・国氏父子を2月12日に戦死させた[233]。

同年2月17日、摂津国打出浜(兵庫県芦屋市)で直義方の軍が勝利した(打出浜の戦い)[223][234]。20日と21日に直義のもとへ尊氏の使者の饗庭命鶴丸が参り、師直・師泰兄弟の出家を条件に講和が結ばれた[229][234]。しかし22日には尊氏不在の鷹司東洞院殿の寝殿が、それ以前から散々に破壊されていたが焼失し、さらに師直・師泰兄弟とその一族は2月26日に武庫川(兵庫県宝塚市)付近で、前年に流罪先で殺害された重能の子・上杉重季の軍勢に殺害された[235]。直義は講和条件を破ったのである[236]。また戦いは直義方の勝利だったが、25日には石清水八幡宮の陣中で、愛息の如意王が5歳で早世した[237]。
南朝との交渉
師直との戦いの最中の2月5日、直義は南朝に使者を送って銭一万疋を奉じ、和睦の編目数カ条を申し入れ、それに対して南朝は楠木の代官を使者として直義に送った[238]。この時から始まる南朝・北畠親房との5カ月にわたる和議交渉を記録した「吉野御事書案」において親房は、武家の土地は安堵するが武家政治は認めず、持明院統の皇統を否定し、後醍醐から奪った天下を後村上天皇に返すべきだと要求した[239]。これに対して直義は、光明天皇は正式に後醍醐から三種の神器を譲られており、両統迭立に沿って成良を皇太子にしたにも関わらず、後醍醐は自ら吉野に向かったのだからその非難には当たらないとし、従来通り政治を武家に任せて上洛するならば、後醍醐の皇統が永続するよう図らうと論じた[239]。
最終的に親房は直義の提案を後村上天皇に奏上することなくそのまま突き返し[240]、5月17日に交渉は完全に拒絶された[210]。この交渉の連絡役を務めたのは楠木正儀で、南朝側の態度に怒り「このうえはすみやかに吉野討伐の大将軍を派遣してほしい」と告げ、その時には味方になると告げたという[210]。
短い講和期
師直兄弟を闇討ちで排除した後は尊氏と折衝し、同年3月2日に重季の流罪、尊氏に従った武士への恩賞を与えること、直冬を鎮西探題にすることなどが決定し、直義は起請文を提出した[229][241]。交渉が終わった後の尊氏は機嫌がよかったという。しかし実際には尊氏に従った佐々木高氏や仁木頼章らを罪に問わないことが改めて議題となったり、重季が流罪とならずに備後国守護として活動していたり、高氏の出雲国守護職が没収されていたりと、必ずしも尊氏についた者に有利な状況ではなかった[241]。また南朝への帰順は師直たちを討つための方便であったためすぐに解消しており、後村上は直義の背信行為を厳しく批判した[242]。
直義は義詮の補佐として政務に復帰し、3月21日には尊氏・直義・義詮の三人で西芳寺に詣でて夢窓の説法を聞いてもいるが、同月末には直義が信任していた奉行の斎藤利泰が暗殺され、5月4日には桃井直常が何者かの襲撃に会うといった出来事がおきた。そのような中でも、5月12日には畠山義深を尾張守護に任命するなど直義は自派勢力の拡大に努めた[243]。これは、尊氏が持っていた守護補任権が、講和後は直義に委譲されていたことを示す[244]。さらには味方になった東国武将への恩賞を自派の上杉憲顕に任せる旨の命令を出すなど、二頭政治期にはなかった恩賞充行権さえも握っていた[245]。
しかし高師秋や大高重成のように直義の味方になったにも関わらず、希望する守護職になれなかった武将もおり、仮に守護職を得ても部下への所領の分配が出来なければ意味がなかった。所領以外の褒章には官途があったが、直義は成功による補任に固執していたためこちらも限定的な範囲での供与に留まっており、亀田はこの時期の直義の政治を「失政」と評価する[246]。
没落・尊氏との戦い
尊氏・義詮父子との仲は良くならず、特に義詮は直義との共同執政に同意しなかった[247]。観応2年(1351年)6月に義詮は御前沙汰を開始し、講和後に直義派が多く頭人を務めていた引付方を7月には停止させ、この頃には直義が明確に孤立していたことが『園太暦』に伝わる[248][249]。同月19日、直義が政務引退を言い出して騒動となっている[249]。
同月28日[250]、ついに尊氏父子は、赤松則祐の播磨国での蜂起と、南朝に寝返った佐々木道誉に対する出陣と称して京都から出ていき、それぞれ近江と播磨で反直義勢の兵を集め始めた[251][252]。それを知った直義は、京都にいれば挟撃されると7月30日の夜遅く[253]、すなわち8月1日に京都を脱出し、斯波高経の分国である越前国の金ヶ崎城に入った[253][254]。
北陸行きは直常らの主導で、直義は当初は積極的には兵を集めていなかったという[253]。直義と緊密な関係の武将たちだけでなく、日野有範や直義直轄下の幕府官僚機構を担った武将・奉行人たちも同行した[255]。しかし結束力に欠け、斯波高経などその後の北陸からの鎌倉行きに同行しなかったものも多く、有範は観応3年(1352年)7月には京都に戻って北朝に復帰している[256]。大高重成は希望する若狭守護になれなかったためかそもそも同行せず、同じく「直義専一の仁」と『園太暦』に評された細川顕氏も義詮についた[257]。
尊氏は京都に戻って顕氏を通じて8月6日に直義と一度講和を図るが、直常と手を切って帰洛するという条件を直義が拒絶したため交渉は決裂し、同月18日に近江国に出兵した[258][259][260]。直義はこの頃から兵を集め始め[253]、8月22日に直義は北朝に対し、警固する武士がいないため南朝が侵攻してきた時に備えて延暦寺に上皇・天皇を迎えたいとの意思を示した[261]。義詮が直義が京都を出る前の7月28日ごろには南朝へ降伏の申し出をしていた形跡がある[262]。尊氏らの南朝への接近に対して北朝を担ごうとしたものとみえ、光厳上皇は一度は臨幸の意思に傾いたが、院の意思に任せるとの直義からの使者を受けて、前年の直義の南朝降伏か、それとも鎌倉幕府倒幕時の番場宿での自身の負傷や六波羅探題自害の目撃の経験もあってか、臨幸は取りやめられた[263][261]。
尊氏は顕氏と畠山国清の仲介で再度直義と講和するため、10月2日に近江国錦織の興福寺(滋賀県長浜市)で直義と対面したが、直常の反対を押さえることができなかったようで決裂した[264][265][260]。

この結果、顕氏と国清は直義のもとを去り、佐々木氏頼は出家して高野山に入った[266]。直義は再び没落して北陸経由で関東を目指し、11月25日に上杉憲顕のいる鎌倉に入った[267][260]。鎌倉では関東まで供奉したことについて恩賞・感状を出し、尊氏との決戦に備えた[268]。
尊氏父子は8月25日には南朝に全面降伏し、南朝は2か月後の10月24日付でそれを認め、正平一統が成立し[269]、南朝のみを正統な王権として認めて北朝擁立を放棄するという条件のもと、新たに南朝から直義追討令を出してもらう[270]。南朝との交渉を進めたのは何としても直義を追討したい義詮と道誉、則祐らであった[271]。尊氏は条件に不満を示した様子もあったが、留守を預かる義詮が南朝から攻撃される可能性がなくなったことで、11月4日に軍勢を率いて京都を出発した[272][271]。
死去
そして12月19日駿河国薩埵山(静岡県静岡市清水区)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)などで行われた薩埵峠の戦いは、薬師寺公義・宇都宮氏綱らが上杉軍を撃破したことで敗れた[273]。

おそらくは基氏と共に薩埵峠より後方の伊豆国府(静岡県三島市)に布陣していた直義は、尊氏方の仁木義長の軍が迫ったため、同国北条(静岡県伊豆の国市)に撤退し、さらに正月1日には同国の走湯山権現社(静岡県熱海市)に退いて、この地で降伏した[274]。直義は正平7年(1352年)1月5日に尊氏と共に鎌倉に入り、浄妙寺境内に蟄居、2月25日には鎌倉で基氏の元服が尊氏主導のもと行われたが[275]。その翌日の2月26日、直義は浄妙寺境内の延福寺、もしくは大休寺で急死した[276]。
『太平記』巻第三十では「俄に黄疸と云ふ病に犯されて、はかなく成らせ給ひけりと、よそには披露有なから、実には鴆に侵されて、逝去し給ひけるとぞささやきける」と、毒殺の噂が流れたことを記述している[277]。研究者の中には清水克行など[278]毒殺説を支持するものも多いが、峰岸純夫、亀田俊和は自然死[279]、鎌倉公方を研究した田辺久子は自害と見るなど、死因は明らかではない[280]。
直義が没した日は奇しくも、自身の宿敵であった高師直・師泰兄弟の一周忌に当たり[281]、早世した実子・如意丸(如意王)の一周忌の翌日でもあった[282]。享年46。法名、大休寺殿古山恵源大僧正。
死後の影響
観応の擾乱は直義の死により終わりを告げた[283]。ただし、直義派の武士による抵抗は、その後直冬を盟主として1364年ごろまで続くことになった。洞院公賢は直義死去の知らせを聞いて「若し天下静謐の基たるべくんば、神妙か、但し毎事凡慮更に測り難き者也」と『園太暦』にこぼしたが、その予感は当たり[284]、南朝は講和を破って光厳上皇をはじめとする北朝の皇族を拉致し、義詮は後光厳天皇即位のために奔走することになるなど、直義の死で平和は訪れなかった[285]。直義室の渋川貞頼の娘は直義の死を契機としてか、浮世の空しさを嘆いて自ら髪を断って出家して無説尼と名乗り、嵯峨に本光院を開いたという[286]。直義の遺領となった武蔵国赤塚郷を、生活のため彼女一代限りの所領として許されたという[287]。
滅んだ側の史料は残りにくく[288]、直義の死と共に散逸した史料も多い。直義の家司的役割や任官奉行[289]を務めた二階堂行秀(法名道本)の花押がある、前田家や京都大学、宮内庁書陵部等が所蔵する『玉燭宝典』とその紙背文書には、奥書に切り取られたような跡がある。切り取り前には道本の花押があったとみられ、道本の花押を知る者が存命中の時に、どうしてもこの資料を公にしなければならなくなった際に花押を切り取ったと推測されている[290]。紙背文書となったため偶然残った貞和年間の貴重な史料である[288]。
尊氏はその死の直前の延文3年(1358年)2月12日に、直義を従二位に叙するよう後光厳天皇に願い出て、追贈が許可されている[291]。病気の原因を直義の怨霊とみて、それを静めるための追贈の願いだとみられている[291]。さらに現存していない「泰衡征伐絵巻」十巻の存在を掘り起こした高岸輝は[292]、これが尊氏の発注と三宝院賢俊のプロデュースのもと、土佐派の祖・藤原行光の手によって延文4年(1359年)に完成したものであり、元となった『泰衡征伐物語』の内容から、尊氏が源氏将軍の正当に連なることを宣言しつつも、鎌倉政権樹立の功労者である源義経に直義を重ねて、その鎮魂を願う目的もあったのではないかと推測している[293]。この絵巻が完成する前年の延文3年(1358年)4月30日に尊氏は死去した[291][294]。
神格化
その後、年月日は不詳であるがさらに正二位を追贈された[291]。早島大祐は、天龍寺の付近に直義を祀る仁祠(寺)が建てられた[291]、康安2年(1362年)7月22日には「大倉宮」の神号と正二位の位が贈られたと述べる[295]。「大倉」は鎌倉の大蔵谷(鶴岡八幡宮の東側の、浄妙寺や大休寺も含まれる金沢(神奈川県横浜市)への街道沿いの広域の地名)に由来する[296]。そして「大倉二位明神」として直義の邸宅であった三条坊門殿の跡地に三条坊門八幡宮(現・御所八幡宮)を創建して祀った。義詮が将軍の時期で、当時の疫病流行などの社会不安による御霊信仰が原因で祀られたと考えられているが[297]、亀田は、仁祠ができた翌日に斯波高経の子である斯波義将が執事になったことに関係しており、旧直義派であった斯波氏が幕政を主導するに伴って直義を顕彰したのではないかとみている[291]。

室町幕府の慰霊
応永15年(1418年)、上杉禅秀の乱に呼応しようとして出奔し、幽閉・出家を経て殺害された4代将軍足利義持の弟の足利義嗣は、直義と同じような死後の扱いを受け、従一位の贈位と「新大倉宮」という称号を与えられた[298]。3代将軍の足利義満は、尊氏・直義の施策を継承せずに新たな政治基盤を構築し、続く4代将軍の義持も尊氏の追善は丁重に行うものの、直義はいむべき先祖として自らとは切り離して鎮魂する存在として扱った[299]。京都での直義の追善仏事は義詮が十三回忌、義満が十七回忌と三十三回忌法要を行い、6代将軍足利義教の時代の嘉吉元年(1441年)までの約1世紀にわたって続けられていたことが確認できるが、後述の鎌倉府とは異なり、京都では直義を顕彰し追悼するための寺院は設定されなかった[300][301]。
鎌倉での慰霊
初代鎌倉公方となった足利基氏は、直義の影響を強く受けて尊敬していたらしく[7]、直義に倣って政務に差し障るために田楽を観なかったという話が義堂周信の『空華日用工夫略集』にある[302]。また暦応3年(1340年)と暦応5年(1342年)の2回にわたって過去に直義が定めた円覚寺の規則(僧侶の人数制限、寺外に居宅を構えることの禁止、寺中で営利を企てることの禁止など)が守られなくなっていることから、今後は遵守するよう命じる文書を文和3年(1354年)に出した[303]。義堂に故大休寺殿(直義)に捧げる三篇の漢詩を詠むよう命じてもいる[304]。この時に義堂が詠んだ漢詩は『空華集』の巻二の巻頭に収録され、其二の「対歌懐昔」は2023年に桐原書店が出版した「古典探究」の教科書に採用された[305]。
