准宣
准宣(じゅんせん、天正12年(1584年)- 寛永9年7月8日(1632年12月21日))は、江戸時代初期の浄土真宗の僧である。瑞泉寺の第九代住持。第八代住持准秀の息子。諱は佐良。公名は兵部卿。養子に十代住持の宣良がいる。
生涯
佐々成政による焼き討ち後、井波から一時退転していた瑞泉寺を再興させたことで知られる准秀の息子に当たる[1]。母は越前国南専寺の娘であった[1]。父の准秀が慶長13年(1608年)に隠居したことにより、准宣は25歳にして跡を継ぎ瑞泉寺の九代目となった[2]。妻は勝興寺唯照院顕照の娘であったという[1]。
准宣は父の始めた瑞泉寺の再建事業を引き継ぎ、その境内をさらに広げた。これに伴って御堂が藤橋村内から松島村に移ることとなったため、慶長18年(1613年)には両村の間で争いが起こり、最終的には藤橋村と松島村の境目の地を御堂とすることとなった[3]。 また元和4年(1618年)には上田権助なる武士と准秀が京都から連れて来た家老の松尾縫殿が対立し、屋敷の境界論争を起こしたとの逸話が伝えられている。
しかし准宣は若くして体調を崩し後継者にも恵まれなかったことから、金森出雲守(金森可重)の二男の久々丸を養子に迎え入れた[4]。その後寛永9年(1632年)11月10日に准宣は49歳で死去したが、まだ父の准秀が健在であったため、准宣の死から9年を経て良宣(久々丸、後に宣良と改める)が寛永17年(1640年)に十代目住持として瑞泉寺に入ることとなった[2]。
脚注
参考文献
- 井波町史編纂委員会 編『井波町史 上巻』井波町、1970年。
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