小田急相模原駅

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小田急相模原駅

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小田急相模原駅*
北口(2021年)
おだきゅうさがみはら
Odakyu Sagamihara
◄OH 28 相模大野 (2.4 km)
(2.2 km) 相武台前 OH 30►
地図
所在地 相模原市南区南台三丁目20番1号
北緯35度30分54.5秒 東経139度25分21.5秒 / 北緯35.515139度 東経139.422639度 / 35.515139; 139.422639座標: 北緯35度30分54.5秒 東経139度25分21.5秒 / 北緯35.515139度 東経139.422639度 / 35.515139; 139.422639
駅番号 OH29
所属事業者 小田急電鉄
所属路線 ■小田原線
キロ程 34.7 km(新宿起点)
駅構造 地上駅(橋上駅)
ホーム 2面2線
乗降人員
-統計年度-
[小田急 1]52,578人/日
-2024年-
開業年月日 1938年(昭和13年)3月1日
備考 * 1941年(昭和16年)に相模原駅より改称。
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南口(2019年4月)
改札口(2015年9月)
ホーム(2015年9月)

小田急相模原駅(おだきゅうさがみはらえき)は、神奈川県相模原市南区南台三丁目にある、小田急電鉄小田原線の駅である。駅番号はOH 29。

歴史

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小田急相模原駅があるこの周辺地域は元々「相模野」・「相模原」・「相模ケ原」[1]・奥野(おきの)[2]と呼ばれる原野の一部であり、周辺農村の秣場とされていた。それまで人が誰も住んでおらず江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった。

江戸末期の嘉永6年(1853年)[注釈 1]にこの入会地が分割されて周辺各村の領域に組み込まれ、小田急相模原駅付近は高座郡上鶴間村、新戸村、座間宿村[注釈 2]北広野、新田宿村飛地の各村が境界を接する区域となった。

1875年(明治8年)[3]この地の将来性に着目した高座郡蓼川村の平出富士太郎という、豪商(醤油製造業)・豪農(田畑百町歩)の長男で農業の多角経営者が私財を投じて、高座郡福田村の保田善兵衛所有の小田急相模原駅の周りと駅の北側一帯、座間村域の北広野の一部を含む[注釈 3]この地、約二十町歩[注釈 4]を購入し、当時の座間村の人々に開拓を勧め呼びかけた。その後、その熱い呼びかけに応えて座間河原宿在住の鈴木孫七[注釈 5]ほか7名[注釈 6]が開拓に加わり、1877年(明治10年)、まだ一面の萓(かや)が生い茂る不毛の原野で秣場であった小田急相模原駅周辺に、初めて人の手が入り原野の開拓が進められた[4]。元々この地には府中道(行幸道路)という、厚木から当時の武蔵の国、国府が置かれていた府中に通じる古街道が通っており、開拓はこの街道に沿って行われた。開拓者たちは座間から毎日鍬を担ぎ弁当持参のわらじ履きで通っていた。

そのうち1880年(明治13年)12月、新開の中にようやく一戸の家を建てて全員で住み着いた[注釈 7]。この時からこの地は上鶴間の中和田集落の範囲であったことから中和田新開または平出富士太郎の出身地から蓼川新開と呼ばれるようになった[5][注釈 8][注釈 9]。

1889年(明治22年)の明治の大合併により、駅周辺の村々は高座郡新磯村大字新戸(相模原市南区相模台二丁目)、座間村大字座間字北広野(座間市相模が丘一丁目)・大字新田宿飛地字見分塚(座間市相模が丘一丁目<小田急線・辰街道・行政境界道路挟んだ三角地帯>、小田急線線路境に五丁目)、この小田急相模原駅がある南台・松が枝町は大野村大字上鶴間字中和田新開となった。

その後、1894年(明治27年)になって中和田新開の座間村域に初めて1名が居を構え入植に加わる[注釈 10]。1901年(明治34年)には開拓者たちは次々と府中道(現・南台五丁目付近)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加わり、新開地は一つの集落として活気をおびて来た[注釈 11]。