其一 春月催泪
明月傷神本在秋 不知春夜有何愁
勧君収取雙葉泪 且向花前酌一甌
(明月神は傷むる本と秋に在 知らず春夜 何の愁か有る
君に勧む 雙葉の泪を取収め 且く花前に向て一甌を酌と
其二 対花懐昔
粉粉世事乱如麻 旧恨新愁只自嗟
春夢醒来人不見 暮檐雨嗟紫荊花
(紛紛たる世事 乱れて麻の如し 旧恨新愁 只自ら嗟く
春夢醒め来たって人見えず 暮檐 雨は洒ぐ紫荊の花)
其三 因衣哀傷
早知夢幻本非真 何必區區更湿巾
尚有愛賢心未忘 緇衣篇裡憶斯人
(早知る 夢幻本と真に非ずと 何ぞ必しも區區として更に巾を湿ん
尚 賢を愛する心の未だ忘れず有 緇衣篇の裡 斯の人を憶ふ)
以上が『空華集』巻二の巻頭に収録された「奉左武衛命三詠詩同故令淑大休寺殿」の詩である[306]。
鎌倉では、浄妙寺の境内、元は直義の邸宅であったという場所に月山希一を開山として建てられた「大休寺」に直義は祀られ、基氏の子で2代鎌倉公方の足利氏満が応安5年(1372年)2月26日直義の三十三回忌に、この寺に参詣している[307]。4代鎌倉公方足利持氏の頃の鎌倉公方の年中行事を記した「殿中以下年中行事」という史料からは、毎年2月に鎌倉公方が参拝する足利氏の菩提寺の一つにこの寺があったことがわかっているが、時期不明で廃寺となっている[307]。
墓所
鎌倉浄妙寺境内(伝足利直義公の墓)
浄妙寺は足利義兼が創建したと伝わる鎌倉五山に数えられる臨済宗派の古刹。裏山に延福寺跡があり、その近くにある浄妙寺が経営するレストラン「石窯ガーデンテラス」の辺りに直義が創建した大休寺があったという[308]。平成29年(2017年)当時の住職の話によると、伝足利直義の墓と伝わるやぐらと宝篋印塔は、レストラン北側の農地が返還された際に整備したところ、見つかったものだという[308]。
- 浄妙寺山門(神奈川県鎌倉市浄明寺3‐5‐31 拝観料200円[309])
- 伝足利直義墓(鎌倉市)(神奈川県鎌倉市二階堂773‐75)
- 伝足利直義墓所全景(鎌倉市)(やぐら3所宝篋印塔五輪塔)
- 浄土寺山門(尾道市)(広島県尾道市東久保町20)
- 伝足利直義供養塔(尾道市)(浄土寺境内、隣は足利尊氏供養塔)
尾道浄土寺(伝足利直義塔)
境内に伝足利直義塔とされる五輪塔がある[310]。かつて備後国利生塔があったこの寺には利生塔の舎利として伝わった舎利塔と、これに関係する文書として直義直筆の暦応3年の願文が伝わっている[311]。
人物
性格
同時代人・歴史学者からの評
尊氏が心強く、慈悲深く、寛容で仁徳も持つと夢窓疎石に評されたのに対し[140]、直義は知的かつ合理的で先例重視で保守的、真面目な性格であったという[312]。八朔という8月1日に物品を贈答しあう風習において、尊氏が山のように贈られてきた品物を部下たちにすべて分け与えたほど無欲だったという逸話があるが、直義はそもそもそういう贈り物を受け取ること自体を賄賂として嫌ったといい、康永4年(1345年)8月1日には御家人たちの負担を減らすという意図のもと、これを禁じている[302]。また今川了俊の『難太平記』には、直義が立身出世に対して実力主義の考えを持っていた話があり、ことあるごとに「門地にしがみついて立身しようなどとはゆめゆめ思うな。文道をたしなみ功を積み、その徳によって立身せよ」と諭していたという[146][139]。
網野善彦・笠松宏至との対談内で、網野から「佐藤先生の直義びいきは誰の目にも明らかですが」とNHK大河ドラマ『太平記』の直義について話をふられた佐藤進一は「直義があのような人間であるはずがないという…」とこぼしたが[313]、その佐藤の論では、前述のような真面目な人間という評価に加えて、直義は『夢中問答集』や連歌を好んだように論理的な思考を尊び、対話の中から真理を発見しようとする論争的な精神の持ち主で、ともすれば陰険で冷たい人間だったという[314]。
これに対して亀田俊和は、こうした真面目で厳格な性格は後天的なもので、妾腹の次男の生まれで中級御家人として平凡だが幸福な一生を送るはずだった直義は、本来は明るく多弁で冗談好き、母の清子を慕う末っ子らしい甘えん坊だったと推測している[139]。また後醍醐への厳しい態度にみられるように、目的のためならば手段を選ばない、冷徹で現実的な人物という評価も近年には見受けられる[315]。
軍記物語による評
『太平記』の直義は、尊氏を積極的にリードする役柄が与えられているが[67]、同書は護良を殺害したり、恒良・成良を毒殺したりした結果、尊氏によって毒殺されたのだと厳しく記す[316]。また師直を急進派・快楽志向型の人物と描く一方で、直義を保守派・禁欲型の人物として対比的に描写した[317]。『梅松論』での直義像は「廉直にして、げにげにしきいつはれる御色なし」と評され[318]、人情に篤く、義理や信義をあくまでも通そうとする気概が強いタイプだが、なんでもきっちりと筋を通す人であるがために、対人関係では反感や誤解を招きやすく冷たいと評される、というものだった[319]。
政治家として
理想とする政治
直義が理想とした社会秩序は、建武式目後文にもある北条義時・泰時の代を師とした、荘園領主の権利も尊重しながら惣領制武士団の惣領をもって幕府秩序を維持するものだった[320]。建武5年(1338年)8月28日の「暦応」への改元時、儒教の「王道を行うには文を持ってしなければならぬ」という王道・覇道の理論から、年号に「文」の字を入れることを希望していたというエピソードもある[302][321]。また前述した八朔の禁止にみえるように、賄賂を嫌う清廉潔白な政治家であった[302]。
成功
成功(官位を与える引き換えに、公事経費の一部を負担させる制度)は、鎌倉時代は幕府が厳しく統制しており、資金力を持つ寺社勢力が朝廷や幕府への申請といった手続きを代行して主導権を握っていた[322]。直義は幕府側が主導権を握って組織的に成功を実施できるように成功の手続きを編成しなおし、任官関係の奉行である二階堂行秀(道本)とともにこれを仕切った[323]。例として、天龍寺の造営にかかる多額の費用を賄うために、直義が朝廷に執奏する形で一度に百人分の大量の成功をプロデュースし、光厳上皇の院宣により許可された[324]。これは当時として新しい試みだった[324]。
徳政政策への連携
康永元年(1342年)5月8日の一条経通の進言や同年7月の幕府からの要請など、以前から徳政の政策の進言・検討が行われていた中で、貞和2年(1346年)12月15日、光厳上皇が過差禁制(贅沢の禁止)を定める[325]。これに併せて直義は神仏の加護を求めて比叡山・園城寺・東寺に様々な修法を行わせ、さらには同年から観応元年(1350年)にかけて26条もの追加法を制定し、諸国の武士による荘園侵略や地域紛争の禁止、守護の非法の禁止、倹約令といった内容を定め、公武連携を図った[326]。安達泰盛と亀山院による弘安徳政を先例としたと見られている[17]。
裁判
直義は所領関係の訴訟を担当する引付方、記録や文書の保管を行う問注所などの機関を統率し、幕府の訴訟の審理を行った[320]。残存する直義の裁許下知状の日付からは、直義臨席のもとで裁判の判決や幕政の最高決裁を行う「評定」が[164][327]、決められた定例日で行われていたことが判明している[328]。七のつく日は下文・下知状の式日、一のつく日は建武・暦応年間における下知状発給の式日、九のつく日は禅律関係の評定と所領安堵の式日となっていた[328]。ただし軍事にかかわる感状・軍勢催促状については「侍所」という、戦功の認定に代表される武士の監督統制と刑事訴訟を行う機関において、必要に応じて審議され、個別に直義の判断を仰ぐという弾力的な決裁処理方式がとられたため、日付は決まっていない[164]。
引付方の構成員には、師直や足利一門、鎌倉幕府の司法官僚・もしくはその子孫がおり、鎌倉幕府の執権政治への回帰を目指した[329][330]。禅宗・律宗寺院関係の訴訟を扱う禅律方の長官(禅律頭人)には、代々大学頭に任ぜられた日野家の日野有範を採用し[331]、武士が禅宗寺院を相手に起こした押領の訴えなどが審理された[332]。
武士たちからの不満
直義の裁判は基本的に「理非究明」に則る厳格な裁判で、所領をめぐって寺院と武士が対立した際は、機嫌取りのために武士側を勝たせるようなことは基本的にはせず、敗訴した武士には替地を宛がって弁償する対応をとった。しかし、弁償は尊氏管轄の恩賞方の役割であったため、毎回実現することは難しかった[333]。本郷恵子も「直義は当事者からの期待をひろく受け止めることができなかった」と述べる[142]。
直義の裁許状を分析した羽下徳彦は、倒幕で活躍した御家人・中小領主層が建武政権で期待する恩賞を得られなかったがために建武の争乱が起きたのだから、彼らを動員し、恩賞を与え、武家被官化して掌握することが幕府の課題であったのに、それに答えるどころか根強い本所勢力(その所領の本来の荘園領主[334])や法慣習に屈して彼らに不利益を生じさせ、その結果、武士の本所領強奪を支持する師直・師泰側に彼らを回らせたと評した[335]。清水も「みずからその支持基盤を掘り崩す危険な道であった」と述べる[336]。
暦応3年(1340年)に直義は特別手続きを追加して、引付方が持っていた訴訟の審理権を吸い上げて、直義自らが裁断するように親裁権を強化した[337]。このようにしたのは直義や義詮といった存在による親裁を望む、荘園領主勢力からの圧力があったとみられ、佐藤によれば直義の権力というものは、荘園領主の勢力を把握しないことには保持できないほどのものであったという[338]。支持基盤の武士たちの欲望を開放するか、寺社や公家といった荘園領主(本所)の経済基盤を守って荘園制を維持するかは、その後200年近く室町幕府が抱えた問題で、容易に答えが出せるものではなかったという[339]。
尊氏との関係
観応の擾乱で天下を巻き込んで争った尊氏と直義だが、清水寺願文に代表されるように、尊氏とは仲の良い同母兄弟だった[312]。この願文には「この世ハ夢のことくに候。尊氏にたう心(道心)たハせ給候て、後生たすけさせをハしまし候へく候。猶々、とくとむせい(遁世)したく候。たう心たハせ給候へく候。今生のくわほう(果報)に代へて、後生たすけさせ給候へく候。今生のくわほう(果報)をば、直義にたハせ給候て、直義あむをむ(安穏)にまもらせ給候へく候」とある[340]。『難太平記』に「大御所は弓矢の将軍、大休寺殿は政道」と書かれたように幕府の権限を兄弟で分担し、『梅松論』には尊氏が直義の政務に一切口を差し挟まなかったと書かれている[341]。
しかしその仲は、観応の擾乱で師直たちが殺害されたころから急速に悪化してしまう[342]。ただし尊氏がその後、直義を政務に復帰させたことから、森はまだこの遅い時期まで2人の間には兄弟愛のようなものが残っていたという[343]。尊氏は観応2年(1351年)9月に、直義とは和睦するが直冬は誅伐する方針に変わりはないという旨の文書を出している[344]。しかし同年11月3日には尊氏は両者に対して「対治」との言葉を使っており[344]、翌月には観応の擾乱の決戦、薩埵峠の戦いが行われる[280]。
清水は2人の譲与安堵の方法の違いに注目する。直義は申請を受けた際には安堵方を通じて現地の守護に調査命令を出し、本当に申請者の所領・所職であるかを確認するのに対し、尊氏は軍功あるものから安堵の申請を受けた際にこうした調査を行った形跡はなく、書面審査のみで認可した[345]。これは将たちの士気を高めたが、現地の状況を無視した安堵の乱発はのちに混乱を招き、直義も苛立ちを募らせたのではと推測している[346]。
また森は、倒幕を成功させて実力と自信をつけた新田義貞が尊氏と戦ったように、幕府の政務をとるうちに自信をつけた直義が尊氏からの「独立」を考えるようになったという説を述べている[347]。
延文2年(1357年)春ごろまでに完成した、二条良基が撰んだ連歌句集『菟玖波集』の中には[348]、直義と尊氏が同席して詠んだ連歌も収録されている。
貞和四年六月、家の百韻連哥にやすくおどろくうば玉の夢
いかにして ながき眠りは 覚めもせぬ と侍るに
まよひそめぬる かたぞくやしき—左兵衛督直義,前大納言尊氏、『菟玖波集』巻第八・釈教連歌・696[349]
左兵衛督直義家の連哥に
かしこきは 友をえらぶぞ 習ひなる と侍るに
三たび隣を かへてこそすめ—前大納言尊氏,左兵衛督直義、『菟玖波集』巻第十八・賀連歌・1857[350]
北朝天皇家との関係
直義は北朝との交渉も権限とし、現存する記録だけでも9回行われた直義の参内・院参回数は、尊氏の2回よりも多く、特に年始の訪問は恒例行事となっていた[351]。天龍寺御幸に代表されるような北朝関係者への尊氏・直義兄弟そろっての供奉は珍しく、直義が単独で参加することはあっても、尊氏が単独で参加する事例は史料上確認できていない[352]。参内・院参のための公家故実(公家社会のルール)の確認にあたっては尊氏ともども洞院公賢へ問い合わせた[353]。
