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朴正煕暗殺事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(10.26事件から転送)
朴正熙暗殺事件
暗殺された朴正煕
場所 大韓民国の旗 韓国ソウル特別市鍾路区宮井洞
標的 朴正熙
日付 1979年10月26日
19時40分頃[1][2]
攻撃手段 拳銃による銃撃
攻撃側人数 8人
武器 ワルサーPPK[3]
S&W M36[4][5]
死亡者 朴正熙、車智澈ら6人
負傷者 3人
犯人 金載圭
対処 犯人を捜査・逮捕
刑事訴訟 犯人のうち6人が死刑
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10・26事件
各種表記
ハングル: 10・26사건
漢字: 10・26事件
発音: シビリュク サ(ー)コン
日本語読み: シビリュクじけん
ローマ字転写: sibiyuk sageon
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宮井洞事件
各種表記
ハングル: 궁정동 사건
漢字: 宮井洞事件
発音: クンジョンドン サ(ー)コン
日本語読み: クンジョンドンじけん
RR式: gungjeongdong sageon
MR式: kungjŏngdong sagŏn
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朴正煕暗殺事件(パク・チョンヒあんさつじけん)は、1979年10月26日に大韓民国のソウル特別市で、朴正煕大統領と車智澈大統領府警護室長が金載圭大韓民国中央情報部部長によって殺害された事件である。韓国では起きた日付から「10・26事件」(ハングル: 10・26 사건)と主に呼ばれる[6][7][8]。発生した場所から「宮井洞事件」と呼ばれることもある[8]。

背景

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1976年10月24日付の「ワシントン・ポスト」のスクープにより、いわゆるコリアゲート事件が発覚[9]。同年11月27日、駐米韓国大使館参事官で、大韓民国中央情報部(KCIA)の実質的な米国活動組織副責任者だった金相根(キム・サングン)が米国に亡命した[10]。この亡命事件により、12月4日にKCIA部長の申稙秀(朝鮮語版)が解任され[9]、金載圭が後任の部長に就任した。金載圭は5・16軍事クーデターには参加しなかったが、朴正煕大統領の古い友人であった。1972年12月に制定された憲法第8号(維新憲法)のおかげで1973年2月の総選挙に際し、統一主体国民会議選出議員に3月に任命され国会議員となり[11]、建設部長官などの要職を歴任した。一方、大統領の周辺では、1974年8月22日に大統領府警護室長に就いた車智澈[12]が朴に取り入り、権勢を振るっていた。

1978年12月12日に行われた国会議員総選挙で共和党は68議席を獲得し、新民党は61議席を獲得。与党共和党は第一党となるも、得票では新民党が僅差で共和党を上回った。朴は、この「得票率敗北」を財務官僚出身の金正濂・大統領秘書室長と経済官僚に押し付け、金正濂を罷免した。後任の秘書室長には、駐中華民国大使を7年間務めた金桂元が就任した。これをきっかけとして、金載圭と車智澈との勢力争いは顕著となった[13]。

1979年5月29日、新民党の総裁を選出する全党大会を2日後に控えたこの日、高興門ら有力政治家らは現職の李哲承支持を宣言した。3年前の臨時全党大会で維新政権は金泳三の落選工作を行い、李は決選投票で党総裁に当選していた。中道統合路線を固守する李の再選は誰の目にも明らかのように思えた。翌29日、自宅軟禁を受けていた金大中が突如、金泳三の集会に現れ、「維新独裁と戦える者は金泳三しかいない」と言った。そして趙尹衡(チョ・ユンヒョン)らに対し立候補を辞退するよう説得して回った。結果、30日の全党大会は李が一次投票で最大得票数を得るも、決選投票で金泳三に敗れた[14][15]。全党大会工作で失敗した金載圭は責任を負わされた。実務責任者ではなく、横合いから口をさしはさむ立場をとってきた車智澈はことがうまく運べば自分の功にし、そうでなかったら金載圭の責任にした。朴はますます金を軽視し、車を重用した[16]。