1919年(大正8年)3月15日、新開四十年記念碑[注釈 12]建立時の頃には14戸にまでなって、府中道と辰街道[注釈 13]の交差する座間分を含めた未開地のなかに小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の「原点」となった[注釈 14]。

1927年(昭和2年)4月1日には小田原急行鉄道小田原線が開通したが、新原町田駅~座間駅(現・相武台前駅)間には駅がなく、小田急電車は中和田新開を通過するだけであった。

陸軍士官学校の座間への移転に伴い、1936年(昭和11年)6月から旧新磯村から北隣の旧麻溝村にかけての台地上の土地の大部分が陸軍に買収され、士官学校の演習場とされた[6][注釈 15]。1937年(昭和12年)9月30日に、東京府東京市牛込区市ヶ谷台より陸軍士官学校が座間の地に移転が完了すると、翌1938年(昭和13年)から、大野村上鶴間一帯に臨時東京第三陸軍病院、陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)などが開設された。

大きな転換点となったのは、前述のとおり臨時東京第三陸軍病院の進出である[注釈 16][9]。1938年(昭和13年)3月1日の開院に合わせ、小田原急行鉄道が、中和田新開を通過していた小田原線上の座間町と大野村の行政境界に相模原駅[10][11][注釈 17][注釈 18]を開業し、後に同駅と同病院を結ぶ街路[注釈 19]周辺が市街化する契機となった。同年6月1日には小田原急行鉄道がバス事業営業開始・相模原駅(小田急相模原駅)⇔陸軍第三病院(国立病院機構相模原病院)間[12]。

1941年(昭和16年)4月29日、大野村は、座間町、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村と合併し、人口48,482人[13]の高座郡相模原町が誕生した[注釈 20][15]。

尚、戦時中旧相模原町当時から小田急相模原駅北口周辺地域の座間分(相模が丘)・上鶴間分(南台)・新戸磯部分(相模台一丁目・二丁目)を一括りに相模台と呼んでいた[16]。

小田急相模原駅周辺の市街地化と並行して、1958年(昭和33年)には日本住宅公団鶴ケ丘団地・翌1959年(昭和34年)上鶴間団地竣工など更に住民が増加し発展した。

相模原市上鶴間であった小田急相模原駅周辺は次々と新しい町丁に分割され、南口は1967年(昭和42年)10月1日松が枝町、1971年(昭和46年)7月1日相南一丁目~四丁目、北口は1969年(昭和44年)7月1日南台一丁目~六丁目、相模台一丁目~四丁目として町丁を起立し同時に住居表示を施行[17](南区の地域も参照)。

駅西側の高座郡座間町大字相模台は1971年(昭和46年)11月1日座間町が市制施行し座間市大字相模台となり、1981年(昭和56年)6月1日座間市相模が丘一丁目~六丁目と改称、大字を町丁に変更し住居表示を施行した[注釈 21][注釈 22][18][19]。

年表

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駅名の由来

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駅開設当時は、町村名(自治体)としての「相模原」はなかった。しかし「相模原軍都計画」などにより「相模原」「相模ケ原」[23]の呼称が定着しつつあったこと、また開設当時の駅所在地であった大野村で周辺町村との合併計画で「相模原」が新自治体名として有力となったことから、相模原駅が採用された[20]。その後、鉄道省が横浜線に相模原駅を開設したため、「小田急相模原駅」へ改称した[20]。これは当時、お上(鉄道省)の権限が強かったことによるもので、現在の京急新子安駅とほぼ同様の理由である[24]。

本駅は相模原市域南端の座間市との市境付近に位置し、横浜線の相模原駅は相模原市域中央部に位置しており、相互の駅は直線距離で約9 km離れている。また、小田急多摩線延伸計画に記されている「相模原駅」も当駅とは異なり、JR相模原駅を計画予定地としている。

