肉筆画で描写された白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃)
時代祭での扮装

静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性白拍子。母は白拍子の磯禅師。源義経の妾。

生涯

『吾妻鏡』によれば、源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。吉野で義経と別れ京へ戻った。しかし途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。

同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、

と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。

この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺すように」と命じる[注 3]。閏7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。

9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明。

吾妻鏡における静御前

以下、『吾妻鏡』に静が登場する箇所の現代語訳。

伝説

静に関して史料による記録が見られるのは、上記の『吾妻鏡』のみであり、同時代の都の貴族の日記などで静に関する記録は一切見られない。『吾妻鏡』は時の権力者で源氏から政権を奪った北条氏による編纂書であり、静の舞の場面は源氏政権の否定、北条氏(政子)礼賛という北条氏の立場に拠ったものである事から、北条氏の政治的立場による曲筆との見方もある(『吾妻鏡#吾妻鏡の曲筆と顕彰』参照)。また、史実から確認できる静以外の義経の妻妾は河越重頼の娘(正室・郷御前)と源氏の敵である平時忠の娘(蕨姫)しかいないが、北条氏と政治的に対立した比企氏の存在を否定的に描く『吾妻鏡』では、比企氏の外孫である重頼娘の存在感を消すための曲筆の手段として静御前の存在を利用したとする見方もある(『吾妻鏡』において義経の正室である重頼娘の記事は3か所のみである)[1]。その他のエピソードは、鎌倉時代に成立した軍記物語である『平家物語』「土佐房被斬」章段の一部と、室町時代初期に書かれた『義経記』の創作によるものである。

『義経記』によると、日照りが続いたので、後白河法皇は神泉苑の池で100人の僧に読経させたが効験がなかったので、100人の容顔美麗な白拍子に舞わせ雨を祈らせた。99人まで効験がなかったが、静が舞うとたちまち黒雲が現れ、3日間雨が降り続いた。静は法皇から「日本一」の宣旨を賜った。また法皇は、静を見て「カノ者ハ神ノ子カ?」と感嘆したと言う。その後、住吉での雨乞いの時に、静を見初めた義経が召して妾にしたという。

地方伝承

京丹後市(京都府)における伝承

静御前生誕の地石碑(京都府京丹後市)

静は、京都府京丹後市網野町磯地区で禅師の娘として誕生したとされ、記念碑が立っている[2]。近くには静神社がある[2] [3]。様々な遺品や義経から静御前宛の恋文などが伝世していたが1782年の火災で消失したと言われている。

宇都宮市(栃木県)における伝承

現在の鏡ヶ池:栃木県宇都宮市馬場通り2-3-12 MEGAドン・キホーテ ラパーク宇都宮店屋上

静御前が奥州の源義経のもとへ向かう途中立ち寄ったとされる宇都宮七名水の一つ「亀井の水」(宇都宮市下河原町)は、お供の亀井六郎が槍で地面を突いた際に湧き出た水で、静御前の喉の渇きを潤したと伝わっている[4]。

宇都宮市教育委員会発行の「宇都宮の旧跡」(1989年発行)、同じく宇都宮市教育委員会発行の「宇都宮の民話」(1983年発行)によると、宇都宮二荒山神社の下之宮西側に鏡ヶ池という大きな池があり、そこから発見された鏡は義経の無事を祈願するために立ち寄った宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で、参拝前に手を清めた際に落とした鏡とされ、その鏡は宇都宮大明神に奉納されたとされている[5]。

宇都宮大明神を後に日光道(現・清住町通り/旧日光街道)を北上すると戸祭村柿木の地名の由来になった柿の木[6]と井戸(現在の御前井戸)があり、そこで少休し、さらに日光道(現・日光街道)を北上すると現在の宇都宮市野沢町には御前桜・静さくらが現在まで伝わっており(現存する桜は12代目[7])、奥州へ向かう途中、源義経が衣川で討死したとの報をこの地で聞いたとされ、静御前が源義経より贈られ大切にしていた桜の杖を地にさしたところ芽が吹き後の世まで伝わったとされている[8]。静桜のすぐ近くには亀井六郎の墓と伝わる墓がある[9]。

義経終焉の地とされる衣川、静御前の墓と伝わる埼玉県久喜市栗橋の「静女の墳」にはしずか桜が植えられている。これは栃木県宇都宮市野沢の御前桜、しずか桜が原木で、この原木より接ぎ木して現代に伝わったものである[10]。

