クラルジェティ

ウィキペディアから、無料の百科事典
クラルジェティ
კლარჯეთი
歴史的地域
8世紀から10世紀頃のメスヘティ(英語版)地方の地図。中央部にクラルジェティが位置している。
8世紀から10世紀頃のメスヘティ(英語版)地方の地図。中央部にクラルジェティが位置している。
現在の国家トルコの旗 トルコ
現在の県アルトヴィン県

クラルジェティ(ジョージア語: კლარჯეთი、ジョージア語ラテン翻字: Klarjeti)は、歴史的な南西ジョージアの一地域であり、メスヘティ(英語版)地方の一部を構成する。

クラルジェティという地域概念には、狭義と広義の2つの捉え方が存在する。広義においては、黒海沿岸からアルシアニ山脈に至る地域、すなわちチャネティ(ジョージア語版)およびチョロヒ川流域全体を指す。一方、狭義においてはアチャリスツカリ川からアルシアニ山脈までの地域を指し、ニガリ、アチャラ、マチャヘリ(ジョージア語版)、シャヴシェティ(ジョージア語版)、アルタヌジ(ジョージア語版)を含んでいる。クラルジェティにおける最古の中心地は、要塞都市トゥハリシ(ジョージア語版)である。クラルジェティはイベリア王国の王が任命したエリスタヴィによって統治されていた。その居城は、5世紀後半以降、アルタヌジ要塞(ジョージア語版)であったと考えられている。5世紀のイベリア王ヴァフタング1世は、クラルジェティにおいて広範な文化・建設活動を展開して多くの聖堂や修道院を建設し、アヒザ(ジョージア語版)を中心とする新たな主教区を創設した。また、クラルジェティはササン朝ペルシアの侵略に対抗する軍事・政治的拠点ともなった。

8世紀になると、バグラティオニ王家がクラルジェティを根拠地として勢力を確立した。9世紀初頭、アショト1世はアラブ人の侵攻や疫病によって荒廃したクラルジェティを復興し、人々の再入植を進めた。同時にハンズタのグリゴル(ジョージア語版)の主導によって、クラルジェティ一帯で広範な修道院建設が開始された。11世紀から13世紀にかけては、クラルジェティでは文化的・教育的な活動が広く展開された。クラルジェティ地方は数多くの聖堂や修道院が建立されたことで知られ、それらの聖堂群はクラルジェティの「12の荒野」[注釈 1]と呼ばれた。16世紀、クラルジェティは南ジョージアの他の地域とともにオスマン帝国の支配下に入った。その後、ジョージア民主共和国(1918年–1921年)の管轄を経て、1921年のモスクワ条約とカルス条約に基づき、最終的にトルコ共和国の領土となった[1]。

地理

歴史的な地域区分において、クラルジェティはメスヘティ(英語版)地方の一部を構成する。クラルジェティの領域はチョロヒ川の下流域に広がり、東側のアルシアニ山脈から西側の黒海沿岸に至るまで伸びている。歴史的には、イメルヘヴィ川(ジョージア語版)やアルタヌジスツカリ川の渓谷もこの地方に属している[2]。

この地は岩がちで険しい峡谷が縦横に刻まれた山岳地帯である。その複雑な地形と広大な森林地帯は、経済活動の発展を阻む要因となった一方で、外敵の侵入を防ぐ自然の障壁として機能し、地元の住民を保護していた。11世紀の歴史家レオンティ・ムロヴェリは、中世の年代記において次のように記している[3]。

誰も悪意をもってクラルジェティに侵入することはできなかった。なぜなら、クラルジェティは森林と岩によって近づきがたく堅固であり、クラルジェティの住民は機敏な人々であり、また戦士でもあったからである。

ジョージアの史料においては「クラルジェティの岩々」という表現が慣用的な比喩として用いられる例があり、この言葉自体が「征服者や侵略者が容易に近づくことのできない要害の地」であることを象徴している。

今日、歴史的なクラルジェティの領域は、すべてトルコ共和国の領土となっている。現代の行政区画において独立した県や郡としては存在せず、現在のトルコ共和国の行政区画に基づくと、旧クラルジェティの地域は黒海地方に属するアルトヴィン県の管轄下に置かれている。その領域は、同県に属するアルタヌジ(トルコ語版)、アルトヴィン、ムルグル(トルコ語版)、ボルチカ(トルコ語版)の各郡と、黒海沿岸のホパ郡にまたがっている。

「クラルジェティ」という歴史的な地名は、行政区画としては消滅したものの、地元住民の間ではアルタヌジ(トルコ語版)から南へ約10キロメートルの場所に位置するクラルジェティ村(トルコ語版)の名として残っていた。この集落は、今日でもベレケト(トルコ語版)村というトルコ語名で存在している[注釈 2][4]。この現在の村名をもとに、トルコの建築史研究者ミネ・カディロール(トルコ語版)はクラルジェティ地方全体の領域を指して「ベレケト」と呼称している。さらにカディロールは、タオ=クラルジェティの異称として「オルトゥ=ベレケト」(トルコ語: Oltu-Bereket)という独自の造語を用いている[5]。

ヴァフシティ・バグラティオニの地理誌におけるクラルジェティ

18世紀ジョージアの王族であり、歴史学者・地理学者でもあったヴァフシティ・バグラティオニは、自身が作成した地図において、チャネティ(ジョージア語版)、イスピル(ジョージア語版)、トルトゥム(ジョージア語版)の渓谷を含む地域一帯をクラルジェティとみなしている。また、ヴァフシティは、この地域がジョージアの神話的始祖カルトロスの本来の領地ではなく、紀元前3世紀頃にパルナヴァズ1世がアゾに勝利した後、イベリア王国に併合した地であるとも指摘している。しかし、ヴァフシティによるこれらの地理に関する記述にはいくつかの不正確な点が見られる。たとえば、地図に描かれた一部の河川の流路は実際の地形と一致しておらず、当時の地図に描かれた境界線を現代の正確な地図上に再現することはきわめて困難である。ヴァフシティの記述によれば、この地域にはアルメニアの始祖とされるハイクの末裔たちが居住していたとされるが、ヴァフシティ自身がハイクの領地の境界線を描く際、このクラルジェティの地域をその範囲に含めていない。したがって、ヴァフシティの解釈におけるクラルジェティは、始祖カルトロスの領地にもハイクの領地にも属さないことになり、これは「すべての土地が分配された」とする中世ジョージアの伝統的な領土分配の図式に矛盾する。なぜなら、いずれの領土も未分配のまま残ることはあり得ないためである。

サムツヘ公国(ジョージア語版)の著名な地の説明
そして、この国の名は、それ自体がカルトロスの分け前であり、彼にちなんでカルトリと名付けられ、彼の死後はサカルトロあるいはサカルトヴェロと呼ばれ、今日までそのように称されているがゆえに、本来のカルトリである。しかし、時代とともに、分割や場所の区分によって多くの名が加わり、次のように名付けられた。すなわち、カルトロスの死後、彼の妻が自分の息子たちに領土を分割し、長男のムツヘトスに、トビリシとアラグヴィの西、パラヴァニ湖の西の国、スペリ(ジョージア語版)の海に至るカルトロスの分け前を与えた。そしてタオとクラルジェティの間の山までであり、ムツヘトスはこれらの国を領有した。このムツヘトスは、トビリシとアラグヴィの西からリヒ山脈およびタシスカリ(ジョージア語版)までを内カルトリと呼び、タシスカリとパラヴァニの西から海までを上カルトリと呼んだ。そして、カルトロスの名をこのように分割した。その後、ムツヘトスは自身の分け前を3人の息子たちに分割し、自身の息子オズルホス(ジョージア語版)にタシスカリの上方、ムツクヴァリ川の西から海に至る、カルトロスの境界までの地を与え、それらは現在、サムツヘ(ジョージア語版)、グリア(ジョージア語版)、リガニ、シャヴシェティ(ジョージア語版)、アルタヌジ(ジョージア語版)、パナスケルティ(ジョージア語版)、オルティシ(ジョージア語版)、およびタオであり、これらの場所は主に上カルトリと呼ばれた。そして、パラヴァニの西とムツクヴァリの東、ムツクヴァリの源流に至るまでを、ムツヘトスは自身の息子ジャヴァホス(ジョージア語版)に与え、これによってこれらの場所はジャヴァヘティ(ジョージア語版)と呼ばれた。そしてこれらの場所の中には、ジャヴァヘティ、アルタニ、エルシェティ(ジョージア語版)、コラとムツクヴァリの東がある。しかし、クラルジェティは彼らの分け前ではなく、パルナヴァズがアゾの死後に領有したのであり、その境界は次のとおりである。東は、クラルジェティとタオの間を通って海に至る山。南は、川が流れ出てチョロヒ川に合流するその山。西は、エルズルムとバシアニ(ジョージア語版)の間を通って海に至る山。そして北は黒海である。
……そして、クラルジェティの国には、そこに存在する村々や町々、あるいはハオスの孫たちにちなんだ名が付けられた……
—ヴァフシティ・バグラティオニ『ジョージアの地理』[6]

研究

ディミトリ・バクラゼ(ジョージア語版)。クラルジェティのキリスト教建築の最初の研究者の一人である。

クラルジェティ地方、とりわけそのキリスト教建築に対する学術的な関心は、19世紀に高まった。同地方の聖堂や修道院に関する初期の研究は、カール・コッホ[7]、ディミトリ・バクラゼ(ジョージア語版)[8][9]、ギオルギ・カズベギ(ジョージア語版)[10][11]、プラスコヴィヤ・ウヴァロヴァ(ロシア語版)[12]らによるものであった。クラルジェティの建築に関する研究の基礎は、アンドレイ・パヴリノフ(ロシア語版)によって築かれた[13]。また、言語学者ニコロズ・マリ(ジョージア語版)による著作『シャヴシェティ=クラルジェティ旅行日記』の業績も挙げられる[14]。同書は地域情報を網羅した著作であり、今日でもクラルジェティおよびシャヴシェティ(ジョージア語版)の歴史、地理、民族誌、建築、碑文を研究する上で重要な基本文献となっている[15]。古書体学や考古学の観点からは、主にエクヴティメ・タカイシヴィリ(ジョージア語版)の調査により[16][17][18]、現在のトルコ領内に位置する他の歴史的ジョージアの地域であるタオ、コラ=アルタアニ(ジョージア語版)、エルシェティ(ジョージア語版)の遺物や史料の研究が進められた。

ジョージアの美術史学派が形成される初期段階において、タオ=クラルジェティ地方、とりわけその建築は、主要な研究対象となる条件を備えていた。しかし、政治的情勢など研究者の努力では克服できない外的要因により、その研究を十分に発展させることはできなかった。1930年代から1940年代にかけてのギオルギ・チュビナシヴィリ(ジョージア語版)の研究[19][20]では、中世ジョージア建築の形成においてタオ=クラルジェティが重要な役割を果たしたという見解が示された。この見解は、ヴァフタング・ベリゼ(ジョージア語版)の研究によって補強された。ベリゼは専門的調査により、タオ=クラルジェティの建築の多様な側面を初めて包括的に解明した[21][22]。また同時期、パルメン・ザカライア(ジョージア語版)は南西ジョージアの歴史的地域に関する知見をまとめた著作を発表した[23]。クラルジェティ地方の研究においては、美術史家ヴァフタング・ジョバゼ(ジョージア語版)の調査と、その著書『歴史的タオ、クラルジェティ、シャヴシェティにおける初期中世ジョージアの修道院』がある[24]。さらに、西欧やアメリカの研究者による業績もあり、トルコ国内のジョージアの遺構に関する広範な調査を残したニコル・ティエリ(wikidata)、ジャン=ミシェル・ティエリ(フランス語版)夫妻をはじめ[25][26][27][28]、デイヴィッド・ウィンフィールド(英語版)[29]、ロバート・W・エドワーズ(ロシア語版)[30]、ブルーノ・バウムガルトナー(ジョージア語版)[31]らの論考はその代表例である。これら国外の研究者による調査やヴァフタング・ジョバゼ(ジョージア語版)の活動は、冷戦期において重要な意味を持った。1950年代末から約30年間にわたり、トルコ領内に位置するクラルジェティなどの地域へ、ソビエト統治下のジョージア人研究者が立ち入ることが制限されていたためである。1980年代になると、クラルジェティの研究にトルコ人研究者も加わるようになった。初期の代表的な研究者としてミネ・カディロール(トルコ語版)が挙げられ[32][33][34][35]、その後も多くの研究者によって調査が進められている。