1974年(昭和49年)に小田急多摩線の小田急永山駅が開設するまでは、小田急電鉄で唯一駅名に「小田急」を冠する駅であった。現在も小田原線では唯一である。

地域住民からは「オダサガ」と略称され、2014年(平成26年)より毎年10月に小田急相模原駅北口で開催されているイベント「おださがロードフェスタ」[25]にもこの名称が使用され、定着している。

駅構造

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相対式ホーム2面2線を有する地上駅。橋上駅舎を備え、ホーム階へはエレベーター・エスカレーターで連絡している。

各ホームではエレベーター新設工事が進められ、2007年(平成19年)2月24日に上下ホーム・南口のエレベーターの使用が開始された。同年7月14日に仮北口通路が閉鎖、新北口通路が開通した。

のりば

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ホーム路線方向行先[26]
1 OH 小田原線 下り 小田原・箱根湯本方面
2 上り 相模大野・新宿・C 千代田線方面

駅設備

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利用状況

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2024年度(令和6年度)の1日平均乗降人員は52,578人である[小田急 1](小田急線全70駅中20位)。

近年の1日平均乗降・乗車人員の推移は以下の通り。

年度別1日平均乗降・乗車人員[* 1][* 2]
年度 1日平均
乗降人員[* 3]
1日平均
乗車人員[* 4]
出典
1975年(昭和50年) 48,952 24,141
1980年(昭和55年) 50,881 25,695
1985年(昭和60年) 54,001 27,156
1989年(平成元年) 61,564
1990年(平成2年) 31,449
1993年(平成5年) [注釈 23]63,542
1995年(平成7年) 30,327 [神奈川県統計 1]
1998年(平成10年) 57,429 29,351 [神奈川県統計 2]
1999年(平成11年) 28,860 [神奈川県統計 3]
2000年(平成12年) 28,555 [神奈川県統計 3]
2001年(平成13年) 28,543 [神奈川県統計 4]
2002年(平成14年) 55,895 28,402 [神奈川県統計 5]
2003年(平成15年) 55,944 28,389 [神奈川県統計 6]
2004年(平成16年) 55,388 28,002 [神奈川県統計 7]
2005年(平成17年) 54,477 27,585 [神奈川県統計 8]
2006年(平成18年) 54,111 27,419 [神奈川県統計 9]
2007年(平成19年) 54,473 27,595 [神奈川県統計 10]
2008年(平成20年) 55,754 28,182 [神奈川県統計 11]
2009年(平成21年) 55,392 27,940 [神奈川県統計 12]
2010年(平成22年) 55,034 27,719 [神奈川県統計 13]
2011年(平成23年) 54,366 27,386 [神奈川県統計 14]
2012年(平成24年) 55,530 27,969 [神奈川県統計 15]
2013年(平成25年) 56,767 28,626 [神奈川県統計 16]
2014年(平成26年) 55,612 27,978 [神奈川県統計 17]
2015年(平成27年) 56,293 28,330 [神奈川県統計 18]
2016年(平成28年) 56,153 28,233 [神奈川県統計 19]
2017年(平成29年) 56,568 28,431 [神奈川県統計 20]
2018年(平成30年) 57,597 28,943 [神奈川県統計 21]
2019年(令和元年) 57,496 28,920 [神奈川県統計 22]
2020年(令和2年) 43,632 21,893 [神奈川県統計 23]
2021年(令和3年) [小田急 2]45,726 22,974 [神奈川県統計 24]
2022年(令和4年) [小田急 3]49,416
2023年(令和5年) [小田急 4]51,545
2024年(令和6年) [小田急 1]52,578

駅周辺

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近年、駅周辺は相模原市[28]および座間市の地域拠点[29]として積極的な再開発事業が行われ、東京や横浜などのベッドタウンとして人口が増加し、急速に都市化している。

