アゾ
| アゾ აზო | |
|---|---|
| イベリアの支配者[1][2] | |
| 次代 | パルナヴァズ1世 |
| 死亡 | カジ族の都市フリ(アルタアニ近郊)[6] |
| 父親 | 諸説あり。アリアン=カルトリ王[7]もしくはヤレドス(異表記: ヤレディ)[8] |

アゾ(ジョージア語: აზო、ジョージア語ラテン翻字: Azo)は、中世ジョージアの歴史文献に登場する伝説上の人物である[9]。別表記にアゾィ(ジョージア語: აზოჲ、ジョージア語ラテン翻字: Azoy)およびアゾン(ジョージア語: აზონი、ジョージア語ラテン翻字: Azoni)がある。
年代記『カルトリの改宗』によると、アゾはアリアン=カルトリの王の子とされ、アレクサンドロス3世によってムツヘタの支配を委ねられたと伝えられる。同書に続く王統記録は、アゾをムツヘタで最初に王位に就いた人物(イベリア王国の初代王)として位置づけている。年代記本文によれば、アゾは父の国から18の「家」(一族)[注釈 1]を連れて来て、ムツヘタとその周辺に住まわせたと伝えられる[7]。
一方、『カルトリス・ツホヴレバ』所収の『カルトヴェリ人の王たちの生涯』では、アゾはマケドニア人として描かれ、カルトヴェリ人の敵として描かれている。マケドニア王アレクサンドロス3世はアゾをムツヘタの支配者に任命したとされる。その後、パルナヴァズとエグリシのエリスタヴィであるクジに率いられたカルトヴェリ人たちがアゾに反乱を起こした。反乱勢力はアゾの支配を覆し、イベリア王国を建国して、パルナヴァズを初代王に据えたと伝えられる[11]。アゾに関連する伝承では、ミトリダテス(ジョージア語: მითრიდატე)、ミフルダト(ジョージア語: მიჰრდატ)、ミトラネ(ジョージア語: მიტრანე)などの名も伝えられている[12]。
歴史

ヘレニズム時代、小アジア東部のポントス、アルメニア、カッパドキアの各王国では、支配王朝が自らの系譜をアケメネス朝期のペルシアの王家や総督の家系に結び付けていた[13]。イベリアに関する伝承にも、アケメネス朝最後の王ダレイオス3世のサトラップであったミトリダテスが登場する[14]。この伝承では、アレクサンドロス3世が、ネブカドネザル2世によって連行されたイベリア人捕虜たちの上にミトリダテスを据えたとされる[14]。古代アルメニアの歴史家モヴセス・ホレナツィもこの伝承を『アルメニア史』に記録している[14]。ホレナツィに帰される『アルメニア史』には、ダレイオスのサトラップであった「ミトリダテス」[注釈 2]を祖先とする人物についての伝承が記されている[15]。
アレクサンドロス3世がカルトリの支配者を任命したという伝説は、中世ジョージア語史料にも見られる。『カルトリの改宗』の年代記によれば、アレクサンドロス3世がカルトリを征服した際、アリアン=カルトリ王の子アゾをカルトリの支配者に任じたという。ただし、アレクサンドロス3世がカルトリを征服したという年代記の伝承を、そのまま史実とみなすことはできない。キリル・トゥマノフは、アレクサンドロス3世によるイベリア侵入の伝承を、紀元前323年のイベリア近辺への遠征の記憶と関連付けている[16]。アゾは故郷のアリアン=カルトリに赴き、そこから多数の「家」(氏族集団)と偶像のガツィとガイムを連れて来たとされる[17]。また、聖ニノ伝では、ジョージア人がアリアン=カルトリから移住した人々の子孫であるとも述べている[18]。
『カルトリの改宗』では、カルトリをキリスト教に改宗させた聖ニノも、古い偶像について言及している。ニノは、アルマズ山に置かれていた偶像について、ガツィとガイムを「あなたがたの父祖は、アリアン=カルトリから来たこれらを神としていた」と語っている[19]。また、ミリアン王はニノに対し、ガツィとガイムを「われらの父祖たちの古い神々」と呼んでいる[20]。これらの記述からは、カルトリの住民が、アゾとともにアリアン=カルトリから来た人々を自らの祖先、すなわち「父祖」とみなしていたことがうかがえる。したがって、『カルトリの改宗』の伝承では、支配者だけでなく、ジョージア人、より厳密にはカルトヴェリ人全体が、アレクサンドロス3世の時代にアリアン=カルトリから移住して来た人々の子孫とされている。
