宣良
宣良(せんりょう、元和元年(1615年)- 貞享3年2月25日(1686年3月19日))は、江戸時代初期の浄土真宗の僧である。瑞泉寺の第十代住持。第九代住持准宣の養子。諱は円順。公名は兵部卿。養子に十一代住持の常照(浪化)がいる。
瑞泉寺の東派帰参という越中真宗門徒にとっての大事件を主導したことで知られる。当初は西本願寺の良如より一字を賜って良宣と称していたが、東派帰参を経て東本願寺の宣如より一字を賜って宣良と称するようになった。
生涯
生い立ち

瑞泉寺の寺伝によると、幼名は久々丸で、金森出雲守(金森可重)の二男であったとされ、若年期は近江国堅田に居住していたという[1]。井波瑞泉寺九代の准宣は病弱であったことから久々丸が養子となったが、継母との折り合いが悪く京都に上がって西本願寺に務めることとなったとされる[2]。元大名家の出であることから久々丸は西本願寺の良如の猶子とされることとなり、一字を賜って良宣と号するようになった[2]。
准宣は寛永9年(1632年)に死去してしまっていたが、その父の准秀が未だ存命であり、准秀が死去した後の寛永17年(1640年)8月に至って良宣が十代目住持として瑞泉寺に入ることとなった[3]。
良宣はまず寛永18年(1641年)夏より瑞泉寺本堂の再建に取り組んだとされるが、この時期(寛永17~19年)は飢饉が続いていたこと、また後述する転派騒動があったことにより実行は遅れている[4]。
東派への帰参

越中国内では最も歴史ある由緒を有する瑞泉寺であるが、本願寺との血統の近さでは勝興寺の方が上であり、特に佐々成政による一向一揆平定後は勝興寺が優遇される傾向にあった[5]。慶長7年(1602年)には東本願寺が別立し、城端善徳寺などが東派に従ったが、瑞泉寺は当初勝興寺とともに西派に留まっていた[6]。
善徳寺所蔵『由緒略記』によると、正保2年(1645年)に瑞泉寺は勝興寺との間に「不快之義」が重なり、これを察知した東派では善徳寺七世顕勝・国元寺社奉行葛巻蔵人・岡嶋市郎兵衛らが瑞泉寺の帰参を取り扱ったという[7][8]。なお、当初瑞泉寺は加賀国の吉藤専光寺下として受け入れる話が進んでいたが、善徳寺の反対によって善徳寺と同役で東派に入ることとなったとされる[7]。
一方、勝興寺では正保3年(1646年)4月に西本願寺准如の六男円周が入り、さらに前田利常の養女つな(廉正院)を娶ることとなっていた[9][8]。これを切っ掛けに勝興寺は越中国内与力寺に対する支配力を強めようとし、瑞泉寺にも毎年の入用銀を滞りなく提供すること、また年頭・盆・報恩講時の勝興寺への参詣を新たに命じた[9][8]。このような勝興寺の態度に瑞泉寺門徒は不満を募らせており、既に正保3年から金沢の寺社奉行に訴えが持ち込まれるなど騒動が生じていた[9]。
そして慶安2年(1649年)5月、良宣は下寺57カ寺の血判を持って上京し、さらに同月20日付で越中国内の坊主・門徒が瑞泉寺に従うことを誓った連判状が現存している[10]。『瑞泉寺由来記』によると、良宣自身はかつて西本願寺に勤めたこともあり、西本願寺がこれまで通り勝興寺と同格と認めるならば敢て転派はしないと交渉しようとしたという[11]。しかし同年6月26日の朝五つ時、急遽召し出された良宣は座敷牢に入れられてしまうという事件が起こった[11]。そこで同行していた高岡板屋六兵衛が金子を用いて脱出の手配を行い、首尾よく座敷牢を抜け出した良宣は同日夜までに東本願寺の門前にまで至った[12]。当初、東本願寺では急な事でもあり台所門より良宣を入れようとしたが、同行していた梨子の市助の抗議により、一行は式台門より堂々と中に入り、また宣如上人自らが式台の石壇まで来て出迎えたという[12]。西本願寺側は良宣の脱出を知って数百人の追っ手を出したが間に合わず、ここに瑞泉寺の東派帰参は成立した[12]。
転派後の騒動