歴史

クラルジェティの歴史の研究は、主にジョージア語および外国語の史料に基づいて行われている。この地域において考古学的な発掘調査は一度も行われたことがない。こうした背景から、クラルジェティの歴史、特にその初期の時代に関する情報は、限定的なものにとどまっている。

紀元前2世紀まで

パルナヴァズ1世の時代のイベリア王国の地図。王国を構成する8つのサエリスタヴォ(ジョージア語版)の一つであるクラルジェティは、国の最南西端に位置した。

ジョージア語の史料や歴史的伝統では、クラルジェティはカルトリの一部とみなされている。年代記『カルトリス・ツホヴレバ』によると、タルガモス(ジョージア語版)の領土が子供たちの間で分割された後、クラルジェティはカルトロスに与えられた[36]。カルトロスの息子ムツヘトスは、その息子であるオズルホス(ジョージア語版)に「タシスカリ(ジョージア語版)からスペリ(ジョージア語版)の海まで」の領土を譲り渡した[37]。この領域は、クラルジェティを含む南西ジョージアの諸地域を指している。オズルホスはまた、クラルジェティの最古の政治的中心地であった要塞都市トゥハリシ(ジョージア語版)の創建者ともされている[38]。

紀元前4世紀から紀元前3世紀への転換期にイベリア王国が形成された際、クラルジェティは同王国の領土に組み込まれた。しかし、史料の伝えるところによれば、クラルジェティのイベリア王国への統合は容易には進まなかった。レオンティ・ムロヴェリの記述によると、この地域を統合するためにパルナヴァズ1世は多くの困難に直面したとされる。ムロヴェリの著書『カルトヴェリ諸王の生涯(ジョージア語版)』には、パルナヴァズ1世が1年でカルトリ全域を占領したものの、クラルジェティには侵入できなかったと記されている。当時、クラルジェティの要塞にはアレクサンドロス大王の任命でカルトリのエリスタヴィの地位にあったアゾが立てこもっていたためである。パルナヴァズ1世の支持者には、後の義弟となるコルキスのエリスタヴィであるクジや、オセット人、レキ人、そしてアゾから離反した1,000人の騎兵がいた。さらにパルナヴァズ1世は、セレウコス朝シリアの王アンティオコス1世に援軍の派遣を要請した。この連合軍を率いて、パルナヴァズ1世は翌年にアゾを打ち破り、クラルジェティを併合した[36]。

一方で、『カルトヴェリ諸王の生涯(ジョージア語版)』に記されたこの情報は、『カルトリの改宗(ジョージア語版)』の記述と矛盾している。『カルトリの改宗』においては、クラルジェティをめぐるアゾとパルナヴァズ1世の紛争に関する記載は存在しない。『カルトリの改宗』によれば、アゾはカルトリの最初の王であり、平和的な統治の後に天寿を全うした。そしてパルナヴァズ1世はアゾの没後に王位に就いたとされる[39]。同書において、クラルジェティについての言及は一切ない。『カルトリの改宗』におけるアゾの出自をめぐっては議論されており、アゾはアリアン=カルトリ(ジョージア語版)の王の息子として言及されている。一説によれば、アリアン=カルトリとは南西コーカサスあるいは北東アナトリアを指し、この領域はクラルジェティを含むか、あるいはクラルジェティに直接隣接していたとされる。ナナ・ハザラゼ(ジョージア語版)は、クラルジェティがアゾの故国であったという説を提唱している[40][41]。

パルナヴァズ1世はイベリア王国を8つの行政単位(サエリスタヴォ(ジョージア語版))に分割し、それぞれの長にエリスタヴィを配した。その一つがクラルジェティであり、同サエリスタヴォには本来のクラルジェティ地方に加えて、シャヴシェティ(ジョージア語版)とタオ内陸部が含まれていた[42]。

紀元前2–1世紀

紀元前2世紀、アルメニア王国が国力を増強し、イベリア王国に対する領土拡大に成功した。この結果、両国間の国境は北方に移動し、イベリア王国のいくつかの地方がアルメニア王国の領土に組み込まれた。クラルジェティもその地方の一つであったという説が存在する。この説について、研究者たちはストラボンやプトレマイオスの記述に根拠を見いだしている。しかし、古典の記述にクラルジェティ自体が言及されているかという点については、現代の学者間で意見が大きく分かれている[42]。

プトレマイオスの著書『地理学』[43]には、ユーフラテス川、キュロス川、アラス川の間に位置する地域に、アルメニアの地域の一つ「カタロゼネ」(ギリシア語: Καταρζηνή)があると記されている。同書ではカタロゼネの位置も特定されており、メスヘティ山脈の近く、いわゆるボホ人の居住地域の上方に位置するとされる[44]。19世紀の地理学者ハインリヒ・キーペルト(ドイツ語版)はカタロゼネという地名について、後世の筆写者が「カラルゼネ」(ジョージア語: კალარძენე、ジョージア語ラテン翻字: Kalardzene)を誤記したものであり、これはクラルジェティに対応するという見解を示している[45]。この見解は多くの研究者に支持されていた。カール・ミュラー(ドイツ語版)[46]、ヨーゼフ・マルクヴァルト(ドイツ語版)[47]、ハインリヒ・ヒュプシュマン(ドイツ語版)[48]といった欧州の研究者たちもこの説を支持した。しかし、その後の研究において、一部の学者はカタロゼネとクラルジェティの同一視に疑問を呈するようになった。ゲオルギ・カパンツィアンは、この同一視を不自然で根拠のないものとみなした[49]。歴史学者パヴレ・インゴロクヴァ(ジョージア語版)はこの同一視を否定し、プトレマイオスの記述を詳細に検証した[50]。ダヴィト・ムスヘリシヴィリ(ジョージア語版)[51]やナナ・ハザラゼ(ジョージア語版)[52]も、カタロゼネとクラルジェティは別のものであると考えた。ムスヘリシヴィリやハザラゼは、カタロゼネをクラルジェティよりもはるかに南方のユーフラテス川源流地域に比定している。一方で、伝統的な見解を支持する学者も依然として存在し、ギオルギ・メリキシヴィリ(ジョージア語版)[53]、ノダル・ロムリ(ジョージア語版)[54]、ティナティン・カウフチシヴィリ(ジョージア語版)[55]らがこの説に同意している。

ストラボンは著書『地理誌』の中で、アルメニアがイベリア王国から奪った地域の一つとして「ホルゼネ(ジョージア語版)」の名を挙げている[56]。ヨーゼフ・マルクヴァルト(ドイツ語版)は、この名称を「ホラルゼネ」の誤記であるという仮説を立て、プトレマイオスの伝えるカタロゼネ、およびクラルジェティ地方と同一視した[57]。この説に対し、パヴレ・インゴロクヴァ(ジョージア語版)は批判を行い、ホルゼネはユーフラテス川上流域にあるアルメニアの一地方であると指摘した[58]。ホルゼネとクラルジェティを同一視する説は、ハコブ・マナンディヤン(アルメニア語版)[59]、シモン・ジャナシア(ジョージア語版)[60]、ティナティン・カウフチシヴィリ(ジョージア語版)[61]、ダヴィト・ムスヘリシヴィリ(ジョージア語版)[62]、ナナ・ハザラゼ(ジョージア語版)[63]によっても否定された。

紀元前2世紀から1世紀にかけてのクラルジェティの国家としての帰属については、不明瞭である。ストラボンは、自身の時代においてモスヒ人(ジョージア語版)の地(歴史的な南西ジョージア、メスヘティ(英語版)地方)は3つに分割されていたと記している。その一部はコルキス人(ジョージア語版)に属し、別の一部はイベリア人(英語版)に、そして残る一部はアルメニア人に属した[64]。プトレマイオスやストラボンの記述に基づいても、学者たちはこの時期にクラルジェティがアルメニア王国の領土の一部であったと断定していない。また、パヴレ・インゴロクヴァ(ジョージア語版)が指摘するように、クラルジェティがコルキス王国の一部を構成していたのか、それともイベリア王国の一部を構成していたのかも解明されていない[65]。ダヴィト・ムスヘリシヴィリ(ジョージア語版)は、クラルジェティ、シャヴシェティ(ジョージア語版)、アチャラは完全にコルキスに併合されていたと推定しているが、この説を裏付ける具体的な根拠は示されていない[66]。

1–4世紀

西暦1世紀以降、イベリア王国は徐々に勢力を拡大し、コルキス王国の一部を支配下に収めていった。古代ローマの官僚アッリアノスが著した『黒海周航記(英語版)』によると、131年に黒海沿岸を巡察した際、沿岸部のクラルジェティに居住していたジドリタイ族(英語版)は、イベリア王パルスマン2世(ジョージア語版)の支配下にあった[67][68]。クラルジェティの他の地域も同様に、イベリアの支配下にあったと推測される。クラルジェティ地方は引き続きエリスタヴィが統治したが、必ずしも王権に対して忠誠を尽くしていたわけではなかったとみられている。現存する史料の分析からは、クラルジェティは反抗的な傾向が強く、王都ムツヘタの宮廷としばしば対立していた状況がうかがえる。年代記『カルトリス・ツホヴレバ』によれば、1世紀にクラルジェティのエリスタヴィが、自身の領地を訪れた使徒アンデレの布教活動を容認したことで、反キリスト教の立場であったイベリア王アデルキ(ジョージア語版)の怒りを買ったとされる[69]。3世紀半ば、クラルジェティのエリスタヴィは、西部の他のエリスタヴィ4人とともに、国王アマザスプ3世(英語版)に対して反乱を起こした[70]。368年、親ペルシアの国王ヴァラズ=バクリ2世(フランス語版)は、ペルシアの軍事支援によって、後のジョージアを構成するカルトリ、ヘレティ(ジョージア語版)、エグリシの大部分を服属させた。この際、クラルジェティはヴァラズ=バクリ2世の統治から離脱し、親ローマのギリシャ人と同盟を結んだ[71]。

クラルジェティの人々はヴァラズ=バクリ(フランス語版)から離反してギリシャ人に帰順した。そしてギリシャ人はトゥハリシ(ジョージア語版)および海からアルシアニ山脈に至るクラルジェティの全域を占領した。

この情報は、ラテン語で著作を残した後期古代ローマの歴史家アンミアヌス・マルケリヌスの記述からも裏付けられる。アンミアヌスは、ローマ帝国がカルトリの一部(アルメニアおよびラゼティ(ジョージア語版)と国境を接する地域)の統治権を、親ローマのサウルマギ1世(フランス語版)に委譲したと記している[72]。アンミアヌスの指摘によれば、親ペルシア派のヴァラズ=バクリ2世の領地と、親ローマ派のサウルマギ1世の領地を分ける国境線は、ムツクヴァリ川の流路に沿って画定された。ダヴィト・ムスヘリシヴィリ(ジョージア語版)の考証によると、ここで境界とされたムツクヴァリ川は、ムツヘタに至るまでの流域ではなく、上流域のみを指すとされる。この解釈に基づくと、サウルマギ1世の領土にはクラルジェティ、サムツヘ(ジョージア語版)、アチャラ、そしてムツクヴァリ川の西側に位置するジャヴァヘティ(ジョージア語版)=アルタアニ(ジョージア語版)の一部が含まれていたと考えられる[73]。こうして370年、クラルジェティはカルトリから分離し、東ローマ帝国の支配下に入った。

古代における民族構成

歴史学者ギオルギ・メリキシヴィリ(ジョージア語版)は、歴史的な南ジョージアを構成する諸地方(ジャヴァヘティ(ジョージア語版)、コラ、アルタアニ(ジョージア語版)、サムツヘ(ジョージア語版)、アチャラ、クラルジェティ)のうち、年代記『カルトリス・ツホヴレバ』で固有の民族名で言及されている住民は、クラルジェティ地方の「クラルジェティ人」のみであると指摘している[74]。11世紀の歴史家レオンティ・ムロヴェリやジュアンシェル・ジュアンシェリアニ(ジョージア語版)の年代記において、「クラルジェティ人」という表現は、「ジョージア人」(カルトヴェリ人、イベリア人(英語版))や「メグレル人」と同様の民族的意味を持つ。さらに、クラルジェティ人の内部社会においても、いくつかのサブ・エスニック集団が形成されていたとみられている。建築史家ダヴィト・ホシタリア(wikidata)は、これらクラルジェティ人のサブ・エスニック集団の一つとして、アッリアノスが『黒海周航記(英語版)』の中で沿岸部に居住していたと言及しているジドリタイ族(英語版)が該当する可能性を認めている[75]。