当駅は相模原市と座間市の市境に位置し、当駅南西にある踏切の先は座間市となっている。駅北側には行幸道路が通り、国立病院機構相模原病院方面に向かって「サウザンロード相模台商店街[30]」が形成されている。南口付近は松が枝町付近に商店が広がる。1960年代より日本住宅公団公団鶴が丘団地等の宅地開発が始まり1970年代にはピークを迎え、相模原・座間両市域に広範囲な住宅地が形成されている。北口・南口ともに多くの飲食チェーン店が軒を連ね、特に南口はラーメン店が多くなっている。

再開発事業

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ラクアル・オダサガ
ペアナードオダサガ
リビオタワー小田急相模原 コモンズざま

駅北口は再開発事業が行われ、2005年(平成17年)3月24日には北口駅前ロータリーが閉鎖され、東側に仮設駅前広場とロータリーが移転した。

北口旧広場には地下4階地上20階の再開発ビル「ラクアル・オダサガ」が建設され、2007年(平成19年)12月2日に開業した。地下2 - 3Fは市営自動車駐車場、地下1Fはオダサカ自転車駐車場、1 - 3Fは商業施設、4Fは相模原市の文化施設が入居し、5F以上は集合住宅となっている。再開発前は駅前広場が狭く、歩行者や自転車・自動車などで常に混雑していたが、再開発によりビル建設と共に駅前広場が整備された[31]。

続いて行幸道路北側に、地下1階地上29階の再開発ビル「ペアナードオダサガ」が建設され、2013年(平成25年)10月10日に開業した。1階・2階は商業モール、3階はクリニックモール、4階以上は集合住宅となっている。また県道横断デッキも建設され、2階部分で小田急相模原駅やラクアル・オダサガと接続し、歩行者は行幸道路を横断することなく両施設を行き来出来るようになった。

この県道横断デッキには、両再開発ビル管理組合が市と契約を結んで2018年(平成30年)3月にネーミングライツを導入「ラクアル/ペアナードオダサガ歩道橋」という愛称が付けられた。歩道橋に愛称が付されるのは相模原市内で初となる[32]。

相模原市によれば、これらの再開発事業については当初の目標は概ね実現されたと評価しており、駅周辺の利便性は向上している[33]。

さらに駅北口の行幸道路東側(座間市域)では、小田急相模原駅前西地区第一種市街地再開発事業が進められ、2019年1月に再開発ビル「リビオタワー小田急相模原」が完成した[34]。なお「リビオタワー小田急相模原」の建設段階から、「リビオタワー小田急相模原」の2階と「ペアナードオダサガ」の2階との間にも行政境界道路[35]を横断するデッキを建設する計画があるが、「リビオタワー小田急相模原」が座間市側、「ペアナードオダサガ」が相模原市側にあることから、両市の間で調整を図ることとされている。

また、2019年(令和元年)現在、駅周辺地域で「麻溝台・新磯野地区整備推進事業」が行われている[36]。

2025年3月5日には、minanoba相模原がグランドオープンした[37]。

北口

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ラクアル・オダサガ
ペアナードオダサガ
リビオタワー小田急相模原コモンズざま
  • 座間市立市民交流プラザ「プラっとざま」
  • 座間市立第2子育て支援センター ざまりんのおうち「ひまわり」
その他の施設

南口

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バス路線

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北口広場

北口にバス乗り場がある。神奈川中央交通により以下の路線が運行されている。

小田急相模原駅
1番 - 国立相模原病院方面
小04 麻溝台 北里大学病院・北里大学 行
小14 北里大学病院・北里大学 麻溝車庫 行
相21 北里大学病院・北里大学 相模原駅南口 行
古09 大沼 古淵駅 行
小11 相武台グリーンパーク 行
2番
小02 ひばりが丘 南林間駅 行
小03 イオンモール座間・ひばりが丘 南林間駅 行
小05 直行 イオンモール座間 行
小06 豊町 相模大野駅北口 行
3番 - 降車場

