五条大橋

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五条大橋

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五条大橋
五条大橋(西詰より)
基本情報
国 日本
所在地 京都府京都市東山区宮川筋8丁目・東山区朱雀町・下京区下材木町・下京区西橋詰町
交差物件 鴨川
用途 道路橋
路線名 国道1号・国道8号
管理者 国土交通省近畿地方整備局京都国道事務所
着工 1957年(昭和32年)1月
竣工 1959年(昭和34年)3月2日
座標 北緯34度59分44.63秒 東経135度46分4.39秒 / 北緯34.9957306度 東経135.7678861度 / 34.9957306; 135.7678861座標: 北緯34度59分44.63秒 東経135度46分4.39秒 / 北緯34.9957306度 東経135.7678861度 / 34.9957306; 135.7678861
構造諸元
形式 3径間連続非合成鈑桁橋
上部工材料 北木石(高欄)
下部工材料 鉄筋コンクリート
全長 67.2メートル
幅 35メートル
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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五条大橋(ごじょうおおはし)は、京都府京都市を流れる一級河川の鴨川に架設された橋。五条通(国道1号・国道8号)の一部として供されている。

市内を南北に流れる鴨川は両区の区境となっており、五条大橋は西詰の下京区と東詰の東山区をつなぐ。橋上からは東山の山々を望むことができる。

歴史

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古くから、洛中から鴨川東岸への、特に清水寺参詣のための便として架橋されていた。かつては現在の松原橋の位置に架かっていた木橋で、当時の姿が描かれた屏風には鴨川の中央部には水神を祭る祠がある中州を介して二つの橋に分かれていた。

円山応挙作「五条橋大仏殿眺望図」。五条大橋と方広寺大仏殿が描かれている。

天正18年(1590年)、方広寺大仏殿(京の大仏)の造営に当たって、豊臣秀吉の命により三条大橋とともに増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された[1]。この時方広寺大仏への参詣の便を図るため、五条大橋は南へ移設された。移設前は平安京の五条大路の東の端、現在の松原橋の位置に架橋されていた。なお牛若丸と弁慶は五条大橋で出会ったとされるが、この逸話が正しいとした場合、出会った場所は現在の松原橋ということになる。旧五条大橋は撤去され、郊外へ存続されていたが1935年(昭和10年)の「鴨川洪水」の後に川底が掘り下げられたため撤去され、のちに京都国立博物館の庭に展示された[2]。

江戸時代になって鴨川河原に高瀬川が開削、1645年(正保2年)には橋脚が石造のものに変わり、高欄に青銅の擬宝珠が左右に十六本付けられた。1662年(寛文2年)の地震で橋が壊れ、橋脚は再び木造に戻った。その後も洪水・大火などで5度改築されている[1]。三条大橋が高瀬川を渡る三条小橋を伴ったのに対し、五条大橋は小橋を伴わず一気に架け渡す長大なもので、中央の反りが高く、「虹のような橋であった」と言われている[3]。

明治時代に入り、京都府の管轄となる。1878年(明治11年)には一時、木造の洋風白塗りの橋になり擬宝珠も外されたが、新聞や市民の非難により1894年(明治27年)再び元に戻された[1][3]。 1913年(大正2年)、西詰に京都市内初の公衆便所が設置された[4]。

1935年(昭和10年)6月28日深夜から29日にかけて発生した「鴨川大洪水」では、上流の団栗橋・松原橋など多くの橋と共に流失[5]。 擬宝珠は正保以来のものが2個、明治年間のものが3個残っただけであった[1]。翌30日には第十六師団の工兵隊が出動、仮橋を仮設したが8月に発生した2度目の水害で仮設橋も流失した[6]。

現在の五条大橋は往復8車線(右折レーン込み)の広い橋で、五条通の拡幅により1959年 (昭和34年) 3月に架け替えられたものである[7][8]。橋の高欄は石造となったが、擬宝珠はもとの形のものが左右に取り付けられている[1]。その中には「正保二年」(1645年)の銘が刻まれているものもある。

逸話

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尋常唱歌の『牛若丸』によれば、五条大橋は弁慶と牛若丸が出会った場所とされる。ただし異説もある。『義経記』によれば2人の出会いは清水観音の境内とされる。また、平安京の五条大路は現在の松原通に相当することから「五条の橋」は現在の松原橋付近とする説[9]や2人の出会いの地は西洞院であったとの推測もなされている[注 1]。

