| 節分 | |
|---|---|
| 挙行者 | 日本 |
| 種類 | 雑節 |
| 日付 | 毎年2月2日 - 4 日頃 |
| 2025年 | 2025年2月2日[注釈 1] |
| 2026年 | 2026年2月3日 |


節分(せつぶん、せちぶん)は雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと[1]。節分とは「季節を分ける」ことも意味している。江戸時代以降は特に立春(現代日本のグレゴリオ暦においては変動するが毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。
太陰太陽暦(旧暦)では、立春に最も近い新月を元日とし、月(太陰)の満ち欠けを基準(月切)にした元日(旧正月)と、太陽黄経を基準(節切)にした立春は、ともに新年ととらえられていた。したがって、旧暦12月末日(大晦日)と立春前日の節分は、ともに年越しの日と意識されていたことになる[2]。今も節分を「年越し」「年取り」と呼ぶ地域があるのはこの名残である。
本項目では、立春の前日、節分に行われる伝統的な行事について述べる。
一般的には「鬼は外、福は内」と声を出しながら福豆(煎り大豆)を撒いて、年齢の数だけ(もしくは1つ多く)豆を食べる厄除けを行う。また、玄関などに邪気除けの柊鰯などを飾る。これらは、地方や神社などによって異なってくる(後述)。
季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると信じられていたため、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われていた。
宮中での年中行事であり、『延喜式』では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていた。
「土牛童子」ともいわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去された。『延喜式』によれば、土偶(土人形の意)も土牛も、各門での大きさは同じで、土偶は高さ2尺で、方1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。土牛は高さ2尺・長さ3尺で、長さ3尺5寸・広さ1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。陽明門および待賢門には、青色のものを、美福門朱雀門には、赤色のものを、郁芳門、皇嘉門、殷富門および達智門には、黄色のものを、藻壁門および談天門には、白色のものを、安嘉門および偉鑒門には、黒色のを、立てる。『公事根源』十二月には、「青色は春の色ひんかしにたつ赤色は夏のいろ南にたつ白色は秋のいろ西にたつ黒色は冬の色北にたつ四方の門にまた黄色の土牛をたてくはふるは中央土のいろなり木火金水は土ははなれぬ理有」とある。
これは、平安時代頃から行われている「追儺」から生まれた[3]。元中国から伝わったこの行事は日本に定着していき、現在の節分の元となった [4]。
『続日本紀』慶雲三年十二月の条によると706年にこの追儺が始まっている(「是年天下諸国疫疾百姓多死始作土牛大儺」(この年、天下諸国に疫病あり。多くの民が死に、はじめて土牛を造り大儺(だいだ)す)[5]。これが室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行った。
近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになった[3]。
| 年 | 年を4で割った余り | |||
|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 0 | |
| 1873年 - 1884年 | 3日 | 3日 | 3日 | 3日 |
| 1885年 - 1900年 | 2日 | 3日 | 3日 | 3日 |
| 1901年 - 1917年 | 3日 | 4日 | 4日 | 4日 |
| 1918年 - 1954年 | 3日 | 3日 | 4日 | 4日 |
| 1955年 - 1987年 | 3日 | 3日 | 3日 | 4日 |
| 1988年 - 2020年 | 3日 | 3日 | 3日 | 3日 |
| 2021年 - 2057年 | 2日 | 3日 | 3日 | 3日 |
| 2058年 - 2090年 | 2日 | 2日 | 3日 | 3日 |
| 2091年 - 2100年 | 2日 | 2日 | 2日 | 3日 |
| 2101年 - 2123年 | 3日 | 3日 | 3日 | 4日 |
節分の日付は一般には2月3日であるが常にそうではなく、1984年までは4年に1度の閏年の節分は2月4日だった。また、1985年から2020年までは毎年2月3日だった。2021年から2057年までは閏年の翌年の節分は2月2日になる。グレゴリオ暦での最初の節分となった1873年から22世紀初頭までの具体的な日付は表のようになる。数十年のスケールで徐々に前倒しになってくるが、4で割り切れても閏年とならない1900年、2100年、2200年…の翌年に1日遅れて帳消しとなる。
立春の前日であり、立春は太陽黄経が315度となる日である。このように、間接的に天体の運行に基づいているので、日付は年によって異なり、また未来の日付は軌道計算に基づく予測しかできない。なお厳密には、基準とする標準時によっても異なるが、日本以外では祝う風習がないので、旧正月のように国による日付の違いが話題となることはない。
太陰太陽暦では、年末に立春を迎えることがある。それに伴い節分も年内となる。これを年内節分という。
節分とは立春・立夏・立秋・立冬の前日を意味し、その中でも立春の前日としての節分に行われる風習としてはいくつかあるが、最も一般的といえる鬼払いの風習は、中国の風習を由来とする平安時代の追儺(ついな)、鬼遣(おにやらい)と呼ばれた宮中行事を元としているとされる。
行事の由来とされる中国の歳事は、元々太陰太陽暦(旧暦)で十二月の歳事だった。この頃は一年の変わり目、冬から春に転じるときで変化が大きく、疫鬼が民に病や災禍をもたらすとされた。そこで疫鬼を駆逐し、古い年を送り、新たな年、春の陽気、吉福を内に迎えた(「後漢書」礼儀志中などに記載)[5]。
「周礼(しゅらい)」夏官(かかん)に書かれた歳事は以下のようなものである[5]。
方相氏は熊の皮をかぶり、黄金四目(しもく)、黒い上衣に朱色の裳の姿で、戈(ほこ)を執り、楯(たて)を掲げ、多くの部下をひきい、儺(だ)の儀を行い、そうして室内を捜索して、疫を祓うことを掌(つかさど)る
また、元々は疫鬼を追い払う役であった方相氏が、次第に追い払われる鬼役になったという説がある[6][7]。
中国から伝わった追儺(ついな)や鬼遣(おにやらい)は当初、年越しの儀式だった。やがて季節の分かれ目である節分の中でも、立春の前日に行われるようになったが、この時期はまだまだ寒い。そして季節が移ろう時期は体調を崩しやすい。ちょっとした風邪から大病につながったり、深刻な病をもたらすこともある。そんな病魔を、人々は鬼、あるいは疫鬼として恐れた。
平安時代の女流作家・藤原道綱母(ふじわらの みちつなのはは)が著した『蜻蛉(かげろう)日記』には、900年代の人々が鬼遣に興ずる様子が描かれている。室町時代には形を変えて豆をまくようになったが、これは「魔滅」(まめ)に由来する。鬼の目である「魔目」(まめ)を滅ぼす力を持つ「魔滅」すなわち「豆」なのだ。なんだか駄洒落のようだが、日本人は古来言霊の存在を信じ、言葉に霊力と意味を与えてきたのだ。それに豆は「五穀」(米、麦、ひえ、あわ、豆)のひとつであり、農耕民族である日本人の生活に欠かせないもので、力が宿るとされてきた。これを穀霊信仰という。だからこれら五穀は神事にも使われ、中でも豆と米は神聖な存在として、鬼を払う力を持っていると信じられていたのだ[8]。
室町時代後期成立とされる『貴船の本地』(貴船神社縁起)では、娘が人間と恋をしたために、鬼が日本人を食おうとし更に軍勢で襲撃しようとしたが、その鬼封じの為に明法道の博士が導入した儀式であるとされている[9][10]。