終焉の地について

静の死については諸々の伝承があるが、はっきりしたものはない。自殺説(姫川(北海道乙部町)への投身、由比ヶ浜への入水など)や旅先での客死説(逃亡した義経を追ったものの、うら若き身ひとつでの移動の無理がたたったというもの。静終焉の地については諸説ある)など列挙すればきりがないが、いずれにせよまだ若年のうちに逝去したとする説が多い。

・山口県山口市に伝説静御前墓所が存在する。

関連作品

能
舞踊
映画
テレビドラマ
楽曲
書籍/漫画
ゲーム

脚注

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注釈

  1. ↑ 自分の名前「静」を「倭文(しず)」とかけつつ、頼朝の世である「今」を義経が運栄えていた「昔」に変えることができれば、と歌っている。『伊勢物語』32段「古(いにしえ)のしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな」を本歌とする。
  2. ↑ 吉野山は静と義経が別れた場所。『古今和歌集』の冬歌、壬生忠岑による「み吉野の山の白雪踏み分けて入りにし人のおとづれもせぬ」を本歌とする。(二首とも現代語訳は河出書房『義経記』(高木卓訳)より)
  3. ↑ 当時は御家人と白拍子の間の子は、男子であれば父の下で武士として育てられ、女子であれば母の下で白拍子として育てられた。女子であれば白拍子である静の子で、頼朝には関わり合いのない者であるが、男子であれば謀反人である義経の子であるので、将来の禍根を絶つために殺害しようとしたと考えられる(細川涼一「白拍子の実相」(初出:『観世』2006年8月号(檜書店)/所収:細川『日本中世の社会と寺社』(思文閣出版、2013年3月) ISBN 978-4-7842-1670-3)。

出典

  1. ↑ 細川涼一「河越重頼の娘」(初出:『京都橘大学女性歴史文化研究所紀要』16号(2008年3月)/所収:細川『日本中世の社会と寺社』(思文閣出版、2013年3月) ISBN 978-4-7842-1670-3
  2. 1 2 “漁村・漁港の紹介 京丹後市網野町磯”. 京都府. 2020年11月1日閲覧。
  3. ↑ “静神社”. 京丹後市観光公社. 2020年11月1日閲覧。
  4. ↑ 宇都宮商工会議所会報 特集・なるほど宇都宮 第48回亀井の水~中世 (PDF) 2021年7月27日閲覧。
  5. ↑ 宇都宮の歴史と文化財「宇都宮にまつわる民話 鏡ヶ池」 宇都宮市教育委員会(宇都宮市歴史文化資源活用 推進協議会)2021年7月27日閲覧。
  6. ↑ 戸祭地域データブック (PDF) (宇都宮市立図書館)
  7. ↑ 公益財団法人日本花の会「桜図鑑・静桜」2021年7月27日閲覧。
  8. ↑ 宇都宮の歴史と文化財「宇都宮の旧跡(18)銘木名水」P63 宇都宮市教育委員会(宇都宮市歴史文化資源活用 推進協議会) (PDF) 2021年7月27日閲覧。
  9. ↑ 宇都宮の歴史と文化財「宇都宮の旧跡(15)先人の墓所を訪ねて」P52・亀井六郎の墓 宇都宮市教育委員会(宇都宮市歴史文化資源活用 推進協議会) (PDF) 2021年7月27日閲覧。
  10. 1 2 3 4 “「静御前」から紐解く久喜市栗橋の歴史”. フジハウジング. 2020年11月1日閲覧。
  11. 1 2 3 白井哲哉「名所化する遺跡:静御前墓所伝承地の200年」『日文研叢書』43巻(共同研究報告書No.89)、国際日本文化研究センター、2009年。
  12. ↑ “源義経や静御前が練り歩き 久喜・栗橋地域で静御前まつり、地域の若者や小学生らが時代絵巻パレード”. 埼玉新聞. (2018年10月22日) 2020年11月1日閲覧。
  13. ↑ 福島民報新聞 2005年10月17日付記事 鶴岡八幡宮(鎌倉)に桜植樹
  14. ↑ 岩手県川井村郷土史・郷土史事典「香川県」より

関連項目

外部リンク

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