急行の停車要望

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神奈川県鉄道輸送力増強促進会議は、2013年度の小田急電鉄向け要望書で、ラッシュ時間帯に当駅への急行停車を要望しているが、小田急電鉄はこれに対し「急行の速達性を損なう」との理由で停車の計画はないとしている[38]。これは東林間駅とほぼ同じ理由である。

隣の駅

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小田急電鉄
OH 小田原線
■快速急行・■急行
通過
□通勤準急・■準急・■各駅停車(通勤準急は平日朝上りのみ、準急は平日夜下りのみ)
相模大野駅 (OH 28) - (相模大野分岐点) - 小田急相模原駅 (OH 29) - 相武台前駅 (OH 30)

参考文献

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  • 『相模原市史第4巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和46年(1971年)3月18日
  • 『座間の地名』執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年(2005年)3月31日・座間市教育委員会発行
  • 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年(2000年)8月発行 小山德孝/著
  • 『土地宝典』「神奈川県高座郡新磯村地番反別入図」大日本市町村地番反別入地図刊行会/編 昭和4年(1929年)3月5日刊行
  • 『土地宝典』「神奈川県高座郡麻溝村地番反別入図」大日本市町村地番反別入地図刊行会/編 昭和9年(1934年)4月28日刊行
  • 『広報ざま縮刷版 第1巻』