同年8月9日、YH貿易の労働組合は会社側の廃業宣言を受け、新民党の本部に187人の労働者を結集。籠城を開始した。同月11日、朴政権は警察隊1000人あまりを新民党本部に突入させ、籠城していた女性労働者を強制排除すると共に、金泳三、新民党議員、取材記者などに対しても無差別に暴行を加えた。このとき女性労働者の一人である金敬淑が墜落して死亡した[17](YH事件)。

同年9月16日付の「ニューヨーク・タイムズ」に金泳三の会見記事が掲載された。記事の中で金泳三はYH事件と関連させて政局を批判し、「米国政府に対し、朴正煕政権への支持を中止するよう要請する」と発言した[18][19]。これを受けて朴正熙と車智澈は金の排除を画策[20]。与党側は金の議員職除名動議案を国会に提出し、10月4日に与党議員のみの本会議で可決された(金泳三総裁議員職除名波動)[18]。

同年10月16日、朝鮮日報朝刊が「金炯旭元中央情報部長がフランスへ旅行中、1週間目に行方不明」と1面で報じた[9]。米国に亡命中だった金炯旭はフレイザー委員会で韓国政府に関する様々な不利な証言を行っており、朴の怒りを買っていた[9]。国家情報院の「過去事件真相究明委員会」は2005年5月に報告書をまとめ、金炯旭は金載圭の指示により現地で殺害されたと結論付けている[21]。

同年10月16日、釜山大学と東亜大学の学生3000名余りが釜山市内でデモを行い、これに市民が合流した。釜山におけるデモは政府によって鎮圧されるも、10月20日、釜山に隣接する馬山市において、慶南大学学生と市民による大規模デモが発生した(釜馬民主抗争)。これらのデモの対応において、穏健策ではなく、車が提唱した強硬策が朴大統領に採用された[1]。

10月25日、青瓦台に閣僚らが集まり安全保障会議が開かれた。情報部対北政策局長の玄鴻柱は釜馬民主抗争の総括報告を行った。原因分析中に「長期政権云々」との箇所があったことから、朴大統領は報告が終わると「事前にしっかり情報活動をしていないからあんなに広がったのだ。今回の釜馬事態について情報部や内務部等の情報機関は深く反省しなければならない」と厳しくなじった[22]。

この年、呪術師の崔太敏は宗教団体「大韓救国宣教団」を「セマウム奉仕団」に改称し、朴大統領の娘の朴槿恵を総裁にすえ、自身は副総裁に就いた。金載圭は崔太敏にまつわる横領14件、詐欺1件、弁護士法違反11件の計44件3億1,700万ウォンに達する不正事実を調べ上げ、朴大統領に報告した。崔太敏を処罰する動きが出ると、朴槿恵は父親に対し泣いて崔太敏の無実を訴え、金載圭は朴大統領の面前で朴槿恵から質問を浴びせられた。車智澈も崔太敏を擁護し、朴は車の意見を採用した[11]。歴代の情報部長の威力や権力に比べ、金載圭のそれは最弱体に転落していった[23][24]。

朴は情報部長など政権中枢部の交替を計画し始めた。法務部長官の金致烈や駐米大使の金溶植などが次期情報部長の候補に挙がった。10月24、25日頃、車智澈は親しい者に「こんど情報部長を替えるよ」と壮語した[22]。

事件

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10月26日午前 - 午後

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10月26日午前、金載圭は、この日に行われる挿橋川防波堤の竣工式に自身も出席したい旨を大統領府警護室に伝えた。警護室長の車智澈は金の提議をはねつけた。朴大統領はヘリコプターで竣工式に向った。大統領府秘書室長の金桂元と車智澈は朴に随行した[25]。