現在の橋の西側(河原町通との交差点近く)の中央分離帯には、その状景を模した京人形(御所人形)風の2体の石像(社団法人京都青年会議所寄贈)が設置されたが、2009年4月に始まった下水道工事[10]にともない扇塚(後述)の西側に移設された。が下水道工事の終了に伴い2012年4月に中央分離帯に再設置され、併せて噴水や時計台が設置されている[11]。

擬宝珠

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正保2年(1645年)銘の擬宝珠のうちの1つ(西2・北側)

近世の五条橋は、鴨川および高瀬川を一括して跨ぐ、約135メートルの長大な橋であった[注 2]。また、擬宝珠の数については、安永9年(1780年)刊行の『都名所図会』に「左右に十六本」との記述がみられる[12]。

ところが、明治維新を迎えて西洋化の思潮が広がった明治11年(1878年)から同27年(1894年)まで、すべての擬宝珠が一時撤去された。この間、高瀬川を跨ぐ小橋と分離されたうえ、高欄を白色に塗り、照明を備えた洋風の木造平橋となった。当時はこうした洋風橋も近代化を象徴するものとみなされたが[13]、その一方で、この洋風橋の時代に京都を行幸した明治天皇が、「擬宝珠のあった五条橋はどうなったか」と尋ねられたとの逸話が残されている[14]。折しもアーネスト・フェノロサの講演などをきっかけに、明治20年代の京都では日本の美術や美観への関心が高まり、洋風橋に対する評価も変化していった[13]。明治27年(1894年)、五条大橋は再び旧式の外観へと戻され、かつての擬宝珠が復活したが、開通式を報じた地元の日出新聞が以前の洋風橋を次のように評している。「維新の頃槇村知事が洋風心酔…ペンキ塗りの嫌らしきものとなせし」[13]。

明治44年(1911年)に鉄桁橋へ架け替えられた際、拡幅される鴨川運河の橋と分けられて、橋長はさらに短くなり約69メートルとなった[注 3]。この際、檜材による高欄の親柱・袖柱に合わせて14基(うち2基を新造)の擬宝珠が配された[15]。昭和34年(1959年)に完成した現在の五条大橋においても、同じく14基(左右に7基)の構成となっているが、昭和10年(1935年)の京都大水害で橋と共に流失し、一部の擬宝珠が大阪湾や淡路島沖で発見された以外は行方不明となった[16]。現在の擬宝珠の内訳は、正保2年の2基と明治年間の3基、昭和27年以降の8基、不明1基となっている[17][注 4]。

擬宝珠の刻銘一覧

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五条大橋 現存擬宝珠一覧
位置 刻銘内容・備考
東1 【南北共通】
五条大橋は、五条通の戰時建物疎開跡に幅五十米の道路となり、昭和二十七年国道に指定されてから京都市交通動脈の様相を帶びてきたので、ここに現代技術と美の粋を集めた長さ六十七米幅三十五米の鋼桁橋として架設された。影を鴨水に染め東山の翠に配した擬宝珠付石造高欄は、まさに王朝と現代を調和した文化観光都市の一つの象徴といえよう。疏水橋もこれにならい擬宝珠二箇を追補した。
昭和三十四年三月 京都市長 高山義三
東2 【南北共通】
昭和二十七年五月 / 補充六個之内 / 京都市 / 請負人 錺師 森本安之助 / 鋳造師 金井忠義
東3 【南北共通】
昭和二十七年五月 / 補充六個之内 / 京都市 / 請負人 錺師 森本安之助 / 鋳造師 金井忠義
中央 【北側(上流)】
昭和十年六月の洪水に流失した六個を補充鋳造する
昭和二十七年五月 / 京都市 / 請負人 / 錺師 森本安之助 / 鋳造師 金井忠義
【南側(下流)】
昭和二十七年五月 / 補充六個之内 / 京都市 / 請負人 錺師 森本安之助 / 鋳造師 金井忠義
西3 【南北共通】
明治十年改修五條橋之際除擬寳珠當本年重修復旧形偶壊二珠因新造補之云[注 5]
明治廿七年一月 / 京都府
西2 【南北共通】
雒陽五條石橋 / 正保二年乙酉十一月吉日 / 奉行 / 芦浦觀音寺 舜興 / 小川藤左衛門尉正長 / 大坂讃岐屋 / 岡田太郎左衛門道治
西1 【北側(上流)】
五條橋舊在五條大路東今松原也中古荒殘天正年中遷六條坊門名穪仍舊正保以來屡加修營明治十年撤擬寳珠改作二十七年復舊式今回造營分大小二橋補鑄擬寳珠二個完堅有加因勒其事[注 6]
明治四十四年十一月 京都府 / 京都住 / 雨宮宗七 / 金壽堂製造
【南側(下流)】
(銘なし)

