廻国雑記
『廻国雑記』(かいこくざっき)は、室町時代の僧道興(道興准后)が著した紀行。自身の詠んだ和歌や漢詩を交えた紀行歌文集である。表題は『廻国記』あるいは『回国雑記』とも書かれる[1]。また江戸中期には連歌師宗祇を著者と見なして『宗祇廻国雑記』などの表題でも流通していた[2]。
概要
文明18年(1486年)6月から翌文明19年(1487年)5月にかけて、道興が北陸・東国・奥州を行脚した記録である。冒頭は6月上旬、京を離れるにあたっての足利義政・義尚親子との歌の贈答、近衛房嗣らとの送別の宴が書かれている。6月16日に岩倉長谷の自宅を出立して以降は、訪れた場所・寺社・人物などを示す短文と、その地で道興が詠んだ詩歌が続くという構成が繰り返される[3]。詩歌は道興自らによる342首の和歌に加え、連歌・俳諧・発句・漢詩(五言絶句1首を除き[4]全て七言絶句)[1]が含まれ、当時の紀行文としては最大の分量とされる[4]。
行脚および執筆の目的として、道興の2つの立場(聖護院門跡と歌人)によるものを挙げる研究者が多い。
- 行程上にある修験道の拠点を本山派の領袖たる自らが来訪することで、本山派の権威を維持する目的。本書にはこの目的は明示されていない[5]ものの、甲斐国における旅程および関係文書からその政治的意味合いを分析した例[6]、武蔵大塚の十玉坊に2ヶ月ほど滞在し様々な宗教行事・酒宴などに関わっていること[7]、さらに檀那株を安堵する文書など当地での問題を解決する活動を行っており、当初の帰京予定が延期されていること[8]など、様々な観点からの指摘がある。
- 歌枕の地を巡り、詩歌集として残す目的[9][5]。本書にはいち修験僧としての、あるいは門跡としての宗教的な言及がなく[10]、一方で訪れた地名の由来[11]や旅の感慨、現地の人々との交流[10]などが多く綴られていることを理由として挙げる研究者が多い。
この他に、修験者本来の修行目的、応仁の乱で焼失した聖護院の復興資金を募る目的が指摘されている[9]。さらに修験道の関係者だけでなく越後で上杉房定(相模守)、武蔵で大石定重(信濃守)、甲斐で武田信昌(刑部大輔)、陸奥で白川入道[注釈 1]など世俗的支配者からの接待を受けていることから、幕府の意を汲んだ情勢視察[9]や幕府と諸侯との意思疎通[13]といった世俗政治に関連した目的も推察されている。
宗祇著者説
江戸時代中期には、本紀行が道興と同じ室町時代の連歌師宗祇の作と考えられていた[14]。寛政11年(1799年)刊行の本居宣長『玉勝間』[15]や文化5年(1808年)刊行の曲亭馬琴『敵討枕石夜話』[16]でも宗祇法師の作としている。宗祇著者説が広まった原因として、元禄14年(1701年)に刊行された本書の写本が『宗祇廻国雑記』という表題であったことが挙げられている[17]が、これは宗祇の200回忌[注釈 2]に便乗したものではないかとの指摘もある[18]。また宗祇自身が文亀2年(1502年)に自筆写本を作成しており、前島康彦はこの写本が誤解の原因ではないかとしている[14]。
これに対し、江戸時代後期の国学者たちは相次いで道興著者説を示した。塙保己一は『群書類従』に収録した本書の著者を道興としている[19]。尾崎雅嘉は『群書一覧』において元禄14年本の著者が誤っていると指摘したうえで、文中の旅程から道興の著作であることが明らかであるとしている[20]。さらに関岡野洲良は文政8年(1825年)に刊行した本書の注釈書『廻国雑記標註』の序文[21]において、本書の白河における旅程[22]が広瀬蒙斎の『白河古事考』に収録された記録と一致していること、甲斐国都留郡妙法寺に道興の旅程が記載されていることなど、道興の行動を記録した他文献との一致を列挙し、本書の著者が道興であることを示した[23]。曲亭馬琴も、後年に上梓した『南総里見八犬伝』では道興の歌を引用して芝浜(港区芝)の風景を表現しつつ、「この書を宗祇の紀行とするものは非なり」と注釈を付けている[24]。朝川善庵は『善庵随筆』において宗祇著者説を誤りとしつつ、道興著者説も「覚束なく覚ゆ」とし、後の時代の作である可能性を示唆した[25]が、現代では道興を著者とする見方で一致している。
なお、宗祇は文明4年(1472年)に美濃国に逗留した際、下向した道興を迎える宴に同席し歌を詠んだ記録が残っている[26]。さらに宗祇は道興の実弟である関白近衛政家とも親交があり、歌会などを通じて互いの歌風に影響を与えた可能性が指摘されており[27]、幸田露伴も「法源[注釈 3]の誤を為すも故無しとせざる也[28]」と歌風の類似が著者誤解の遠因としている。