節分に豆まきを行った文献が見られるようになるのは南北朝時代以降のこと(『看聞御記』や『花営三代記』など)である[11]。中国の『漢旧儀』によると漢代に厄除けや魔祓いのために小豆や五穀を撒く風習があったとしているが、日本の追儺(鬼やらい)の行事に豆を撒いていたかは文献からははっきりしない[11]。ただ、平安時代には散米と称して米を撒く風習が広くみられた[11]。
節分の豆まきに関して、文献に現れる最も古い記録は、室町時代の応永32年正月8日(1425年1月27日)(節分)を記した2文書である。宮中の『看聞日記』には「抑鬼大豆打事、近年重有朝臣無何打之」とあり[12]、室町幕府の記録『花営三代記』には「天晴。節分大豆打役。昭心カチグリ打。アキノ方申ト酉ノアイ也。アキノ方ヨリウチテアキノ方ニテ止」とある[13]ことから、この頃既に都の公家や武家で豆まきが習わしになっていたことがわかる。
その20年後に編纂された辞典『壒嚢鈔』(1445年または1446年成立)巻一の八十三「節分夜打大豆事」には、宇多天皇の時代(867年 - 931年)、鞍馬山の僧正が谷と美曽路池(深泥池)の端にある石穴から鬼が出て来て都を荒らすのを、祈祷し、鬼の穴を封じて三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたとする由来伝説が記されている[14]。
豆は、「穀物は生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある[3]。
寺院で行われる豆まきには、多くの人々が殺到するようになったが、第二次世界大戦直前の1941年2月の時点では既に食糧事情が悪化しており、「豆」を大量に入手することは困難になっていた。東京の回向院や増上寺では豆まき行事は中止された。浅草寺では堂内だけで縮小して行われた。池上本門寺では小さな紙袋に少量の豆を入れて豆まきが行われた[15]。
節分を初めて英文で紹介したのはエドワード・グリー(Edward Greey)とされている[16]。小泉八雲も「知られぬ日本の面影」で節分を「主に悪魔払いの儀式として有名」と紹介している[16]。
なお、各地の伝承としては、豆まきは必ずしも節分のみに行われたわけではなく、煤払い(煤掃き)の日、大晦日、七日正月などに行う地域もあった[11]。岩手県西根町や釜石市の一部では煤はき(煤払い)の日などにも豆まきが行われた[17]。