年表

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特記を除き、田中緑紅『京の三名橋』に拠る。明治以前の日付は旧暦(和暦)。

  • 1139年(保延5年6月2日):清水寺供養に際し五条大橋を整備。
  • 1202年(建仁2年):建仁寺の寄進により五条橋を架設または修造。
  • 1228年(安貞2年7月20日):洪水で流出。
  • 1383年(永徳3年7月13日):洪水により落橋。
  • 1409年(応永16年):修造。
  • 1449年(文安5年5月9日):出水により墜落。
  • 1461年(寛正2年3月22日):飢饉流行のため橋上で大施餓鬼。
  • 1577年(天正5年)あるいは1579年(天正7年)7月8日:勧進により復興。
  • 1585年(天正13年7月9日):洪水にて墜落。
  • 1590年(天正18年):豊臣秀吉が六条坊門(現在の五条通)に移設架橋。
  • 1645年(正保2年11月):五条大橋改修。
  • 1662年(寛文2年5月1日):京都大地震により五条石橋崩落。以後橋脚のみ石材の橋となる。
  • 1674年(延宝2年4月11日):大洪水で流失。
  • 1676年(延宝4年5月6日):洪水で流失。
  • 1711年(正徳元年6月11日):改築渡り初め。
  • 1715年(正徳5年5月上旬):修復。
  • 1716年(正徳6年6月6日):洪水で流失。
  • 1741年(寛保元年1月):改築。
  • 1788年(天明8年1月29日):京都大火災で焼失。
  • 1846年(弘化3年7月7日):洪水で流失。
  • 1850年(嘉永3年) - 1852年(嘉永5年):大水により流失および仮橋流失が相次ぐ。
  • 1868年(慶応4年):京都府の所管となる。
  • 1869年(明治2年10月10日):三条橋と共に車輛一台につき50文を徴収。
  • 1874年(明治7年8月):一等橋梁に指定。
  • 1877年(明治10年5月8日):白色洋風橋の渡り初め。
  • 1894年(明治27年2月8日):渡り初め。
  • 1910年(明治43年3月):仮橋渡り初め。翌月京阪電車が五条橋東詰まで開通。
  • 1911年(明治44年11月28日):渡り初め。
  • 1931年(昭和6年9月末日):修理。
  • 1933年(昭和8年3月5日):旧大橋の礎石発見。
  • 1935年(昭和10年)6月28日:京都大水害で流失、7月3日に仮橋渡り初め式。
  • 1944年(昭和19年3月22日):戦時中の渡り初め。
  • 1959年(昭和34年3月2日):現在の新大橋渡り初め。

遺構

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秀吉時代の橋脚(五条児童公園)

天正18年(1590年)に豊臣秀吉の命によって架け替えられた当時の五条橋の橋脚や橋桁の石材(御影石)の一部が京都市内の複数の場所に分散して現存している。主な保存・再利用場所は以下の通り。

  • 五条児童公園(下京区): 五条大橋の西詰北側の公園敷地内に、天正年間の石柱が複数保存されている[18][19]。
  • 京都御苑(上京区): 苑内南西部にある旧九条邸の苑池に架かる「高倉橋」の橋脚として、天正年間の三条橋・五条橋の石柱が再利用されている[18][20][21]。
  • 京都国立博物館(東山区): 屋外の「西の庭」に、橋脚3本と橋桁2本を立体的に組み合わせた状態で常設展示されている[22]。昭和の河川改修の際に、河床から撤去されたもので、摂津の御影(現:神戸市東灘区)から運ばれた石材として、「津国御影天正拾七年五月吉日」と刻まれている[21][23]。
  • 平安神宮(左京区):庭園「中神苑」の蒼龍池の飛び石(臥龍橋)として、三条橋の石柱と共に再利用されている[21]。
  • 旧三井家下鴨別邸(左京区): 近年の鴨川河川整備工事の際、天正年間の五条橋脚とみられる石材が川底から出土し[24]、当別邸の庭園に搬入された。