脚注

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注釈

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  1. ↑ この年から座間市域の芝原(しばあら)と呼ばれた小田急相模原駅周辺の相模が丘から広野台・小松原にかけて開墾がはじまり、文久年間には地割が完成し耕作が始まった。『座間むかしむかし第1集』p18芝原の開墾、『座間むかしむかし第3集』p17~p19・相模台の昔、『座間むかしむかし第3集』巻末 座間市略年表
  2. ↑ 座間宿村は1868年に座間村になった。『座間の地名』p18
  3. ↑ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 p19◇中和田新開(蓼川新開)
  4. ↑ 約20ヘクタール
  5. ↑ 平出富士太郎義弟にあたる。『座間の地名』p20①中和田新開
  6. ↑ 鈴木孫七ほか協力者、座間出身5人・四ツ谷出身1人・海老名上郷出身1人。計7名。7名の協力者達は1884年(明治17年)春に移住した。出典元:『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』p59・p60、『座間の地名』p20①中和田新開
  7. ↑ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』p19平成12年8月発行 小山德孝/著 ◇中和田新開(蓼川新開)
  8. ↑ 座間分の本村である座間村や座間入谷村、新田宿村、四ツ谷村、栗原村の人々は「芝原(しばあら)」の一番奥地にあることから、この地を「奥野(おきの)」「沖野」と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集』p4字名の起こり。
  9. ↑ 1884年(明治17年)には芝野(麻溝台)に下溝の吉野幸太郎が下溝新開を開墾し四戸での生活がしばらく続いたが、1936年(昭和11年)に新開が陸軍練兵場に接収され、仕方なく本村の下溝に帰った。『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』p24平成12年8月発行 小山德孝/著 ◇下溝新開
  10. ↑ 座間中宿出身、中和田新開座間村域第一号入植者、辰街道と府中道旧道の交差する所(現・相模が丘一丁目)。『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』p63・『座間の地名』p20①中和田新開・『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 p19◇中和田新開(蓼川新開)
  11. ↑ 1901年は入植者が新たに6軒加わった。『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』p19平成12年8月発行 小山德孝/著 ◇中和田新開(蓼川新開)、『座間の地名』p20①中和田新開
  12. ↑ 移住した1880年を開拓初年としている。二宮神社境内にあり。『座間の地名』p20①中和田新開
  13. ↑ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新五丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近→相模原市役所本庁の近所→弥栄→相模原ゴルフクラブの中→麻溝台一等三角点の傍→国立病院機構相模原病院の敷地内→国立病院通り→小田急相模原駅の南側→相模が丘・小松原→大和市上草柳を通って藤沢市に至る街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)向かっているからとも、また慶安3年の中和田村と座間村との境争論の絵図(『相模原市史第2巻』 慶安3年(1650年)8月25日付 中和田・座間秣場争い裁許の図)にも描かれてるように、相模川流域の村々と境川(高座川・たかくらがわ)流域の村々との領分を二つに分ける境界として、相模野台地の真ん中を「断ち割る」ようにして走る道だからとも言われている。明治期の篠原新開や中和田新開、下溝新開などの開墾入植は、すべてこの道路沿いで行われている。国立病院機構相模原病院より以北は、陸軍演習場の開設により、道筋の痕跡はなくなっているが、昭和11年までは地域の人々にとって重要な道路であった。出典元:『麻溝台地区の生い立ち 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会』p10・p11、『座間の地名』p15・p16頁
  14. ↑ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 p19◇中和田新開(蓼川新開)
  15. ↑ 相模原市南区相模台三丁目~七丁目、桜台全域、相模台団地全域、相模原市南区相武台三丁目大部分、新磯野全域、相武台団地全域、麻溝台全域が軍用地として買収され、陸軍病院も演習場の内とされた。相模台一丁目・二丁目は陸軍に買収されたが演習場・練兵場とされなかった。座間市相模が丘、広野台は軍用地接収を免れた[7]。
  16. ↑ 高座郡大野村上鶴間、新磯村磯部字大野、麻溝村下溝字壱ノ芝野・字拾八の原に跨っている[8]。『座間広報』20号昭和26年3月10日発行p2に「国立相模原病院 所在地・相模原町上鶴間4719」と記載。『相模原市史第4巻』p575には「病院本館(管理棟)の玄関にあたる地点が上鶴間分であったので行政区域は大野村に入っていた。」と記述。
  17. ↑ もう一つには、同じく病院前駅として開業、「翌昭和14年〈1939年〉3月14日、臨時東京第三陸軍病院天皇陛下行幸につき相模原駅と改称」という記述あり。引用元:原武史『昭和天皇御召列車全記録』p80新潮社、2016年9月30日。
  18. ↑ 1941年(昭和16年)3月1日小田原急行鉄道は小田急電鉄と改称、同年4月5日に小田急相模原駅と改称。
  19. ↑ 古来からの辰街道。現・サウザンロード相模台(旧・国立病院通り)。往時は高座郡座間村座間字北広野・新田宿飛地字見分塚<現・座間市相模が丘一丁目>、大野村上鶴間<現・相模原市南区南台五丁目>と新磯村新戸<現・相模原市南区相模台二丁目>の境界となっていた。
  20. ↑ 1948年(昭和23年)9月1日に、旧座間町域(座間市域)が相模原町から分離独立した、人口12,032人[14]。相模原町は残りの区域で、1954年(昭和29年)11月20日に市制施行して人口8万0,374人の相模原市が発足した。
  21. ↑ 終戦直後から小田急相模原駅周辺の高座郡座間町大字座間字北広野、大字新田宿飛地字見分塚をはじめとした現・相模が丘の宅地化が進行し、救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)、1959年(昭和34年)4月20日にこれらの各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番整理を実施した。『座間の地名』p26、『座間の地名』付録昭和3年刊行「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」の「高座郡座間村全略図」』
  22. ↑ 『座間広報』第64号 昭和34年7月15日発行p1に「大字相模台の設置~従来とかく相模台の新田宿と新田宿が間違れ迷惑する事が多かったのでこれを除くため芝原の行政道路(鶴間行)以北を相模台とし、小字は北広野・中広野・南広野とした。※原文ママ」と記述あり。
  23. ↑ 当駅の乗降人員最高値年度