康永3年(1344年)9月16日の光厳上皇の天龍寺御幸の直義の供奉は、直義の従三位昇進に大きく関わった。この時の直義は従四位上の官位ながら公卿たちの中で「最末の公卿」のように行動し、それが周りに受け入れられていたが、公卿とは三位以上の官位を持つものであり、四位の人物が天皇家の近くに仕える状況を快く思わない者もいた[354]。
そこで光厳上皇は夢窓と相談し、同月22日には公賢が光厳上皇のもとへ参上し、翌23日に行われる朝廷の除目に併せて直義が公家故実に則した位置につけるような人事、すなわち従三位への昇進が行われた[355]。直義は以前から固辞していたが、この時に遂に昇進を受け入れた[356]。公賢は「天下執権の人なり、頼朝・実朝已来、今亜相又已に登庸了んぬ」と、頼朝以来そのような人物を任ずるのは通例であると感想を述べて喜んだ[357][358]。10月に直義は昇進の謝礼のために持明院殿に参じたが、この謝礼も「拝賀奏慶」という公家社会の礼式に則る行動だった[357][356]。公家社会に順応することで、直義は北朝天皇家との関係と公家社会での一定の支持層を形成した[359]。
その一方で、貞和3年(1347年)2月晦日の光厳上皇の天龍寺と西芳寺への御幸において、指を怪我した公賢から代わりに光厳上皇の琵琶との合奏で箏を弾くように言われ、流石に公家レベルの演奏はできなかったのか、これを固辞したという話もある[325]。直義が箏を弾けたことは、天神信仰にも厚かった尊氏が度々自邸で行った天神講で、尊氏の笙、上杉重能の琵琶とともに直義が簾の中で箏を演奏していた記録にも見える[360]。
また皇位継承に関する決定にも関与した。貞和4年(1348年)9月5日、同年10月に崇光天皇が皇位につくにあたり、光厳上皇と花園院が皇太子について話し合い、尊氏正室の登子とも縁がある直仁親王が皇太子に決まった[361][362]。この話し合いの1週間前、光厳上皇の御所を直義が訪問して崇光天皇の即位と次期皇太子の件について意見しており、この時に直義が光厳上皇の意向を承認・保証したとみられている[363]。直義は両統迭立の廃止と持明院統への統一を考えており、この時の皇太子には大覚寺統の邦省親王も立候補していたが、直義側近の重能が妨害したという[364]。
教養
和歌
兄の足利尊氏には及ばないとはいえ、武家歌人としては兄に次ぐ和歌の力量を持っていた[365]。特に、兄が隠居していた康永・貞和年間(1342年 - 1350年)のころは、直義が武家歌壇を統率する存在だった[365]。『風雅和歌集』以下の勅撰和歌集に、26首が入集している[30]。
河北騰は「直義の歌には複雑な技巧がなく、作風はいたって平明で素直な、正直な歌いぶり」だといい[366]、「芸術性は決して高いとは言えないが、正直で率直な特色が見いだせる「直義うた」を個人的には高く評価したい」と評する[367]。『風雅和歌集』の評釈本を著した岩佐美代子も「しづかなる夜半の寝覚に世の中の人のうれへをおもふくるしさ」「たかき山ふかき海にもまさるらし我が身にうくる君がめぐみは」のように、直義の歌はいかにも真正直で楽しいと評する[368]。直義の和歌は二条派に近い平明な歌風だが[365]、中には光厳上皇周辺の京極派の和歌を意識した和歌もある[369]。
和歌における直義の主要業績は、武家歌人として史上初めて政治を詠んだ歌が勅撰和歌集に収録されたことである[370]。鎌倉時代までは武人の政治詠歌は勅撰集にとられない慣例だったが、光厳上皇親撰による『風雅和歌集』で慣例を破って直義の政治詠歌が入集した[370]。この背景には、光厳上皇個人から直義への大きな信頼があったことや[159]、北朝が幕府への依存を強めていく当時の政治状況があったことなどが指摘されている[370]。
禅宗の信仰
宗教政策においては、禅宗を手厚く庇護した[371]。社寺参詣や仏教政策に力を入れ[372]、直義の参詣は初参詣の暦応元年(1338年)10月22日の石清水八幡宮(南朝との闘いでの被災状況の公式視察)にはじまり、師直による御所巻までに30回と、尊氏の23回よりも多い[373]。尊氏と共同で参詣したのは16回で、暦応4年(1341年)7月2日に南禅寺で笠仙梵遷の説法を聞いたり、康永元年(1342年)5月8日に天龍寺地曳の儀式に参加したりしたものである[374]。
政治上は禅僧の夢窓疎石との関わりが深く、建武4年(1337年)ごろから夢窓のすすめで元弘以来の戦没者の追悼という名目で全国各国への一寺一塔の建立を立案し、これらの寺塔には康永4年(1345年)に光厳上皇の院宣によって安国寺・利生塔という称号が与えられた[375]。安国寺・利生塔設置関係の指令はすべて直義の御行書で出された。安国寺には各国の守護の檀那寺の禅刹が指定されたが、さらに安国寺には、各国の寺塔の統一、幕府の威信の高揚、各国守護大名の勢力範囲の保持、事実上の幕府の軍事上の前進拠点といった、治安維持的な役割もあった[376]。

暦応2年(1339年)の後醍醐崩御にあたっては後醍醐の怨霊を恐れ、夢窓を開山として天龍寺造営を決め、財源確保のために貿易船である天龍寺船を派遣した[377]。天龍寺(天龍資聖全寺)という名前は直義が見た金龍・銀龍が舞う夢が由来となっているが[378]、これは当初院宣で定められた「暦応寺」という名前に対し、年号を寺号とするのは延暦寺だけの特権だと主張する延暦寺衆人の抗議があったためとみられている[379]。直義は他にも、神の加護を得て建設現場を守る夢(直義が建設現場を見学していると天狗の使いと思しき鳶が数羽飛び回っており、そこに神の使いと思しき鳩が現れたので勇気を得た直義が鳶に太刀をふるった結果、さんざんに毀れた京鞘巻の太刀が落ちて来たという夢)も見るなど、建設に関する実務を請け負った[380]。天龍寺造営中の諸儀式には尊氏とともに参加している[381]。

夢中問答集
また、夢窓との対話は『夢中問答集』として刊行されている[382]。ただし、信仰的にも夢窓に深く崇敬した後醍醐天皇や兄の尊氏とは違い、直義個人としてはそこまで夢窓を高く評価していなかったようである[382]。夢窓疎石に始まる夢窓派は旧仏教とも親和性の高い折衷主義的な禅風をとっていたが、直義は純粋禅である無学祖元に始まる仏光派に帰依しており、その点で不満を抱いていたという[382]。

玉村竹二や堀川貴司は「夢窓国師年譜」に『夢中問答集』のことが書かれていないこと、和風化した夢窓の禅に対して直義が信仰したのは中国的純粋禅であること、出版関係者が直義周辺に固まっているが夢窓の意思による出版ならば、夢窓の弟子で刊行事業を行っていた春屋妙葩が出版できたのではないかということ[383]等を挙げて、直義が夢窓を批判するために出版したとしている。対して西山美香は夢窓派の協力無くして、仮名交じり文で一見初心者向けだが夢窓の高度な思想をよどみなく、矛盾なく、したたかに展開できるかという点と[383]、『夢中問答集』の再跋を笠仙に依頼した大年法延という僧侶に関する史料に、夢窓が大高重成(夢中問答集の刊行者[384])のために『夢中問答集』を編纂して彼に与えたと記されており、夢窓側が編さん作業の責任を負っていたこと[385]、後に夢窓を厚く崇拝した8代将軍足利義政が座右に備えるほど貴重なものとして扱うかという点を挙げ[386]、批判目的ではないとの説を述べている。
森茂暁は、暦応年間に直義が禅宗を含めた宗教政策をリードしていたことから、玉村の論が妥当であるとし[387]、亀田俊和も『夢中問答集』が夢窓への厳しい批判になっていると述べる[388]。また夢窓も問答の中で、元弘以来の戦乱で多くの死者が出ていることを直義に対し厳しく苦言を呈している[389]。
暦応5年(1342年)4月23日、建武政権が京都中心に改めていた五山・十刹制度を、京都は南禅寺・天龍寺・建仁寺・東福寺、鎌倉は建長寺・円覚寺・寿福寺に指定し直し、浄妙寺を含む全国の禅宗寺院を十刹に指定した[390]。この制度は足利義詮・足利義満の時代の選定を経て、今日の五山の形となっている[372]。
文化事業
三条坊門(等持寺)文化
室町幕府ができた暦応3年(1338年)以前、直義の邸宅である三条坊門殿(建武4年に完成)の北側に直義邸の付属寺院とみられる等持寺ができた[391]。寺のさらに北側には尊氏の二条高倉邸があった[392]。この寺では禅宗でありながら密教的行事も行われており、直義は康永3年と貞和元年の9月5日に、父の貞氏追善の法華八講を行っている[393]。

堀川によれば、直義の邸宅である三条坊門殿では「等持院屏風賛」に象徴される、北山文化・東山文化の原点となった、幕府創世記の混沌としたエネルギーに満ちた三条坊門(等持寺)文化といえるものが生まれていったという[394]。「等持院屏風賛」とは、動物を喩えに使った仏教の教えを題材とする「十牛図」などの12面の絵とそれに対する賛を描いた屏風で、成立時には尊氏か直義の邸内にあり、その後北山の等持院に移され、江戸時代初期までは現存していた[395]。この賛を書いたのは夢窓疎石をはじめ、笠仙梵遷、雪村友梅、古先印元といった僧侶12人で、特に直義が鎌倉将軍府にいたころに鎌倉の浄智寺の住持を勤めていた笠仙、康永2年(1343年)正月に直義邸に招かれた際、直義自ら履物をそろえたというエピソードがある雪村、等持寺の開山で直義の秘書的な役割を果たした古先の3人に、直義は信仰的にも文雅面でも傾倒していた[396]。また、直義が住む三条坊門殿では連歌や蹴鞠といった催しも行われた。
『太平記』の改訂
直義は『太平記』の編纂にも途中まで関与し、法勝寺の恵鎮上人が等持寺に『太平記』三十巻あまりを持参した際、側近である玄恵法印に内容をチェックさせ、誤りを改訂させたという[351]。しかし現代に伝わる『太平記』では巻二十七で貞和5年(1349年)の直義の失脚と翌年の玄恵の死を記していることから、恵鎮が持参した「二十余巻」を「三十」と誤記したか[397]、もしくは原型の『太平記』が現在伝わっているものとは異なる構成だった可能性が考えられている[398]。『太平記』の改訂は直義の失脚と共に中断したが、その後再び書き継ぎが始まったことが『難太平記』に見えている[399]。
神護寺への肖像画納入
1995年に米倉迪夫が発表し、その後黒田日出男が深化させた伝源頼朝像の像主を直義、伝平重盛像を尊氏、伝藤原光能像を義詮に比定する新論は、康永4年(1344年)4月22日付の直義が神護寺に尊氏・直義兄弟の肖像画を奉納したという内容を含む直義の願文が論拠の1つとなっている[400]。この神護寺三像を直義・尊氏・義詮の肖像画と見る場合、黒田は兄弟仲が不安定で幕府が不安定な状況下であったことを直義が肖像画を奉納したとし、米倉は「直義が政治家としての人生のなかで最も光輝いたとき」を描いたとの見解を示している[400]。

邸宅
尊氏の二条高倉殿の南側、左京三条四坊六町(三条坊門小路の南、姉小路の北、万里小路の西、高倉小路の東)に直義が構えた邸宅を「三条坊門殿」もしくは「高倉殿」ともいう[403][404]。もとは中院家の邸宅があった場所だが[392]、建武3年(1336年)6月には既にこの場所に直義が邸を構えたとみられており、建武5年(1338年)3月9日には光厳上皇と光明天皇が行幸した[405]。直義はこの邸で幕府の政務処理を行い、政所もこの場所に置かれたとみられる[288]。

庭には石組みが施された園池、景石、築山があり、桜、ヤナギ、ズミ、白い椿が植樹されていた[405]。この椿は康永3年(1344年)に東福寺の開山塔である常楽院の「白玉椿」と呼ばれる椿を直義が移植させたもので、雪村友梅が「赤いサザンカとは異なり、高潔な気品が漂う」と詠い、常楽院を守る可庵という僧侶や虎関師錬、乾峰士曇なども和歌を詠んだ[405][406]。書斎の「撃蒙軒(ぎゃくもうけん)」は借景庭園の佇まいで、東山が羨望できた[407][28]。堀川貴司は、夢窓・雪村・古山印元・竺仙・乾峰といった禅宗の僧侶らとの交流の中で、直義を中心とする一種のサロンが形成されていったと推測している[408]。
「島津文書」などによると、三条坊門殿では鎌倉幕府の恒例行事であった弓場始が度々行われた記録があり、この行事はその後の室町幕府にも継承された[409]。さらには蹴鞠、詩歌会、連歌の会など、公家や武家を招いた王朝文化の催しも行われた[410][411]。貞和2年(1346年)9月26日にはこの邸で直義が武家として初めて、国家主権を有する者が開催する天皇や国家の大事に修される重要な法要・五壇法を主催したことが注目される[410]。
三条坊門殿は2回火事に遭っており、1度目の康永元年(1342年)5月8日の火事は直ぐに消し止められたが、翌年の康永3年(1344年)12月22日の火事では焼失し、翌年に一族や家臣の古屋を解体した木材を使って再建されている[158][405]。火事が起きた時期は越中・美濃・和泉国で幕府への反抗活動が広がっており、公賢は「天下の権を執るの人なり、奇異なり」と不安を『園太暦』に記した[412]。再建時に直義は、洛中に例のない南西門(鎌倉幕府の将軍邸で正月行事の垸飯の時などに用いられていた[413])を立てることについて、遠慮すべきかどうかを公賢に問い合わせ、公賢からは「普段は閉じて、必要な時だけ用いればどうか」という返事を得ている[358][413]。
