厳界

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厳界(げんかい、天保11年(1840年)- 文久元年6月5日(1861年7月12日))は、江戸時代後期の浄土真宗の僧である。瑞泉寺の第17代住持で、16代達恵の息子。童名は雄麿、諱は勝慧で、院号は普行院。

生涯

現在の瑞泉寺本堂
現在の瑞泉寺太子堂

16代住持で厳界の父親であった達恵は関白鷹司政煕の息子で、晩年は天保の大飢饉からの復興を兼ねて大規模な太子堂の建立に着手していた。達恵が弘化2年(1845年)に死去した後、同3年(1846年)9月10日に厳界は瑞泉寺に入り、嘉永元年(1848年)4月4日に得度を受けて同年6月より第17代住持となった[1]。この間に太子堂は完成し、嘉永元年8月には聖徳太子1200回忌法要が営まれるなど、嘉永元年は様々な面で瑞泉寺にとって画期となる年であった[1]。

太子堂の完成によって瑞泉寺での太子講は益々盛大に開かれるようになり、また安政4年(1857年)には浪化上人150回忌俳諧追善が行われている[2][3]。

その後、文久元年(1861年)6月5日に23歳で死去したとされるが、享年22とする異伝もある[4]。一方、厳界の母親(田嶋主膳の娘、樹響院)は長命で、明治22年(1889年)まで存命であった[4]。

脚注

  1. 1 2 宇野 1937, p. 51.
  2. ↑ 宇野 1937, p. 52.
  3. ↑ 井波町 1970, p. 1009.
  4. 1 2 井波町 1970, p. 291.

参考文献

  • 井波町史編纂委員会 編『井波町史 上巻』井波町、1970年。 
  • 宇野次四郎『井波誌』町立井波図書館館友会、1937年。 
先代
達恵
瑞泉寺第17代住持
1848年 - 1861年
次代
厳昌