クラルジェティ人の民族的起源に関して、現存する古代の文字史料の中に直接的な記述や明確な手がかりは存在しない。研究者たちはこの起源問題を解明するアプローチとして、当該地域の地名(トポニム)の言語学的分析を重視している。ダヴィト・ホシタリア(wikidata)の説によれば、オピザ(ジョージア語版)やアルタヌジ(ジョージア語版)といった特徴的な地名は、古代クラルジェティ人がカルトヴェリ語族のザン諸語(英語版)に属する民族集団(チャン人(ジョージア語版)、ラズ人)であったと判断する根拠となるとしている。地名に基づきクラルジェティ人をチャン系起源とする見解は、言語学者ニコロズ・マリ(ジョージア語版)が最初に提唱した。

クラルジェティと、それに密接に関連するタオ地方は、その歴史の黎明期において、ジョージア語(カルトリ語)と関連のあるトゥバル=カイン系すなわちイヴェリ・チャン人[注釈 3]の住民がいたように思われる。

クラルジェティに所在するオピザ修道院(ジョージア語版)の起源を考察するにあたり、ニコロズ・マリ(ジョージア語版)は次のように記述している[77]。

オピザ(ジョージア語版)の創設者はトゥバル=カインたちであり、具体的にはイベリア人(英語版)(メグレル人)、あるいはチャン人(ジョージア語版)(ラズ人)であった。

オピザ修道院(ジョージア語版)の実際の創設時期が5世紀以降であるという事実から、ダヴィト・ホシタリア(wikidata)は、ニコロズ・マリ(ジョージア語版)はこの時代においてもイベリア・メグレル系やチャン・ラズ系の住民がクラルジェティの人口の多くを占めていたと考えていた、と解釈している。ホシタリア自身の見解によれば、このマリの仮説が妥当である可能性も否定できないものの、実際にはクラルジェティのチャン系の先住民は、比較的早い段階で強力なカルトヴェリ系の部族と同化していった可能性のほうが高いとしている[78]。一方、ギオルギ・メリキシヴィリ(ジョージア語版)は、クラルジェティ人がすでに古代の段階で隣接するメスヘティ地方のカルトヴェリ系の諸部族と同化していたとの説を唱えている。この学説によれば、結果としてこの地域では政治面のみならず、文化的・民族的観点においてもジョージア的要素が主導的になったとされる[79]。

5世紀

アヒザ要塞(ジョージア語版)。ジュアンシェル・ジュアンシェリアニ(ジョージア語版)の記述によると、クラルジェティにおける最大級の要塞の一つであり、ヴァフタング1世が修復した。

370年頃、クラルジェティ地方はイベリア王ヴァラズ=バクリ2世(フランス語版)から離反し、東ローマ帝国の支配下に入った。400年頃、ヴァラズ=バクリ2世の子ミルダト4世(フランス語版)は、父ヴァラズ=バクリ2世の代に失われたクラルジェティ地方の奪還を試みたが、失敗に終わった[80]。失われていたクラルジェティ地方の再統合は、その後、ヴァフタング1世の代に実現した。ジュアンシェル・ジュアンシェリアニ(ジョージア語版)の年代記によれば、ヴァフタング1世が小アジアへ遠征した後、東ローマ皇帝はヴァフタング1世に対して「カルトリの国境、トゥハリシ要塞(ジョージア語版)、およびクラルジェティの全域を返還した」とされる[81]。歴史学者ヴァフタング・ゴイラゼ(ジョージア語版)の見解によれば、この領土返還は456年の年末に起こった出来事であるとされる[82]。建築史家ダヴィト・ホシタリア(wikidata)は、クラルジェティの再統合に関するジュアンシェルの記述を信頼できるものとみなしており、同時に、少なくとも5世紀から6世紀の変わり目以降、クラルジェティが他の史料においても再びイベリア王国の一部として確認できることを指摘している[83]。

イベリア王ヴァフタング1世は、再統合したクラルジェティのエリスタヴィとして、乳兄弟のアルタヴァジを任命した。ジョージアの中世歴史史料は、クラルジェティ地方で展開された建築活動を、ヴァフタング1世の治世と結び付けて記述している。ヴァフタング1世はアルタヴァジとともに、統合したクラルジェティ地方を巡察し、大規模な都市・要塞建設を計画した。ジュアンシェル・ジュアンシェリアニ(ジョージア語版)の記述によると、当時クラルジェティ地方にはトゥハリシ要塞(ジョージア語版)およびアヒザ要塞(ジョージア語版)という2つの大きな要塞が存在していたが、ヴァフタング1世が訪問した際、アヒザ要塞は損壊した状態であったとされる。ヴァフタング1世はアルタヴァジにアヒザ要塞の修復を命じ、さらにアルタヌジ(ジョージア語版)の地に新たな要塞を建設した。ただしジュアンシェルは、ヴァフタング1世およびアルタヴァジが巡礼した聖堂についての具体的な記録を残していない。研究者の間では、5世紀後半の段階においてクラルジェティ地方には、かつてミルダト4世(フランス語版)によって建設されたトゥハリシ要塞の内部にある、1つの聖堂しか存在していなかったとする見解も存在する。一方、ジュアンシェルの記述によれば、ヴァフタング1世の指示を受けたアルタヴァジは、オピザに修道院を創設し、さらにメリア(トルコ語版)、シンドビ(トルコ語版)、およびアヒザ(ジョージア語版)の3箇所に聖堂を建設したとされる[84]。これらに加え、トゥハリシ(ジョージア語版)の聖ギオルギ聖堂の建設についても、ヴァフタング1世の功績に帰する伝承が存在する[83]。

クラルジェティ地方における独立した主教座の創設もまた、ヴァフタング1世の時代に行われたとされる。この創設以前の段階においては、クラルジェティ地方に独自の主教区が存在していた形跡は史料上確認されていない。クラルジェティ地方はそれまで約1世紀にわたり東ローマ帝国の版図に含まれていたため、帝国領のポントゥス管区(英語版)に属し、トラペズスの主教座の管轄下に置かれていたと推測される。5世紀後半になると、イベリア王国の他の諸地方とともに、クラルジェティ地方にも主教座が設置された。ジュアンシェルの記録によると、ヴァフタング1世は「アヒザの聖堂において、クラルジェティに1人の人物を主教として据えた」とされる[85]。

なお、歴史学者の中にはジュアンシェルの著作『ヴァフタング・ゴルガサリの生涯』の記述に対して懐疑的な見解を示す者も存在する。特に1910年代以降、同書には信頼性を欠く歴史史料であるという評価が定着した。このような評価は、主にイヴァネ・ジャヴァヒシヴィリやコルネリ・ケケリゼ(ジョージア語版)といった、当時の主要な研究者たちが示した批判的な態度に起因する。ジャヴァヒシヴィリは、このジュアンシェルの著作について「実際の歴史というよりは、おとぎ話に類似している」と批判した。ジャヴァヒシヴィリの見解によれば、同書はヴァフタング1世の時代の歴史を解明する上では、いくつかの細部に関するわずかな情報を除いて、史料としてほとんど実用に供さないとされた[86]。しかしながら、近年の研究におけるジュアンシェルの著作に対する評価やアプローチは、大きく変化している。今日では、同書に盛り込まれている伝説的な逸話の中にも、実際的な歴史の核心や基礎が含まれているとする、かつてマリー・ブロッセ(ジョージア語版)が提唱した見解を再評価し、支持を寄せる研究者が比較的多くなっている[87]。

6–7世紀

523年、イベリア王国において王政が廃止され、同国のほぼ全土がササン朝ペルシアの直接支配下に置かれた。歴史家ジュアンシェル・ジュアンシェリアニ(ジョージア語版)の記述によると、ペルシアの支配から逃れて独立を維持したのはカルトリ地方のわずか2つの辺境山岳地帯のみであった。一つは国王バクリ3世の子らが避難したカヘティ(ジョージア語版)地方のムティウレティ(ジョージア語版)、もう一つはクラルジェティ=ジャヴァヘティ(ジョージア語版)の連合地域であった。クラルジェティ地方の岩山一帯では、母方をホスロイド朝(英語版)、父方をバグラティオニ家とする、ヴァフタング1世の末裔グアラム1世(フランス語版)が領主として統治を行った[88]。11世紀の歴史家スムバト・ダヴィティス・ゼはグアラム1世を「バグラティオニ家の父」と呼称しているものの、グアラム1世によるクラルジェティの統治については何も言及していない[89]。

6世紀末から7世紀初頭にかけて、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの対立が続いた。ビザンツ帝国は、571年に勃発した対ペルシア蜂起、およびそれに続くグアラム1世への「クロパラテス」の称号授与を契機として、カルトリ地方におけるペルシアの影響力を排除した。580年代にペルシアはカルトリでの勢力を部分的に回復したものの、590年代には再び失った。その後、ペルシアは600年代に再び勢力を回復した。しかし、627年のニネヴェの戦いで大敗し、最終的にカルトリの支配権をビザンツ帝国に譲り渡した[90]。この時期にクラルジェティ地方で何が起きていたのかは明確でないが、わずかな史料に基づいて、クラルジェティ地方はしばしば逃亡した敗北者たちの避難先となっていたと推測されている。ジュアンシェルの記録によると、628年以降、ペルシア側と同盟を結んでいたステパノズ1世(ジョージア語版)(グアラム1世の子)の遺児たちがクラルジェティに逃れて定住した。この当時、イベリアの他の地域は、ビザンツ皇帝ヘラクレイオスによって擁立された親ビザンツ派のエリスムタヴァリであるアダルナセ1世(フランス語版)が支配していた[91]。

6世紀から7世紀にかけてのクラルジェティの建築活動に関する具体的な記録は確認されていない。この時代、ドゥガナラ川の渓谷においてパレヒ修道院(ジョージア語版)が創設されたとする仮説が立てられているが、この解釈については異論を唱える研究者も存在する。現存するパレヒ修道院の遺構そのものは、いずれも9世紀以降のものである[92]。学術文献では一時期、アラブ支配以前の時期にアルメニア人がクラルジェティ地方で修道院を創設したという見解が示されていた。この説は言語学者ニコロズ・マリ(ジョージア語版)に由来するものであり、マリは6世紀から8世紀にかけてアルメニア人移民の大規模な流入がクラルジェティ地方に到来したと推測している。しかしながら、マリによるこの移民流入説は、現代の学術研究においては否定されている。

7世紀の後半に入ると、アラブ人の進出に伴い、ジョージアの歴史は新たな段階に入った。654年、カルトリのエリスムタヴァリは抵抗することなくアラブ人に服属した。この服属は、アラブ側の将軍マスラマ(アラビア語版)が発行した安堵状の締結によって公式なものとなった。この安堵状には、同じ条件でカルトリの諸地方も服属したことが記されており、その中にはクラルジェティ地方の言及もある。建築史家ダヴィト・ホシタリア(wikidata)が指摘するように、地方名が個別に言及されている事実は、当時のエリスタヴィたちが、カルトリの中央政権から一定の自律性を保ち、内政および外交の双方で独立性を維持していたことを示している[93]。

8世紀

7世紀の後半から続くアラブ支配は、8世紀前半のウマイヤ朝のカリフ・ヒシャーム(在位: 724年–743年)の治世下で年々苛烈になった。735年、反乱を起こしたコーカサスを服属させるために、ヒシャームは自身の従兄弟であるマルワーンを派遣した。年代記『カルトリス・ツホヴレバ』によると、マルワーンの軍事力に圧倒された「首長やビダフシュ(英語版)たち、エリスタヴィや貴族の子孫らはコーカサスへ逃亡し、岩山や谷間に身を隠した」[94]。

クラルジェティがマルワーンの遠征対象となった諸地方に含まれていたかどうかは確定していない。クラルジェティへの進軍についての直接的な記述を残している中世の著者は、スムバト・ダヴィティス・ゼのみである。スムバトは次のように記述している[95]。