その後の観応元年(1349年)10月には直義の失脚に伴い鎌倉から上洛した義詮が三条坊門殿に居住した[414]。そして直義が鎌倉で亡くなった後に南朝軍がたびたび京都を陥落させた際、焼失したとみられる[415]。
直義亡き後の貞治4年(1365年)、義詮はこの東隣に邸宅を構え、旧直義邸の跡地に「三条坊門八幡宮」という義詮邸の鎮守を創建した[296]。直義を鎮魂する目的もあったという[416]。義持の時に醍醐寺に寄進され、三宝院満済が管理した[296]。現在、中京区御池通高倉東入ル亀甲町に所在する御所八幡宮は、この後身にあたる[403]。室町時代の御所八幡宮(三条の八幡)の姿は洛中洛外図屏風にも描かれており、例えば上杉本であれば右隻の第四扇に、隣接する等持寺とともに描かれている[417]。
この邸宅では典籍の貸借や書写も行われ、直義の命による二階堂行秀(道本)の『玉燭宝典』の書写や、近衛道嗣との『風土記』『百練抄』の借用・貸出、中原師弻との書物の貸借[418]などが行われていたことが『玉燭宝典』の紙背文書から判明している[419]。このため今江廣道は「直義がその天命を全うしていれば『玉燭宝典』だけでなく、もっと多くの典籍が残ったかもしれない」と惜しんでいる[420]。
詩作
勅撰集に選ばれた直義の和歌は26首あり、内訳は風雅和歌集に10首、新千載和歌集に5首、新拾遺和歌集に4首、新後拾遺和歌集に2首、新続古今和歌集に5首となっている[421]。また准勅撰和歌集の新葉和歌集にも5首が入った[367]。一方で兄・尊氏の勅撰集入りの和歌は86首と、直義よりもはるかに多い[422]。
他にも、高野山金剛三昧院奉納和歌短冊(康永3年10月8日付)や、康永3年12月15日に斯波高経とともに長門国忌宮神社に奉納した2首などを詠んでいる[423]。また直義は、太田時連という腹心が重病に罹った時や、奥州探題に任命された畠山国氏が下向前に三条坊門殿を訪れた際など(ミナ人ノ ウカリシカタヲ ワスレスハ ノソミノ上ノ ノソミアラメヤ[424])、部下に和歌を送ることもよくあったが、一方で風雅和歌集編纂時の和歌の百首詠進の提出が尊氏ともども遅れたり、自筆が原則の和歌短冊を上杉朝定に清書させたりしたというような一面もある[423]。
風雅集収録の和歌
述懐歌の中に
しづかなる よはの寝覚に 世中の 人のうれへを おもふくるしさ[368]—左兵衛督直義、『風雅和歌集』巻十七・雑下・1799
- 解釈:静かな夜半、寝覚めて物思いを続ける。その時、世の人々の苦しみ・悲しみを次々に思いやる[425]。
- 森茂暁によれば、懸命な政治にも関わらず不可抗力的に社会の底から湧き上がってくる人々の憂いや嘆きに対しての政務担当者である直義のいらだちや自責の念が色濃く漂う、直義の生真面目で責任感の強い人物像が浮かび上がっている歌である[426]。河北騰は「その率直な呻きが感動的」と評価する[425]。
- 深津睦夫は、光厳上皇が自ら編纂した『風雅和歌集』の巻十七「雑下」の巻頭、治天の君に対する臣下の思いや治天の君が自らの治世についての思いを述べる「述懐歌」12首の中に、この歌があることを指摘する[427]。中でも「民」を思いやる歌は直義と光厳上皇の二首しかなく、撰者である光厳上皇が「為政者」として直義を認めていたことの証左であったという[428]。
百首歌たてまつりし時
花見にと 春は群れつつ 玉鉾の みち行く人の 多くもあるかな—左兵衛督直義、『風雅和歌集』巻第二・春歌下・162[429]
- 解釈:春ともなれば、花見にというわけで、世の人々が道いっぱいに大勢出かけて行くことだ[430]。
百首歌たてまつりしとき
いつとても 待たずはあらねど 同じくは 山ほととぎす 月に啼かあむ—左兵衛督直義、『風雅和歌集』巻第四・夏歌・319[431]
- 解釈:時鳥の啼くのはいつも待ちかねているのだけれど、同じことなら、明るい月明の夜に啼いてほしいものだ。いっそうすばらしいだろうから[432]。
秋歌とて
おのれとや 色づきそむる うす紅葉 まだこの頃は しぐれぬものを—左兵衛督直義、『風雅和歌集』巻第七・秋歌下・676[433]
- 解釈:この頃はまだ初時雨も降っていないのに、早やうっすら紅葉しかけたのが見える。あれは、独りでに色づき始めたのだろうか[432]。
冬地儀といふことを
見渡せば 山もと遠き 雪のうちに けむりさびしき 里の一むら—左兵衛督直義、『風雅和歌集』巻第八・冬歌・853
- 解釈:見渡すと、山の麓から遠いこの村里では雪で白一色に覆われ、夕べの煙が寒々と立ち昇っている[430]。
- 前田雅之によれば「山もと遠き」は光厳上皇が詠んだ和歌(『光厳院三十六番歌合』の六十九番)から、末句の「里の一むら」は後鳥羽院の和歌「見渡せば山元かすむ水無瀬川」から導き出したもので、直義が一生懸命、光厳上皇周辺の京極派を気取って詠んだ歌と推測している[434][430]。
百首歌たてまつりしときに
涙をば 洩らさずとても 物思ふ こころの色の えやは隠れぬ—左兵衛督直義、『風雅和歌集』巻第十・恋歌一・978[435]
- 解釈:人前では涙を洩らさぬにしても、ひそかに堪えている恋の心は、とても隠しおおせることなど、できはしないものだ[436]。
- 河北によれば、古今集の「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は」の情緒を踏まえた作[437]。
百首歌たてまつりし時
引きかへて 変るしも憂き 思ふ色を さのみは人の 何か見せけむ—左兵衛督直義、『風雅和歌集』巻第十三・恋歌三・1316[438]
- 解釈:うって変って、これ程に心変わりするとはつらいことだ。それにしても、思っていますという顔色や様子を、どうしてあの人は私に示したのだろうか[437]。
- 河北によれば、一見わかりにくい歌だが二句切れの歌である[437]。
逢ふ事は 絶えぬるなかに 同じよの 契りばかりぞ ありて甲斐なき—左兵衛督直義、『風雅和歌集』巻十四・恋歌四・1361[439]
- 解釈:二人が逢うことはもう絶えてしまった間柄だのに、この世での付合いだけはしているが、それは、何と甲斐のない、はかない事だろうか[437]。
百首歌たてまつりし時
高き山 深き海にぞ 勝るらし わが身に受くる 君が恵みは—左兵衛督直義、『風雅和歌集』巻十七・雑下・1819
- 解釈:海山にも更に勝るような君の御厚恩には、ただひたすら感謝を申し上げております[425]。
- 河北は儀礼的な陳腐な挨拶にみえると評する[425]。森によると、この「君」とは光厳上皇のことで、上皇への報恩の気持ちを詠んだ歌である[440]。
百首歌たてまつりし時
言の葉の 六種の内に さまざまの 心ぞ見ゆる しきしまの道—左兵衛督直義、『風雅和歌集』巻十七・雑下・1839
新千載集収録の和歌
貞和百首歌めされし時
憂きながら 人の為ぞと 思はずは 何を世に経る なぐさめにせむ—左兵衛督直義、『新千載和歌集』巻第十七・雑歌中[443]
- 解釈:つらくて苦しいのだが、これも世の為に励んでいるのだと思わなければ、何を苦労の慰めと、思えるものがあるだろうか[425]。
- 前田によれば、この歌は通常の「題詠」基準であれば失格ものだが、北条得宗家や後醍醐といった敵方の和歌も載せた『新千載集』だからこその入集とみられ、政務に対する真摯な悩みを赤裸々に語るこの歌が、もっとも直義にふさわしい和歌だという[444]。亀田俊和も、自身が好きな直義の歌にこの句を選んでいる[370]。
三嶋の社に本地の名号を始めにをきて読みて奉りける歌のなかに
暗きより 暗きに迷ふ 心をも 離れぬ月を 待つぞはかなき—左兵衛督直義、『新千載和歌集』巻第九・釈歌[445]
- 解釈:迷いに迷い、闇の中を辿っている私ですが、それでも明るい真如のつきを待ち望んではいる、このはかない姿よ[430]。
貞和二年百首歌めされし時
つゆながら 千草吹きしく 秋風に 乱れてまさる 花の色かな—左兵衛督直義、『新千載和歌集』巻第四・秋歌上[446]
- 解釈:露がしとどに置く八千草に、しきりに秋風が吹いて、吹き乱れている。それによって、花の色はいっそう美しさを増している[442]。
立ち帰り 又も訪へかし 別れ路の 後も夜深き 有明の空—左兵衛督直義、『新千載和歌集』巻第十三・恋歌三[447]
- 解釈:お別れはしたのですが、もう一遍立ち帰ってください。今はまだ夜深いときですし、お月様も有明けで、道は暗くもないのですから[442]。
建武の比思ひの外の事によりて筑紫へ下り侍りけるが程なく帰り上りて侍りけるに都に残しおきて侍りける女のさまかへ侍りける由を聞きてよみてつかはしける
袖の色の 変ると聞けば 旅衣 たち帰りても 猶ぞ露けき—左兵衛督直義、『新千載和歌集』巻第十八・雑歌下[448]
新拾遺集収録の和歌
かくばかり つれなきものを 郭鳥 なくや五月と たれかいひけむ—左兵衛督直義、『新拾遺和歌集』巻第三・夏歌[451]
秋の歌の中に
月かけの 入る野の薄 うち靡き 暁露に 鹿ぞ鳴くなる—左兵衛督直義、『新拾遺和歌集』巻第五・秋歌下[452]
恋の心を
契りこそ 頼まるれ さりともと 思ふかたには 心ひかれて—左兵衛督直義、『新拾遺和歌集』巻第十三・恋歌三[453]
釈歌の中に
暇にこそ 説きおく法の 理に とまりて人や 猶迷ふらむ—左兵衛督直義、『新拾遺和歌集』巻第十五・釈教歌[454]
新後拾遺集収録の和歌
貞和百首の歌に
天の戸の 霧晴れそめて ほのぼのと 明けゆく空を わたる雁がね—左兵衛督直義、『新後拾遺和歌集』巻第八・雑秋歌[455]
道大法師病にわつらひ侍るに泰山府君まつるへきよし申して太刀なとをくりつかはしけるによみてそへて侍ける
世のために 我も祈れは 限りある 命なりとも なからへやせん—左兵衛督直義、『新後拾遺和歌集』巻第十七・雑歌下[456]
- 解釈:世間のためにと私は貴君の快復をひたすら祈っています。だから、限りある命だとしても、君はきっと長らえるに違いありません[457]。
新続古今集収録の和歌
貞和二年百首の歌奉りける時
真柴たく 煙の色も 暮れそめて 山元遠き 庵のさびしさ—前左兵衛督直義、『新続古今和歌集』巻第十八・雑歌下[458]
- 解釈:柴を折りたく煙の色も、夕やみの中へ包まれて暮れはじめ、麓からも程遠いこの庵のあたりは、さびしい気配が漂っていることだ[457]。
- 河北は、平明でよく整った歌風で幽玄のような余情が出ていると評する[457]。
貞和の百首の歌奉りける時
今日幾日 問ふ人なしに 跡絶えて 雪にこもれる 宿のさびしさ—前左兵衛督直義、『新続古今和歌集』巻第六・冬歌[459]
貞和の百首の歌奉りける時恋の歌の中に
漏らさねば またつれなさも 見えぬより 何ゆゑ袖の 斯くしをるらむ—左兵衛督直義、『新続古今和歌集』巻第十一・恋歌一[460]
貞和の百首の歌に
打ちとくる 心の奥も 見えぬるに 忍ふの山ぞ 隔てなりける—左兵衛督直義、『新続古今和歌集』巻第十二・恋歌二[461]
貞和の百首の歌に
あだになと 変はりはすらん 逢ひ見るも 此世一つの 契りならぬに—左兵衛督直義、『新続古今和歌集』巻第十四・恋歌四[462]
紙本墨書観世音法楽和歌(広島県尾道市・浄土寺蔵、重要文化財、建武3年)
建武3年(1335年)に、尊氏らとともに尾道の浄土寺に奉納された和歌33首中、直義が詠んだ和歌は7首ある[463]。観音経の一番最後に観音菩薩の偉大な法力を称えた偈104句があるが、この内の主要な句を歌の題として詠んだものである[464]。
火坑鑁成池
さたまれる すかたの物に なきゆへに やすくや火おも 水となすらん—源直義朝臣、『観世音法楽和歌』[465]
波浪不能没(波浪も没することあたわず[466])
さハりなき 心におこす ちかひにや 浪に入ても おほれさるらむ—源直義朝臣、『観世音法楽和歌』[467]
能救世問苦
身をすてゝ 人をすくはゝ 世にすむも 佛のみちに かハりはやせん—源直義朝臣、『観世音法楽和歌』[468]
常願常瞻仰
わするゝと おもひいつるや へたてなき 一たびいのりに いりしのちより—源直義朝臣、『観世音法楽和歌』[469]
無垢清浄光
さはりなき 心の月は なかき夜の やミおもしらて ひとりすむなり—源直義朝臣、『観世音法楽和歌』[470]
能為作依怙
なにことも かなふちかひを たのむより 身にはうれへも わつらひもなし—源直義朝臣、『観世音法楽和歌』[471]
慈眼視衆生
おもくする 身をわするれハ もろ人を あハれむのミや 思日なるらむ—源直義朝臣、『観世音法楽和歌』[472]
高野山金剛三昧院奉納和歌短冊(前田育徳会所蔵・国宝、康永3年10月8日付)
27名の歌人が「なむさかふつせむしむさり(南無釈迦仏全身舎利)」の12文字を頭字として詠んだ和歌短冊の原本120枚から成っており[473]、直義の夢をきっかけに作成された。光厳上皇や尊氏の他に、頓阿、兼好法師、浄弁、慶運の和歌四天王や、細川和氏や高師直、高重茂といった幕府関係者らが歌を詠み自筆している[474]。直義は尊氏とともに12枚の短冊を書き、「南無釈迦仏全身舎利」の12文字を全て詠んでいる[475]。