歴史的には節分に米、麦、搗栗、炭など撒く例もあるが、一般的には大豆が用いられる[11]。大豆は五穀の中で最も安価で手近にあり、鬼を追い払うときにぶつかって立てる音や粒の大きさが適当だったからとする説もあるが定かではない[11]。一般的に煎り豆が使用されるが、多くの地域に豆から芽が出ることを恐れる伝承が残っており、邪悪なものが再び蘇らないようにする意味があったと考えられている[11]。炒り豆を神社や寺社に備える風習が各地にみられる[16]。
スーパーマーケットなどの特設コーナーで、炒った豆をパックにし、福豆(ふくまめ)などの名称で販売される。鬼のお面(お多福の面が入っている商品もある)がおまけとしてついているものもあり、父親などがそれをかぶって鬼の役を演じて豆撒きを盛り上げる。しかし、元来は家長たる父親あるいは年男が豆を撒き鬼を追い払うものであった[3]。
小学校では6年生が年男・年女にあたるため、6年生が中心となって豆まきの行事を行っているところもあり、神社仏閣と幼稚園・保育園が連携している所では園児が巫女や稚児として出る所もある。相撲力士を招いて(醜・しこ・四股を踏む事により、凶悪な鬼を踏みつけ鎮める悪魔祓いをする)豆撒きをする社寺もある。
豆が幼児の鼻や耳に入ってけがをする危険やアレルギーなどを考慮して、豆の代わりに新聞紙を丸めたもので豆まきを行う乳幼児施設もある[18]。
北海道・東北・北陸・南九州の家庭では 落花生を撒き、寺社や地域によっては餅や菓子、みかん等を投げる場合もあるが、これは「落花生は大豆より拾い易く地面に落ちても実が汚れない」という合理性から独自の豆撒きとなった[19]。
大豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べる風習もみられる[11]。
豆をまく際には掛け声をかける。室町時代の相国寺の僧侶、瑞渓周鳳の日記である『臥雲日件録』の文安4年12月22日(1449年1月16日)の記述には「散熬豆因唱鬼外福内」とある[20]ように、掛け声は通常「鬼は外、福は内」である。
しかし、地域や神社によって異なる場合がある。鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方避けの寺社では「鬼は外」ではなく「鬼も内(鬼は内)」としている[3]。奈良県吉野町の金峯山寺で行われる節分会では役行者が鬼を改心させて弟子にした故事から「福は内、鬼も内」としている[21]。また新宗教の大本は鬼神を「艮の金神(国常立尊)」と解釈しているので、同じく「鬼は内」とする[22]。「鬼」の付く姓(比較的少数だが「鬼塚」、「鬼頭」など)の家庭もしくは鬼が付く地名の地域では「鬼は内」の掛け声が多いという。山形市の鳥海月山両所宮でも鬼の字が姓に含まれる世帯もあることから、掛け声を「鬼は外、福は内」だけでなく「福は内、鬼も内」としている [23]。渡辺の名字の人は、平安期に源頼光に仕えた四天王の一人である渡辺綱が丹波・大江山にいた鬼の「酒呑童子(しゅてんどうじ)」を退治した為、豆まきをしない[24]。大名九鬼家の領地でも、藩主に敬意を表して「鬼は内」としている[25]。千葉県成田市の成田山新勝寺では「不動明王の前では鬼さえ改心する」というので「福は内」のみ叫ぶ。また、丹羽氏が藩主であった旧二本松藩領内の一部では「鬼は外」と言うと「おにわそと」転じて「お丹羽、外」となるため、それを避けるために「鬼、外」と言う所がある[26]。
豆をまく後ろで、すりこ木や杓文字、すり鉢などを持ち、「鬼は外、福は内」の掛け声に合わせて「ごもっとも、ごもっとも」などと相槌を打つ風習が存在するが、ほとんどは家族ごとの伝統として受け継がれていてあまり知られていない[27]。北海道[28]、長野県[29]、石川県、福井県[30]、京都市[31]、長崎県などの一部で地域的な伝承が見られるほか、深志神社(長野県松本市)[32]、重蔵神社(石川県輪島市)[33]、正覚院(石川県羽咋市)[34]、知恩院(京都府京都市)[35]、興福寺(長崎県長崎市)[36]、有川神社(長崎県南松浦郡新上五島町)[37]などの社寺でも行われている。
この風習に関連して以下のような行事もある。

柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿したもの。西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいう。
「虫の口焼き」といって、鰯を焼くときに唾を吐きかけ、作物の害虫を退治する呪文を唱える地域が各地にある[42]。
愛媛県では、タラノキにトベラやヒイラギの葉と煮干しを括り付けた「鬼ぐ(喰)い」を戸口につるす風習がある[43]。「鬼バラ」という地域もある。山口県の瀬戸内地域にもタラノキや山椒の枝にトベラやすすきを挿す同様の習慣がある[44]。
節分の夜に炒り豆を年の数だけ紙に包み、人知れず家に近い四つ辻の真ん中に捨てて、振り返らずに家まで戻り、厄を落とす風習が各地にある[58]。豆ではなく、餅[59]、金銭[60]、火吹竹、炮烙、ふんどし[61]、履物[62]などのこともある。
神酒を飲んだり息を吹きかけたりして厄をうつした「かわらけ(土器)」を、形代とみなして砕き割る厄祓いが、大杉神社(茨城県稲敷市)[63][64]、壬生寺(京都市中京区)[65][66]、皇大神社(京都府福知山市)[67]、尼崎えびす神社(兵庫県尼崎市)[68]、海神社(神戸市垂水区)[69]、香積寺(愛媛県東温市)[70]、宝輪寺(長崎県長崎市)[71]など、各地の社寺で行われる。
厄払いのために、普段と違う服装で社寺参拝を行う。いつもと違う扮装をすれば、魔を追い払うことが出来ると信じられたことから始まったもので[3]、単に「お化け」と呼ばれる事もある。一説では、当初は子供の様な格好をしたことから「お坊髪」と呼ばれ、それが「お化け」になったともされている[74]東京の浅草、四ツ谷、京都の花街、大阪の北新地などでは、芸者(舞妓、芸妓)やホステスが、通常の芸妓衣装ではない、様々な扮装をする。
ぜんざいやまんじゅう、赤飯など小豆を使った食べ物を近隣や親しい人に配って、厄落としを節分にする地域が関西に広がっている。小豆の赤色は邪気を払い厄を除け福をもたらす陽の色であるとされる。小豆を108人に食べてもらうと厄落としになると言われるところもある[75]。

豆を並べて焼き、焦げ具合からその年の作柄や月ごとの天候を占う[78]。
文献での初夢の初出は、鎌倉時代に西行が著した『山家集』巻上(1首目)の「年くれぬ 春くべしとは 思ひ寝に まさしく見えて かなふ初夢」である。その題に「立春の朝よみける」とあり、この時代には暦上の新年とは無関係に節分から立春の夜に見る夢を初夢としている[79]。


神社では節分祭(せつぶんさい)、寺院では節分会(せちぶんえ・せつぶんえ)の呼称が一般的である。



未登録
IPFS未登録
📡 0ピア
N=1
CRITICAL
PQS A91