出典

[編集]
  1. ↑ 『相模原市史第4巻』相模原軍都計画 p612
  2. ↑ 座間宿村や座間入谷村の人たちの秣場「芝原(しばあら)」の一番奥地にあることから、この地を「奥野(おきの)」「沖野」と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集』p4字名のおこり。
  3. ↑ 『座間の地名』p20①中和田新開
  4. ↑ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』p17~p20
  5. ↑ ※江戸時代に開発された土地を「新田」、明治以降のものは「新開」、戦後のものは「開拓」と呼ばれている。“シリーズ「相模原ふるさといろはかるた」でみる名所紹介⑲”. 相模原市立博物館の職員ブログ. 2026年8月14日閲覧。
  6. ↑ “軍都”. さがみはらデジタルアーカイブ. 2025年3月25日閲覧。
  7. ↑ 『座間むかしむかし第25集』p8
  8. ↑ 昭和4年3月5日刊行『土地宝典』「高座郡新磯村地番反別入図」。昭和9年4月28日刊行『土地宝典』「高座郡麻溝村地番反別入図」。
  9. ↑ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~平成12年8月発行 小山德孝/著 ◇臨時東京第三陸軍病院)』p33
  10. ↑ 鉄道省監督局「地方鉄道、軌道事業の現況並に異動」『電気協会雑誌』第196号、日本電気協会、1938年4月、附録p4(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ↑ ※病院前駅として開業と言う記述あり。“相模台地区の都市化の移り変わり”. 相模台地区自治会連合会. 2017年7月19日閲覧。
  12. ↑ “小田急電鉄(株)『小田急五十年史』(1980.12)”. 渋沢社史データベース. 2024年12月10日閲覧。
  13. ↑ “9.戦争(せんそう)と相模原”. 相模原市. 2024年12月16日閲覧。
  14. ↑ 『座間の地名』p25・『座間広報』第48号 昭和30年(1955年)6月5日発行p6
  15. ↑ “10.町から市へ「相模原市の誕生(たんじょう)」と人口の増加(ぞうか)”. 相模原市. 2024年12月16日閲覧。
  16. ↑ 『座間の語り伝え7村制編1』p60~p64村の起こり。『座間の地名』p26。
  17. ↑ “住居表示実施区域一覧(南区)”. 相模原市. 2025年10月1日閲覧。
  18. ↑ “座間市字概略図”. のうかる. 2016年12月7日閲覧。
  19. ↑ “相模が丘地区(昭和56年6月1日施行)”. 座間市. 2024年7月11日閲覧。
  20. 1 2 3 4 小田急電鉄株式会社社史編集事務局 編『小田急五十年史』1980年、647頁。
  21. ↑ 鉄道省監督局「地方鉄道、軌道事業の現況並に異動」『電気協会雑誌』第196号、日本電気協会、1938年4月、附録4頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。“相模台地区の都市化の移り変わり”. 相模台地区自治会連合会. 2017年7月19日閲覧。※病院前駅として開業と言う記述あり。
  22. ↑ 『小田急線・箱根登山線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船にて 2014年1月から駅ナンバリングを順次導入します! 新宿駅から箱根・芦ノ湖まで通しのナンバリングにより、わかりやすくご利用いただけます』(PDF)(プレスリリース)小田急電鉄 / 箱根登山鉄道、2013年12月24日。オリジナルの2021年5月9日時点におけるアーカイブ。2021年5月9日閲覧。
  23. ↑ 『相模原市史第4巻』相模原軍都計画 p612
  24. ↑ 電気車研究会発行「鉄道ピクトリアル」1998年7月臨時増刊号(通巻656号)129ページ
  25. ↑ “小田急相模原駅最大のイベント おださがロードフェスタ”. ミカハウジング. 2019年3月16日閲覧。
  26. ↑ “小田急相模原駅のご案内 駅立体図”. 小田急電鉄. 2023年6月3日閲覧。
  27. ↑ 2012年度の鉄道事業設備投資計画(2)駅施設改良、サービスの向上 ②行先表示装置の新設 (PDF) - 小田急電鉄(2012年4月27日閲覧)
  28. ↑ 相模原市 都市計画マスタープラン(第5章全体構想:都市づくりの方針)( 2020年1月8日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project
  29. ↑ 座間市都市マスタープラン運用方針(地域別構想・地域別都市づくりの方針「広野台地域」) (PDF) - 座間市都市計画課、平成25年5月、2022年2月18日閲覧。
  30. ↑ サウザンロード相模台商店街
