宝寿院常泉
宝寿院 常泉(ほうじゅいん じょうせん、生年不詳 - 慶長17年8月2日〈1612年8月28日〉?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての祇園社(現・八坂神社)の社務執行(宝寿院門主)を務めた人物である。幼名は猿千世丸。
前任の宝寿院顕淳の跡を継いだ玉寿の早世に伴い、祇園社務執行職および宝寿院の家督を継承した。彼の時代以降、歴代の宝寿院門主が用いた通字である「顕」の字を冠さず「常泉」と名乗った。室町幕府・奉行人層や諸大名との交渉、神札進上、社領支配にあたった。
また、公家の冷泉家、神道界の吉田兼見(吉田神社)、武家の明智光秀らと佐竹蓮養坊家を介して複雑かつ広範な姻戚関係を結んでいた。
生涯・血縁
得度と執行職の継承
幼名は「猿千世丸」と伝える[1]。天文13年(1544年)12月、天台宗門跡の青蓮院(青門)において得度した[2]。
前社務執行の宝寿院顕淳の没後(あるいは退任後)、その嗣子である「玉寿(2代目)」が一時執行職に就いたが早世したため、常泉がその跡を継いで宝寿院門主・祇園社務執行職に就任した[1]。歴代の宝寿院門主・社務執行(顕重・顕増・顕淳など)が受け継いできた通字の「顕」の字を僧名に用いなかった背景には、この継承経緯が関係していると推測されている[1]。
血縁・婚姻関係
常泉の血縁および婚姻関係は、公家・神職・武家を結ぶ複雑なネットワークを形成していた。
事績
幕府・諸大名との交渉と神札進上
社務執行として、室町幕府奉行人の飯尾大和守(貞連)宛てに申状を提出して6月の例年通りの神事執行や御神馬代の下知を要請したほか[4]、近江国守護の六角承禎・六角義治、朝倉氏、波々伯部氏、中澤備前守、吉田安芸守らと書状を交わした。
また、越前国の朝倉氏(朝倉右衛門督)や魚住帯刀左衛門尉に対し、神供米の祈祷とともに牛玉・守札・巻数・五明壺本などを例年通り進渡し、武運長久を祈念するとともに公用運上の調整・交渉を行った[5]。吉田安芸守や松村左馬丞らに対しても、御神供米の寄進に対する感謝を伝え、重ねて社頭での祈祷を行った[6]。
社領管理と公用運上
祇園社領の経営・年貢徴収において活発な文書発給を行った。
晩年と後継
天正15年(1587年)正月に継嗣の祐雅が得度するまで、長期間にわたり社務執行職を務めた[1][2]。天正17年(1589年)9月4日付の記録にも「常泉」の署名が見られるが、肩書きから「執行」が外れているため、祐雅に職を譲り退任した後に記したものと考えられている[1]。
没年については、慶長17年(1612年)8月2日没とする説(『雑録』)のほか、慶長16年(1611年)8月2日没や慶長18年(1613年)没などの異説が存在する[1]。没後、社務執行職は宝寿院祐雅へ継承された。
脚注
参考文献
- 『八坂神社文書』(上巻・下巻1)
- 『八坂神社記録』(第4巻)
- 『新編 八坂神社記録』
- 『新編 八坂神社文書 第一部』