16時頃、金載圭はKCIA本部の執務室で、車智澈から「18時から宮井洞で『大行事』がある」と電話を受けた。「大行事」は大統領と女性2名、警護室長、情報部長、秘書室長が参席する集まりを意味していた[26]。16時25分頃、KCIA儀典課長の朴善浩(박선호、パク・ソノ)[注 1]は車智澈から大行事の連絡を直接受け、歌手の沈守峰と大学生兼モデルの申才順を急いで呼び出した。朴善浩は17時20分頃、プラザホテルで申才順に会い、車に乗せ、10分後には内資ホテルで沈守峰と会った[27]。

朴大統領はソウル特別市鍾路区宮井洞(クンジョンドン)にあるKCIA所有の安全家屋(略称:安家)[注 2]で情報部長ら最側近とときおり宴会を行っていたが、1974年8月15日に発生した文世光事件で妻の陸英修を失った後はそこへ女性を頻繁に呼ぶようになった。KCIAの儀典課長の任務はいつからか、大統領の酒席行事に女性を調達し「性上納」することに変質していった。宴会に集められた芸能人や女子学生はさらに選抜され、安全家屋で朴の性接待をさせられた。「大行事」は月2、3回の頻度で開かれ、朴と女性1人が会う「小行事」は月7、8回の頻度で開かれていた[30][31][32][33][34]。

16時15分、金載圭は陸軍に電話し、「18時30分までに陸軍参謀総長の鄭昇和を宮井洞の部長事務室まで来させてください」と言った。次いで、部下の第二次長補の金正燮に「17時30分までに宮井洞に来るように」と指示した[35][26]。鄭昇和は金載圭の推薦により1979年2月に陸軍参謀総長に就いていた[36]。

17時頃、金載圭は宮井洞の情報部本館に着き、2階の事務室に上がった。金庫からワルサーPPKを取り出し、故障がないのを確かめ、書架のうしろに隠した。17時10分頃、金桂元が事務室に現れた[37]。

10月26日夜

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金載圭が犯行に使用したワルサーPPKとS&W M36[3][4][5]。

10月26日18時5分頃、宮井洞の安全家屋の宴会場で、朴大統領を迎えた「大行事」の晩餐が始まった[38]。出席者は朴のほか、車智澈、金載圭、金桂元。この日、警護室副官の李錫雨が車智澈に拳銃を持って行くように進言したが、車は応じなかった[39]。

席上、朴大統領が金載圭に対して、反政府学生らが釜山のアメリカ文化館を占拠した事件(釜馬民主抗争)について責任を追及した。車智澈も追従して、KCIAの無能振りを叱責した。叱責は長時間に及んだ。

18時50分頃、歌手の沈守峰と大学生兼モデルの申才順が入出し、朴の両側に座った[27]。19時のテレビニュースで挿橋川防波堤の竣工式が映し出され、会話はしばし中断された[27]。

19時、一息ついた儀典課長の朴善浩は食堂横の待機室に行き、警護室警護処長の鄭仁炯(チョン・イニョン)と警護副処長の安載松(アン・ジェソン)と気楽に雑談を交わした。鄭仁炯とは海兵隊幹部候補生の同期だった。オリンピックの射撃選手である安載松は海兵隊の後輩だった[27]。

19時10分頃、金は中座した。敷地内にあるKCIA事務所に行き、書架に隠していたワルサーPPKをズボンのヒップケットに差し込んだ[27][3]。金は旧館前の芝生で朴善浩とKCIA部長随行秘書官の朴興柱(박흥주、パク・フンジュ)[注 3]を呼び寄せた。金は二人に対し、銃声が聞こえたら控え室の大統領府警護員(車の部下)を射殺するよう指示し、「頼れそうなやつを3人だけ連れて来い」と言った。朴善浩は「分かりました。30分余裕をください」と言った[27][33]。別れると金は晩餐会場に戻った。朴善浩は海兵隊出身のKCIA 警備班長の李基柱、自身の乗用車運転手の柳成玉、警備員の金泰元を実行犯に選んだ。

19時20分頃、竣工式に関するニュースが終わると朴大統領はテレビを消させた。沈守峰は待機室からギターを持ってきて「その時その人」と「涙に濡れた豆満江」を歌い、車智澈を指名した。車は数曲歌った[41]。