「アリアン=カルトリ」が何を指すのかについては、多くの研究者が検討してきたが、結論は出ていない[21][22]。ジョージアの歴史家モセ・ジャナシヴィリは、「アリアン=カルトリ」を、アレクサンドロス3世の遠征を題材とする『アレクサンドロス・ロマンス』に登場する「アリアナ」と関連付けた[23]。シモン・ジャナシアは、この名称を「フルリ人」の名称と結び付けようとした。ただし、当時はその名称が「フリ」ではなく「ハリ」と誤読されていたという[24]。エクヴティメ・タカイシヴィリは、この名称が、ジョージア語史料で「洞窟の宝物」と呼ばれる著作から取り込まれたものと考えた[25]。これに対し、ギオルギ・メリキシヴィリは、「アリアン」を「ペルシアの」または「アーリアの」という意味に解し、アケメネス朝ペルシアの支配下にあった南部ジョージアの地域についての記憶が、この名称に残された可能性を指摘した[21]。メリキシヴィリによれば、これらの地域の住民は、東ジョージアの国家形成に積極的な役割を果たしたと考えられる[21]。ほかにも諸説がある[26]。

モヴセス・ホレナツィに帰される『アルメニア史』には、ネブカドネザル2世がイベリア人の一部を連れ去ってポントス海の右岸に定住させ、その捕虜たちの上にアレクサンドロス3世がミトリダテスを据えたという伝承が記されている[14]。これらの相違は、ホレナツィの典拠が『カルトリの改宗』の現存本文とは異なる伝承形態を反映している可能性を示している。
しかし、モヴセス・ホレナツィの著作には、現在まで伝わる『カルトリの改宗』の本文と異なる点が二つある。
- モヴセス・ホレナツィの、より古風な性格を持つ記述では、ジョージア人の移住はアレクサンドロス3世の時代ではなく、ネブカドネザル2世の時代に起きたとされる。現存する『カルトリの改宗』の本文は、移住をアレクサンドロス3世の時代に置いている[14][7]。
- モヴセス・ホレナツィによれば、アレクサンドロス3世がイベリアに任命した支配者の名は、現存する『カルトリの改宗』の本文が伝えるアゾィではなく、ミフルダトであった[27]。
この相違は、モヴセス・ホレナツィの典拠が、現存する『カルトリの改宗』とは異なる伝承を伝えていた可能性を示している。ただし、両者の関係や典拠の性格を確定することはできない。
ジョージアの初期の歴史叙述には、移住をネブカドネザル2世の時代に置く伝承と、アレクサンドロス3世の時代に置く伝承があった。たとえば、イカルトのアルセンの著作[注釈 3]には、アゾがアリアン=カルトリからジョージア人を連れて来るより前に、カルトリには「カルデア人の子孫」が居住していたと記されている。『カルトリの改宗』の年代記にも同様の記述があり、カルトリの地には「カルデア人によって追放された戦う民、フン族」が定住したとされる。イカルトのアルセンの本文と、現存する『カルトリの改宗』の本文では、この出来事はアゾの移住より前ではあるものの、アレクサンドロス3世の時代に起きたとされている。一方、11世紀の歴史家レオンティ・ムロヴェリは同じ伝承を述べた別系統の史料を伝えており、この出来事をネブカドネザル2世の時代に置いている[29][30][27]。
アレクサンドロス3世の時代に任命されたとされるイベリアの支配者についても、異なる伝承が存在した。ここで扱った史料には三つの伝承が記されている。第一は『カルトリの改宗』の年代記とイカルトのアルセンの伝承であり、アブヤタルの年代記もこれと同系統であったとみられる。第二はレオンティ・ムロヴェリの伝承であり、第三はモヴセス・ホレナツィの典拠に見られる伝承である。
支配者の名前も伝承によって異なる。アゾィのほか、アゾヴェ(აზოვე、*აზუე)、アゾヴェン(აზოვენ、*აზუენ)、アゾエル(აზოელ)、アゾン(აზონ)などの異形が伝わっている。また、ホレナツィの伝承ではミフルダトという名前が用いられている[31]。