バグダードの聾者〔マルワーン〕がすべての城砦を破壊し、シャヴシェティ(ジョージア語版)およびガドニ[注釈 4]をも巡った。

スムバトはまた、アショト1世がマルワーンによって荒廃させられたアルタヌジ(ジョージア語版)の要塞を再建したと記している[96]。異なる内容を伝える史料も存在する。聖人伝『ダヴィトとコンスタンティネの殉教(ジョージア語版)』に記述されたマルワーンの行路には、クラルジェティもシャヴシェティ(ジョージア語版)も含まれていない。同書によると、マルワーンは南部のサムツヘ(ジョージア語版)地方から直接西部のアルグヴェティ(ジョージア語版)地方へと移動している[97]。歴史家ジュアンシェル・ジュアンシェリアニ(ジョージア語版)の年代記における該当の挿入記事においても同様である[94]。またジュアンシェルは年代記の別の文章において、アラブ人によって荒廃させられた諸地域としてカルトリ、ソムヒティ(ジョージア語版)、およびラン(ジョージア語版)を挙げている[98]。さらに、中世ジョージアの宗教文学『アルチルの殉教』においては、カルトリ地方と並んでカヘティ(ジョージア語版)地方の被害が列挙されている[99]。しかしながら、シャヴシェティやクラルジェティについてはどこにも言及されていない。修道士ギオルギ・メルチュレ(ジョージア語版)は、780年代にグリゴル(ジョージア語版)がハンズタ(ジョージア語版)に到着した当時の状況を、次のように記している[100]。

クラルジェティ、タオ、シャヴシェティ(ジョージア語版)、およびそれらの近隣のすべての国々において、森の中に所々に小規模な集落が見出されるのみであった。

多くの研究者は、これをアラブ人の激しい攻撃によって荒廃させられた地方の姿であるとみなしている。ギオルギ・メルチュレ自身は、クラルジェティ地方におけるアラブ人の具体的な軍事遠征の事実について何も記していない。なお、クラルジェティにおけるマルワーンの遠征について記述している唯一の著者であるスムバト・ダヴィティス・ゼは、クラルジェティの人口減少をアラブ人の侵入ではなく、「サトロバ」と称される、コレラあるいはそれに類する疫病の流行と結び付けている[95]。文献学者コルネリ・ケケリゼ(ジョージア語版)はこの疫病について、746年から747年にかけてビザンツ全土で大流行したペストを指すものと考え、ビザンツ帝国で多数の犠牲者を出した後、おそらくクラルジェティにも波及したと指摘している[101]。

クラルジェティ地方が実際にマルワーンの軍事遠征の被害を受けたかどうかにかかわらず、当時のクラルジェティの社会情勢は依然として深刻であった。クラルジェティには、壊滅的な被害をもたらした疫病と、8世紀にジョージア全土を覆った政治・経済全般に及ぶ危機がその爪痕を残していた。8世紀から9世紀への転換期において、クラルジェティでは宗教的な活動も社会的な生産・経済活動も停滞し、定住人口は希薄化し、地方行政の統治機構は機能不全に陥っていた[102]。

中世初期における民族構成

言語学者ニコロズ・マリ(ジョージア語版)は、6世紀にクラルジェティの「トゥバル=カイン的」すなわちカルトヴェリ系の住民がアルメニア化したと考えている[103]。マリは自身も認めているように、このアルメニア化のプロセスについて、きわめて限定的な認識に留まっていた。マリの論考によると、アルメニア化のプロセスをもたらした決定的な要因として、アルメニア人の大量移住を想定していた。マリはこの大量移住の現象を書字史料によっても証明しようと試みたが、最終的に依拠した資料は、7世紀初頭の状況を描写した、アルメニア人の年代記作者ホヴハン・マミコニアン(アルメニア語版)の著作のみであった。マリは、この著作から、イベリア人の国(クラルジェティ)へのアルメニア人の移民運動が「すでに完了した」とする記述を、恣意的に読み取ったとされる[103]。クラルジェティがイベリア人のものであることは、その著作において実際に記されており、その国の支配者ヴァシュデンは「イベリア人の君主」と言及されている。しかしながら、アルメニア人の移民運動については、年代記の中に直接的にも間接的にもいかなる言及も見出されない[104]。歴史学者パヴレ・インゴロクヴァ(ジョージア語版)は、ホヴハン・マミコニアンの記述を詳細に検討し、マリの見解の根拠の薄さを提示した[105]。ダヴィト・ホシタリア(wikidata)が指摘するように、ホヴハン・マミコニアンの著作は強いおとぎ話的な要素を含んでおり、マリ自身もそれらを「半伝説的」と呼んでいる。この著作で語られる事件、登場人物、および行動の舞台(黒海沿岸の都市タムブル、およびその跡地に建設されたとされる都市ハママシェン)は、他の史料には一切見られない[104]。

クラルジェティ住民が完全にアルメニア化したという仮説は、現代の歴史学界では支持されていないが、特定の時期にクラルジェティにアルメニア人住民が存在した可能性は排除されていない。530年代から540年代におけるアルメニア人の存在は、歴史家プロコピオスによって裏付けられている。プロコピオスは『ゴート戦争』において、アティナ(トルコ語版)、アルカベ(トルコ語版)、およびアプサロス(ジョージア語版)の右方にそびえる山々の向こう側、イベリアの国境に至るまで、ビザンツの臣民であるペルサルメニア人とアルメニア人が居住していると記している[106]。ホシタリアは、アルメニア人がクラルジェティに移住したのは主に4世紀末であり、5世紀に入るとその移住がより本格化したと考察している。ホシタリアによれば、これらのアルメニア人たちは中央および東アルメニアから移動してきた可能性が高い。この地域は、387年にビザンツ帝国とササン朝ペルシアの間でアルメニア王国が分割された際、ペルシア側の領有となっていた。当時のペルシア領アルメニアでは、キリスト教徒の住民が厳しい弾圧を受けており、これが450年から451年にかけてのヴァルダン・マミコニアン(アルメニア語版)による蜂起を引き起こした[107]。ガラザル・パルペツィ(アルメニア語版)の著作『アルメニアの歴史』からは、ペルシア軍との戦闘の際、アルメニア人がしばしばクラルジェティの近隣の峻険な地域であるタオに避難していたことが確認できる[108]。タオへ避難したアルメニア人の一部、特に親ビザンツ派の立場をとるアルメニア貴族の家系は、その後タオから移動してクラルジェティに定住した可能性が高い。当時のクラルジェティは、カルトリやコーカサス全域において、ペルシアに対するビザンツの拠点となっていた。ホシタリアは、移住したアルメニア貴族たちがクラルジェティ地方の住民構成に本質的な変化を与えたとは考えにくいとする一方で、現地の政治社会においては活発に活動していたとみている[107]。

ホシタリアの見解によると、5世紀から6世紀にかけて、クラルジェティに居住していた少数のアルメニア人住民と地元先住民との同化プロセスが急速に進展した。しかし、この結果は地元先住民の「アルメニア化」ではなく、逆にアルメニア人側のジョージア社会への民族文化的同化へと向かった。ホシタリアによれば、この同化の傾向は特に7世紀、アルメニア教会とジョージア教会の分裂により強まった。教会の分裂後、当時の多数派であったアルメニア使徒教会(非カルケドン派)の主要な民族的核から切り離された正教徒(両性論派)のアルメニア人は、民族的には異なるが同じ信仰を持つジョージア人との結びつきを強めていった。ホシタリアは、アルメニア人のジョージア化が始まったのは8世紀になってからであり、それが11世紀まで続いたというニコロズ・マリ(ジョージア語版)の仮説を誤りであると批判している。ホシタリアの見解では、アルメニア人のジョージア化のプロセスは7世紀の段階ですでにほぼ完了していたとされる。一方でホシタリアは、クラルジェティの一部の村落や局所的な地域社会においては、アルメニア人が自身の母語を含む固有の民族的特質を長期にわたって保持し続けていた可能性についても留意している[109]。

中世初期のクラルジェティの民族構成の研究において、現代の歴史学者や言語学者は地名学の観点も考慮している。古代から中世の書字史料に基づくと、クラルジェティ地方で確認されているアルメニア語起源の地名は、シャトベルディ(ジョージア語版)とミズナゾリ(ジョージア語版)の2例のみである。なお、後者の名称に含まれる「ミズナ」はジョージア語で「境界」を意味する。これに対して、ジョージア語(カルトヴェリ語族)に由来する地名は大半を占めている。パヴレ・インゴロクヴァ(ジョージア語版)は50以上の地理的名称を挙げており、それらのうち1つか2つの例外を除いて、すべての地名がカルトヴェリ語族の言語圏に由来するものであることを示した[110]。ロバート・エドワーズは、シャトベルディがクラルジェティにおいて数少ない識別可能なアルメニア系地名の1つであると言及している[111]。アルメニア系と比較してジョージア系の地名が多数派を占めることは、クラルジェティのアルメニア人がカルトヴェリ系住民に比べてはるかに少なかったことを裏付けている。

9–10世紀

9世紀以降、南ジョージアの歴史、およびその一部を構成するクラルジェティ地方の歴史においても、新しい時代が始まる。9世紀初頭、アショト1世によって南ジョージアにタオ=クラルジェティ王国が建国された。この王国は、中核となるタオ地方およびクラルジェティ地方のほか、シャヴシェティ(ジョージア語版)、コラ、アルタアニ(ジョージア語版)といった周辺の歴史的地域も支配下に収めていた。タオ=クラルジェティ王国の建国年については様々な説が存在する。王国の樹立を809年とみなす研究者もいれば[112]、813年頃と主張する研究者もいる[113]。11世紀の歴史家スムバト・ダヴィティス・ゼによると、アショト1世は当初、カルトリのエリスムタヴァリの地位にあった。アショト1世はアラブ人の侵攻勢力と交戦したものの敗北し、当時ビザンツ帝国の勢力圏内にあったクラルジェティに逃亡することを余儀なくされた[112]。新しい王国を建国した後、アショト1世はビザンツ帝国からクロパラテスの高位称号も授かった。その数年後、アショト1世はアッバース朝カリフ国内で始まった混乱に乗じて、アラブ人勢力に対する反撃の戦いを開始した。戦いは成功を収め、820年までにタオ=クラルジェティ王国はかつての本拠地であるカルトリ地方も再び統治下に置いた[114]。

クラルジェティにおける最大規模の建設・復興事業は、アショト1世の治世と深く結びついている。スムバト・ダヴィティス・ゼは、アショト1世がアルタヌジ(ジョージア語版)の要塞を再建し、その麓に都市を建設し、要塞の内部には自身の居住用の宮殿や、自身の埋葬地となる聖ペテロ=聖パウロ宮廷聖堂を建立したことを特に強調している[96]。アショト1世は、クラルジェティで活動していたキリスト教修道士たち、とりわけハンズタのグリゴル(ジョージア語版)との間に緊密な協力関係を築いた。アショト1世の統治期において、クラルジェティの修道院建設は特に大規模な広がりを見せた。アショト1世自身が戦死したため、治世中に多くの修道院を完成させるには至らなかったが、クラルジェティの修道士たちと世俗権力の協調関係の基礎を築き、その関係はアショト1世の子孫たちによって堅固に守られた[115]。

スムバト・ダヴィティス・ゼによると、826年にアショト1世はアラブ人勢力との交戦の最中に戦死したとされる[96]。アショト1世の死の年代として、一部の歴史学者からは836年頃とする説も提起されている[116][117]。アショト1世の死後、その血統と領地は息子3人⸺アダルナセ2世、バグラト1世、グヴァラム(ジョージア語版)⸺が引き継いだ。当初は3人の息子全員が共同でタオ=クラルジェティ王国を統治したが、後に次男バグラト1世がビザンツ皇帝からクロパラテスの称号を授かった。しかしながら、バグラト1世はタオとクラルジェティにおいて、アショト1世のような単独の統治者となったわけではなかった。ギオルギ・メルチュレは、3人の兄弟全員を「君主たち」と言及している[118]。