評価
本書は地誌編纂の観点から、上質の資料として広く評価されている[29]。芳賀幸四郎は室町時代に執筆された他の紀行文と合わせ、当時の地方を知る材料と評している[30]。実際、旅程に重なる現代の自治体で編纂された地方史の多くが、本書を参照している。ただし地域によって記述量に多寡があり、地誌としての不徹底を指摘する意見[31]や、特に記述が短い地域においては「大した資料にはならない」という評価も見られる[32]。
文学作品としての評価は分かれている。幸田露伴は次のように書き、美麗ではないが味のある文であると評している。
雑記の文、修めず飾らずと雖も、淡々の中に味有り、楚々の中に情有り、且又古を考え往を知るに於いて、頗る稗益あり。愛す可きの什といふ可し。—幸田露伴、『海道記 廻国雑記(袖珍名著文庫;巻47)』5頁[28]
井上豊は本書に含まれる歌の形式から著者の多才さが垣間見え、さらにいくつかのエピソードに物語風の趣が見られるとして評価している[33]。萩原竜夫は歌に含まれる本歌取の多さから独創性に欠ける面を指摘しつつ、修行者としての強い表現も散見され[34]、さらには西行を範としつつもより深く地域の風俗・伝承に傾倒したことが伺える文章を高く評価している[35]。伊藤敬は特に詩歌について、自由闊達であり、歌枕以外の地名も巧みに取り込んでいる点を指摘し、道興の力量を高く評価している[4]。これに対し、同時代以前の他の作品と比較した批判的評価も見られる。例えば保坂弘司は、中世三大紀行とされる『海道記』『東関紀行』『十六夜日記』との対比として、本書の文芸作品しての価値を低くとらえている[36]。奥野純一は室町時代に多く執筆された他の紀行文と合わせて、文芸面での不振を指摘している[37]。またこれら室町期の紀行文に共通して見られる「未知の土地に対する心情」と「歌枕に寄せた旅情」の配合について、類型的であるとする評価も見られる[31]。
旅程
『御湯殿上日記』[38]および近衛政家が著した『後法興院記』には、道興が文明18年6月6日に出発の挨拶のため御所に参内した[39]とあり、本書の冒頭と一致する。ただし目的地は北国とされ、関東や奥州へ向かう意図は記載されていない。
一方、これらの資料には道興の帰京が翌文明19年5月19日であったことが記録されている[40]が、本書で日付が明らかなのは文明19年3月2日に利根川、舘林、佐野に至ったところ[41]までであり、以降松島・塩釜まで到達し名取川に戻ったところで唐突に終わっている[42]。高橋良雄は、冒頭部で出発前の様子を詳細に記したことと帰京の情景を全く描いていないことのギャップについて、聖護院焼失の報を受けて旅を中断せざるを得なかった可能性を示唆している[43]。一方、萩原竜夫は当時既に知られていた名取の老女の物語を踏まえ、道興があえて名取川を紀行の結末に添えた可能性を示唆している[44]。
中田嘉種は、(本紀行に記述のない)名取川から京都までの帰途におおよそ1ヶ月を要したものと推定している[17]。
本書に記載された行程および主な地名は以下の通りである[45][46]。なお、出典のない記述は関岡『廻国雑記標註』における注釈に基づく。
| 国 | 地名 |
|---|---|
| 山城 | 長谷(6月16日)→大原 |
| *長谷は京都市左京区岩倉長谷町、当時聖護院があった場所。 | |
| 近江 | 葛川→朽木 |
| 若狭 | 小浜<曹源院>→三方→恋の松原→浦見坂→機織の池 |
| 越前 | 敦賀→しらきとの橋→高木の里 |
| 加賀 | 立花→洲濱川→しき地(敷地)→いみなみ(弓波)→いぶり橋→もとおり(本折)→汐ごしの松→ほとけの原→吉野川→白山→吉岡→つるぎ(劔)→矢矯(矢作)→のゝ市→つばた→高松 |
| |
| 能登 | 菅原→杉の屋→よつ柳→小金森→藤井→久江の谷内→石動山 |
| 越中 | 長煉の森→ねりあひ[54][注釈 4]→岩蔵川→大森→立山(三途川・もろもろの地獄)→宮崎→界川 |
| 越後 | たもの木→かざばみ→砺なみ→黒岩→駒がえり→やまと川→越後国府(7月15日着)→長濱→柏崎→相見川→かさ島→鯨波→安田→山室→見置(三桶)→渋川→大か井(大貝)→きおとし(木落)→うるし山→壺池 |
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| 上野 | くつぬぎ→ふくろふ(吹路)→相俣→湯の原→池の原→なぎなた坂→大蔵坊→烏川→大が松→杉本(8月15日出発)→宮の市→せしもの原→しほ川→しろいし→いたくら野→あひ川→かみ長川 |