アゾの出自
『カルトリの改宗』と『カルトリの生涯』は、アゾの出自だけでなく、その地位や行動についても異なる伝承を伝えている。
アゾの活動年代は、紀元前4世紀末から紀元前3世紀初頭にかけてとされる。『カルトリの改宗』では、アゾはアリアン=カルトリの王の子とされている。この時代、ギリシャ人はインドへ向かう南コーカサス横断の河川交通路を利用しようとしていた。トラキアおよびマケドニアの王リュシマコスは、コルキス沿岸のギリシア人ポリス(都市国家)が、コルキスのスケプトゥコス(地方支配者)たちと争う際に支援した。これによってリュシマコスは交通路の入口を掌握した。その後、リュシマコスは、海に面したクラルジェティを領有するアゾを支援し、ムツヘタとカルトリ全域の支配者に据えた。この結果、ムツクヴァリ川流域の大部分がマケドニア勢力の影響下に入ったと考えられている。パルナヴァズ1世やムツヘタの貴族たちは、シリアを支配したセレウコス1世と同盟を結んだ。セレウコス1世もこの交通路の掌握を目指していたとされる。この交通路は、ヨーロッパに向かう香辛料交易の重要な経路であった[11][32][33]。
こうした情勢のもとで、パルナヴァズ1世はアゾと対立した。伝承によれば、パルナヴァズ1世はアゾとの戦いに勝利し、アゾは戦闘で命を落とした。アゾの子孫とされるバガダティ(バグラト)を、後世のバグラティオニ朝の祖先とみなす説もある[34][9]。
以下に、各史料に見られるアゾの出自や統治者としての位置づけを示す。
アレクサンドロスはカルトリ全土を征服し、カルトリにいた混成の諸民族をことごとく殺し、異邦の諸民族も殺して捕虜とし、女性と十五歳未満の物事を知らない子どもたち〔も捕虜とし〕、カルトロスの子孫は残し、彼らの上に、ヤレドスの子で、彼〔アレクサンドロス〕の親族であり、マケドニアの地の出身であるアゾンという名のパトリキオスを置き、フロタトスと呼ばれるローマの地から十万人を与えた。これらのフロタトス人は力強く勇敢な人々で、ローマの地を攻めていた。彼らをカルトリへ連れて来て、パトリキオスのアゾンに与えた。そして、アゾンをカルトリのエリスタヴィとして残し、彼とともにその軍勢もカルトリの支配者として残した。アレクサンドロスはアゾンに、〔人々が〕太陽と月、五つの星を敬い、万物の創造主である目に見えない神に仕えるよう命じた。当時、真の法を教え、戒める預言者も教師もいなかったため、むしろアレクサンドロス自身がこの法を考案し、その治世中に全土にこの法を定めたのである。そして、アレクサンドロスは去って行った。
ところが、このアゾンはムツヘタの町の城壁を基礎もろとも破壊したが、カルトリの前面に位置していた四つの砦を残し、その内訳は、主砦、すなわちアルマジ、アルマジの突端にある砦、ムツヘタの高所にある砦、そしてムツヘタの西側、ムツクヴァリ川沿いにある第四の砦であった。そして、これらを堅固にし、軍勢で満たした。そして、カルトリのすべての都市の城壁を破壊し、ヘレティおよびベルドゥジ川からスペリの海に至るまで、カルトリのすべての境界を掌握した。そして、カルトリに加えてエグリシも征服し、オセット人、レキ人、ハザール人を貢納民とした。
- ヴァフシティ・バグラティオニ - アゾをマケドニア人の支配者ヤレディの子として描いている[4]。
ところが、このアゾンは血に飢え、嫉妬深い男であり、ジョージア人の中に体格の立派な者が現れると、その者を殺し、自分の軍勢に対しても同じようにした。このため、アゾンのせいでジョージアには大きな苦難があった。しかし、マケドニア人アレクサンドロスが死に、その諸将がこれらの土地を分割したとき、アゾンはアレクサンドロスの法を捨て、大きな偶像、すなわち金のガツィと銀のガイムを造り、小アジアの王に仕えていた。このアゾンの時代に、ジョージア人は自分たちの子どもを偶像への犠牲として捧げ始めたが、アゾンは、自分自身もまた殺していたため、それを止めなかった。
- テイムラズ・バトニシヴィリ - アゾをアレクサンドロス3世の将軍の一人であるアリアネスの子として描いている[35]。