アショト1世がタオ=クラルジェティ王国の版図に組み入れた諸地域(中核たるカルトリ地方を含む)は、アショト1世の死後間もなく失われた。アラブ人の将軍ハーリド・イブン・ヤズィード(アラビア語版)が829年から830年にかけてカルトリを武力制圧した[119]。850年代に入ると、バグラト1世はトビリシ首長国(英語版)と協定を結び、アラブ人側へのカルトリの譲渡が決定した。その結果、タオ=クラルジェティ王国すなわち「カルトヴェリ人の王国」は再び南西ジョージアの諸地方のみに限定された。クラルジェティのバグラティオニ家の一族は、アラブ人に貢納を支払う時期さえあったが、国内における経済的および精神的な興隆が停止することはなかった。むしろ、この時期はクラルジェティにおける修道院建設が最も活発に行われた時期であった[115]。

888年にアダルナセ2世が「カルトヴェリ人の王」の称号を獲得し、王国は「カルトヴェリ人の王国」と呼ばれるようになった。統一ジョージア王国の創設年とみなされるのは978年であり、この年に「カルトヴェリ人の王」であったバグラト3世がアブハジア(英語版)の王位を継承した。この時期、クラルジェティは新たな統一王国の領域外に残された状態であった。その後、バグラト3世は1001年にクラルジェティを併合した。これ以降、クラルジェティの歴史は統一ジョージアの歴史と結びついている[112]。

11–16世紀

11世紀以降、クラルジェティにおける建築・復興事業は、主要な支えであったバグラティオニ家の支援を失うこととなった。1001年にダヴィト3世が死去し、1008年にはグルゲンが死去した。これに伴い、統一ジョージア王国の宮廷は、それまでの拠点であったクラルジェティを離れ、西ジョージアのクタイシへと移転した。旧来のバグラティオニ家のクラルジェティ系統は、事実上崩壊へと向かった。バグラト3世は中央集権化を進めるため、クラルジェティ系統の王族の一部を城砦に幽閉した。残る一族は国外への逃亡を余儀なくされた。南ジョージアにバグラティオニ家はもはや残らず、この政情の変化は地域の文化的生活を停滞させた[120]。

11世紀の後半に入ると、外圧の増大によりジョージアの国内情勢は悪化した。メソポタミア地方で勢力を確立したセルジューク朝は、次第にコーカサスおよび小アジア方面へと支配権を拡大していった。1065年、スルタン・アルプ・アルスラーンの率いる軍勢がジャヴァヘティ(ジョージア語版)を制圧し、1068年にはカヘティ(ジョージア語版)地方とカルトリ地方を略奪した。この時期、セルジューク朝の軍勢はすでに小アジアに深く侵入していた。1071年8月、セルジューク朝はマラズギルトの戦いでビザンツ帝国の軍隊を破った。これにより、中東地域における勢力均衡は大きく変化した。1080年、スルタン・マリク・シャー率いる軍勢は再びジョージアに侵入し、ほとんどすべての地域を攻め落とした。過去3世紀にわたりイスラム勢力の直接侵略を免れてきたクラルジェティ地方であったが、このセルジューク朝の侵攻により情勢はきわめて深刻となった。ダヴィト4世お抱えの年代記作家の記述によれば、「……クラルジェティは海辺に至るまで……トルコ人で満たされた」[121]。なお、同じ年代記作家はマリク・シャーをかなり肯定的に描写しており、キリスト教徒に対する慈悲深さに言及している[122]。しかし、同年代記の具体的な略奪の記述を見ると、実際の侵略部隊は決して慈悲深い行動をとっていたわけではなかった[121]。

一日のうちに、彼らはクタイシを、そしてアルタヌジ(ジョージア語版)を、そしてクラルジェティの修道院群を焼き払った。

研究者たちは、クラルジェティ地方および各修道院群が受けた具体的な被害規模を完全には特定できていない。ほとんどの場合、放火による損害は受けたものの、石造構造物の大部分が瓦礫の山と化す破滅的な破壊までは至っていないことは、建築遺構から確認されている。セルジューク朝によるクラルジェティ地方への軍事的支配と圧力は、12世紀初頭にダヴィト4世が大規模な反攻作戦を展開して撤退させるまで、断続的に続いた[123]。

12世紀以降、クラルジェティ地方が統一ジョージア王国の一部として完全に組み込まれると、かつてのクラルジェティの重要性は失われたものとみられる。この原因としては、第一に宮廷がクラルジェティからクタイシへ、そしてトビリシへと移転したこと、第二にバグラティオニ王家が国土の内陸部や内カルトリの統治に注力したことが挙げられる。12世紀から13世紀にかけてクラルジェティで建設された聖堂は確認されていない。それ以降の時期から16世紀までも、クラルジェティで建設された聖堂はわずか2つほどにとどまる[123]。

16世紀およびそれ以降の時代

1921年のカルス条約締結後の南コーカサス領域の分配。歴史的クラルジェティ地方はトルコのアルトヴィン県に含まれた。

1551年、クラルジェティは南ジョージアの諸地域とともに、オスマン帝国によって征服された。この時期以降、クラルジェティ地方および広義のサムツヘ公国(ジョージア語版)のジョージア人住民のイスラム教への改宗が進んだ。17世紀前半の状況について、歴史家である修道士エグナタシヴィリ(ジョージア語版)は次のように記述している[124][125]。

もはやそこには、クラルジェティの寄留者を除いて、信者は一人もいない。
「そこ」とは、かつてのアタベク国を指す。

1877年から1878年にかけての露土戦争の後、ベルリン会議での決定に基づき、歴史的な南ジョージアの領域がロシア帝国の版図に組み込まれた。ロシア帝国に割譲された領土の中には、歴史的クラルジェティ地方の一部地域も含まれていた。ロシア領となったクラルジェティ地方の一部はバトゥミ州(ロシア語版)に組み込まれ、そのうちアルトヴィン管区(ロシア語版)を構成した。このアルトヴィン管区は、バトゥミ州に属する他の管区群とともに、軍事および行政の権限においてカフカース軍管区(ロシア語版)の管轄下に置かれた。バトゥミ州の地方行政の長にはバトゥミ州軍務知事が配された。1883年から1903年にかけて、歴史的クラルジェティの領域は、バトゥミ州全体とともにクタイシ県(ロシア語版)の管轄下へ統合された。その後、1903年以降はクタイシ県から再び分離され、独立した行政単位として再設置されたバトゥミ州の管轄へ戻ることとなった[126]。

ロシア革命後の1918年4月22日、クラルジェティは新しく建国されたザカフカース民主連邦共和国の版図に含まれた。しかし、同連邦は間もなく崩壊し、同年5月26日からは新たなジョージア民主共和国の主権下へと移行した。1918年8月27日のブレスト=リトフスク条約により、ソビエト・ロシア政権はジョージア民主共和国側の同意を得ることなく、南ジョージアの諸領域に対する権利を放棄した。この放棄された地域には、歴史的クラルジェティ地方も含まれていた。1921年10月13日、トルコ大国民議会政府(アンカラ政府)とソビエト化された南コーカサス諸共和国との間で講和条約が締結された(カルス条約)。この条約により、トルコは南ジョージアの歴史的領土の大部分を入手した。その結果、歴史的クラルジェティ地方は、行政区画としてのアルトヴィン県という形でトルコ領に編入された。カルス条約で確定された国境線は、ソビエト連邦の崩壊を経た今日においても、ジョージアとトルコの国境線として機能している[127]。

建設と建築

ヴァフタング1世の時代

ヴァフタング1世の命によりアルタヴァジが再建したアヒザ要塞(ジョージア語版)の現在の姿。

クラルジェティにおける最初の重要な建設事業に関する情報は、中世ジョージアの歴史家ジュアンシェル・ジュアンシェリアニ(ジョージア語版)が伝えている。これらの建設事業は、イベリア王ヴァフタング1世と、その乳兄弟であるアルタヴァジ(クラルジェティのエリスタヴィ)に関するものである。ジュアンシェルの記述によれば、ヴァフタング1世とアルタヴァジは共同でクラルジェティの新たに併合された地域を巡察し、大規模な建設事業を計画した。この時期のクラルジェティにはトゥハリシ(ジョージア語版)とアヒザ(ジョージア語版)という2つの大きな要塞が存在していた。ヴァフタング1世の命を受けたアルタヴァジは、アヒザ要塞を修復するとともに、新たなアルタヌジ要塞を建設した。ジュアンシェルはヴァフタング1世とアルタヴァジが訪問した聖堂について何も言及していない。これを根拠として、建築史家ダヴィト・ホシタリア(wikidata)は、当時のクラルジェティには聖堂が1つしか存在せず、それは5世紀後半にミルダト5世(フランス語版)によってトゥハリシ要塞内に建設されたものであったと推測している[83]。ヴァフタング1世は聖堂建設にも意を払ったとみられ、その指示を受けたアルタヴァジは、オピザ修道院(ジョージア語版)をはじめ、メリア(トルコ語版)、シンドビ(トルコ語版)、およびアヒザ(ジョージア語版)の各聖堂を建設した[128]。

ベルタ福音書に記された注記の一つは、トゥハリシの聖ギオルギ聖堂の建設もヴァフタング1世によるものとしている。東洋学者ロバート・ピアポント・ブレイク(英語版)と美術史家シラルピ・デル=ネルシシアン(アルメニア語版)は、この注記が記された年代を12世紀から16世紀の間と推定している[129]。両研究者の指摘によれば、当該注記の内容はトゥハリシ聖堂の創建に関する伝承である。福音書の注記によれば、トゥハリシの聖堂はヴァフタング1世の治世下に建てられたとされる。後年の注記に反映された伝承は、すでに4世紀に創建されていたトゥハリシの古い聖堂を、ヴァフタング1世の名に結び付けたものと考えられる。歴史家ジュアンシェルの記述を通じて、ヴァフタング1世のエリスタヴィであったアルタヴァジがクラルジェティで数多くの建設活動を行った事実が知られていたことが、伝承形成の背景となった可能性がある。建築史家ダヴィト・ホシタリア(wikidata)は、アルタヴァジがトゥハリシの古い聖堂で実際に修復作業を行ったか、あるいは聖堂全体を建て直した可能性を排除していない。ただしホシタリアは、ジュアンシェルがこの点について一切言及しておらず、その記述によればヴァフタング1世とアルタヴァジは要塞の視察のみにとどまっていると指摘している[128]。

アルタヴァジが5世紀後半にオピザ修道院(ジョージア語版)を建てたというジュアンシェルの記述は、一時期、研究者の多くから懐疑的に見られていた。この懐疑的な見解は、アッシリア十三士がジョージアへ来訪する6世紀半ばまで、ジョージアには修道院が存在しなかったとする伝統的な通説に由来している[130][131]。文献学者コルネリ・ケケリゼ(ジョージア語版)はこの議題について次のように記している[132]。

いわゆる13人のシリア修道父の来訪以前に、我々の地に本来の意味での修道院が存在したことを示す証拠はまったく存在しない。我々の地における最初の修道院は、これらの修道父によって創設された。

現代の学界においては、この問題に関する見解は分かれている。建築史家ダヴィト・ホシタリア(wikidata)は、近年発見された新資料によってジョージアにおける修道院成立の初期段階が従来とは異なって解釈されるようになり、ジュアンシェルの記述を疑問視する根拠は存在しないと主張している[133]。一方で現代の研究者のうち、オピザ修道院の創設をヴァフタング1世の時代に帰する説を否定する人物として、美術史家ヴァフタング・ジョバゼ(ジョージア語版)が挙げられる[134]。

6–8世紀

ドゥガナラ川の渓谷に建てられたパレヒ修道院(ジョージア語版)。

クラルジェティ地方における6世紀から7世紀の建設事業に関する情報は、実質的に存在しない。この時期に、ベルタの上流、ドゥガナラ川の渓谷にパレヒ修道院(ジョージア語版)が創設されたとする見解が出されている。研究者の間でこの説の根拠となっている文献は、聖人伝『ザルズマのセラピオンの生涯(ジョージア語版)』である。同書では、聖シオ(ジョージア語版)の弟子の一人であるミカエリがクラルジェティに赴き、オピザ(ジョージア語版)に一時滞在した後の経緯が次のように記述されている。

神のお告げにより、人立ち入らぬ岩だらけの地に、小さな礼拝堂とわずかな兄弟たちの集会所を建て、その地をパレヒと呼んだ。[135]

一方、修道士ギオルギ・メルチュレ(ジョージア語版)の著作『ハンズタのグリゴルの生涯(ジョージア語版)』には、次のように記されている。

ハンズタが恵みによって名高くなり、霊的な子らによって喜びに満ちていたそのとき、ミジナゾリ(ジョージア語版)からハンズタへ大修道者なる父ミカエリがやって来た。ミカエリはパレヒに定住した者であり、祝福されし父グリゴルの友人であった。ミカエリは孤独を求めており、ベルタのパレヒに自らの住処を見出した。