裏面には直義・尊氏・夢窓による宝積経の写経と直義の跋文が書かれており『宝積教要品』の名で国宝に指定されている[476]。跋文に書かれた日付は『夢中問答集』と跋文の日付と同じで、両者は対の作品とみられている[477]。江戸時代に加賀前田家の5代当主・前田綱紀が金剛三昧院から購入し、現在は財団法人前田育徳会が所蔵している[473]。



無 むろの中に 光はみちて 灯火の おのが影こそ 又あまたなれ—直義、『宝積経要品短冊和歌』[479]
な 長きよの 月はしばしも 曇らぬを ねぶりの内の 闇ぞ有りける—直義、『宝積経要品短冊和歌』[480]
む 生れきて うけがたき身を うけながら 御法にいらぬ 人ぞはかなき—直義、『宝積経要品短冊和歌』[481]
婦 深からぬ 世のことわりの そのままに 心をもつも 猶かたきかな—直義、『宝積経要品短冊和歌』[482]
む むかし今 猶行末も まことには ただ時のまの 思なりけり—直義、『宝積経要品短冊和歌』[483]
さ さても我れ たが力にて 起臥すと 思ふぞ法に 入る初めなる—直義、『宝積経要品短冊和歌』[484]
か かしこきと 愚かなるとぞ 隔てなき 心にて知る 法にあらねば—直義、『宝積経要品短冊和歌』[485]
さ さまざまの 色や彩を 尋ぬれば かがみに浮ぶ 影にぞありける—直義、『宝積経要品短冊和歌』[486]
津 津の国の 難波の裏の よしあしは 名のみはかりて 一つなりけり—直義、『宝積経要品短冊和歌』[487]
志 しづかなる 夜の寝覚に 我が心 いかになりぬと かへりみるかな—直義、『宝積経要品短冊和歌』[488]
せ せかきぬる 心の水の みなかみを 尋ぬればまだ 露だにもなし—直義、『宝積経要品短冊和歌』[489]
り 霊山の 付属を今も わすれねば きみが守りて 法ぞ久しき—直義、『宝積経要品短冊和歌』[490]
- 冒頭の一番の和歌を尊氏、二番の和歌を直義、そしてこの「霊山の」の直義の歌が短冊和歌120首の一番最後を飾っている[491]。
漢詩
直義が北条時頼の投機の偈への次韻を書いた自筆の懐紙が京都の東福寺に現存するが、実際には兀庵普寧という僧侶が時頼に与えた偈に続けて円爾が詠んだ偈を、時頼が円爾に寄せた作と誤解して詠んだとみられる[492]。
最明寺禅門嘗以投機 呈示東福寺開山和尚。百年後観之有感。次韻。
人々都是勿量漢 箇同無非浄法身
幾多甘自作迷輩 且喜崇公独契真
(人々 都て是れ勿量感 箇々 浄法身に非ずということ無し
幾多 甘んじて迷輩と作る 且喜すらくは 崇公 独り真を契りしことを[493])
後世の評価
江戸時代の朱子学者である新井白石は、尊氏が天皇に背いて護良親王を殺したことは全て直義の奸謀によるものであり、直義が敗死したことを「積悪の余殃たるべし」と評した[494]。似たような評価で、アグニュー恭子による若き日の直義を主人公とした歴史ミステリ小説『世尊寺殿の猫』(論創社)が令和7年(2025年)10月に第14回日本歴史時代作家協会賞新人賞を受賞した際、菊池仁は選評で「何故、直義なのか。作者の設定に注文を付けるのはご法度だが、直義はいただけない。護良親王も高師直も殺害している。本書の物語の主人公の品格が落ちてしまう。」と述べ、この点で評価を低くしたことを明かしている[495]。
一方で明治初期の実証主義史学において、帝国大学教授の重野安続は「尊氏直義頗ル学術アリ。善く人ヲ駕馭ス。」と人望や手腕を評価した[496]。しかし、明治43年(1910年)に起きた大逆事件の裁判における幸徳秋水の発言をきっかけとして、南北朝正閏論と尊氏逆賊論が持ち上がっていくことになる[497][498]。昭和初期に皇国史観が優勢となると尊氏とセットで日本史上有数の大悪人として扱われるが[499]、その中で国家主義の思想家である大川周明は、昭和14年(1939年)に『日本二千六百年史』を著してその中で尊氏を絶賛し、直義についても「兄を補佐してその業を成さしむるに最も適わしき正直と細心と、而して事務の才幹とを備えていた」などと評価した[500]。軍部などから問題視され、大川は翌年に出た改訂版以降で尊氏を絶賛する記述を削除したが、直義に関する箇所は削除しておらず、亀田俊和は「直義に対して、大川は強い思い入れがあったのかもしれない」と推測している[501]。
戦後は松本新八郎、永原慶二、佐藤進一、羽下徳彦らが初期室町幕府や南北朝時代を研究し、高柳光寿の『足利尊氏』のような評伝も出るようになった[502]。特に佐藤は直義好き・直義びいきで知られた[313]。佐藤と対談した小説家の杉本苑子も(足利尊氏を主人公とする小説『風の群像』を日本経済新聞に連載)、佐藤との対談の中で「史料とか研究書を読んで、変な表現ですが、恋を感じるということは、なかなかないのですが、わたくし、直義という人間には恋を感じました」と述べている[503]。佐藤の直義への思い入れの深さや親近感は、直義研究の進展や評価の向上、歴史愛好家の中にファンを増やす結果に繋がった[504]。
2016年(平成28年)に直義の評伝を著した歴史学者の亀田俊和は「まず確実に言えることは、足利直義がいなければ、室町幕府は存在していなかった」としつつも、江戸時代の権謀術数のマキャベリストという評価は一面の真理を突いており、戦後の高評価だけではなくこうした側面にも注目すべきで、良くも悪くも中世日本の武士であり、政治家であったと評している[505]。
官歴

※日付=旧暦
偏諱を与えた人物
直義の偏諱には、義弟の子にあたる渋川直頼のように烏帽子親としての実の親子に準ずる形態のものと、偏諱を賜ることによって直義との結びつきを強めようとする政治的戦略の一環として用いられる形態との二通りがある[65]。
直義派
- 足利直冬 - 甥(兄・尊氏の子)で直義の養嗣子。
- 石塔直房(石塔氏)[506] - 直義派の有力武将・石塔頼房の次男。のち父と決別して尊氏派に転じ、名を「忠房」と改めた。
- 岩松直国(岩松氏)[507] - 岳父(妻の父)・上杉憲顕とともに直義派に属すも尊氏派と戦い失脚、その後尊氏の子・基氏の宇都宮氏綱征伐への従軍・戦功により復権、以後鎌倉公方に仕えた。
- 上野直勝[508]
- 諏訪直頼[509] - 諏訪氏当主および諏訪大社大祝。元は南朝方の武将であり、南朝方に降った直義を支援する形で信濃国における直義党の主将として活動。直義死後も宗良親王に属すが、のちに足利義詮に降る。
- 畠山直顕? - 直冬に属したが、阪田は直義の偏諱かは参考に留めたいとする[510]。
- 畠山直宗[506] - 直義の側近。直顕の甥。
- 桃井直常[511] - 直義派の有力武将。初名は貞直で、直義の偏諱を受け直常に改名[511]。直義没後も直冬に属し、尊氏に敵対し続けた。
- 桃井直信[511] - 直常の弟。初め直義派、のち擾乱終結後は兄と袂を分かち、義詮に属す。兄と同様だろうと推測される[511]。
尊氏派
系譜
関連作品
古典作品
歌舞伎・浄瑠璃
江戸時代の歌舞伎・浄瑠璃には「太平記物」という、例えば新田義興を題材とした『神霊矢口渡』のような、『太平記』に題材を求めた作品の一系統が存在した[518]。
小説
- 吉川英治『私本太平記』(毎日新聞社、1959-1962年)
- 安部龍太郎「兄の横顔」(文藝春秋『室町花伝』/文春文庫『バサラ将軍』収録、1995年)
- 鎌倉将軍府・中先代の乱の時の直義を主人公とした作品[527]。
- 杉本苑子『風の群像 小説・足利尊氏』(講談社文庫、2000年)
- 岡田秀文『足利兄弟』(双葉社、2016年)
- 類い稀なカリスマを持つ尊氏を、直義や尊氏の妻・登子の視点で描いた作品[530]。
- 垣根涼介『極楽征夷大将軍』(文藝春秋、2023年)
- アグニュー恭子『世尊寺殿の猫』(論創社、2024年)
- 第14回日本歴史時代作家協会賞新人賞受賞作。鎌倉時代末期、16歳の若き直義を主人公とした歴史ミステリ小説[532]。
テレビドラマ
漫画
- 湯口聖子『夢語りシリーズ 風の墓標』(秋田書店、1989-1991年)
- 河村恵利「雨の糸」「火炎」(秋田書店『歴史ロマンシリーズ 1 ささめごと』収録、1991年)、「春宵」(秋田書店『歴史ロマンシリーズ 2 清水鏡』収録、1991年)
- 河部真道『バンデット -偽伝太平記-』(講談社、2016年- 2017年)
- 松井優征『逃げ上手の若君』(集英社、2021年-2026年)
アニメーション
舞台
関連文献
- 亀田俊和 「足利直義下文の基礎的研究」(鎌倉遺文研究会編集 『鎌倉遺文研究』第34号、吉川弘文館、2014年10月20日、pp.57-76、ISBN 978-4-642-09279-1)
- 櫻井彦; 樋口州男; 錦昭江 編『足利尊氏のすべて』新人物往来社、2008年9月。ISBN 978-4-404-03532-5。
- 森茂暁 「足利直義発給文書の研究 ─いわゆる「二頭政治」の構造」─」(福岡大学人文論叢編集委員会編集 『福岡大学人文論叢』第45巻第4号(通巻第179号)、福岡大学研究推進会、2014年3月20日)、pp.573-640)
- 松山充宏 編『桃井直常とその一族』戎光祥出版〈中世武士選書 49〉、2023年。ISBN 978-4-86403-487-6。
脚注
注釈
- ↑ 生年は古くは徳治元年(1306年)とするのが定説だったが、新出資料の発見と考証により1307年生まれの説も有力となり[1]、2010年代の時点で複数の歴史学者がこの説を採用している。本文を参照。
- 1 2 直義の死没日の元号について、南北朝時代はほとんどの期間、元号が南朝と北朝で分かれていたが、直義は正平の一統により正平に統一された時期[2]に薨去している。直義の没後すぐに再び南北朝に分かれたが、復活した北朝元号としては観応3年に当たる[3]。
- ↑ 観応の擾乱中に一時的に南朝に降ったことがある[4]。
- ↑ 直義が甥の直冬を養子に迎えた後、妻の渋川貞頼の娘との間に1347年に誕生した直義の実子[5]。
- ↑ ただし、日本史研究者の亀田俊和は、直義の冷静さは室町幕府成立後に指導者として後天的に身に着けたもので、本来は明朗快活な人間であったのではないかと主張している[26]。
出典
- 1 2 3 4 5 亀田 2016, p. 1.
- ↑ 亀田 2016, p. 197.
- ↑ 亀田 2016, p. 232.
- ↑ 亀田 2016, pp. 164–166.
- 1 2 3 亀田 2016, p. 132.
- ↑ 田辺 2002, p. 15.
- 1 2 3 森 2026, p. 222.
- 1 2 3 4 5 田中 2021, p. 197.
- ↑ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 30頁。
- ↑ 亀田 2016, pp. 15–16.
- ↑ 亀田 2016, p. 18.
- ↑ 亀田 2016, p. 23.
- ↑ 亀田 2016, pp. 30–41.
- ↑ 亀田 2016, pp. 51–55.
- ↑ 亀田 2016, p. 75.
- ↑ 亀田 2016, p. 76.
- 1 2 亀田 2016, p. 122.
- 1 2 亀田 2016, p. i.
- ↑ 亀田 2016, pp. 116–117.
- ↑ 亀田 2016, pp. 148–149.
- ↑ 亀田 2016, pp. 151-.
- ↑ 亀田 2016, pp. 151–161.
- ↑ 亀田 2016, pp. 174–175.
- ↑ 田中 2021, pp. 203–204.
- ↑ 亀田 2016, pp. 201–202.
- ↑ 亀田 2016, pp. 76–79.
- ↑ 亀田 2016, p. 214.
- 1 2 亀田 2016, p. 111.
- ↑ 亀田 2016, p. 100.
- 1 2 亀田 2016, p. 107.
- ↑ 山家 2018, p. 4.
- 1 2 森 2015, p. 25.
- 1 2 亀田 2016, p. 12.
- 1 2 3 4 森茂暁『足利尊氏』2017年、角川書店、Kindle版、位置No.37/239、ISBN 9784047035935
- ↑ 清水 2013, p. 22.
- ↑ 森, 2017 & Kindle版、位置No.37/239.
- ↑ 本郷 2025, p. 156.
- ↑ 堀川 2023, p. 169.
- 1 2 3 小川 2016, p. 93.
- 1 2 3 堀川 2023, p. 168.
- ↑ 亀田 2016, p. 95.
- ↑ 亀田 2016, p. 8.
- 1 2 3 4 森 2015, p. 27.
- ↑ 森 2015, p. 29.
- ↑ 森 2015, p. 28.
- ↑ 森 2015, pp. 29–30.
- ↑ 森 2026, p. 83-84.
- ↑ 森 2026, pp. 84–102.
- ↑ 森 2015, p. 30-31.
- ↑ 桃崎 2020, p. 22.
- ↑ 森 2015, p. 30.
- ↑ 山家 2018, pp. 34–39.
