佐竹長義
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| 時代 | 鎌倉時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 承元元年(1207年)[1] |
| 死没 | 文永9年7月26日(1272年8月21日)[1] |
| 別名 | 太山道義(道号・法名)[1] |
| 墓所 | 茨城県常陸太田市の勝楽寺(正宗寺) |
| 官位 | 常陸介、佐竹別当[1] |
| 幕府 | 鎌倉幕府 |
| 氏族 | 佐竹氏 |
| 父母 | 父:佐竹義重、母:河井平六三郎忠遠娘[1] |
| 兄弟 |
長義 額田義直[2](額田氏の祖) 岡田義澄[3](岡田氏・真崎氏の祖) 蓮勝房永慶[4] 岡部義綱(岡部氏の祖) 佐竹重氏 |
| 妻 | 宍戸家周娘、二階堂行義の娘[1] |
| 子 |
佐竹義胤 伊豆王丸 国井弘義室など女子4人[1] |
佐竹 長義(さたけ ながよし、承元元年(1207年) - 文永9年7月26日(1272年8月21日)[5][1])は、鎌倉時代前期の武将。常陸佐竹氏5代当主。4代当主佐竹義重の長男[1]。母は河井平六三郎忠遠(平忠遠)の娘[5][1]。道号は太山、法名は道義(大山道義)[1]。
略歴
通称は次郎(常陸次郎)[1]。官位は常陸介に任じられ、父に続いて佐竹別当と称した[1]。正室は宍戸前司宍戸家周(常陸国の住人)の娘、継室は出羽前司二階堂行義の娘[5][1]。
建長4年(1252年)4月、宗尊親王が鎌倉幕府6代将軍として鶴岡八幡宮に参拝(拝賀)した際、供奉人に定められている(ただし拝賀の儀自体は取りやめとなった)[1]。
弘長元年(1261年)には鶴岡八幡宮の放生会への供奉を命じられるが、「在国中であり、所労により灸治を加えているが全快しない」として辞退の請文を提出し、免除されている[6][1]。佐竹氏は祖父・佐竹秀義が源頼朝に赦免されて以降、当主の鎌倉常住を基本としていたが、長義が在国していた背景について、経済的困窮等で鎌倉へ常時出仕できる状況になかったとする推測もある[7]。また、当主が常陸国の旧領(酒出・額田・増井など)に拠点を置き、在地勢力との結びつきや失地回復を進めていた時期とも位置づけられている[8]。
信仰面では、文永4年(1267年)に祖母(秀義の妻・陽雲寺殿。佐竹義宗の娘)の追善供養のため、祕沢山陽雲寺を建立し、僧の詮恵を開山とした[1]。また文永6年(1269年)には荒廃していた観音堂を再興して「妙福山明王院佐竹寺」(佐竹寺)と改め、寺領を寄進して祈願寺としたと伝えられる[9]。
子孫
正室(宍戸家周の娘)との間に1男2女、継室(二階堂行義の娘)との間に1男2女をもうけたとされる[1]。
脚注
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 『佐竹家譜(上)』「第七世 長義」57頁。
- ↑ 義重の次男、通称は次郎義尚とも。
- ↑ 義重の三男、通称は四郎。系図により義高・義隆とも表記される。
- ↑ 寿命寺が所蔵する「佐竹系図」より。
- 1 2 3 『寛政重修諸家譜』巻第百二十九
- ↑ 『吾妻鏡』弘長元年7月29日条。
- ↑ 高橋裕文『中世佐竹氏の研究』青史出版、2020年、62-63頁。ISBN 978-4-921145-69-9。
- ↑ 冨山章一「常陸時代の佐竹氏 -500年の軌跡を追う-(第8回 雌伏の時代を生きる)」『筑波経済月報』2024年3月号、筑波総研、2024年、14-15頁。
- ↑ 『水戸市史』第1巻 / 『常陸太田市史 通史編』第1巻。
参考文献・出典
- 『佐竹家譜(上)』(原武男翻刻・編集、加賀谷書店、1973年)
- 原武男 編『新編佐竹氏系図』加賀谷書店、1973年。
- 常陸太田市史編さん委員会 編『常陸太田市史編さん史料 9 (佐竹系譜)』常陸太田市、1982年。
- 石川豊『中世常総名家譜 上巻』1985年。
- 『水戸市史 上巻』水戸市史編さん委員会、1963年。
- 『常陸太田市史 通史編 上巻』常陸太田市、1984年。
- 内山純子「東国における仏教諸宗派の展開」1990年。
- 高橋裕文『中世佐竹氏の研究』青史出版、2020年。ISBN 978-4-921145-69-9。
- 冨山章一「常陸時代の佐竹氏 -500年の軌跡を追う-(第8回 雌伏の時代を生きる)」『筑波経済月報』2024年3月号、筑波総研、2024年。