パレヒ修道院の創設年代は、研究者の間で意見が分かれている。一つは『ザルズマのセラピオンの生涯(ジョージア語版)』に記述された出来事を6世紀から7世紀と比定し[136][137][138][139][140][141][142]、パレヒ修道院は実際に6世紀半ばに聖シオの弟子ミカエリによって創設されたとする説である。もう一つは、ザルズマのセラピオン(ジョージア語版)を9世紀の人物とみなし[143][144][145][146][147][148]、両文献に登場するミカエリは同一人物であり、ハンズタのグリゴル(ジョージア語版)の同時代の人物であると考えている。後者の説によれば、6世紀から7世紀にかけてパレヒ修道院は存在しなかったことになる。

7世紀後半から8世紀にかけて、クラルジェティ地方はマルワーンの遠征やコレラの流行により、深刻な打撃を受けた。この混乱期において、修道院や聖堂をはじめとする各種の建設活動が行われた記録はまったく確認されていない。既存のオピザ修道院もこの時期に一時無人化し、750年から760年にかけて再興された。8世紀末にハンズタのグリゴル(ジョージア語版)がクラルジェティへ赴いた際、同地域で活動していた修道院はオピザ修道院を除いて存在しなかった[102]。

「アルメニア人の修道院」

学術文献においては一時期、アラブ支配以前の時代にクラルジェティにおいてアルメニア人が何らかの修道院を創設したという見解が普及していた。この説を提唱したのは言語学者ニコロズ・マリ(ジョージア語版)であり、マリは6世紀から7世紀にかけてクラルジェティの住民がアルメニア人の移民の波によって「アルメニア化」したと考えていた。『ハンズタのグリゴルの生涯(ジョージア語版)』の初版序文において、マリはハンズタのグリゴル(ジョージア語版)とその弟子たちが活動を開始した時期の状況を次のように記している[149]。

ジョージアの修道士たちはクラルジェティにおいて、何らかの破壊の後、完全に荒廃し途絶えたアルメニアの修道院建築を目にした。

また8世紀半ばにおけるオピザ(ジョージア語版)の復興に関連して、マリは次のように指摘している[149]。

クラルジェティにおける最初のジョージア人修道士の入植地は、アルメニア人修道院のまったく新しき灰燼の地の上に設立された。

後に同じ見解を文献学者コルネリ・ケケリゼ(ジョージア語版)も展開した[150]。

アルメニア人はオピザ(ジョージア語版)、ハンズタ修道院(ジョージア語版)、イシハニ(ジョージア語版)、ミジナゾリ(ジョージア語版)、シャトベルティ(ジョージア語版)などの修道院を建設し、そこでは文化的・創造的および文学的活動が活発に行われた。

建築史家ダヴィト・ホシタリア(wikidata)は、ケケリゼがイシハニ修道院を誤ってクラルジェティの修道院群と同列に挙げているが、実際にはイシハニ修道院はタオに位置すると指摘している。イシハニにおける最初の聖堂が7世紀にカルケドン派の正教徒アルメニア人ネルセス3世(アルメニア語版)によって建てられた事実はよく知られており、現代の研究者の間でも異論はない。しかしホシタリアは、9世紀までのタオとクラルジェティの歴史的経緯は異なっているため、両地域を同一視してはならないと指摘している[151]。この時期のクラルジェティ領域内にアルメニア人修道院が存在したとするマリの見解は、現代の学界では否定されている[152]。アルメニア人がクラルジェティにおいて修道院を建設した事実を、直接的あるいは間接的に証拠づける文献史料は存在しない。また、当時クラルジェティで作成されたアルメニア語の写本や、その他の修道院生活を示す形跡も確認されていない[151]。

クラルジェティおよびタオの建築史について、史実と異なる記述や学術的合意とは異なる主張を含む出版物も見られる。たとえば、クラルジェティを歴史的アルメニアの一部と位置づけ、9世紀から10世紀における南部ジョージアの文化を「アルメニア・カルケドン派」と表現する刊行物が発表されている[153]。こうした刊行物についてホシタリアは、美術史の観点からタオ=クラルジェティの建築をアルメニアに帰することには矛盾があり、建築的な考察が後回しにされていると指摘している[154]。

ハンズタのグリゴルの時代

今日のハンズタ修道院(ジョージア語版)。
今日のドリスカナ修道院(ジョージア語版)。

クラルジェティ地方における最も大規模な建設事業は9世紀から始まり、中世ジョージアにおける最大規模の修道院運動を先導したハンズタのグリゴル(ジョージア語版)の活動と結びついている。ハンズタのグリゴルは780年ごろにカルトリからクラルジェティへと赴いた[155]。ハンズタのグリゴルにはサバ(ジョージア語版)、テオドレ、クリステフォレという3人の弟子がいた。弟子たちも後に修道院の建設に寄与した。ハンズタのグリゴルたちの最初の拠点となったのは、再興されたばかりのオピザ修道院(ジョージア語版)であり、ハンズタのグリゴルはそこで2年間を過ごした。2年後、ハンズタのグリゴルは隠修修道士フエディオスの勧めにより、新たな修道院であるハンズタ修道院(ジョージア語版)を創設した[156]。

修道士ギオルギ・メルチュレ(ジョージア語版)による聖人伝『ハンズタのグリゴルの生涯(ジョージア語版)』には、アズナウリ(ジョージア語版)であるガブリエル・ダパンチュリ(ジョージア語版)やタオ=クラルジェティ王国を建国したアショト1世が登場する。これらの世俗権力の支援により、修道院建設の広範な展開が可能となった。アショト1世はクラルジェティで活動する修道士たち、特にハンズタのグリゴルと密接な関係を構築した。この強い関係の成立以降、クラルジェティにおける修道院の建設はさらに大規模に進められた。アショト1世の治世下において、アズナウリのガブリエル・ダパンチュリの資金援助により、ハンズタ修道院に新たな石造聖堂が建立され、さらに女子修道院である「グナトリのヴァニ」が創設された。グナトリはシャヴシェティ(ジョージア語版)地方に位置するグルナテリ(ジョージア語版)村に比定されており、同村には9世紀のものとみられる小さな単室聖堂の遺構が残存している。別の説では、グナトリのヴァニは後代にヌカ=サクダリ(ジョージア語版)と称された聖堂遺構に相当するとされる。グナトリのヴァニ修道院は規模が小さく、知名度も低かったとみられる。ギオルギ・メルチュレはそれ以降の記述でこの修道院に言及しておらず、クラルジェティの「12の荒野」の数にも数えられていない[157]。

この時期には、メレ女子修道院も創設されたと推測されている。メレにおける最初の聖堂は、5世紀のヴァフタング1世の時代にアルタヴァジによって建設された。この聖堂は9世紀に女子修道院が創設された際にも破壊されずに残されていた可能性がある。ギオルギ・メルチュレはメレにおける新たな聖堂の建設について何も言及しておらず、単に修道母フェブロニアが「サムツヘ(ジョージア語版)から赴き、メレに居を定めた」と記述している[158]。この記述以降、ギオルギ・メルチュレはメレ修道院について言及しており、メレ修道院は広く知られていたことがうかがえる。クラルジェティの「12の荒野」として知られる主要修道院群において、メレ修道院は唯一の女子修道院である。メレ修道院の大まかな位置は判明しているものの、修道院の遺構は発見されていない[157]。

9世紀半ば、バグラト1世とその兄弟たちは、ハンズタのグリゴルの招きに応じてクラルジェティ地方の各修道院を巡幸した。この巡察に関して、ギオルギ・メルチュレの著作には、それまで作品内に登場しなかった新たな修道院の名前が現れている[159]。具体的には、バグラティオニ家の人物が訪問した修道院として、ジメルキの生神女修道院(ジョージア語版)、ベルタの生神女修道院(ジョージア語版)、そしてダバの聖ギオルギ修道院が記録されている。さらに、ハンズタ修道院に滞在中のバグラト1世らに謁見するため、ミジナゾリ修道院(ジョージア語版)の院長であるダヴィト(ジョージア語版)と、その弟子たちであるイラリオニ(ジョージア語版)(ツカロスタヴィ修道院(ジョージア語版)の創建者)およびザカリア(ジョージア語版)(バレテルタ修道院(ジョージア語版)の創建者)が訪れた。これらすべての修道院は830年代から840年代にかけて創設され、後にパレヒ修道院(ジョージア語版)およびドリスカナ修道院(ジョージア語版)も修道院群に加わった[115]。

このようにして、比較的短期間のうちにクラルジェティ地方には12の主要な修道院が創設または再興され、それらはクラルジェティの「12の荒野」として知られるようになった。具体的にはオピザ(ジョージア語版)、ハンズタ(ジョージア語版)、メレ、シャトベルティ(ジョージア語版)、ミジナゾリ(ジョージア語版)、ツカロスタヴィ(ジョージア語版)、バレテルタ(ジョージア語版)、ベルタ(ジョージア語版)、ジメルキ(ジョージア語版)、ダバ、パレヒ(ジョージア語版)およびドリスカナ(ジョージア語版)である。中世の著述家たちは、これらの修道院を「ジョージアのシナイ山」と例えて言及している。各修道院にはそれぞれ院長が存在したが、修道院群全体として組織的な連合体を構成しており、ニコロズ・マリ(ジョージア語版)の表現によれば、ハンズタのグリゴルを頭領とする「修道士の共和国」を構成していた。830年代以降、ハンズタのグリゴルはクラルジェティの「12の荒野」の総修道院長と称された[160]。

今日、ハンズタのグリゴルの時代の建築を学術的水準で研究するための資料は、わずかしか残されていない。ほとんどの修道院において9世紀の創建当時の建築は現存しておらず、後代に大幅な改築が施されたか、あるいは完全に新しい聖堂に建て替えられている。830年代から840年代にかけての創建当時の聖堂に関する比較的大規模な遺構は、ツカロスタヴィ修道院およびミジナゾリ修道院のみに残されていると推測されている[160]。

11世紀以降

11世紀初頭からクラルジェティにおける建設活動は急速に衰退し、11世紀後半からはセルジューク朝の侵攻によって、建設事業はほぼ完全に途絶えた。セルジューク朝の侵攻は、既存の聖堂や修道院群にも多大な被害を及ぼした。多くの建築が放火されたものの、火災によって建物自体が全壊することはなかったと考えられている[161]。

クラルジェティでは、12世紀から13世紀にかけて建立された聖堂は確認されていない。13世紀以降の時代で確認されている宗教建築の事例も、数件にとどまる。これらの宗教建築の遺構の例としては、19世紀にモスクへと改築されたタンゾティ聖堂(トルコ語版)や、その近隣に位置するママツミンダ聖堂(ジョージア語版)が挙げられる。ママツミンダ聖堂の建築様式は、クラルジェティ地方における建築技術の衰退を示している。ママツミンダ聖堂の建立時期は16世紀と比定されている[162]。

クラルジェティの村々で進められた小規模な聖堂建設のほか、ハンズタのグリゴルの時代に創設された既存の修道院群においても、改築などの小規模な建設作業が行われていた。14世紀から16世紀にかけてオピザ修道院(ジョージア語版)、ハンズタ修道院(ジョージア語版)に鐘楼が併設され、13世紀にはシャトベルディ修道院(ジョージア語版)の聖堂の南側に附設礼拝堂が付け加えられた[125]。

1551年にオスマン帝国によってクラルジェティ地方が征服された後も、各地の修道院は活動を維持し続けた。これらの修道院群が最終的に放棄されて無人化したのは、アンチャ主教座(ジョージア語版)およびトベティ主教座(ジョージア語版)が廃止され、シャヴシェティ(ジョージア語版)=クラルジェティにおけるキリスト教の教会組織が解体された、17世紀後半から18世紀にかけての時期であった[125]。

脚注

注釈

  1. ↑ ジョージア語の「უდაბნო」(ウダブノ)は直訳で「荒野」や「砂漠」を意味するが、キリスト教の文脈では世俗から離れた「修道院」や「庵の集まり」を意味する。
  2. ↑ Bereket(ベレケト)はトルコ語で「豊かな」を意味する。
  3. ↑ ここでの「イヴェリ」には、後世のメグレル人を含む旨の注記がある[76]。
  4. ↑ 「ガドニ」はクラルジェティ地方の一部であり、イメルヘヴィ川(ジョージア語版)の右岸に位置する。