瑞泉寺の転派を受けて西本願寺・東本願寺ともに加賀藩の寺社奉行に飛脚を出したが、「加賀橘の茶屋」で東派の飛脚が西派を追い越したことで、東派の訴え(瑞泉寺の帰参)が「事空済の儀」として認められるに至った[12][13]。なお、この一件に藩側が不介入であったのは、前田利家・利長期と異なり一向宗が既に藩政に取り込まれて藩に対抗する運動を引き起こすものではないと認識されていたためと評されている[13]。
藩への報告を終えた東西の飛脚はさらに西派の代表である勝興寺、東派の代表である善徳寺にそれぞれ事の経緯を報告したところ、勝興寺では家老の原田因幡が三百人の門徒とともに瑞泉寺の寺宝を奪うことを計画した[12]。これを受けて井波・松島・藤橋・山見といった瑞泉寺近辺の村民が早鐘を聞いて駆けつけ、勝興寺門徒勢から寺宝を守った。また、戦国時代には寺侍の家系であった仏厳寺住持は瑞泉寺内に入り込んだ勝興寺門徒勢に対し、「狼藉至極のやつばらを撫で斬りにせん」と脅しをかけ、寺内から追い出すことに成功した[14]。しかし、「太子十六歳之御影入之長持」を始めこの時に持ち出されてしまった宝物も13点あると伝えられている[14]。なお、由緒ある瑞泉寺の名跡を失った西派では、越後国高田の磯部勝願寺に瑞泉寺の名跡を継承させており、この「高田瑞泉寺」には瑞泉寺の寺宝が一部引き継がれている[15]。
西本願寺では「瑞泉寺に一味しないものは本山直参に召し上げる」という優遇策を取って転派寺院を少なくしようとしたが、結局は200を超える寺院が転派したとされる[16]。また、同年9月5日付で宣良が東本願寺宣如から下付された教如絵像が現存しており、瑞泉寺の東派帰参を象徴する史料と位置づけられている[17]。また、加賀藩は統治下の国・宗派ごとに「触頭寺院」を定めており、越中国東派はそれまで善徳寺であったが、同年10月には善徳寺と瑞泉寺を同格の東派触頭寺院とするよう定められている[18]。
瑞泉寺本堂の再建
承応元年(1652年)には加賀藩において改作法の施行が始まり、これがほぼ完了した明暦2年(1656年)より瑞泉寺本堂の工事が再開された[19]。この頃、飛騨国高山の照蓮寺宣心・高山藩主金森師直(頼直)はいずれも宣良の兄弟であり、万治元年(1658年)2月より金森師直の許可を得て白川郷より瑞泉寺建築の材木が伐採され、庄川を通じて井波に運搬されている[19]。
この工事が完成したのは万治2年(1659年)年のことで、万治3年(1660年)9月12日より御遷仏の法要が営まれた[19]。
晩年
宣良の唯一の子供であった常良が延宝3年(1675年)に18歳で死去してしまったことにより、宣良は東本願寺に願い出て常如上人の弟の政丸が入寺することとなった[20]。この時、東本願寺では当初連枝の下向を渋ったが、宣良の妻の堀氏が「願いが叶わなければここで自害する」と守刀を取り出したため、その覚悟に打たれて政丸の入寺が認められたとの逸話がある[21]。
延宝5年(1677年)に当時7歳の政丸が瑞泉寺に入って浪化と称し、宣良は隠居所の超善院に移った[22]。この頃、井波町一帯では江田村の片山家が十村役を務めており、片山家に残された『江田片山文書』には宣良と片山家との間で交わされた書簡が多く残されている[21]。
脚注
- 1 2 井波町 1970, p. 288.
- 1 2 井波町 1970, p. 689.
- ↑ 井波町 1970, p. 375.
- ↑ 井波町 1970, pp. 689–690.
- ↑ 井波町 1970, p. 692、県史770.
- ↑ 井波町 1970, p. 692.
- 1 2 井波町 1970, p. 693.
- 1 2 3 富山県 1982, p. 770.
- 1 2 3 井波町 1970, p. 694.
- ↑ 富山県 1982, p. 770/1036.
- 1 2 井波町 1970, p. 697.
- 1 2 3 4 5 井波町 1970, p. 698.
- 1 2 富山県 1982, p. 1037.
- 1 2 井波町 1970, p. 699.
- ↑ 井波町 1970, p. 704.
- ↑ 井波町 1970, p. 700-703.
- ↑ 井波町 1970, p. 707.
- ↑ 井波町 1970, p. 706.
- 1 2 3 井波町 1970, p. 690.
- ↑ 井波町 1970, p. 691/735-736.
- 1 2 井波町 1970, p. 691.
- ↑ 井波町 1970, p. 735-736.
参考文献
- 井波町史編纂委員会 編『井波町史 上巻』井波町、1970年。
- 富山県 編『富山県史 通史編3 (近世 上)』富山県、1982年。
|
|