- ↑ 亀田 2016, p. 16.
- ↑ 木下 2011, p. 16.
- ↑ 木下 2011, pp. 14–16.
- ↑ コトバンクHP「宇刈郷」2026-08-30参照、https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E5%88%88%E9%83%B7-3063835
- ↑ 裾野市史編さん委員会(1995)『裾野市史第2巻:古代・中世』裾野市、pp.19196-198、url=https://www.city.susono.shizuoka.jp/static/shishi/shishi0201-2cyuseihen-02nanbokucyou-muromachi.pdf
- ↑ 峰岸 2009, p. 126.
- ↑ 森 2026, p. 114.
- ↑ 森 2015, p. 34.
- ↑ 桃崎 2020, p. 24.
- 1 2 3 亀田 2016, p. 19.
- ↑ 桃崎 2020, p. 25.
- ↑ 国史大辞典編集委員会 編(1983)『国史大辞典』3巻(か)、吉川弘文館、p.3、ISBN 9784642005036
- 1 2 阪田 1999, p. 11.
- ↑ 谷口 2022, p. 59-60.
- 1 2 森 2013, p. 137.
- 1 2 森 2015, p. 36.
- ↑ 森 2015, pp. 35–37.
- ↑ 亀田 2016, p. 20.
- ↑ 佐藤 2005, p. 105.
- ↑ 亀田 2016, pp. 20–21.
- ↑ 佐藤 2005, pp. 105–106.
- ↑ 櫻井 2025, pp. 89–108.
- ↑ 櫻井 2025, pp. 90–91.
- ↑ 亀田 2016, p. 21.
- ↑ 森 2015, p. 39.
- ↑ 亀田 2016, p. 24.
- ↑ 黒田 2012, p. 222.
- 1 2 湯本 1999, p. 168.
- ↑ 谷口 2024, p. 12.
- 1 2 亀田 2016, p. 25.
- 1 2 亀田 2016, p. 26.
- 1 2 森 2015, p. 38.
- ↑ 谷口 2024, p. 14-24.
- ↑ 森 2026, p. 133.
- ↑ 森 2026, p. 132.
- 1 2 亀田 2016, p. 27.
- ↑ 森 2015, p. 40.
- ↑ 清水 2013, p. 54.
- 1 2 森 2026, p. 139.
- 1 2 亀田 2016, p. 28.
- ↑ 清水 2013, p. 55.
- ↑ 亀田 2016, p. 29⁻30.
- ↑ 清水 2013, p. 56.
- ↑ 森 2015, p. 44.
- ↑ 亀田 2016, p. 30.
- ↑ 本郷 2025, p. 149.
- ↑ 本郷 2025, pp. 149–150.
- ↑ 亀田 2016, p. 30-31.
- 1 2 3 亀田 2016, p. 31.
- ↑ 久保田順一(2012)『上杉憲顕』戎光祥出版、P.50。ISBN 978-4-86403-067-0
- ↑ 亀田 2016, p. 32.
- 1 2 3 清水 2013, p. 60.
- ↑ 前田 2025, p. 64.
- 1 2 3 4 亀田 2016, p. 35.
- ↑ 前田 2025, pp. 63–64.
- ↑ 小川 2016, p. 99.
- ↑ 林屋 2015, p. 46.
- 1 2 3 亀田 2016, p. 36.
- ↑ 亀田 2016, pp. 36–37.
- ↑ 亀田 2016, p. 38.
- ↑ 清水 2013, p. 164.
- 1 2 亀田 2016, p. 39.
- ↑ 前田 2025, pp. 64–65.
- ↑ 亀田 2016, p. 40.
- ↑ 亀田 2016, p. 42.
- ↑ 亀田 2016, p. 42-43.
- ↑ 亀田 2016, p. 43.
- ↑ 亀田 2016, pp. 51–52.
- ↑ 亀田 2016, p. 53.
- 1 2 3 4 5 6 深津 2014, p. 118.
- 1 2 森本 2023, p. 100.
- ↑ 森本 2023, p. 84.
- ↑ 山田 2021, p. 105.
- ↑ 清水 2013, p. 64.
- 1 2 森本 2023, p. 85.
- ↑ 早島 2023, p. 27.
- 1 2 森 2026, p. 174.
- 1 2 亀田 2016, p. 54.
- 1 2 3 深津 2014, p. 119.
- ↑ 亀田 2022, p. 114.
- ↑ 佐藤 2005, p. 241.
- ↑ 深津 2014, p. 120.
- ↑ 深津 2014, p. 121.
- ↑ 森本 2023, p. 82.
- ↑ 亀田 2016, p. 82.
- ↑ 東寺(教王護国寺)宝物館(2002)『東寺文書とそのかたちを読む:東寺古文書入門』東寺宝物館、p.95、全国書誌番号:20346016
- 1 2 3 亀田 2016, p. 78.
- 1 2 3 森 2026, p. 175.
- ↑ 亀田 2016, p. 101.
- 1 2 本郷 2020, p. 53.
- 1 2 森本 2023, p. 83.
- ↑ 亀田 2016, p. 114.
- ↑ 亀田 2016, p. 102.
- 1 2 森 2026, p. 176.
- ↑ 山田 2021, p. 117.
- ↑ 九州大学附属図書館、https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=7162108 。(2026-06-30閲覧)
- ↑ 山田 2021, p. 108.
- ↑ 亀田 2016, p. 135.
- 1 2 佐藤 2005, p. 240.
- ↑ 亀田 2016, p. 124.
- 1 2 鈴木, 登美恵「太平記「塩冶判官讒死之事」をめぐって」『中世文学』第26巻、中世文学会、1981年、29–35頁、doi:10.24604/chusei.26_29。 pp. 32–34.
- ↑ 亀田 2016, p. 125.
- ↑ 亀田 2016, pp. 126–127.
- ↑ 亀田 2016, p. 117.
- 1 2 山家 1999, p. 79.
- 1 2 亀田 2016, p. 127.
- 1 2 深津 2014, pp. 166–167.
- ↑ 深津 2014, p. 口絵1.
- 1 2 森 2026, p. 259.
- 1 2 亀田 2016, p. 128.
- ↑ 森 2026, p. 260.
- 1 2 3 田中 2021, p. 201.
- ↑ 黒田 2012, p. 227.
- 1 2 森 2026, p. 187.
- ↑ 黒田 2012, pp. 225–226.
- ↑ 佐藤 2020, pp. 276–280.
- ↑ 佐藤 2020, pp. 277–279.
- ↑ 佐藤 2020, pp. 279–280.
- 1 2 亀田 2016, p. 144.
- 1 2 3 亀田 2016, p. 130.
- ↑ 田辺 2002, p. 4.
- ↑ 亀田 2016, p. 131.
- ↑ 山田 2021, p. 112.
- ↑ 亀田 2016, p. 131-132.
- ↑ 森 2026, p. 210.
- ↑ 亀田 2016, p. 132-133.
- ↑ 田辺 2002, p. 7.
- 1 2 亀田 2016, p. 139.
- ↑ 谷口 2026, pp. 161–162.
- ↑ 谷口 2026, pp. 162–163.
- 1 2 亀田 2016, p. 140.
- ↑ 山田 2021, p. 151.
- ↑ 亀田 2016, p. 145.
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/2541681/1/1(2026-06-30閲覧)
- ↑ 亀田 2016, pp. 141–143.
- ↑ 亀田 2016, pp. 145–146.
- ↑ 亀田 2016, pp. 146–147.
- ↑ 東寺(教王護国寺)宝物館(2002)『東寺文書とそのかたちを読む:東寺古文書入門』東寺宝物館、p.97、全国書誌番号:20346016
- ↑ 森 2015, pp. 115–116.
- ↑ 森 2015, p. 104.
- ↑ 黒田 2012, pp. 318–319.
- ↑ 亀田 2016, pp. 133–134.
- ↑ 呉座 2018, p. 161.
- 1 2 亀田 2016, p. 150-151.
- ↑ 呉座 2018, p. 160.
- 1 2 森 2026, p. 189.
- ↑ 森 2026, pp. 192–193.
- ↑ 呉座 2018, p. 160-161.
- ↑ 亀田 2016, p. 152-153.
- 1 2 森 2026, p. 194.
- ↑ 山田 2021, p. 152.
- 1 2 呉座 2018, p. 162.
- ↑ 清水 2022, p. 97.
- ↑ 清水 2022, p. 99.
- 1 2 3 森 2026, p. 195.
- ↑ 呉座 2018, p. 164.
- 1 2 3 山田 2021, p. 153.
- 1 2 3 佐藤 2005, p. 282.
- 1 2 亀田 2016, p. 160.
- ↑ 佐藤 2015, p. 121.
- ↑ 前田育徳会 2011, p. 6.
- 1 2 山田 2021, p. 154.
- ↑ 亀田 2016, p. 163.
- ↑ 佐藤 2005, p. 277.
- ↑ 森 2026, p. 196.
- ↑ 佐藤 2015, p. 278.
- ↑ 森 2015, p. 116.
- 1 2 3 深津 2014, p. 181.
- ↑ 山田 2021, p. 156.
- ↑ 亀田 2016, p. 166.
- 1 2 森 2026, p. 197.
- ↑ 森 2007, pp. 116–117.
- ↑ 亀田 2016, p. 167.
- ↑ 山田 2021, p. 157.
- ↑ 山田 2021, pp. 157–159.
- ↑ 佐藤 2005, p. 279.
- 1 2 3 深津 2014, p. 182.
- ↑ 亀田 2016, p. 168.
- ↑ 林屋 2015, p. 103.
- ↑ 亀田 2016, p. 172-173.
- ↑ 亀田 2016, p. 173.
- 1 2 亀田 2016, p. 174.
- ↑ 山田 2021, pp. 157–158.
- ↑ 亀田 2016, p. 175.
- ↑ 森 2015, p. 85.
- ↑ 深津 2014, p. 183.
- 1 2 深津 2014, pp. 183–185.
- ↑ 亀田 2016, p. 188.
- 1 2 山田 2021, p. 161.
- ↑ 森 2026, p. 198.
- ↑ 森 2026, pp. 198–199.
- ↑ 江田 2021, p. 61.
- ↑ 江田 2021, pp. 61–62.
- ↑ 亀田 2016, pp. 181–188.
- ↑ 森 2026, p. 216.
- ↑ 亀田 2016, p. 191.
- 1 2 山田 2021, p. 162.
- ↑ 佐藤 2005, p. 283.
- ↑ 山田 2021, p. 163.
- ↑ 亀田 2016, p. 192.
- 1 2 3 4 田中 2021, p. 203.
- ↑ 佐藤 2015, p. 123.
- ↑ 森 2026, pp. 270–271.
- ↑ 森 2026, pp. 271–272.
- ↑ 亀田 2016, p. 193.
- ↑ 亀田 2016, p. 194.
- ↑ 深津 2014, p. 186.
- 1 2 3 山田 2021, p. 164.
- 1 2 深津 2014, p. 188.
- ↑ 森 2026, p. 202.
- ↑ 亀田 2016, p. 195.
- ↑ 佐藤 2005, p. 286.
- ↑ 深津 2014, p. 189.
- ↑ 佐藤 2005, p. 287.
- ↑ 佐藤 2005, p. 285.
- ↑ 田中 2021, pp. 204–205.
- ↑ 深津 2014, pp. 187–190.
- ↑ 山田 2021, p. 165.
- 1 2 山田 2021, p. 166.
- ↑ 森 2026, p. 203.
- ↑ 亀田 2016, p. 200.
- ↑ 亀田 2016, pp. 200–201.
- ↑ 松山 2023, p. 100.
- ↑ 亀田 2016, p. 201.
- ↑ 鷲尾順敬 校訂『太平記 : 西源院本』,西源院本太平記刊行会,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1230899 (参照 2026-06-28) pp.857-858
- ↑ 清水 2013, p. 82.
- ↑ 呉座 2018, p. 127.
- 1 2 森 2026, p. 204.
- ↑ 佐藤 2005, p. 289.
- ↑ 亀田 2016, p. 202.
- ↑ 瀬野 2005, p. 93.
- ↑ 林屋 2015, p. 131.
- ↑ 桃崎 2020, p. 34.
- ↑ 中世日本研究所 [ほか] 編集(2009)『尼門跡寺院の世界 : 皇女たちの信仰と御所文化』、産経新聞社、全国書誌番号:21620483、p.67
- ↑ 板橋区史編さん調査会 編『板橋区史』通史編 上巻,[東京都]板橋区,1998.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13180027 (参照 2026-06-28) p.264
- 1 2 3 今江 2002, p. 148.
- ↑ 佐藤 2020, p. 301.
- ↑ 今江 2002, p. 115.
- 1 2 3 4 5 6 7 亀田 2016, p. 207.
- ↑ 山家 2018, p. 32.
- ↑ 高岸 2008, pp. 30–40.
- ↑ 高岸 2008, p. 34.
- ↑ 早島 2023, p. 45.
- 1 2 3 山家 2018, p. 92.
- ↑ 早島 2023, p. 47.
- ↑ 山家 2018, pp. 92–93.
- ↑ 山家 2018, p. 94.
- ↑ 山家 2018, p. 90.
- ↑ 亀田 2016, p. 208.
- 1 2 3 4 亀田 2016, p. 77.
- ↑ 鎌倉国宝館 2017, pp. 79–80.
- ↑ 鎌倉国宝館 2017, p. 83.
- ↑ 桐原書店(2023)『探求 古典探究:漢文編』、桐原書店、ISBN 978-4342121067、p.37
- ↑ 上村観光 編『五山文学全集』2巻,思文閣,1973.. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12502405 (参照 2026-06-25) p.30
- 1 2 川副武胤 著『鎌倉の廃寺』禅宗の部,鎌倉市教育委員会[ほか],1960. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2968820 (参照 2026-06-28)、p.23
- 1 2 下野新聞社 2017, p. 152.