出典

  1. ↑ Muskhelishvili 1980, pp. 544–545.
  2. ↑ Khoshtaria 2005, p. 13.
  3. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 48.
  4. ↑ Thierry 1989, p. 144.
  5. ↑ Kadiroğlu 1991, pp. 2, 5, 6.
  6. ↑ Batonishvili 1904, pp. 199–200.
  7. ↑ Koch 1846.
  8. ↑ Bakradze 1880.
  9. ↑ Bakradze 1881.
  10. ↑ Kazbek 1876.
  11. ↑ Kazbegi 1995.
  12. ↑ Uvarova 1891, p. 300.
  13. ↑ Pavlinov 1893.
  14. ↑ Marr 1911a.
  15. ↑ Marr 1949, pp. 7–21.
  16. ↑ Takaishvili 1909.
  17. ↑ Takaishvili 1938.
  18. ↑ Takaishvili 1952.
  19. ↑ Chubinashvili & Severov 1936, p. 88.
  20. ↑ Chubinashvili 1946, pp. 8–10.
  21. ↑ Beridze 1981.
  22. ↑ Beridze 1989.
  23. ↑ Zakaraya 1990.
  24. ↑ Djobadze 1992.
  25. ↑ Thierry & Thierry 1960.
  26. ↑ Thierry & Thierry 1968.
  27. ↑ Thierry 1989.
  28. ↑ Thierry 1993.
  29. ↑ Winfield 1968.
  30. ↑ Edwards 1986.
  31. ↑ Baumgartner 1993.
  32. ↑ Kadiroğlu, Karaca & Yazar 1996.
  33. ↑ Kadiroğlu, Karaca & Yazar 1998.
  34. ↑ Kadiroğlu, Karaca & Yazar 1999.
  35. ↑ Kadiroğlu 1999.
  36. 1 2 Kaukhchishvili 1955, p. 4.
  37. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 9.
  38. ↑ Khoshtaria 2005, p. 14.
  39. ↑ Abuladze 1963, p. 82.
  40. ↑ Khazaradze 1997, pp. 391–392.
  41. ↑ Khazaradze 2001, pp. 324–326.
  42. 1 2 Khoshtaria 2005, p. 15.
  43. ↑ Ptolemaeus.
  44. ↑ Ptolemaeus 1955, p. 49.
  45. ↑ Kiepert 1878, p. 97.
  46. ↑ Ptolemaeus 1901, p. 937.
  47. ↑ Marquart 1901, p. 116.
  48. ↑ Hübschmann 1904, p. 212.
  49. ↑ Gafantsyan 1940, p. 19.
  50. ↑ Ingorokva 1954, pp. 427–432.
  51. ↑ Muskhelishvili 1977, p. 60.
  52. ↑ Khazaradze 1984, pp. 54–55.
  53. ↑ Melikishvili 1959, pp. 114, 210, 212.
  54. ↑ Ptolemaeus 1955, p. 61.
  55. ↑ Kaukhchishvili 1976, pp. 165–166.
  56. ↑ Kaukhchishvili 1957, p. 188.
  57. ↑ Marquart 1901, pp. 168–169.
  58. ↑ Ingorokva 1954, pp. 432–434.
  59. ↑ Manandian 1940, pp. 98–99.
  60. ↑ Janashia 1952, p. 93.
  61. ↑ Kaukhchishvili 1957, pp. 299–300.
  62. ↑ Muskhelishvili 1977, p. 55.
  63. ↑ Khazaradze 1984, p. 55.
  64. ↑ Kaukhchishvili 1957, p. 125.
  65. ↑ Ingorokva 1954, p. 439.
  66. ↑ Muskhelishvili 1977, p. 59.
  67. ↑ Arrianus 1961, p. 90.
  68. ↑ Kaukhchishvili 1983, p. 158.
  69. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 42.
  70. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 57.
  71. ↑ Kaukhchishvili 1955, pp. 136–137.
  72. ↑ Kaukhchishvili 1961, p. 130.
  73. ↑ Muskhelishvili 1977, p. 202.
  74. ↑ Melikishvili 1959, p. 136.
  75. ↑ Khoshtaria 2005, pp. 19–20.
  76. ↑ Marr 1911b, p. 2.
  77. ↑ Marr 1911b, p. 22.
  78. ↑ Khoshtaria 2005, p. 20.
  79. ↑ Melikishvili 1959, pp. 136–137.
  80. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 138.
  81. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 177.
  82. ↑ Goiladze 1991, pp. 141–145.
  83. 1 2 3 Khoshtaria 2005, p. 29.
  84. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 178.
  85. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 198.
  86. ↑ Javakhishvili 1945, pp. 187, 191.
  87. ↑ Brosset 1849, p. 189.
  88. ↑ Kaukhchishvili 1955, pp. 217–218.
  89. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 373.
  90. ↑ Bogveradze 1973.
  91. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 226.
  92. ↑ Khoshtaria 2005, pp. 38–40.
  93. ↑ Khoshtaria 2005, p. 43.
  94. 1 2 Kaukhchishvili 1955, p. 234.
  95. 1 2 Kaukhchishvili 1955, p. 376.
  96. 1 2 3 Kaukhchishvili 1955, p. 377.
  97. ↑ Sabinini 1882, pp. 324–325.
  98. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 239.
  99. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 245.
  100. ↑ Merchule 1963, p. 257.
  101. ↑ Kekelidze 1980, p. 93.
  102. 1 2 Khoshtaria 2005, p. 45.
  103. 1 2 Marr 1911b, pp. 3–4.
  104. 1 2 Khoshtaria 2005, p. 21.
  105. ↑ Ingorokva 1954, pp. 422–426.
  106. ↑ Kaukhchishvili 1965, pp. 123–125.
  107. 1 2 Khoshtaria 2005, p. 22.
  108. ↑ Janashia 1962, pp. 188, 236, 248, 257.
  109. ↑ Khoshtaria 2005, p. 22–23.
  110. ↑ Ingorokva 1954, pp. 434–436.
  111. ↑ Edwards 1986, p. 167.
  112. 1 2 3 Lortkipanidze 1986, pp. 462–463.
  113. ↑ Ingorokva 1954, p. 43.
  114. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 253.
  115. 1 2 3 Khoshtaria 2005, p. 51.
  116. ↑ Javakhishvili 2012, p. 91.
  117. ↑ Kekelidze 1980, p. 137.
  118. ↑ Abuladze 1963, p. 275.
  119. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 378.
  120. ↑ Khoshtaria 2005, p. 221.
  121. 1 2 Kaukhchishvili 1955, p. 319.
  122. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 321.
  123. 1 2 Khoshtaria 2005, p. 222.
  124. ↑ Kaukhchishvili 1955, p. 427.
  125. 1 2 3 Khoshtaria 2005, p. 225.
  126. ↑ Zhordania 1977, p. 151.
  127. ↑ Treaty of Kars 1921, p. 10.
  128. 1 2 Khoshtaria 2005, p. 27.
  129. ↑ Blake & Der Nersessian 1942–1943, pp. 233–234.
  130. ↑ Kekelidze 1980, pp. 88, 93, 147.
  131. ↑ Menabde 1962, pp. 385–386.
  132. ↑ Kekelidze 1923, p. 72.
  133. ↑ Khoshtaria 2001, pp. 49–55.
  134. ↑ Djobadze 1992, pp. 15–16.
  135. ↑ Basil of Zarzma 1963, p. 322.
  136. ↑ Peeters 1923, p. 165.
  137. ↑ Kakabadze 1924.
  138. ↑ Ingorokva 1954, pp. 324–339, 345–346.
  139. ↑ Chubinashvili 1959, pp. 29–31.
  140. ↑ Beridze 1955, pp. 118–123.
  141. ↑ Bogveradze 1964, pp. 50–69.
  142. ↑ Tumanishvili 1996, pp. 57–58.
  143. ↑ Javakhishvili 1916, pp. 61–72.
  144. ↑ Takaishvili 1919, pp. 105–124.
  145. ↑ Kekelidze 1923, pp. 145–148.
  146. ↑ Menabde 1962, pp. 423–427, 490–494.
  147. ↑ Vachnadze 1975, pp. 5–30.
  148. ↑ Djobadze 1992, pp. 52–53.
  149. 1 2 Marr 1911b, p. 15.
  150. ↑ Kekelidze 1941, p. 84.
  151. 1 2 Khoshtaria 2005, p. 41.
  152. ↑ Menabde 1962, p. 385.
  153. ↑ Kazaryan 2002, pp. 314–316.
  154. ↑ Khoshtaria 2005, p. 42.
  155. ↑ Ingorokva 1954, p. 341.
  156. ↑ Khoshtaria 2005, p. 47.
  157. 1 2 Khoshtaria 2005, p. 49.
  158. ↑ Merchule 1963, p. 261.
  159. ↑ Merchule 1963, p. 275.
  160. 1 2 Khoshtaria 2005, p. 52.
  161. ↑ Khoshtaria 2005, pp. 221–222.
  162. ↑ Pavlinov 1893, pp. 58–59.