再び政治の話が始まると、KCIAの失態に話が及んだ。19時40分頃、金は「閣下、こんな虫けらのような奴を連れて、政治がちゃんとできますか?」と叫び[注 4]、車に向けてワルサーPPKを1発発砲した。右手首に貫通銃創を負った車は室内のトイレに逃げ込んだ。これを見た朴大統領が「何をしている?」と叫んだところ、金は「おい、お前も死んでみろ」と言い[42]、立ち上がりながら向かい側の朴大統領の胸元を撃った[2]。朴大統領は音もなく横に倒れた。金は逃げた車に向けてさらに引き金を引いたが不発だった。

待機室にいた朴善浩、鄭仁炯、安載松は銃声を聞き、互いに顔を見合わせた。朴善浩は素早くS&W M36を抜き、鄭と安を狙って「殺し合うのはよそう」と叫んだ。朴は流血を避けたいと考えたが、安が銃を抜くと安に発砲、拳銃に手を伸ばした鄭に対しても発砲し、2人を射殺した。このとき室内の電気が消えた。銃声を電線のスパイク音と勘違いした地下室の配電工が電源を切ってしまったためであった[43]。

晩餐会場を出た金は朴善浩からS&W M36を借りると再び会場に戻った[2][5]。まず棚を盾にしようとした車の腹部に1発銃撃して致命傷を与え、そして朴大統領の側頭部にとどめとして1発銃撃した。朴大統領は病院に搬送されたが、19時55分に到着した際にはすでに絶命していた[44][45]。金桂元、沈守峰、申才順の3人は難を逃れた。

朴興柱と李基柱と柳成玉は厨房の部屋に向かって撃ち込んだ。この銃弾に当たって、警護室車両運行係長の金容太と警護室警護員の金鏞燮の2人が死亡し、警護室随行係長の朴相範が重傷を負った[46][47][48][2]。李基柱は金泰元に、まだ生きている者がいるかもしれないと言って、確認のため撃つように命じた。金泰元はM16自動小銃をもって李基柱とともに、倒れている鄭仁炯と安載松に撃ち、車智澈にも撃った[49]。厨房でもとどめを撃っていったが、朴相範や李正五、金勇南らは死なずに済んだ。

金載圭に呼ばれた陸軍参謀総長の鄭昇和は18時30分過ぎに宮井洞に到着し、「大行事」のあいだKCIA第二次長補の金正燮と別棟で夕食をともにした。銃声が聞こえたのは食事が終りかけていたころだった[50]。金載圭は素足のまま別棟に入ると、鄭昇和の腕をつかみ「早く車にお乗りなさい」とうながした。後ろの席に金載圭と鄭昇和と金正燮が乗り、助手席には朴興柱が乗った。鄭が「何事があったんですか」とたたみかけるも、金はそれには答えず、親指をつきたて大統領が狙撃されたことをジェスチャーで示した。乗用車が31高架道路に向かっているのを知った鄭が行き先を尋ねると、金は情報部だと答えた。鄭は万が一作戦指揮が必要になった時、指揮にも良いし、保護も受けられるだろうと判断して「陸軍本部に行きましょう」と提案した。朴興柱がそれに同意した。金は提案を受け入れ、自らの牙城である南山のKCIA庁舎ではなく、陸軍本部に向かった。20時5分頃、一行は陸軍本部に到着した[50]。

逮捕

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金載圭は鄭昇和らと共に陸軍本部に向かった同時に、国務総理の崔圭夏をはじめとする閣僚らが「大統領有故」の報せを受けて緊急に集まった。その時、大統領府秘書室長の金桂元が大統領暗殺犯は金載圭であることを打ち明けた。後にすぐ開かれた緊急国務会議にて逮捕令が出され、10月27日0時40分に金載圭は大統領殺害犯として、急遽に動員された国防部憲兵により逮捕され、国軍保安司令部に連行された。そして憲法第48条の規定に基づき、崔圭夏国務総理は大統領権限代行に就任した。崔は27日午前4時をもって済州道を除く全国に非常戒厳令を布告した。戒厳司令官に鄭昇和陸軍参謀総長を任命した[51]。