カルトリの対外情勢
ジョージアの年代記は、パルナヴァズ1世以前のカルトリを、ムツヘタのママサフリシが統治していた地域として描いている。キリル・トゥマノフは、この伝承を初期イベリアの王権成立を検討する際の手掛かりとしている[36]。カルトリは他の地域と同様、ママサフリシによって統治されていた。ママサフリシ職は、地域を統治する世襲の権利であった。カルトリでは、ムツヘタのママサフリシが統治を担っていた。現在知られているムツヘタのママサフリシは二人だけである。一人はムツヘタのママサフリシ制を創始したムツヘトスであり、もう一人は最後のママサフリシであるサマラである。サマラはパルナヴァズ1世の叔父であり、アレクサンドロス3世の軍勢との戦力差の大きい戦闘で殺された[9]。
ママサフリシ制の時代には国家としての構想がなかったため、カルトリはしばしば近隣帝国の単なる植民地となった。この時代には行政区分もエリスタヴィ領もなく、人々はただ一人の人物に服属していた。「イベリア」という名称がカルトリで現れるのも、王朝成立後のことである。カルトリには国家の公用語という概念も国教もなく、人々は多神教を信仰していた。そのため、自然発生的に形成されたカルトリは、国家としての構想を持つ国々に容易に支配された[36]。
ハザール、ペルシアなどの帝国は、コーカサスに関心を寄せていた。コーカサスには防壁となる高い山脈、すなわち大コーカサス山脈があったためである。ペルシアはこの防衛線を重視し、定期的に石造の城壁を築いた。古代ペルシアにとって、そのような北方の防壁は三つあり、一つはアブハジア、もう一つはアルバニア、三つ目はグルガンにあった。ダリアリ渓谷のような狭い谷には、北コーカサスからの異民族の侵入を制限するため、通行を封鎖する要塞が設けられた[32]。
アレクサンドロス3世がカルトリを征服し、支配者を任命したという伝承は、ジョージア語史料のほか、モヴセス・ホレナツィに帰される『アルメニア史』にも見られる。一方、この地方への遠征を裏付ける同時代のギリシア・ローマ史料は知られていない。ペルシアを征服すれば、将来、北方を統制するための防壁となる地域を掌握できることは明らかである。この防壁が支配下に置かれていなければ、帝国に対する絶え間ない侵入の起点となるからである。さらに、カルトリも、カルトリとともにムツヘタのママサフリシも、当時は重要な勢力ではなかった[16][37]。
ヴァフシティ・バグラティオニは次のように記している。
さて、ギリシア人でマケドニア人のアレクサンドロスが現れ、西方を征服し、続いてエジプトを征服して東方に入り、ペルシア人とその王を打ち破った[注釈 4]。次いで、世界紀元3623年、ジョージア暦490年にカルトリへ来て、この民族をあらゆる異教徒の中で最も邪悪なものと見た。しかし、このアレクサンドロスは、カルトロスの子孫とユダヤ人を除く混成の諸民族を皆殺しにし、ジョージアを征服して十万人の軍勢を残し[注釈 5]、彼らの上に、ヤレディの子であるマケドニア人アゾンを首長として置いた。さらに、死者を食べることも廃止し、唯一の創造主である神への崇拝と、太陽、月、星々への敬意を法として定め、自らは去った[4]。
ヴァフシティ・バグラティオニは、この記述に関連して次の注記を付している。
アレクサンドロス大王自身がジョージアに来たのかどうかについては、『Hist. de la G.』第1巻35頁、注6[注釈 6]、および私がジョージア史研究のために収集した情報も参照されたい。ここでさらに付け加えておくべきことは、ジョージアの年代記作者たちがアレクサンドロスの我が国への来訪を疑いのない事実として記しているだけでなく、古代の外国の記録の中にも、これに反していないものがあるということである。例えば、『マカバイ記』第1巻には、アレクサンドロスがペルシア征服後に「地の果てまで進んだ」と記されている(第1章1–3節)。同じ表現は『カルトリの生涯』にも繰り返されており、「地の果てをすべて征服した」とある(『カルトリの生涯』26頁)。