那珂氏
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| 那珂氏 | |
|---|---|
|
一文字に二つ巴(大中臣姓) | |
| 本姓 | 大中臣氏、または藤原北家秀郷流 |
| 家祖 |
那珂実久(大中臣姓) 那珂通直 / 通資(秀郷流) |
| 種別 | 武家・御家人・士族 |
| 出身地 | 常陸国那珂郡 |
| 主な根拠地 |
那珂西城(大中臣姓) 那賀城(秀郷流) |
| 著名な人物 |
那珂実久 那珂通辰 江戸通泰 |
| 支流、分家 |
金山氏(大中臣姓) 桐村氏(大中臣姓) 常陸江戸氏 戸村氏 石川氏(秀郷流) |
| 凡例 / Category:日本の氏族 | |
那珂氏(なかし)は、日本の武家・氏族。常陸国那珂郡(現在の茨城県那珂市、常陸大宮市、東茨城郡城里町一帯)を本拠とした。 歴史上、常陸国那珂郡を拠点とした那珂氏には主に以下の2系統が存在する。
大中臣姓那珂氏(中郡氏流)
起源と鎌倉幕府での栄隆
大中臣姓那珂氏は、古代常陸国新治郡が東郡・中郡・西郡に三分された際の中郡庄(のちの那珂郡、現在の東茨城郡城里町付近)を本拠とした中郡氏と同流とされる[1]。京都府福知山市の旧家・桐村家に伝来した国宝(福知山市指定文化財)『大中臣氏略系図』(延慶2年〈1309年〉成立)によると、大中臣実経の子である那珂実久(上総中三左衛門尉)が、源頼朝の挙兵に従って御家人となり、常陸国那珂東郡・西郡などを与えられたことに始まる[2][1]。 実久は頼朝の信任が厚く、正治元年(1199年)正月上旬から承元3年(1209年)頃まで初代の鎌倉幕府京都守護を務め、山城国・丹波国・摂津国の守護を兼ねるなど幕府初期の重鎮として栄えた[3][4]。常陸においては那珂西城(現在の城里町那珂西)を本城とし、青山・石塚(佐久山)・高久などを地頭として一族に分封した[1]。
得宗専制と丹波下向
承久の乱前後から鎌倉中期にかけて、執権北条氏(得宗家)が常陸国内へ急速に進出し、守護権や要地を掌握するようになると、那珂氏の勢力は圧迫を受け、那珂東郡・西郡の惣地頭職など本領の大半を失陥した[5]。 延慶2年(1309年)、那珂氏の総領であった那珂中三左衛門尉宗久(実久の曾孫)は、一族の系譜と所領注文を集成した『大中臣氏略系図』を作成・上書した[6]。その後、宗久の甥にあたる経久(実父は経政)らは丹波国天田郡金山郷(現在の福知山市)へ下向し、在名を冠して金山氏を称した[1][6]。金山氏およびその庶流である桐村氏は、室町・戦国期を通じて丹波の有力国人として活動し、足利将軍家や管領細川氏、三好三人衆などに仕えた[6]。なお、桐村家に伝来する絹本幡(愚中周及筆)には上部に那珂氏・桐村氏の家紋である「一文字に二つ巴」が紺地に染め抜かれている[6]。
藤原秀郷流那珂氏
成立と展開
藤原秀郷流の那珂氏は、平安時代末期に秀郷の後裔である太田太夫公通(常陸太田郷を拠点とした常陸藤原氏の祖)の子・通直が那珂郡川辺郷野口(現在の常陸大宮市野口)に築城し、その子・通資が那賀郷(現在の常陸大宮市那賀)に移って「那珂氏」を称したことに始まると伝えられる[7]。 同族には北常陸の豪族である小野崎氏があり、分流として戸村氏(戸村能通)や福原氏などが分立した[8][9]。ただし、中世の系図集『尊卑分脈』には公通や通直の名は見られず、在地の古代豪族(仲国造や久自国造、長幡部氏など)の後裔が後世に秀郷流を冒したとする説もある[10]。
南北朝時代の動乱と壊滅
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、那珂郡一帯に勢力を張っていた当主が那珂下総守通辰(彦五郎)である[7]。 元弘の乱を経て建武の新政が始まると、後醍醐天皇方として重用された楠木正成の代官である楠木正家が常陸国司・守護として東国へ下向した[11]。通辰は一族の川野辺氏らとともに南朝方(宮方)に属し、楠木正家を迎え入れて瓜連城(現在の那珂市瓜連)を築城・支援した[7]。建武2年(1335年)、足利尊氏が建武政権から離反すると、常陸国内は北朝方の守護・佐竹貞義・義篤父子と、南朝方の楠木正家・那珂通辰・大掾高幹・小田治久らの間で激しい争乱となった(瓜連城の戦い)[8]。 建武2年12月、通辰らは三箇原(みかのはら)の戦いで佐竹貞義の軍勢を破るなどの戦果を挙げたが、建武3年/延元元年(1336年)、足利方の援軍を得た佐竹氏の猛反攻に遭い、瓜連城は落城した[7]。通辰は佐竹貞義が籠城する西金砂城への攻撃を試みたものの敗退し、主従とともに久慈郡増井郷(現在の常陸太田市増井町)の勝楽寺境内(一本松の峰)に退いたが、佐竹軍に包囲されて自刃した[12][7]。現在、勝楽寺跡(正宗寺裏山)には「那珂通辰の墓」(五輪塔)が残されており、常陸太田市の指定文化財となっている[13]。