朴正煕の訃報は、北朝鮮との対峙を続けている韓国では防衛上の見地からすぐには報じられず、その結果アメリカでの報道が先行したため、アメリカに友人・知人がいる韓国人は、いち早く大統領の死を知ることとなった。

捜査は戒厳司令部合同捜査本部長に就任した国軍保安司令官の全斗煥陸軍少将によって進められた。この事件により、国軍保安司令部の司令官で戒厳司令部合同捜査本部長に任命された全斗煥と、参謀総長兼戒厳司令官の鄭昇和が政府の実権を掌握した。

11月26日、金載圭は軍法会議に起訴された。

朴正煕の後任となる第10代大統領には、大統領権限代行となった崔圭夏が統一主体国民会議での選挙によって選出され、12月6日に就任した。崔圭夏は大統領権限代行を務めていた時より、早期の憲法改正及び大統領直接選挙による民主化を国民に約束しており、実際に大統領緊急措置の一部解除やそれによる政治犯釈放、金大中の自宅軟禁解除などを実施し、これにより「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが到来することとなる。

しかし合同捜査本部長としての権限を活用し、政権の実力者としてその権勢を徐々に増していく全斗煥を、あくまでも軍の中立性を保とうとする鄭昇和は快く思わず、加えて全斗煥を中心とする軍内秘密結社「ハナフェ」が軍内の主要役職を独占していることを問題視して解体しようとしたことで、全斗煥と対立していくこととなる。こうした状況に対し、全斗煥らハナフェのメンバーは先手を打つことを決めた。

12月12日夜、全斗煥やその同期である盧泰愚などのハナフェ・メンバーは首都警備司令部第30警備団司令部に集結して軍事反乱を開始し、鄭昇和は事件当時現場に居ながら事実確認をしなかったことが弱みとなって大統領殺害の共犯容疑をかけられ、合同捜査本部に逮捕されてしまう。

軍部に疎く非常事態の収拾能力を持たなかった崔圭夏はこの動きを黙認せざるを得ず、翌1980年にかけて全斗煥らハナフェを中心とした「新軍部」になし崩し的に実権を奪われ、第四共和国体制の終焉、第五共和国体制の成立へと繋がっていった。

1979年12月、共犯容疑をかけられた金桂元は死刑を宣告されたが[7]、翌1980年、管轄官確認過程で無期懲役に減刑された(1982年に刑執行停止で釈放)。

1980年1月28日、金載圭は内乱目的殺人および内乱未遂罪により死刑判決を受けた。同年5月24日にソウル拘置所で絞首刑に処された。

事件関係者

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朴正煕と陸英修の墓

宴席の出席者

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  • 朴正煕 - 大韓民国大統領。
  • 車智澈 - 大統領府警護室長。
  • 金載圭 - 韓国中央情報部長。大統領と警護室長を射殺。のちに絞首刑。
  • 金桂元 - 大統領府秘書室長。事件目撃者。共犯容疑で逮捕。
  • 申才順 - 大学生、モデル。事件目撃者。
  • 沈守峰 - 歌手。事件目撃者。

被害者

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  • 朴正煕…大統領。金載圭によって頭部、胸部に被弾、死亡。
  • 車智澈…警護室長。金載圭によって射殺。
  • 鄭仁炯…警護室警護処長。朴善浩によって射殺。
  • 安載松…警護室警護副処長。朴善浩によって射殺。
  • 金容太…警護室特殊車両運行係長。死亡。
  • 金鏞燮…警護室警護員。死亡。
  • 朴相範…警護室随行係長。重傷。
  • 李正五…中央情報部宮井洞安家料理士。重傷。
  • 金勇南…中央情報部宮井洞安家運転士。重傷。

犯人

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30名を越える大弁護団が結成され、ロサンゼルスや国内の大学で助命運動が起こった。処刑後は、当局により墓碑の建立も禁じられた。

