従祐
従祐(じゅうゆう、延享2年(1745年)- 寛政5年8月7日(1793年9月11日))は、江戸時代中期の浄土真宗の僧である。瑞泉寺の第14代住持で、第13代住持常照の実子。法名は超継、童名は政丸で、院号は誠心院。また蘭台の俳号でも知られる。
生涯
従祐は瑞泉寺13代真恵の実子で、延享3年(1746年)に越後国高田の本誓寺で生まれた[1]。その後、宝暦6年(1756年)に東本願寺の従如上人の養子となって得度を受け、父の死去に伴って明和5年(1768年)8月1日に瑞泉寺に入って14代住持となった[1]。
瑞泉寺の11代常照・12代真照はそれぞれ「浪化」「桃化」の俳号で著名な俳人であり、従祐もまた「蘭台」と号して俳諧活動を行った[1]。安永3年(1774年)ごろに天明六俳客の一人と称される樗良が井波に滞在したことがあり、この時に蘭台も俳会に参加している[1]。また安永5年(1776年)には逆に蘭台が京都三条木屋町の樗良の住まいを尋ね、この時蘭台らが詠んだ俳句が『月の夜』に収録されている[2]。
しかし安永6年(1777年)には「御宗名騒動」という事件が起こり、本山に呼び出された従祐は連枝の資格と「誠心院」の院号が剥奪されてしまった[3]。この「御宗名騒動」の詳細は伝わっていないが、従祐自身は自らに心得違などなく、悪評によって一方的に隠居を申し付けられたことは残念であると書き残している[4]。こうして晩年の16年間を従祐は生地の高田本誓寺で隠居状態となり、48歳で寛政5年(1793年)8月7日に死去した[4]。
従祐の没後はまた新たに東本願寺の連枝である達性が下向して15代住持となった[5]。なお、瑞泉寺で生まれた従祐の長子の菩山は高田本誓寺を継ぎ、父同様に俳諧の道に進んでいる[6]。
瑞泉寺再建
13代真恵の時代には瑞泉寺のみならず井波町の大部分が焼失した宝暦の大火があり、従祐の時代にも引き続き瑞泉寺の再建が進められていた。まず、真恵の代より再建が進行していた本堂が安永3年(1774年)に完成して5月20日に上棟式が行われ、安永4年(1775年)9月12日には遷仏式が行われた[7]。
続いて天明5年(1785年)には山門の釿始が始まったものの、天明8年(1788年)には天明の大火によって東本願寺が焼失してしまい、東本願寺より瑞泉寺再建のため派遣されていた大工の柴田新八郎らが引き揚げてしまう[8]。そこで山門再建を引き継いだのが井波近辺出身の松井角平で、以後松井角平は瑞泉寺にかかる大工棟梁を多く務め、後の松井建設株式会社の祖となる[8]。
また山門再建と並行して鐘楼堂は番匠屋七左衛門、式大門は柴田清右衛門がそれぞれ棟梁を務め、前者は寛政3年(1791年)に、後者は寛政4年(1792年)に、それぞれ完成している[8]。本堂や鐘楼堂は明治の大火で焼失してしまうが、山門のみは延焼を免れ、昭和40年(1965年)には県の有形文化財に指定された。更に令和8年(2026年)には山門と近代に再建された本堂・太子堂・鐘楼堂が国の重要文化財に指定されている。
総じて、従祐の時代に東本願寺から派遣された大工に学び、更に仕事を引き継いだ井波大工は高度な技術を取得するに至り、この時期こそが「井波大工の歴史にとって大きな転換期であり、躍進期でもあった」と評されている[8]。また一連の再建事業の中で前川三四郎に代表される彫師たちも井波を訪れており、前川三四郎らに学んだことが現在まで続く井波彫刻の起源とされている[9][10]。
脚注
参考文献
- 井波町史編纂委員会 編『井波町史 上巻』井波町、1970年。
- 宇野次四郎『井波誌』町立井波図書館館友会、1937年。
- 井波町商工会誌編集委員会『井波の商と工 その軌跡』井波町商工会、1991年3月。
|
|