常陸江戸氏への改姓と後裔
通辰の自刃によって秀郷流那珂氏の宗家は壊滅的打撃を受けたが、生き残った子(または弟)の那珂通泰は足利尊氏に降って北朝方・佐竹氏の麾下に転じた[7]。観応年間、通泰は軍功によって那珂郡下江戸(現在の那珂市下江戸)を領有して築城し、在名から「江戸氏(常陸江戸氏)」を名乗るようになった[8][7]。 江戸氏はその後、通景の代に那珂川対岸の河和田城(現在の水戸市河和田町)へ進出し、応永33年(1426年)には江戸通房が馬場大掾満幹の不在を突いて水戸城を占拠した[7]。以後、戦国時代末期に佐竹義宣によって追われるまで、江戸氏は水戸地方の領主(中妻三十三郷から水戸城下、南郡一帯)として繁栄した[7]。 一方、通辰の長男・盛通(四郎、常泰)も父に従って増井で自刃したが、その幼子であった千代太郎光通は助命され、母方の姓を冒して「石川氏」を名乗った[14]。石川氏は旧本拠である那賀(旧緒川村)に留まり、那賀鹿島神社の宮司家や郷士として家系を後世に伝えた[14]。
本拠地・居城をめぐる研究史
近世の水戸藩領内で編纂された郷土史料(豊田天功『常州義軍考』や栗田寛補筆『新編常陸国誌』など)では、南北朝時代の南朝方の武将である那珂通辰の居城を「那珂西城」(現在の東茨城郡城里町那珂西)とする見解が定着していた[15]。 しかし近代以降、網野善彦らによる『大中臣氏略系図』の発見・分析および吉田一徳『常陸南北朝史研究』などの研究が進展した結果、以下の事実が明らかとなり、現在では居城の比定が見直されている[15][5]。
- 那珂西城が所在する中郡庄(那珂西郡)は、鎌倉幕府御家人の大中臣姓那珂氏(那珂実久・時久流)の支配領域であり、那珂西城は大中臣那珂氏の本拠であった。
- 藤原秀郷流那珂氏(通直・通資・通辰)の居城は、那珂川上流の那賀城(那珂城/旧緒川村那賀、現常陸大宮市那賀)および野口城であった可能性が極めて高い。
このため、現代の自治体史(『常北町史』『那珂町史』『桂村史』など)では、那珂西城は大中臣姓那珂氏の城館であり、南朝方として戦った藤原姓の那珂通辰の居城は那賀城とする説が有力とされている[15][5]。
その他の那珂氏
系図
大中臣姓那珂氏
藤原秀郷流那珂氏・江戸氏
脚注
出典
- 1 2 3 4 5 茂木和平『埼玉苗字辞典』第5巻、中郡項。
- 1 2 網野善彦「桐村家所蔵『大中臣氏略系図』について」『茨城県史研究』第48号、茨城県史編さん中世史部会、1982年。
- ↑ “茨城歴史事典 茨城県年表3”. 茨城県立歴史館. 2026年10月12日閲覧。
- ↑ “那珂実久”. JLogos(角川日本地名大辞典). 2026年10月12日閲覧。
- 1 2 3 桂村史編さん委員会編『桂村史 通史編』桂村、2004年。
- 1 2 3 4 “大中臣氏略系図”. 福知山市. 2026年10月12日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 水戸市史編さん委員会編『水戸市史 中巻(一)』水戸市、1968年、435-440頁。
- 1 2 3 4 水戸市文化交流課『地域歴史散歩 歴史選択資料(那珂・江戸氏)』2024年。
- ↑ 茂木和平『埼玉苗字辞典』第5巻、那珂項。
- ↑ 那珂町史編さん委員会編『那珂町史 中世・近世編』那珂町、1995年、88-92頁。
- ↑ 峰岸純夫・齋藤慎一編『関東の名城を歩く 北関東編』吉川弘文館、2011年、144-146頁。
- ↑ “那珂通辰”. 常陸太田市観光物産協会. 2026年10月12日閲覧。
- ↑ “指定・登録文化財一覧”. 常陸太田市. 2026年10月12日閲覧。
- 1 2 3 茂木和平『埼玉苗字辞典』第5巻、石川(三十九)項。
- 1 2 3 吉田一徳『常陸南北朝史研究』茨城新聞社、1980年、112-118頁。
- ↑ 茂木和平『埼玉苗字辞典』第5巻、布施(十三・十四)項。
参考文献
- 水戸市史編さん委員会編『水戸市史 中巻(一)』水戸市、1968年。
- 桂村史編さん委員会編『桂村史 通史編』桂村、2004年。
- 常北町史編さん委員会編『常北町史』常北町、1988年。
- 那珂町史編さん委員会編『那珂町史 中世・近世編』那珂町、1995年。
- 茂木和平『埼玉苗字辞典』第5巻、埼玉苗字辞典刊行会、2004年-2008年。
- 網野善彦「桐村家所蔵『大中臣氏略系図』について」『茨城県史研究』第48号、茨城県史編さん中世史部会、1982年。
- 吉田一徳『常陸南北朝史研究』茨城新聞社、1980年。
- 峰岸純夫・齋藤慎一 編『関東の名城を歩く 北関東編』吉川弘文館、2011年。