  • 金載圭 - 中央情報部長。主犯。1980年5月24日絞首刑。
  • 朴善浩 - 中央情報部儀典課長。共犯。1980年5月24日絞首刑。
  • 朴興柱 - 中央情報部部長随行秘書官。陸軍大領(大佐)。共犯。1980年3月6日銃殺刑。唯一の現役軍人だった彼のみ軍法で裁かれ、他の共犯者よりも早く刑が確定、執行されている。
  • 李基柱 - 中央情報部宮井洞安家警備班長。共犯。1980年5月24日絞首刑。
  • 柳成玉 - 中央情報部儀典課長車運転士。共犯。1980年5月24日絞首刑。
  • 金泰元 - 中央情報部宮井洞安家警備員。共犯。1980年5月24日絞首刑。
  • 劉錫述 - 同上。共犯。懲役3年。
  • 徐永俊 - 同上。共犯。不起訴。

共犯容疑をかけられた人物

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  • 金桂元 - 大統領府秘書室長。終身刑を宣告されたが、1982年に執行停止で釈放、1988年2月に特別赦免・復権で刑執行が免除されて公民権を回復した。
  • 鄭昇和 - 陸軍参謀総長(陸軍大将)。事件後戒厳司令官を兼任するが、全斗煥らハナ会メンバーによる粛軍クーデターにより共犯容疑をかけられ逮捕。1980年に軍法会議にかけられて懲役10年を宣告された他、大将から二等兵に降格させられた上で予備役編入させられるが、執行猶予で釈放された。その後名誉回復がなされ、階級も戻されている。
  • 金正燮 - 中央情報部第二次長補。

殺害動機

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釜馬民主抗争の収拾に対する政権内部の軋轢などが事件を引き起こした原因の一つとされている[52][53]。

金載圭本人は裁判において「民主主義回復のための革命」である旨の動機を述べた[54]。同じく殺害された車智澈警護室長については「率直に言うと、ついでにやっただけで...」と述べた。

車智澈は国軍指揮体系や行政指揮体系を無視し、軍団長級の中将を警護室次長につけ、師団兵力を警護室に配置させることを国連軍司令官と陸軍参謀総長に要求した。さらに戦車とヘリコプター、重火器を備えた第30警備団4個大隊を麾下に置いた[55]。朴正熙は車からの提案を受け入れ、放任した。金載圭が車の越権行為をとがめると、車は「閣下がすなわち国家だ」と述べ、自身の地位を守ろうとし、朴は車の前で金をたびたび叱責した[55]。当時の国軍による事件調査報告では、車に対する不満、職務を満足に遂行できていないことへの大統領からの叱責などにより、自らの地位が脅かされることを恐れた末の、個人的な恨みによる犯行とされた。

1980年1月28日、金は死刑判決を受けるが、この日自身の弁護士に対し、「崔太敏(崔順実の父親)の不正疑惑、崔太敏と朴槿恵の関係性についての報告を朴大統領が聞き入れなかったこと」が殺害原因の一つであると話した。そして控訴審でもその旨を主張した[56][57][58]。

当時、韓国政府は極秘裏に核兵器開発計画を進めており、アメリカ政府の怒りを買っていた(当時のカーター政権と朴政権との関係は様々な問題で最悪の状況だったと、後に金桂元は雑誌のインタビューで証言している)。このため、暗殺にアメリカ中央情報局(CIA)が関与したとする見方もある[要出典]。いずれにしても、朴大統領の暗殺によって韓国の核兵器開発計画は挫折した。

関連作品

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ストーリーに朴正煕暗殺事件を取り入れた作品として、映画『民族と運命(朝鮮語版、英語版)』や『ユゴ 大統領有故』『大統領の理髪師』『1979世界大血案(日本未公開)』、ドラマ『第4共和国』『第5共和国』がある。また、粛軍クーデターを描いた『ソウルの春』は、朴正煕暗殺事件直後、大韓民国陸軍陸軍本部に将官達が緊急招集され、国務総理から朴正煕の死を告げられる場面から始まる。

