達恵
達恵(たっけい、寛政元年(1789年)- 弘化2年1月15日(1845年2月21日))は、江戸時代後期の浄土真宗の僧である。瑞泉寺の第16代住持で、関白鷹司政煕の息子。童名は正君、法号は達恵で、院号は普照院。
生涯
18世紀末、瑞泉寺では14代従祐が「御宗名騒動」に伴って連枝の資格を剥奪され、その後継となるはずであった15代達性が瑞泉寺に入る前に死去するという不幸が続き、住持不在の時代が続いていた。達姓が死去した翌年の享和元年(1801年)7月下旬、瑞泉寺の竹部豊前らは上京して達姓の後継者の下向を東本願寺に願い出て、同年11月に鷹司政煕の息子の朗寛(達恵)を東本願寺達如の連枝として下向させることが決められた[1]。
翌享和2年(1802年)3月に再び竹部豊前らが達恵を迎えるために上京し、同年4月17日に朗寛は瑞泉寺に入り瑞泉寺16代住持達恵となるに至った[1]。瑞泉寺文書にはこの時達恵とともに井波に下向した60人余りの者たちの記録が残っている[1]。
文化年間には14代従祐の時代から継続していた山門の基盤が完成し、文化6年(1809年)には上棟式が行われた[2]。この山門は現存しており、昭和40年(1965年)には県の有形文化財に指定された。更に令和8年(2026年)には山門と近代に再建された本堂・太子堂・鐘楼堂が国の重要文化財に指定されている。また、文化7年(1810年)ごろには加賀藩領の俳人数百名の協力を得て、松尾芭蕉に学んだ浪化上人が立てた「翁塚」の地に黒髪庵が建立されている[2][3]。
天保5年(1834年)からは天保の大飢饉が深刻化し、天保9年(1838年)には太子講も中止に追い込まれるに至った[4]。これ以後、瑞泉寺と加賀藩寺社奉行の間で太子講の復興についての交渉が繰り返され、天保12年(1841年)にようやく太子講の例月開催が認められるに至った[5]。江戸時代の瑞泉寺は無録であったため、寺の維持運営には門徒の布施が必須であり、大勢の門徒を集めて布施を集められる太子講は瑞泉寺にとって重要な祭事でもあった[6]。
そこで天保14年(1843年)にはそれまでにない大規模な太子堂の建立が計画され、5月10日に釿始の儀式が行われた[5]。建立工事途上の弘化2年正月15日に達恵は死去してしまうも、本堂に匹敵する大規模な太子堂の存在は現在に至るまで他には見られない瑞泉寺の特徴の一つとして著名になる。達恵の没後、実子の一人の厳界が跡を継いで17代瑞泉寺住持となっている[7]。
雅楽
達恵は京都鷹司家の出であったことから雅楽に堪能であり、瑞泉寺に入った後は配下の寺院で雅楽を組織したとの逸話がある[8]。達恵の始めた井波雅楽は後世まで伝承され、昭和初期には清婉会という雅楽組織が形成されている[8]。
脚注
参考文献
- 井波町史編纂委員会 編『井波町史 上巻』井波町、1970年。
- 宇野次四郎『井波誌』町立井波図書館館友会、1937年。
- 千秋謙治『年表でみる井波瑞泉寺』桂書房、2014年4月。ISBN 978-4-905345-66-4。
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