周辺

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橋の西側には、かつてこの地にあった御影堂扇にちなんだ「扇塚」や、源融の邸宅・河原院跡の標柱が建つ。橋の東側には、地下に京阪本線の清水五条駅があるほか、同駅付近からさらに東に伸びる五条通は五条坂と呼ばれており、大谷本廟や清水寺付近へ続いている。

扇塚(五条大橋西詰)
  • 扇塚(下京区下材木町): 五条大橋の西詰北側にある石碑で、1960年(昭和35年)に建立された。設計は美学者の井島勉。
明治維新の頃まで毎年宮中に参内して京名物の扇子を献上していた時宗御影堂派本山・新善光寺「御影堂」(みえいどう)の由緒を伝えるものである[26][27]。草創は洛西嵯峨にあった檀林寺の別院・新善光寺御影堂と伝承される。建久年間、ここに入寺して扇を作っていた平敦盛の後室・清照姫(蓮華院如仏尼)が後鳥羽上皇の病気平癒を祈願して衵扇(あこめせん)を作り宮中に献上したところほどなく全快し、上皇より「久寿扇」(くずのおおぎ)の勅名を賜った。後年、宮中では御座の近くに扇を掛けるのが夏季の年中行事となった[28]。
1284年(弘安7年)に後嵯峨天皇の皇子である竹之御所(王阿上人)が御影堂の住職となって以降寺格が高まり、宮中からも特別の扱いを受けるようになった。その後、御影堂の扇は一般にも広く売られるようになり、豊臣秀吉の命により移転した河原町五条の地では、1,900坪の境内に15の坊舎を構え、いずれも法務のかたわら久寿扇を作っていた[26]。元来、尼僧の内職であった扇づくりは、江戸時代には化粧を施した女房らが数多く集まって制作に励むようになった[27]。
御影堂は幕末の兵火や明治の廃仏毀釈で衰微したのち、西賀茂から古い堂舎を移築して再建された。昭和の初期頃まで、縁日の賑わいなどで地域の人々に親しまれてきたが、戦時中の建物疎開によって取り壊され、滋賀県へ移転した(→新善光寺 (長浜市))。往時の跡地については、五条通を挟んだ南側のガソリンスタンド辺り[29]、あるいは拡幅された五条通の中ともいわれ、付近の町名にその名をとどめている(御影堂町・御影堂前町)。なお、近隣の本塩竈町(下京区富小路通五条下ル)にある浄土宗の新善光寺は来迎堂と号し、かつての御影堂とは区別されている[29]。
  • 源融 河原院跡(下京区都市町):五条大橋西詰から木屋町通を南へ下った高瀬川沿いにエノキの大木がそびえ、その根元に「源融河原院址」の石柱が建つ。河原院は、平安時代前期に六条鴨河原の西岸にあった嵯峨天皇の皇子・源融の邸宅で、付近には塩竈町や本塩竈町、塩竈山上徳寺など、河原院とゆかりのある地名や寺号が多く残る[30]。

脚注

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注釈

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  1. ↑ 鉄道ピクトリアル1984年1月増刊号「特集 京阪電気鉄道」の118ページの京都大学名誉教授宍戸圭一の寄稿に京阪開業時の起点の五条大橋の歴史に関して、牛若丸と弁慶の出会いの地について「松原橋」が昔の五条大橋・当時鴨川に橋は無く松原西洞院の「五条天神社」の森、西洞院川に架かる橋・洛北大徳寺の北方の紫竹牛若町付近の「ごじょう橋」と音読みできる橋など、諸説が有る事が書かれている。
  2. ↑ 「七十四間一尺」(『山州名跡志』元禄15年〈1702年〉)。
  3. ↑ 「二百二十八尺」(『京都坊目誌』下巻二十七)。
  4. ↑ 擬宝珠の数については、石田孝喜『京都史跡事典コンパクト版』(新人物往来社、2001年、100頁)が「十六個左右に取り付けられている」とするなど、諸書により異同がある。
  5. ↑ 【文意】明治10年(1877年)の五条橋改修の際に取り除いた擬宝珠を、本年(明治27年)の再改修にあたって元の姿に戻すこととした。その際、たまたま2個の擬宝珠が壊れていたため、新たに鋳造してこれを補った。
  6. ↑ 【文意】五条橋は、古くは五条大路、現在の松原通の東にあった。中世に荒廃し、天正年間に六条坊門(現在の五条通)へと場所を移されたが、橋の名は旧称のまま使われた。正保年間以来たびたび修復が加えられてきたが、明治10年(1877年)の改修で擬宝珠を撤去し、明治27年(1894年)に再び旧式へと復元された。今回の造営(明治44年)で、大橋と小橋のふたつに分けることになり、擬宝珠2個を新たに鋳造して補い、より完全で堅牢なものとした。よって、ここにその事績を刻む。