  31. ↑ “ラクアル・オダサガ - ちょっといい、ちょうどいい。”. 2020年10月2日閲覧。
  32. ↑ 相模原市内初、歩道橋に愛称 3月から表示 2管理組合と契約 - カナロコ、神奈川新聞、2018年2月23日
  33. ↑ 相模大野駅西側地区、小田急相模原駅北口A地区及び小田急相模原駅北口B地区第一種市街地再開発事業に係る事後評価書 (PDF) - 相模原市、2019年4月閲覧。
  34. ↑ 駅前再開発施設が完成、小田急相模原駅 にぎわい演出へ - カナロコ、神奈川新聞、2019年1月10日
  35. ↑ 行政境界道路につき異名同体で、相模原市では市道新戸翠ヶ丘線と言い、座間市では座間市道7号相模原二ツ塚線と言う。双方共に行政の認定道路である。
  36. ↑ “麻溝台・新磯野地区整備推進事業”. 相模原市. 2019年4月6日閲覧。
  37. ↑ “地域密着型商業施設の新ブランド「minanoba」誕生 第1号物件「minanoba相模原」が2025年3月5日(水)グランドオープン”. 東京建物株式会社. 東京建物株式会社 (2024年12月19日). 2025年3月21日閲覧。
  38. ↑ 神奈川県鉄道輸送力増強促進会議. “平成25年度の要望及び鉄道事業者の回答 小田急電鉄” (PDF). p. 6. 2014年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月17日閲覧。
小田急電鉄の1日平均利用客数
  1. 1 2 3 “鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか”. 小田急電鉄. 2025年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年7月24日閲覧。
  2. ↑ “鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか”. 小田急電鉄. 2023年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月3日閲覧。
  3. ↑ “鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか”. 小田急電鉄. 2023年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月3日閲覧。
  4. ↑ “鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか”. 小田急電鉄. 2025年5月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年5月18日閲覧。
小田急電鉄の統計データ
  1. ↑ 相模原市統計書 - 相模原市
  2. ↑ 統計要覧 - 座間市
  3. ↑ レポート - 関東交通広告協議会
  4. ↑ 神奈川県県勢要覧
神奈川県県勢要覧
  1. ↑ 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移 - 21ページ
  2. ↑ 平成12年 - 223ページ
  3. 1 2 平成13年 (PDF) - 225ページ
  4. ↑ 平成14年 (PDF) - 223ページ
  5. ↑ 平成15年 (PDF) - 223ページ
  6. ↑ 平成16年 (PDF) - 223ページ
  7. ↑ 平成17年 (PDF) - 225ページ
  8. ↑ 平成18年 (PDF) - 225ページ
  9. ↑ 平成19年 (PDF) - 227ページ
  10. ↑ 平成20年 (PDF) - 231ページ
  11. ↑ 平成21年 (PDF) - 241ページ
  12. ↑ 平成22年 (PDF) - 239ページ
  13. ↑ 平成23年 (PDF) - 239ページ
  14. ↑ 平成24年 (PDF) - 235ページ
  15. ↑ 平成25年 (PDF) - 237ページ
  16. ↑ 平成26年 (PDF) - 239ページ
  17. ↑ 平成27年 (PDF) - 239ページ
  18. ↑ 平成28年 (PDF) - 247ページ
  19. ↑ 平成29年 (PDF) - 239ページ
  20. ↑ 平成30年 (PDF) - 223ページ
  21. ↑ 令和元年 (PDF) - 223ページ
  22. ↑ 令和2年 (PDF) - 223ページ
  23. ↑ 令和3年 (PDF) - 215ページ
  24. ↑ 令和4年 (PDF) - 219ページ

関連項目

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外部リンク

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