参考文献

  • Abuladze, Ilia (1963). ძველი ქართული აგიოგრაფიული ლიტერატურის ძეგლები. Vol. 1.
  • Arrianus, Flavius (1961). მოგზაურობა შავი ზღვის გარშემო. Translated by Kechaghmadze, Natela.
  • Basil of Zarzma (1963). Abuladze, Ilia (ed.). ცხოვრება სერაპიონ ზარზმელისა. ძველი ქართული აგიოგრაფიული ლიტერატურის ძეგლები (ジョージア語). Vol. 1. Tbilisi: Sakartvelos SSR Mecnierebata Akademiis Gamomcemloba.
  • Batonishvili, Vakhushti (1904). Janashvili, Giorgi (ed.). საქართველოს გეოგრაფია. Tbilisi: ქართველთა შორის წერა-კითხვის გამავრცელებელი საზოგადოების სტამბა.
  • Bakradze, Dmitri (1880). “Об археологической поездке совершенной в 1879 году по поручению академии Наук в Чорохский бассеин, Батум, Артвин и Артанудж”. Записки Императорской Академии Наук (ロシア語). 37 (1): 190–194.
  • Bakradze, Dmitri (1881). “Записки о Батумской области”. Известия Кавказского отделения Императорского русского географического общества (ロシア語). VI: 153–167.
  • Baumgartner, Bruno (1993). “Drei Vergessene Georgische Kloester in der Nordostturkei: C'q'arostavi, Nuka Kilise, Miznazori”. Revue des études géorgiennes et caucasiennes (ドイツ語). 8–9.
  • Beridze, Vakhtang (1955). სამცხის ხუროთმოძღვრება, XIII-XVI საუკუნეები (ジョージア語). Tbilisi: საქართველოს სსრ მეცნიერებათა აკადემიის გამომცემლობა.
  • Beridze, Vakhtang (1981). Архитектура Тао-Кларджети (ロシア語).
  • Beridze, Vakhtang (1989). “Les monuments d'architecture du T'ao-K'larʒeti”. Revue des études géorgiennes et caucasiennes (フランス語) (5): 169–202.
  • Blake, Robert Pierpont; Der Nersessian, Sirarpie (1942–1943). “The Gospels of Bert'ay: an Old Georgian MS. of the Tenth Century”. Byzantion (英語). 16: 226–285.
  • Bogveradze, Akaki (1964). “სერაპიონ ზარზმელის ცხოვრების თარიღისათვის”. მაცნე, ისტორიის სერია (ジョージア語) (3).
  • Bogveradze, Akaki (1973). საქართველოს ისტორიის ნარკვევები. Vol. 2.
  • Brosset, Marie-Félicité (1849). Histoire de la Géorgie (フランス語).
  • Chubinashvili, Giorgi; Severov, Nikolai (1936). ქართული არქიტექტურის გზები (ジョージア語).
  • Chubinashvili, Giorgi (1946). “ტაოსა და კლარჯეთის ხუროთმოძღვრული ძეგლები და მათ მიერ წამოჭრილი პრობლემები”. საქ. სსრ. მეცნ. აკად საზ. მეცნ. განყ–ბის XXII სამეცნიერო სესია, მუშაობის გეგმა და მოხსენებათა თეზისები (ジョージア語).
  • Chubinashvili, Giorgi (1959). Грузинское чеканное искусство (ロシア語). Tbilisi: Издательство Академии наук Грузинской ССР.
  • Djobadze, Wachtang (1992). Early Medieval Georgian Monasteries in Historic Tao, Klardjeti and Savseti (英語). Stuttgart: Franz Steiner Verlag. ISBN 3-515-05624-6.
  • Edwards, Robert W. (1986). “The Fortifications of Artvin: A Second Preliminary Report on the Marchlands of Northeast Turkey”. Dumbarton Oaks Papers (英語). 40.
  • Gafantsyan, Grigor (1940). Историко-лингвистическое значение топономики древнех Армении (ロシア語).
  • Goiladze, Vakhtang (1991). ვახტანგ გორგასალი და მისი ისტორიკოსი.
  • Hübschmann, Heinrich (1904). Die altarmenischen Ortsnamen (ドイツ語).
  • Ingorokva, Pavle (1954). გიორგი მერჩულე (ジョージア語). Tbilisi: საბჭოთა მწერალი.
  • Janashia, Simon (1952). უძველესი ეროვნული ცნობა ქართველთა პირველსაცხოვრისის შესახებ. Vol. შრომები 2.
  • Janashia, Lazar (1962). ლაზარ ფარპეცის ცნობები საქართველოს შესახებ. Tbilisi: საქართველოს სსრ მეცნიერებათა აკადემია.
  • Javakhishvili, Ivane (1916). ძველი ქართული საისტორიო მწერლობა (V-XVIII სს) (ジョージア語). Tbilisi: სტამბა.
  • Javakhishvili, Ivane (1945). ისტორიის მიზანი, წყაროები და მეთოდები წინათ და ახლა, წიგნი I: ძველი ქართული საისტორიო მწერლობა (V–XVIII სს.).
  • Javakhishvili, Ivane (2012). ქართველი ერის ისტორია. Vol. 2. Tbilisi: პალიტრა L. ISBN 978-9941-19-810-6.
  • Kadiroğlu, Mine (1991). “The Architecture of the Georgian Church at Ishan”. EUS - XXVIII. 121.
  • Kadiroğlu, Mine (1999). “Untersuchungen am mittelalterlichen georgischen Baudenkmälern in Nordost-Anatolien”. Georgica, Zeitschriften für Kultur, Sprache und Geschichte Georgiens und Kaukasiens (ドイツ語) (22).
  • Kadiroğlu, Mine; Karaca, Zafer; Yazar, Turgut (1996). “1995 yılı Tao-Klardjeti yüzey araştırması”. XIV Araştırma Sonuçları Toplantısı (トルコ語). 1.
  • Kadiroğlu, Mine; Karaca, Zafer; Yazar, Turgut (1998). “Ortaçağ Gürcü mimarisi 1996 yılı yüzey araştırması”. XV Araştırma Sonuçları Toplantısı (トルコ語). 1.
  • Kadiroğlu, Mine; Karaca, Zafer; Yazar, Turgut (1999). “Ortaçağ Gürcü mimarisi 1997 yılı yüzey araştırması”. XVI Araştırma Sonuçları Toplantısı (トルコ語). 1.
  • Kakabadze, Sargis (1924). ქართული სახელმწიფოებრიობის გენეზისის საკითხები (ジョージア語). Tbilisi: სახელმწიფო გამომცემლობა.
  • Kaukhchishvili, Simon, ed. (1955). ქართლის ცხოვრება. Vol. 1. ტექსტი დადგენილი ყველა ძირითადი ხელნაწერის მიხედვით ს. ყაუხჩიშვილის მიერ.
  • Kaukhchishvili, Simon, ed. (1961). გეორგიკა. Vol. 1.
  • Kaukhchishvili, Simon, ed. (1965). გეორგიკა. Vol. 2.
  • Kaukhchishvili, Tinatin (1957). სტრაბონის გეოგრაფია.
  • Kaukhchishvili, Tinatin (1976). საქართველოს ისტორიის ძველი ბერძნული წყაროები.
  • Kaukhchishvili, Tinatin (1983). ბერძენი მწერლების ცნობები საქართველოს შესახებ. საქართველოს ისტორიის წყაროები 28, საქართველოს ისტორიის უცხოური წყაროები XV. Vol. 5.
  • Kazaryan, Armen (2002). “Искусство армян-халькидонитов”. Православная энциклопедия (ロシア語). Vol. 3. Moscow: Церковно-научный центр «Православная энциклопедия». ISBN 5-89572-008-0.
  • Kazbegi, Giorgi (1995). სამი თვე თურქეთის საქართველოში (ジョージア語).
  • Kazbek, Georgi (1876). “Три месяца в Турецкой Грузии”. Записки Кавказского отделения Императорского русского географического общества (ロシア語). X (I): 1–140.
  • Kekelidze, Korneli (1923). ძველი ქართული ლიტერატურის ისტორია (ジョージア語). Vol. 1. Tbilisi: სახელმწიფო გამომცემლობა.
  • Kekelidze, Korneli (1941). ძველი ქართული ლიტერატურის ისტორია (ジョージア語). Vol. 1 (2 ed.). Tbilisi: სახელმწიფო გამომცემლობა.
  • Kekelidze, Korneli (1980). ძველი ქართული ლიტერატურის ისტორია (ジョージア語). Vol. 1. Tbilisi: მეცნიერება.
  • Khazaradze, Nana (1984). საქართველოს ძველი ისტორიის ეთნო–პოლიტიკური პრობლემები.
  • Khazaradze, Nana (1997). “საქართველოს ძველი ისტორიის ერთი ასპექტისათვის”. საქართველოს ტექნიკური უნივერსიტეტის შრომები (3).
  • Khazaradze, Nana (2001). “ლეონტი მროველი და არიან–ქართლის ლოკალიზაციის საკითხი”. Dedicatio: ისტორიულ–ფილოლოგიური ძიებანი.
  • Khoshtaria, David (2005). კლარჯეთის ეკლესიები და მონასტრები (ジョージア語). Tbilisi: მეცნიერება. ISBN 99940-11-94-4.
  • Khoshtaria, David (2001). “უძველესი მონასტრები საქართველოში”. არქიტექტურული მემკვიდრეობა (ジョージア語). 1: 49–55.
  • Kiepert, Heinrich (1878). Lehrbuch der alten Geographie (ドイツ語).
  • Koch, Karl (1846). Wanderungen im Oriente waehrend der Jahre 1843 und 1844, Reise im pontischen Gebirge und tuerkischen Armenien (ドイツ語).
  • Lortkipanidze, Mariam (1986). “ქართველთა სამეფო”. ქართული საბჭოთა ენციკლოპედია. 10.
  • Menabde, Levan (1962). ძველი ქართული მწერლობის კერები (ジョージア語). Vol. 1. Tbilisi: თბილისის უნივერსიტეტის გამომცემლობა.
  • Manandian, Yakov (1940). “Маршруты понтийского похода Помпея и путь отступления Митридата в Колхиду”. Вестник древней истории (ロシア語) (3).
  • Marquart, Josef (1901). Eranšahr nach der Geographie des Ps. Moses Xorenac'i (ドイツ語).
  • Marr, Nikolai (1911a). “Дневник поездки в Шавшию и Кларджию”. Житие св. Григория Хандзтийского. Тексты и разыскания по армяно-грузинской филологии (ロシア語). Vol. 7.
  • Marr, Nikolai, ed. (1911b). Житие св. Григория Хандзтииского. Тексты и разыскания по армяно-грузинской филологии (ロシア語). Vol. 7. St. Petersburg: Типография Императорской Академии Наук.
  • Marr, Yuri (1949). Поездка Н. Я. Марра в Южную Грузию (ロシア語).
  • Melikishvili, Giorgi (1959). К истории древней Грузии (ロシア語).
  • Merchule, Giorgi (1963). Abuladze, Ilia (ed.). შრომაჲ და მოღუაწებაჲ ღირსად ცხორებისაჲ წმიდისა და ნეტარისა მამისა ჩუენისა გრიგოლისი არქიმანდრიტისაჲ, ხანცთისა და შატბერდის აღმაშენებლისაჲ, და მის თანა ჴსენებაჲ მრავალთა მამათა ნეტართაჲ. ძველი ქართული აგიოგრაფიული ლიტერატურის ძეგლები. Vol. 1. Tbilisi: მეცნიერება.
  • Muskhelishvili, David (1977). საქართველოს ისტორიული გეოგრაფიის ძირითადი საკითხები. Vol. 1.
  • Muskhelishvili, David (1980). “კლარჯეთი”. ქართული საბჭოთა ენციკლოპედია. Vol. 5.
  • Pavlinov, Alexander (1893). “Экспедиция на Кавказ 1888 года”. Материалы по Археологии Кавказа (ロシア語). Moscow: Типография А. И. Мамонтова (3): 1–91.
  • Peeters, Paul (1923). “Histoires monastiques géorgiennes”. Analecta Bollandiana (フランス語). 36–37.
  • Ptolemaeus, Claudius. “12”. Geographia. Vol. 5. Paragraph 9.
  • Ptolemaeus, Claudius (1901). Geographia, e codicibus recognovit, prolegomenis, annotatione, indicibus, tabulis instruxit Carolus Müllerus. Vol. 1, 2.
  • Ptolemaeus, Claudius (1955). გეოგრაფიული სახელმძღვანელო, ცნობები საქართველოს შესახებ. Vol. 32. Translated by Lomouri, Nodar.
  • Sabinini, Gobron Mikhail (1882). საქართველოს სამოთხე. სრული აღწერაჲ ღუაწლთა და ვნებათა საქართუჱლოს წმიდათა.
  • Silogava, Valeri; Shengelia, Kakha (2006). ტაო-კლარჯეთი. Tbilisi: კავკასიის უნივერსიტეტის გამომცემლობა. ISBN 99940-861-7-0.
  • Takaishvili, Ekvtime (1909). “Христианские памятники, Экскурсия 1902 года”. Материалы по археологии Кавказа (ロシア語) (12): 1–117.
  • Takaishvili, Ekvtime (1919). “შენიშვნები ზარზმის ეკლესიისა და მის სიძველეთა შესახებ”. ტფილისის უნივერსიტეტის მოამბე (ジョージア語) (1).
  • Takaishvili, Ekvtime (1938). არქეოლოგიური ექსპედიცია კოლა–ოლთისში და ჩანგლში 1907 წელს (ジョージア語).
  • Takaishvili, Ekvtime (1952). Археологическая экспедиция 1917-го года в южные провинции Грузии (ロシア語).
  • Thierry, Jean-Michel (1989). “Topographie et état actuel des monuments géorgiens en Turquie orientale”. Revue des études géorgiennes et caucasiennes (フランス語). 5.
  • Thierry, Jean-Michel (1993). “Notes sur les monuments de la vallee du Karckal”. Revue des études géorgiennes et caucasiennes (フランス語). 8–9.
  • Thierry, Nicole; Thierry, Jean-Michel (1960). “Notes d'un voyage en Géorgie turque”. Bedi kartlisa: Revue de karthvélologie (フランス語). VIII–IX (34–35).
  • Thierry, Nicole; Thierry, Jean-Michel (1968). “Notes d'un nouveau voyage en Géorgie turque”. Bedi Karthlisa: Revue de karthvélologie (フランス語). XXV.
  • Tumanishvili, Dimitri (1996). “ბასილ ზარზმელი ტაძართმშენებლობის შესახებ”. ლიტერატურა და ხელოვნება (ジョージア語) (1–6).
  • Uvarova, Praskovya (1891). Путевые записки. Кавказ: Аджария, Шавшетия, Посховский участок, ч. II (ロシア語).
  • Vachnadze, Natela (1975). სერაპიონ ზარზმელის ცხოვრება, როგორც საისტორიო წყარო (ジョージア語). Tbilisi: მეცნიერება.
  • Winfield, David (1968). “Some Early Medieval Figure Sculpture from North-East Turkey”. Journal of the Warburg and Courtauld Institutes (英語). 31.
  • Zakaraya, Parmen (1990). Зодчество Тао-Кларджети (ロシア語).
  • Zhordania, Otar (1977). ქართული საბჭოთა ენციკლოპედია. Vol. 2.
  • TRAITÉ DE KARS. 1921年10月13日. hdl:11543/3175.