如乗
如乗(にょじょう、応永19年(1412年)- 寛正元年1月26日(1460年2月18日))は、室町時代中期の浄土真宗の僧。越中国井波瑞泉寺の第二代住持である。諱は宣祐(せんゆう)。加賀国二俣本泉寺の開基でもある。
後述のように瑞泉寺滞在期間は短く、専ら本泉寺の住持として活動したため、史料上では本泉寺如乗宣祐と呼ばれることが多い[1]。
生涯
瑞泉寺への入寺

還俗間もないころの姿と伝わる
応永18年(1411年)、本願寺第六代巧如の三男として誕生した。本願寺第七代存如は兄弟にあたる。井波瑞泉寺を創建した本願寺五代綽如の没後、巧如は父の事業を継承して北陸地方での勢力拡大に務め、まず二人の弟(頓円・周覚)が越前国に入った[2]。これに続き、綽如の没後は無住状態が続いていた越中国井波瑞泉寺に派遣されたのが巧如の三男の如乗であった[2]。
如乗が瑞泉寺に派遣されるに至った背景について、『大谷一流系図』等の史料では室町幕府6代将軍の足利義教が関係していたとの逸話を伝えている[3]。関連史料によると、将軍就任以前に青蓮院に入室していた義円(足利義教)は、同じく青蓮院にいた如乗と知り合うも、公私にわたって意見を受けたことから不快の念を抱くようになっていた[3]。そこで将軍就任後、青光院の見事な碁盤を如乗が田舎の武士に与えてしまったことを知りながら所望し、これを果たせなかったことを口実として都から追い出してしまったという[3]。
この逸話の真偽は不明であるが、いずれにせよ如乗の井波下向は足利義教が嘉吉の乱で殺される嘉吉元年(1441年)以前、永享年間中のことであったと考えられている[3][4]。なお、『井波町史』は後世の編算物ではあるが、『竹部家濫觴幷累代系譜』に「永享十年五月如乗公、二十七ニテ始メテ御下向」とあること、同年は永享の乱が起こって反義教の気運が高まっていた事に基づき、如乗永享10年(1438年)下向説を取る[5]。
本泉寺の開基

綽如以来の持として井波に下向した如来であったが難しい立場にあったようで、各種史料は「彼寺も心にあわざる事」「彼寺ニ難住所存アリ」「当時アマリニ不弁二ヨリ」と表現する[6]。如乗が瑞泉寺を「不弁」とした理由については史料上に明記されず、研究者の間でも諸説ある。
まず『井波町史』は永享8年(1436年)正月五日に高瀬荘の農民が下長氏の代官支配に反して「今村殿」を代官とするよう要請した記録がある事に注目し、如乗はこのような地元農民(真宗門徒)と武家勢力の対立に巻き込まれて立場を悪くしたのではないかと推定する[7]。久保尚文は『井波町史』の見解を踏襲しつつ、如乗が武家勢力にも一定の敬意を払って門徒との板挟みとなった事は、蓮如の「念仏者において、国の守護・地頭を専らにすべし」という態度と通じるものであることを指摘する[8]。
一方、草野顕之はこのころの瑞泉寺が杉谷氏や竹部氏といった外護者や檀越によって運営されている事、また杉谷氏が蓮如の代にも未だ時宗門徒であった事に注目し、この時期の瑞泉寺は非本願寺的要素の色濃い「汎浄土教的寺院」であり、その故に如乗は「不弁」としたのではないか、と推定する[9]。実際に、瑞泉寺四代蓮欽・五代賢心ですら「契約による留守分」「契約住持分」であったと伝えられており、この時期の瑞泉寺では在地外護者が本願寺の連枝を上回る権勢を有していたようである[9]。
いずれにせよ瑞泉寺を立ち退いた如乗は一度京都に戻るべく旅だったが、加賀国山中の二俣集落(現在の金沢市二俣町)で在地門徒に引き止められ、ここに草坊(後の本泉寺)を営むこととなった[10]。後世の史料によると二俣坊の創立は嘉吉二年(1442年)のこととされ、これ以後如乗は形の上では瑞泉寺と二俣坊(本泉寺)の兼住としつつ、実際には二俣を拠点とし、瑞泉寺は竹部氏ら御堂衆によって運営される体制となった[11]。
蓮如の支持
長禄元年(1457年)6月18日に本願寺七代にして如乗の兄の存如が死去した際、息子の蓮如と蓮照の間で後継者争いが生じた[11]。存如の後妻で蓮照の実母である如円の後ろ盾もあって、当初は蓮照が有利であったが、これに異を唱えたのが如乗であった[11]。北陸から上洛した如乗は存如は蓮如への譲状を残していたことを根拠に蓮如を強く推し、このために遂に蓮如は本願寺八代法主に就任することができた[11]。このような敬意から蓮如は以後如乗を深く崇敬し、引いては本泉寺が北陸を代表する真宗寺院として尊重される基盤となった[12]。
また、蓮如は『御文』と呼ばれる消息(手紙)形式で布教を行ったことで知られるが、御文を用いた伝道形式は如乗に学んだのではないかとする説がある[13][8]。蓮如が『御文』を書き始めたのは寛正2年(1461年)のことであるが、その前年に死去した如乗が残したる消息形式の文書(曠劫多生章)が『塵拾抄』に所収されている[13]内容としても如乗の文章と蓮如の『御文』は類似するため、蓮如は先行する如乗に学んで『御文』を作成し始めたのではないかと推定されている[13][8]。
如乗は寛正元年(1460年)正月26日に死去したと伝えられる。妻の勝如尼との間には二女しか生まれていなかったため、蓮如の息子の蓮乗を養子として迎え入れ如乗の後継者とした[14]。しかし蓮乗は落馬による怪我のため病気がちとなり、瑞泉寺・本泉寺の運営は実質的に勝如尼が担っていたとされる[14]。
関連系図
| 綽如 (本願寺五代) (瑞泉寺初代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 周覚 | 巧如 (本願寺六代) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 勝如尼 | 如乗 (瑞泉寺二代) (本泉寺初代) | 存如 (本願寺七代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 蓮如 (本願寺八代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 如秀尼 | 蓮乗 (瑞泉寺三代) (本泉寺二代) | 蓮悟 (本泉寺三代) | 蓮綱 (松岡寺初代) | 蓮誓 (勝興寺七代) (光教寺初代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 了如 (蓮如十五女) (蓮乗養子) | 蓮欽 (瑞泉寺四代) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 賢春 | 教宗 | 賢心 (瑞泉寺五代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
- ↑ 久保 1986, p. 16.
- 1 2 井波町 1970, pp. 260–261.
- 1 2 3 4 井波町 1970, pp. 264–265.
- ↑ 草野 1993, p. 272.
- ↑ 井波町 1970, pp. 265–264.
- ↑ 井波町 1970, pp. 270–271.
- ↑ 井波町 1970, pp. 271–273.
- 1 2 3 久保 1986, pp. 18–20.
- 1 2 草野 1993, pp. 270–271.
- ↑ 井波町 1970, pp. 274.
- 1 2 3 4 井波町 1970, p. 275.
- ↑ 井波町 1970, p. 276.
- 1 2 3 井波町 1970, pp. 276–277.
- 1 2 井波町 1970, p. 277.
参考文献
- 草野, 顕之「医王山麓における真宗の足跡」『医王は語る』福光町、1993年、268-287頁。
- 井波町史編纂委員会 編『井波町史 上巻』井波町、1993年。
- 久保, 尚文『勝興寺と越中一向一揆』桂書房、1986年。
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