- ↑ 浄妙寺HP「参拝について」、2026-08-29参照、https://www.tokasan-jomyoji.com/guide.html
- ↑ 『五輪塔の研究 : 調査概要報告』平成6年度,元興寺文化財研究所,1995.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13267619 (参照 2026-08-22)。p.4
- ↑ 日本歴史学会 編『日本歴史』(265),吉川弘文館,1970-06. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/7910325 (参照 2026-08-22)。口絵「安国寺利生塔の舎利容器と足利直義願文」(解説)鈴木友也
- 1 2 前田 2026, p. 157.
- 1 2 佐藤, 網野 & 笠松 1999, p. 137.
- ↑ 佐藤 2005, pp. 225–226.
- ↑ 山田 2021, p. 118.
- ↑ 森 2013, p. 139.
- ↑ 森 2013, pp. 138–139.
- ↑ 深津 2014, p. 167.
- ↑ 河北 2005, p. 121.
- 1 2 飯倉晴武(2002)『地獄を二度見た天皇 光厳院』吉川弘文館、ISBN 9784642055475、p.151
- ↑ 佐藤 2005, p. 227.
- ↑ 本郷 2020, pp. 61–62.
- ↑ 本郷 2020, pp. 64–65.
- 1 2 本郷 2020, p. 64.
- 1 2 亀田 2016, p. 118.
- ↑ 亀田 2016, p. 118-121.
- ↑ 佐藤 2020, p. 316.
- 1 2 森本 2023, p. 86.
- ↑ 佐藤 2020, pp. 226–227.
- ↑ 森 2026, p. 177.
- ↑ 佐藤 2020, p. 228.
- ↑ 佐藤 2020, p. 286.
- ↑ 森本 2023, pp. 93–94.
- ↑ 山田 2021, p. 180.
- ↑ 羽下徳彦(1973)「足利直義の立場 : その二 裁許状を通じて」『史論』通郷26・27巻、pp.10-11より、URL=https://twcu.repo.nii.ac.jp/records/15591
- ↑ 清水 2013, p. 68.
- ↑ 佐藤 2020, pp. 329–330.
- ↑ 佐藤 2020, p. 330.
- ↑ 清水 2013, pp. 66–67.
- ↑ 東京国立博物館編(2023)『常盤山文庫創立八十周年記念名品選 蒐集のまなざし』公益財団法人常盤山文庫、p.121、全国書誌番号:23881795
- ↑ 清水 2013, pp. 65–66.
- ↑ 山田 2021, p. 160.
- ↑ 森 2026, p. 213.
- 1 2 森 2026, p. 214.
- ↑ 清水 2013, p. 69.
- ↑ 清水 2013, pp. 69–70.
- ↑ 森 2026, p. 185.
- ↑ 小川剛生・浅井美峰校注『菟玖波集(上)』三弥井書店,2023年。ISBN 978-4-8382-1043-5。p.3
- ↑ 小川剛生・浅井美峰校注『菟玖波集(上)』三弥井書店,2023年。ISBN 978-4-8382-1043-5。p.311
- ↑ 小川剛生・浅井美峰校注『菟玖波集(下)』三弥井書店,2023年。ISBN 978-4-8382-1044-2。p.301
- 1 2 亀田 2022, p. 113.
- ↑ 石原 2018, pp. 23–25.
- ↑ 石原 2018, pp. 29–31.
- ↑ 石原 2018, pp. 25–26.
- ↑ 石原 2018, p. 26.
- 1 2 深津 2014, p. 148.
- 1 2 石原 2018, p. 27.
- 1 2 林屋 2015, p. 62.
- ↑ 石原 2018, p. 28.
- ↑ 三島 2012, pp. 88–91.
- ↑ 山田 2021, p. 132.
- ↑ 石原 2018, p. 33.
- ↑ 石原 2018, pp. 33–34.
- ↑ 亀田 2016, pp. 136–137.
- 1 2 3 亀田 2016, p. 106.
- ↑ 河北 2005, p. 119.
- 1 2 河北 2005, p. 120.
- 1 2 岩佐 2002, p. 109.
- ↑ 前田 2026, p. 120.
- 1 2 3 4 5 亀田 2016, p. 108.
- ↑ 亀田 2022, pp. 111–113.
- 1 2 森本 2023, p. 87.
- ↑ 亀田 2022, pp. 112–113.
- ↑ 亀田 2022, p. 109.
- ↑ 今枝 2013, p. 77.
- ↑ 今枝 2013, p. 78.
- ↑ 早島 2023, p. 37.
- ↑ 亀田 2016, p. 98.
- ↑ 飯倉晴武(2002)『地獄を二度見た天皇 光厳院』吉川弘文館、p.133、ISBN 9784642055475
- ↑ 本郷 2020, p. 60.
- ↑ 亀田 2016, p. 99.
- 1 2 3 亀田 2016, pp. 111–113.
- 1 2 西山 2004, p. 161.
- ↑ 西山 2004, p. 175.
- ↑ 西山 2004, pp. 175–177.
- ↑ 西山 2004, p. 162.
- ↑ 森 2015, pp. 191–192.
- ↑ 亀田 2016, pp. 112–113.
- ↑ 亀田 2016, p. 113.
- ↑ 亀田 2022, p. 100.
- ↑ 亀田 2016, p. 112.
- 1 2 山田 2021, p. 127.
- ↑ 堀川 2023, pp. 194–195.
- ↑ 堀川 2023, p. 203.
- ↑ 堀川 2023, p. 192-200.
- ↑ 堀川 2023, pp. 197–202.
- ↑ 兵藤裕己 校注(2014)『太平記(一)』岩波文庫黄143-1、岩波書店、p.465、ISBN 9784003014318
- 1 2 3 谷口 2026, p. 88.
- 1 2 谷口 2026, p. 89.
- 1 2 亀田 2016, p. 115.
- ↑ 亀田 2016, p. 口絵1頁.
- ↑ 清水克行『室町ワンダーランド:あなたの知らない「もうひとつの日本」』、2024年、文藝春秋、p.230、ISBN 978-4-16-391850-1
- 1 2 山田 2025, p. 133.
- ↑ 森 2015, p. 75.
- 1 2 3 4 関西 2021, p. 454.
- ↑ 堀川 2023, p. 174.
- ↑ 関西 2021, p. 455.
- ↑ 堀川 2023, pp. 175–176.
- ↑ 森 2015, pp. 74–75.
- 1 2 亀田 2022, p. 112.
- ↑ 関西 2021, p. 457.
- ↑ 林屋 2015, p. 67.
- 1 2 山家 2018, p. 56.
- ↑ 山田 2025, p. 153.
- ↑ 山田 2021, p. 128.
- ↑ 亀田 2016, p. 212.
- ↑ 米沢上杉文化振興財団(2025)『国宝 上杉本 洛中洛外図屏風 改定版』米沢市上杉博物館、p.8、全国書誌番号:24151377
- ↑ 今江 2002, p. 161.
- ↑ 今江 2002, p. 152-153.
- ↑ 今江 2002, p. 164.
- ↑ 森 2015, p. 158.
- ↑ 森 2015, p. 159.
- 1 2 亀田 2016, p. 110.
- ↑ 森 2015, p. 136.
- 1 2 3 4 5 河北 2005, p. 114.
- ↑ 森 2015, p. 134.
- ↑ 深津 2014, p. 157.
- ↑ 深津 2014, p. 174.
- ↑ 岩佐上 2002, p. 134.
- 1 2 3 4 河北 2005, p. 115.
- ↑ 岩佐上 2002, p. 243.
- 1 2 河北 2005, p. 116.
- ↑ 岩佐上 2002, p. 472.
- ↑ 前田 2026, p. 161.
- ↑ 岩佐中 2002, p. 57.
- ↑ 河北 2005, p. 116-117.
- 1 2 3 4 河北 2005, p. 117.
- ↑ 岩佐中 2002, p. 269.
- ↑ 岩佐中 2002, p. 299.
- ↑ 森 2015, p. 160.
- ↑ 河北 2005, pp. 117–118.
- 1 2 3 河北 2005, p. 118.
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第7巻 (十三代集 3),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506121 (参照 2026-06-28)、p.777
- ↑ 前田 2026, p. 162.
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第7巻 (十三代集 3),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506121 (参照 2026-06-28)、p.621
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第7巻 (十三代集 3),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506121 (参照 2026-06-28)、p.551
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第7巻 (十三代集 3),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506121 (参照 2026-06-28)、p.696
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第7巻 (十三代集 3),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506121 (参照 2026-06-28)、p.782
- ↑ 森 2015, pp. 162–163.
- ↑ 『早稲田文学』[第2期],(252),[早稲田文学社],1927-01-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11007300 (参照 2026-06-28)、p.46
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第8巻 (十三代集 4),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506122 (参照 2026-06-28)、p.37
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第8巻 (十三代集 4),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506122 (参照 2026-06-28)、p.64
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第8巻 (十三代集 4),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506122 (参照 2026-06-28)、pp.170-171
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第8巻 (十三代集 4),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506122 (参照 2026-06-28)、pp.170-171
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第8巻 (十三代集 4),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506122 (参照 2026-06-28)、pp.373-374
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第8巻 (十三代集 4),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506122 (参照 2026-06-28)、p.469
- 1 2 3 河北 2005, p. 113.
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第8巻 (十三代集 4),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506122 (参照 2026-06-28)、p.752
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第8巻 (十三代集 4),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506122 (参照 2026-06-28)、p.593
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第8巻 (十三代集 4),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506122 (参照 2026-06-28)、p.640
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第8巻 (十三代集 4),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506122 (参照 2026-06-28)、p.662
- ↑ 国民図書株式会社 編『校註国歌大系』第8巻 (十三代集 4),講談社,1976.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12506122 (参照 2026-06-28)、pp.688-689
- ↑ 広島県 編『広島県史』古代中世資料編 4,広島県,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9574074 (参照 2026-01-01)
- ↑ 小川 2016, p. 100.
- ↑ 広島県 編『広島県史』古代中世資料編 4,広島県,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9574074 (参照 2026-06-28)、p.577
- ↑ 小川 2016, p. 101.
- ↑ 広島県 編『広島県史』古代中世資料編 4,広島県,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9574074 (参照 2026-06-28)、p.577
- ↑ 広島県 編『広島県史』古代中世資料編 4,広島県,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9574074 (参照 2026-06-28)、p.578
- ↑ 広島県 編『広島県史』古代中世資料編 4,広島県,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9574074 (参照 2026-06-28)、pp.578-579
- ↑ 広島県 編『広島県史』古代中世資料編 4,広島県,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9574074 (参照 2026-06-28)、p.579
- ↑ 広島県 編『広島県史』古代中世資料編 4,広島県,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9574074 (参照 2026-06-28)、p.580
- ↑ 広島県 編『広島県史』古代中世資料編 4,広島県,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9574074 (参照 2026-06-28)、p.580
- 1 2 小川 2016, p. 104.
- ↑ 亀田 2016, p. 109.
- ↑ 前田育徳会 2011, pp. 6–7.
- ↑ 前田育徳会 2011, p. 1.
- ↑ 西山 2004, p. 110.
- ↑ 前田育徳会 2011, p. 2.
- ↑ 『釈教歌詠全集』第三巻,河出書房,1934. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883095 (参照 2026-06-28)、p.296
- ↑ 『釈教歌詠全集』第三巻,河出書房,1934. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883095 (参照 2026-06-28)、p.298
- ↑ 『釈教歌詠全集』第三巻,河出書房,1934. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883095 (参照 2026-06-28)、p.303
- ↑ 『釈教歌詠全集』第三巻,河出書房,1934. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883095 (参照 2026-06-28)、p.305
- ↑ 『釈教歌詠全集』第三巻,河出書房,1934. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883095 (参照 2026-06-28)、p.306
- ↑ 『釈教歌詠全集』第三巻,河出書房,1934. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883095 (参照 2026-06-28)、p.307
- ↑ 『釈教歌詠全集』第三巻,河出書房,1934. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883095 (参照 2026-06-28)、p.310
- ↑ 『釈教歌詠全集』第三巻,河出書房,1934. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883095 (参照 2026-06-28)、p.312
- ↑ 『釈教歌詠全集』第三巻,河出書房,1934. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883095 (参照 2026-06-28)、p.313
- ↑ 『釈教歌詠全集』第三巻,河出書房,1934. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883095 (参照 2026-06-28)、p.314
- ↑ 『釈教歌詠全集』第三巻,河出書房,1934. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883095 (参照 2026-06-28)、p.319
- ↑ 『釈教歌詠全集』第三巻,河出書房,1934. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1883095 (参照 2026-06-28)、p.323
- ↑ 前田育徳会 2011, p. 7.
- ↑ 堀川 2023, pp. 172–173.
- ↑ 堀川 2023, p. 172.
- ↑ 小川 1991, pp. 442–443.
- ↑ 日本歴史時代作家協会編(2025)『第十四回 日本歴史時代作家協会賞:受賞者の言葉と選評』、日本歴史時代作家協会、Kindle版、位置No.17/72
- ↑ 小川 1991, p. 448.
- ↑ 亀田俊和『南北朝期室町幕府をめぐる諸問題』国立台湾大学出版中心、2022年。p.209、ISBN 978-9863505969
- ↑ 小川 1991, pp. 450–451.
- ↑ 亀田 2016, p. iii.
- ↑ 亀田俊和『南北朝期室町幕府をめぐる諸問題』国立台湾大学出版中心、2022年。pp.219-221、ISBN 978-9863505969
- ↑ 亀田俊和『南北朝期室町幕府をめぐる諸問題』国立台湾大学出版中心、2022年。p.220、ISBN 978-9863505969
- ↑ 小川 1991, p. 454.
- ↑ 早川準一発行(2007)『日本の歴史:別巻:対談・総索引』、中公文庫1429、中央公論新社、p.170
- ↑ 亀田 2016, pp. ii–iii.
- ↑ 亀田 2016, pp. 214–216.
- 1 2 阪田 1999, p. 7.
- ↑ 阪田 1999, p. 4.
- ↑ 阪田 1999, p. 6.