出典

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  1. 1 2 3 4 5 出典:石田孝喜著「京都史跡事典」(新人物往来社)
  2. ↑ 橋石材(はしせきざい)(西の庭の展示作品) - 京都国立博物館(2010年9月12日閲覧)
  3. 1 2 出典:門脇禎二・朝尾直弘共著「京の鴨川と橋 - その歴史と生活」(思文閣出版)
  4. ↑ 下川耿史『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p.384 河出書房新社 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
  5. ↑ 京都二条、五条の大橋流失『大阪毎日新聞』昭和10年6月29日号外(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p206-207 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  6. ↑ 出典:植村善博著「京都の治水と昭和大水害」(文理閣)
  7. ↑ 出典:写真集「昭和の京都」ISBN 978-4-8381-0427-7 光村推古書院刊 巻末年表より
  8. ↑ 出典:『京阪電鉄、叡山電鉄、京福電鉄(嵐電) 1世紀の写真記録』ISBN 978-4-86598-826-0 アルファベータブックス 60頁の写真より、産経新聞社提供との事。
  9. ↑ 五条大橋
  10. ↑ 京都市上下水道局2009年11月20日広報資料
  11. ↑ 京都新聞2012年4月19日朝刊・京都市地域版19面掲載記事
  12. ↑ 田中緑紅 2019, p. 28.
  13. 1 2 3 京都市文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課 編『明治の橋:近代橋梁の黎明』京都市文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課発行〈京都市文化財ブックス第32集〉、2018年、16-17頁。
  14. ↑ 田中緑紅 2019, pp. 8–9.
  15. ↑ 田中緑紅 2019, pp. 22-23、36.
  16. ↑ 田中緑紅 2019, pp. 10–11.
  17. ↑ 国土交通省 京都国道事務所 (2026年1月5日). “管内土木遺産案内④ 五条大橋その1 擬宝珠”. X (旧Twitter). 2026年8月13日閲覧。
  18. 1 2 “年報 京都の景観まちづくり 平成25年度”. 公益財団法人 京都景観まちづくり協会. p. 8 (2014年3月). 2026年8月9日閲覧。
  19. ↑ 京都国立博物館 [@KyotoNatMuseum] (2024年12月15日). “【#京博周辺さんぽ】#五条大橋 豊臣秀吉によって現在の位置に移されて以降、幾度もの改築を経て現在の姿に…。五条大橋北西の五条公園では、京博の屋外展示と同様、秀吉が造らせた橋脚があり、「津国御影天正拾七年五月吉日」銘が間近で確認できます。”. X(旧Twitter)より2026年7月30日閲覧.
  20. ↑ “日本の近代土木遺産(現存する重要な土木構造物)京都府”. 公益社団法人 土木学会 土木史研究委員会. 2026年7月30日閲覧。
  21. 1 2 3 竹内正浩『京都の近現代を歩く』実業之日本社、2025年、65、67頁。
  22. ↑ “五条大橋 橋脚 桁”. 京都国立博物館 館蔵品データベース. 京都国立博物館. 2026年7月30日閲覧。
  23. ↑ “西の庭”. 屋外展示. 京都国立博物館. 2026年8月11日閲覧。
  24. 1 2 “鴨川河川工事で発見された遺物の移設について” (PDF). 京都府. 2026年7月30日閲覧。
  25. ↑ “京都府庁旧本館案内図” (PDF). 京都府. 2026年7月30日閲覧。
  26. 1 2 田中緑紅 2019, pp. 45–47.
  27. 1 2 石田孝喜『京都史跡事典コンパクト版』新人物往来社、2001年、150-151頁。
  28. ↑ 田中緑紅 2019, p. 46.
  29. 1 2 田中緑紅 2019, p. 48.
  30. ↑ 石田孝喜『京都史跡事典コンパクト版』新人物往来社、2001年、236-237頁。

参考文献

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  • 田中緑紅『京の三名橋 下:五条大橋』(復刻版)、三人社〈緑紅叢書 49〉、2019年。 

外部リンク

[編集]

座標: 北緯34度59分44.63秒 東経135度46分4.39秒