ローマの著述家クィントゥス・クルティウス・ルフス(西暦41–54年)は、アレクサンドロスが軍勢を率いて17日間でコーカサス山を越えたと述べている。ユリウス・ソリヌス(4世紀初頭)は、アレクサンドロスがアジア、アルメニア、イベリア、アルバニアなどを服属させ、タウロス山脈を経由してコーカサスを越えたと伝えている。マル・アバス・カティナは、ダレイオスのサトラップであったミトリダテスをアレクサンドロスが連れて来て、ネブカドネザルに捕らえられ、黒海沿岸に住んでいたイベリア人たちの首長に任命したと述べている[39][40]。この種の虚説がジョージア国外にも広まっていたのであれば、それが『カルトリの生涯』にも取り入れられ、歴史的事実として記されたとしても、驚くには当たらない。
中世の伝承
『カルトリの改宗』
『カルトリの改宗』の年代記本文は、アゾィを王と明示的には呼んでいない。一方、同書に続く王統記録は、アゾィをムツヘタで最初に王位に就いた人物として位置づけている。これに対し、『カルトヴェリ人の王たちの生涯』は、アゾンをパトリキオスおよびエリスタヴィとして描き、王とは呼んでいない。このように、アゾィの王としての地位についても、史料によって記述が異なっている[41]。年代記作者によれば、アレクサンドロスがカルトリを征服した際、アリアン=カルトリ王の子アゾも同行していた。アレクサンドロス3世はアゾにムツヘタを居所として与え、東はヘレティ、西はエグリスツカリ川、南はソムヒティ、北はツロリ山(「ツロリの山」)を境界として定めた。その後、アゾはアリアン=カルトリにいる父のもとへ赴き、自分の一族から8家、養育父の一族から10家を伴って戻り、「古いムツヘタ」に居を定めた。また、ガツィとガイムの偶像も持参した。同書は、「このアゾィは、アリアン・カルトヴェリ人の王の子であり、ムツヘタにおける最初の王であった」と記している[42]。アゾに続くカルトリの第2代王として、パルナヴァズ1世が挙げられている。
『カルトリの生涯』
『カルトリの生涯』(『カルトリス・ツホヴレバ』)所収の「カルトヴェリ人の王たちの生涯」では、前節で取り上げた人物を「アゾン」と呼び、王とはみなしていない。同書によれば、アレクサンドロス3世はアゾンをカルトリのパトリキオス、エリスタヴィに任じて残した。史料では、アゾンは「ヤレドスの子で、その一族はマケドニアの地の出身」とされている[43]。また、アレクサンドロス3世はアゾンに、「フロタトス」と呼ばれるローマの地の「フロタトス人」の兵士10万人を残した[注釈 7]。さらに、太陽、月、五つの星を敬い、万物の創造主である目に見えない神に仕えるよう命じた[43]。
アレクサンドロス3世が去ると、アゾンはムツヘタをはじめ、カルトリのすべての都市の城壁を基礎から取り壊し、自軍の兵士を配置するための四つの砦だけを残した。また、ヘレティとベルドゥジ川からスペリ海に至るカルトリの境界地域を征服し、エグリシも支配下に置いた。さらに、オセット人、レキ人、ハザール人[注釈 8]を貢納民としたと伝えている[45]。
『カルトリス・ツホヴレバ』によれば、アレクサンドロス3世は死の直前に王国を4人に分け、そのうちの一人である「ビジンティオス」にギリシアとカルトリを与え、北方を管轄させた。さらに、アレクサンドロス3世はカルトリのパトリキオス、エリスタヴィであるアゾンに遺言の書簡を送り、ビジンティオスに仕えるよう命じた。史料には、ビジンティオスについて「ビジンティアの町を建設した。現在はコンスタンティノープルと呼ばれている」と記されている[46]。アレクサンドロス3世の死後、アゾンはアレクサンドロス3世から与えられた法を忘れ、偶像崇拝を始めた。銀製の偶像ガツィとガイムを二体造り、「ギリシアの王ビジンティオスに仕えた」という[46]。