- ↑ 阪田 1999, p. 9.
- ↑ 阪田 1999, p. 8.
- 1 2 3 4 阪田 1999, p. 1.
- ↑ 阪田 1999, p. 5.
- ↑ 角田朋彦「南北朝動乱と武蔵武士」(関幸彦偏(2013)『武蔵武士団』、吉川弘文館、ISBN 9784642081030)p.123
- ↑ 角田朋彦「足利基氏発給文書に関する一考察」(駒沢大学大学院史学会編『駒澤大学史学論集(25)』、1995年、pp-41-50 、p.42
- ↑ 『足利氏の歴史 : 尊氏を生んだ世界』,栃木県立博物館,1985.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13180888 (参照 2026-08-22)。p.152
- ↑ 谷口 2026, p. 84.
- ↑ 谷口 2026, pp. 87–88.
- ↑ コトバンクHP『太平記物』、2026-08-29参照、https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98%E7%89%A9-1182235#goog_rewarded
- ↑ コトバンクHP「狭夜衣鴛鴦剱翅」、2026-08-29参照、https://kotobank.jp/word/%E7%8B%AD%E5%A4%9C%E8%A1%A3%E9%B4%9B%E9%B4%A6%E5%89%A3%E7%BF%85-2113803
- ↑ 文化デジタルライブラリーHP『作品の執筆:三人の作者たち』、2026-08-29 参照、https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc21/haikei/jidai2/ji1a.html
- ↑ Japan Digital Theatre Archives『狭夜衣鴛鴦剣翅』、2026-08-29参照、https://www.enpaku-jdta.jp/detail/00495-01-2003-02
- ↑ 早稲田大学文化資源データベース『演劇上演データベース:狭夜衣鴛鴦剣翅』2026-08-29参照、https://archive.waseda.jp/archive/detail.html?arg={%22subDB_id%22:%2237%22,%22id%22:%221136555;1%22}&lang=jp
- ↑ 文化デジタルライブラリーHP『作品の執筆:三人の作者たち』、2026-08-29 参照、https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc21/haikei/jidai2/ji1a.html
- ↑ 玉川大学出版部HP『尊氏将軍二代鑑:鳥越文蔵 監、義太夫節正本刊行会 編』2026-08-29参照、https://www.tamagawa-up.jp/book/b27574.html
- ↑ NHKアーカイブス「大河ドラマ 太平記 〈第29作〉」、2026-08-29参照、https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010380_00000
- ↑ 青空文庫「私本太平記 黒白帖 吉川英治」、2026-08-29参照、https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52433_49716.html
- ↑ WEB TRIPPER 『安部龍太郎の出発点にして、今に通じる粋の詰まった一冊/『バサラ将軍』大矢博子さんによる解説を特別掲載!』2026-08-26参照、https://webtripper.jp/n/ned46218804df
- ↑ NHKアーカイブスHP『杉本苑子』2026-08-29参照、https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250516_00000
- ↑ 講談社HP『風の群像』2026-08-29、https://www.kodansha.co.jp/titles/1000023065#publications
- ↑ 双葉社HP『足利兄弟』2026-08-29参照、https://www.futabasha.co.jp/book/97845756699780000000
- ↑ コトバンクHP「極楽征夷大将軍」2026-08-26参照、https://kotobank.jp/word/%E6%A5%B5%E6%A5%BD%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D-3132894
- ↑ 論創社HP『世尊寺殿の猫』2026-08-29、https://www.ronso.co.jp/book/b10158106.html
- ↑ NHKオンデマンドHP『太平記』、2026-08-29参照、https://www.nhk-ondemand.jp/program/P202000211900000/
- ↑ NHKアーカイブスHP『髙嶋政伸:大河ドラマ 太平記(1991)足利直義役』2026-08-29参照、https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009121677_00000
- ↑ NHKオンデマンドHP「太平記(49)最終話 尊氏の死」2026-08-29参照、https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2020107102SA000/?spg=P202000211900000
- ↑ @tosaka_ssk (2026年7月26日). “2026年07月27日12:11のツイート”. X(旧Twitter)より2026年8月29日閲覧.
- ↑ ねこねこ日本史HP「各話紹介 第1期 16-20」2026-08-29参照、https://neco-neco.jp/1-4/story.html?20
- ↑ ねこねこ日本史HP「各話紹介 第4期 122-126」2026-08-29日参照、https://neco-neco.jp/1-4/story.html?122
- ↑ “「ミュージカル『刀剣乱舞』」公式サイト:静かなる夜半の寝覚め”. 2025年12月14日閲覧。
- ↑ アニメイトタイムズHP「「ミュージカル『刀剣乱舞』 ~静かなる夜半の寝ざめ~」ゲネプロ写真公開!」、2026-08-29参照、https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1765950005
参考文献
評伝
- 亀田俊和『足利直義 下知、件のごとし』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2016年10月10日。ISBN 978-4-623-07794-6。
- 峰岸純夫『足利尊氏と直義 : 京の夢、鎌倉の夢』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2009年。
- 森茂暁『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』KADOKAWA/角川学芸出版〈角川選書〉、2015年2月24日。ISBN 978-4-04-703554-6。
主要文献
- 今江廣道『前田本『玉燭宝典』紙背文書とその研究』続群書類従完成會、2002年。ISBN 9784797107364。
- 今枝愛真『禅宗の日本史』吉川弘文館〈読み直す日本史〉、2013年。ISBN 978-4-642-06388-3。
- 石原比伊呂『足利将軍と室町幕府:時代が求めたリーダー像』戎光祥出版〈戎光祥選書ソレイユ〉、2018年。ISBN 978-4-86403-274-2。
- 岩佐美代子『風雅和歌集全註釈:上巻』笠間書院〈笠間注釈叢刊34〉、2002年。ISBN 978-4-305-30034-8。
- 岩佐美代子『風雅和歌集全註釈:中巻』笠間書院〈笠間注釈叢刊35〉、2002年。ISBN 9784305300355。
- 岩佐美代子『風雅和歌集全註釈:下巻』笠間書院〈笠間注釈叢刊36〉、2002年。ISBN 978-4-305-30036-2。
- 小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか:鎌倉将軍から戦国大名まで』KADOKAWA〈角川選書572〉、2016年。ISBN 978-4-04-703589-8。
- 鎌倉国宝館 編『足利基氏没後650年記念特別展 鎌倉公方足利基氏 新たなる東国の王とゆかりの寺社』鎌倉国宝館、2017年。 NCID BB26131333。
- 亀田俊和、杉山一弥 編『南北朝武将列伝 北朝編』戎光祥出版、2021年。ISBN 978-4-86403-381-7。
- 田中誠 編『足利直義』戎光祥出版、2021年、196-205頁。ISBN 978-4-86403-381-7。
- 亀田俊和『南北朝期室町幕府をめぐる諸問題』国立台湾大学出版中心、2022年。ISBN 978-986-350-596-9。
- 河北騰『足利尊氏:人と作品』風間書房、2005年。ISBN 9784759915068。
- 木下聡『中世武家官位の研究』吉川弘文館、2011年。ISBN 978-4-642-02904-9。
- 黒田日出男『国宝神護寺三蔵とは何か』角川学芸出版〈角川選書509〉、2012年。ISBN 978-4-04-703509-6。
- 呉座勇一『陰謀の日本中世史』KADOKAWA、2018年。ISBN 978-4-04-082122-1。
- 佐藤和彦『太平記の世界:列島の内乱史』吉川弘文館〈読み直す日本史〉、2015年。ISBN 978-4-642-06584-9。
- 佐藤和彦『論集足利尊氏』東京堂出版、1991年。ISBN 978-4490201840。
- 小川信『足利尊氏:逆賊説と実情』東京堂出版、1991年、434-471頁。
- 佐藤進一『日本の中世国家』(改版)岩波書店〈岩波文庫〉、2020年。ISBN 978-4-00-381283-9。
- 佐藤進一『南北朝の動乱』(改版)中央公論新社〈中公文庫 日本の歴史 9〉、2005年。ISBN 978-4-12-204481-4。
- 佐藤進一、網野善彦、笠松宏至『日本の中世史を見直す』平凡社〈平凡社ライブラリー〉、1999年。ISBN 4-582-76278-6。
- 清水克行『足利尊氏と関東』吉川弘文館〈人をあるく〉、2013年。ISBN 978-4-642-06772-0。
- 清水克行『室町社会の騒擾と秩序:増補版』講談社〈講談社学術文庫2736〉、2022年。ISBN 978-4-06-529725-4。
- 下野新聞社『下野国が生んだ足利氏』下野新聞社、2017年。ISBN 978-4-88286-672-5。
- 瀬野精一郎『足利直冬』吉川弘文館〈人物叢書〉、2005年。ISBN 4-642-05233-X。
- 高岸輝『室町絵巻の魔力:再生と創造の中世』吉川弘文館、2008年。ISBN 978-4-642-07906-8。
- 谷口雄太『太平記史観:日本人の歴史認識を支配した物語』KADOKAWA〈角川新書〉、2026年。ISBN 978-4-04-082432-1。
- 谷口雄太『足利将軍と御三家:吉良・石橋・渋川氏』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー559〉、2022年。ISBN 978-4-642-05959-6。
- 田辺久子『関東公方足利氏四代:基氏・氏満・満兼・持氏』吉川弘文館、2002年。ISBN 978-4-642-07789-7。
- 西山美香『武家政権と禅宗 夢窓疎石を中心に』笠間書院、2004年。ISBN 978-4-305-70266-1。
- 早島大祐『室町幕府論』講談社〈講談社学術文庫〉、2023年。ISBN 978-4-06-531934-5。
- 林屋辰三郎『内乱のなかの貴族:南北朝と「園太暦」の世界』吉川弘文館〈読み直す日本史〉、2015年。ISBN 978-4-642-06590-0。
- 深津睦夫『光厳天皇:をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年。ISBN 978-4-623-07006-0。
- 堀川貴司『詩のかたち・詩のこころ: 中世日本漢文学研究 補定版』文学通信、2023年。ISBN 978-4-86766-011-9。
- 本郷和人『ナンバー2の日本史』早川書房〈ハヤカワ新書〉、2025年。ISBN 9784153400528。
- 本郷恵子『室町将軍の権力:鎌倉幕府にはできなかった事』朝日新聞出版〈朝日文庫〉、2020年。ISBN 978-4-02-262039-2。
- 前田徹『赤松一族の中世』吉川弘文館、2025年。ISBN 978-4-642-30621-8。
- 前田雅之『和歌と権力』中央公論新社〈中公選書〉、2026年。ISBN 978-4-12-110169-3。
- 松山充宏 編『桃井直常とその一族』戎光祥出版〈中世武士選書 49〉、2023年。ISBN 978-4-86403-487-6。
- 三島暁子『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』思文閣出版、2012年。ISBN 978-4-7842-1609-3。
- 桃崎有一郎『室町の覇者足利義満:朝廷と幕府はいかに統一されたか』筑摩書房〈ちくま新書1471〉、2020年。ISBN 978-4-480-07279-5。
- 森茂暁『太平記の群像:南北朝を駆け抜けた人々』KADOKAWA〈角川ソフィア文庫〉、2013年。ISBN 978-4-04-409209-2。
- 森茂暁『南北朝の動乱』吉川弘文館〈戦争の日本史8〉、2007年。ISBN 978-4-642-06318-0。
- 森茂暁『足利尊氏』KADOKAWA〈角川選書 583〉、2017年。ISBN 978-4-04-703593-5。
- 森茂暁『南北朝時代』講談社、2026年。ISBN 978-4-06-543559-5。
- 山田徹『南北朝内乱と京都』吉川弘文館〈京都の中世史 4〉、2021年。ISBN 978-4-642-06863-5。
- 仁木宏『中世武家拠点の研究』高志書院、2025年。ISBN 978-4-86215-260-2。
- 山田邦和『室町幕府将軍御所の変遷』、129-164頁。
- 前田育徳会 編『国宝宝積経要品 : 高野山金剛三昧院奉納和歌短冊』前田育徳会、2011年3月。ISBN 978-4-585-22531-7。
- 山田邦明,水野智之, 谷口雄太 企画編集委員『東海の中世史:足利一門と動乱の中世史』 2巻、2024年。ISBN 978-4-642-06892-5。
- 山家浩樹『足利尊氏と足利直義:動乱の中の権威確立』山川出版社〈日本史リブレット〉、2018年。ISBN 978-4-634-54836-7。
- 湯本和夫『鎌倉謎とき散歩:改訂新版』廣済堂出版、1996年。ISBN 4-331-50558-8。
論文
- 江田郁夫「観応の擾乱時の尾張国守護職と足利直義 : 新出の直義御教書をめぐって」『日本歴史』第878巻、吉川弘文館、2021年、57-64頁。
- 亀田俊和「初期室町幕府体制の「滅び 」: 「三条殿」体制と将軍足利尊氏の大権行使 (特集 滅び)」『史林』105巻1号、史学研究会、2022年、101-137頁。
- 関西剛康「足利尊氏と足利直義における庭園利用に関する研究」『ランドスケープ研究』84(5)、日本造園学会、2021年、453-458頁。
- 阪田雄一「足利直義・直冬偏諱考」『國學院大學地方史研究会機関誌『史翰』』第21巻、國學院大學地方史研究会、1999年、1-15頁。
- 櫻井唯「中世東国の律院における四宗兼学」『駒澤大学佛教学部論集』第56巻、駒澤大学仏教学部研究室吉川弘文館、2025年、87-111頁。
- 森本朱音「初期室町幕府における足利直義の政治 : 裁許下知状から見える政治思想」『奈良史学』第40巻、奈良大学史学会、2023年、82-105頁。
- 山家浩樹「本所所蔵『賢俊僧正日記』暦応五年条について」『東京大学史料編纂所研究紀要』第9巻、東京大学史料編纂所、1999年、76-80頁。
- 田中誠「康永三年における室町幕府引付方改編について」立命館大学人文学会、2012年
関連項目