他に小説・漫画『気分はもう戦争』(矢作俊彦、漫画:大友克洋)にも朴正煕の暗殺シーンのコマがある。『ジェネシスを追え』で知られるスティーヴ・シャガンの小説『円環 ザ・サークル』は、米国情報機関の関与を絡めたスリラーだった。

2020年には、金忠植によるノンフィクション「実録KCIA『南山と呼ばれた男たち』」を原作に、イ・ビョンホン主演による映画『KCIA 南山の部長たち』が韓国で公開された(ただし、内容については事実を基にしたフィクションとしている)。

2024年8月14日、暗殺事件被疑者の裁判を、唯一の軍人被告(朴興柱がモデル)の弁護を担当した弁護士を通じて描く『大統領暗殺裁判 16日間の真実(朝鮮語版)』が公開された(こちらも事実を基にしたフィクションという扱い)[59]。

2026年5月20日、ドキュメンタリー映画『1026: 새로운 세상을 위한』(「1026: 新しい世界のための」という意味)が公開された。一部再現ドラマを含む[60]。

脚注

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注釈

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  1. ↑ 朴善浩は1934年に生まれた。大邱の大倫中学校に通っていたとき、同校の体育教師だった金載圭を知った[8]。朴善浩は海兵隊で長く軍隊生活を送るが、1973年10月に海兵隊司令部が解体されると、1974年4月に当時中央情報部(KCIA)次長だった金載圭の助けを借りて、中央情報部に総務課長として就職した。釜山支部の情報課長を務めていた1976年、密輸事件の捜査中、検察捜査チームの動向を調べるために盗聴を行い、それがために免職させられた。1年ほど失職者生活をしたのち、再び金載圭の助けを受けた。建設部長官出身の金の口ききにより、朴は現代建設に就職した。1977年4月のことだった。1978年8月、金は朴をKCIAに呼び戻し、儀典課長の職をあてた[8]。
  2. ↑ 「安全家屋」は諜報機関の隠れ家を示す英語の「safe house」に由来する言葉[28][29]。
  3. ↑ 朴興柱は1939年に生まれた。陸軍士官学校出身の軍人でベトナム戦争に従軍した。1978年4月、金載圭KCIA部長はチームスピリット陸軍担当将校だった朴を、部長秘書室随行秘書官に任官させた。同年12月に朴は大佐に昇進した。陸軍の現場に連隊長として復帰することを希望したが、金載圭は「数ヶ月だけ我慢しろ」と返した[40]。
  4. ↑ ただしこの時に金が叫んだ言葉は情報が錯綜している。同席していた大統領府秘書室長の金桂元は金載圭が自身に「閣下にきちんとお仕えしてください」と声を掛けた後に車智澈に向かって「この虫けら野郎!」と叫んで発砲したとしており、沈守峰は「このガキ、生意気だ!」と金が叫んだとしている。一方で申才順はこのように金が叫んだと証言したが、後に2011年の朝鮮日報のインタビューで「合同捜査本部の圧力でそう証言せざるを得なかった」と発言している。

出典

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  1. 1 2 “10・26사태” (朝鮮語). 韓国民族文化大百科事典. 2026年5月29日閲覧。
  2. 1 2 3 4 趙甲濟 1987, pp. 276–279.
  3. 1 2 3 채성진 (2009年2月8日). “Why 비가 오면 생각나는 그 권총”. 조선일보. 2026年2月17日閲覧。
  4. 1 2 金忠植 1994, p. 342.
  5. 1 2 3 Dabbs, Will (2019年11月1日). “Of Dictators, Assassins, and Friends – Walther PPK”. Guns America. 2026年2月17日閲覧。
  6. ↑ 이도흔 (2025年6月4日). “'10·26 사건' 故김재규 재심 내달 시작…사형 집행 45년만”. 연합뉴스. 2026年2月5日閲覧。
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参考文献

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外部リンク

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