史料では、アゾンは「苛酷で血に飢えた男」と評されている。アゾンは自軍に対し、武装したジョージア人を見つけた場合は誰であっても殺すよう命じた。ジョージア人は、紀元前326年から紀元前302年までの24年間、アゾンの支配に苦しんだ。やがて、ムツヘタのママサフリシであったサマラの甥パルナヴァズ1世と、その同盟者であるエグリシ人クジ(後にパルナヴァズ1世の王国でエグリシのエリスタヴィとなる)が、コーカサスの山地民(「オセット人とレキ人」)とともにアゾンに反乱を起こした。アゾンから離反した精鋭のローマ人騎兵1,000人も反乱軍に加わった。アゾンはクラルジェティに逃れ、外部、すなわち「ギリシア」からの軍事支援を待ちながら、その地に立てこもった。
その間に、パルナヴァズ1世はクラルジェティを除くカルトリ全土を征服した。「アスラスタン」の王「アンティオコス」は、パルナヴァズ1世を王として承認した。「アンティオコス」は、セレウコス朝の支配者たちに共通する名である。史料はこのときのことを、「彼を自分の子と呼び、王冠を送り、アルメニアのエリスタヴィたちにパルナヴァズ1世を支援するよう命じた」と記している[6]。パルナヴァズ1世の反乱の2年目に、「ギリシア」から援助を受けたアゾンは軍を集め、パルナヴァズ1世との戦いに向かった。決戦はアルタアニ近郊で行われた。史料はその戦場を「アルタニの廃都で、当時はカジ族の町と呼ばれていたフリ」と記している。激戦の末、パルナヴァズ1世は「ギリシア人」を破り、アゾンもこの戦いで命を落とした。
近現代の解釈
セルギ・ゴルガゼの推定によれば、
キリル・トゥマノフは論文「イベリア初期諸王の年代学」において、アゾを王の一覧に含めず、イベリア王の序数をパルナヴァズ1世から始めている[48]。
『カルトヴェリ人の王たちの生涯』がアゾンに与えられた兵士を「ローマ人」と記している点について、ギオルギ・レオン・カヴタラゼは、同書のアゾン伝承に、後1世紀後半のフラウィウス朝期(69~96年)に南コーカサス中部で行われたローマ軍の活動に関する別の記憶が混入した可能性を指摘している。この見解は、アゾンの物語を紀元前4世紀の出来事の直接的な記録とみなすものではなく、年代記の成立過程を説明する仮説である[49]。
アゾンの名を、ギリシア神話の英雄イアソンと関連づける説もある。しかし、ジョージアの中世史料にはイアソンやアルゴナウタイへの明示的な言及がなく、コルキスとカルトリの歴史的な結びつきも明確には示されていない。このため、スティーヴン・ラップは、アゾンとイアソンを関連づける説に疑問を呈している[44]。
脚注
注釈
- ↑ 一般に「18の家」と要約されるが、原文の解釈では「自分の8家+乳母・養育者たちの10家」と分解される。また、『ジョージア百科事典』系の説明では、「1000の家」とする異伝もある[10]。
- ↑ このミトリダテスを、キオスのミトリダテス(在位: 紀元前337–紀元前302年)に比定する見解もある。
- ↑ イカルトのアルセンの著作は、伝承上4世紀の司祭アブヤタルに帰される年代記に依拠しているとみられる。ただしアブヤタルの年代記自体は現存せず、この帰属は後代の文献学的推定である[28]。
- ↑ その当時、ペルシア人の王はダリオス・コドマニであった[4]。
- ↑ 千人規模の軍勢というよりも、別のカルトリの小年代記では、カルトリの賢明な歴史家が、アゾンとともにカルトリに二百人の騎兵を残したと記している。そして、この二百人の騎兵を残したという記述のほうが、より真実に近いとしている[4]。
- ↑ マリー=フェリシテ・ブロッセは、アレクサンドロス3世がジョージアを征服したのか、また本人がジョージアに来たのかという二つの問題を取り上げている。古代の著述家による記述や、アレクサンドロスの軍事行動の経路などを根拠に、ジョージア征服は十分にあり得ると論じる一方、本人がムツヘタを訪れたとする点には難点があると指摘している[38]。
- ↑ 兵士数は明らかに誇張されたものである。
- ↑ ハザール人への言及についてスティーヴン・ラップは、アゾの活動年代と合わない後代的な要素であると指摘している[44]。
出典
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- მოქცევაჲ ქართლისაჲ (PDF). n.d.