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| 武蔵 | をしま(小島)→岡部→村君→浅間川 |
| 下総 | 古川→なか田→こほりの山 |
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| 上総 | 千種の濱→櫻井の濱→吉野郷→ふと→きさら津→あづま→神野山 |
| 安房 | 清澄山→天津→まえ原→磯村→那古観音→野島が崎→かち山→河名→のこぎり山 |
| 相模 | みさき→浦川→鎌倉 |
| 下総2 | 鳥はみ |
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| 下野 | さの→日光山→山菅の橋→滝の尾→中禅寺→歌の濱→黒髪山→座禅院→宇都宮(粉川寺)→きぬ川 |
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| 常陸 | 小栗→さくら川→山田慶城の坊→筑波山(9月24日)→みなの川→八重重→つくば川(いささの橋)→鵜飼川 |
| 下総3 | 稲穂の別当が坊(9月28日)→ちごの原 |
| 武蔵2 | あやしの橋→岩つき→浅草(浅草寺)→まつち山→浅茅が原→おもひ川→隅田川→忍岡→小石川→鳥越の里→芝の浦→あらゐ→まりこの里→駒林→新羽→帷子の宿→岩井の原→もちひ坂 |
| 相模2 | すりこばち坂→放れ山→鎌倉→亀がゐの谷→扇が谷→ささめがやつ→梅が谷→うりが谷→霧がやつ→胡桃が谷→べにが谷→化粧坂→鶴岡八幡宮→由井が濱→建長院ほか五山→瀬戸・金澤(称名寺)→藤澤→花水川→大磯→鴫立澤→梅澤→丸子川→小田原→早川の浦→風祭りの里→箱根山 |
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| 伊豆 | 三島→矢たての杉 |
| 駿河 | 足高山→かつら山→すはま口→富士の麓→むら山→田子の浦→ふじのなる澤→みほの入海→浮島が原 |
| 相模3 | あしがら山→山彦山→鞠子川→八幡→つるぎ澤→蓑笠の森→ふたつ橋→大山寺→霊山(寺)→日向寺→熊野堂→小野 |
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| 武蔵3 | 半澤→霞の関→恋が窪→宗岡→堀兼の井(高井戸)→やせの里→入間川→佐西(観音寺)→黒須川→武州大塚(十玉坊)→大石信濃守館→河越(最勝院)→常楽寺→大井川→善知鳥坂→月吉の館→すぐろ→野寺→野火留の塚→膝折→十玉坊→所澤(観音寺)→くめくめ川→武州大塚(新年)→山家の勝地→濱崎 |
| |
| 甲斐 | 岩殿の明神→猿橋→はつかりの里→柏尾寺→花蔵坊→塩の山・さしでの磯→武田館→祖母の比丘尼の寺→笛吹川→花鳥の里→七覚山→吉田(2月15日) |
| |
| 武蔵4 | かた柳→すくもの渡し |
| 上野2 | 利根川(3月2日)→青柳→佐貫の庄→舘林 |
| 下野2 | ちつか→うへのの宿→佐野→宇都宮(慈心院)→志ほのや→きつね川→朽木の柳→稲澤の里→黒川→余笹川 |
| 陸奥 | 白河二所の関→うたた寝の森→八槻→人忘れずの山(矢つぎの別当坊)→田村→あさかの沼→あさか山→阿武隈川→志ほの山→衣の関→武隈→末の松山→実方朝臣の墳墓→関の清水→みやぎ野→おくのほそ道→松本→もろをか→赤沼→西行かえり→松島→まがきが島→塩かまの浦→つつじが岡→轟の橋→名取川→(帰路) |
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脚注
注釈
出典
- 1 2 中田 1985, p. 解説1.
- ↑ 『宗祇廻国記』立教大学池袋図書館所蔵、1701年。
- ↑ 岸上 1909, p. 91.
- 1 2 3 伊藤敬 著「廻国雑記」、大曽根章介 編『研究資料日本古典文学 第9巻(日記・紀行文学)』明治書院、1984年9月、197頁。
- 1 2 平澤 2000, p. 367.
- ↑ 石田 2018, p. 6.
- ↑ 前島 1979, p. 9.
- ↑ 萩原 1980, p. 18.
- 1 2 3 前島 1979, p. 8.
- 1 2 石田 2018, p. 7.
- ↑ 平澤 2000, p. 368.
- ↑ 『和光市史 史料編 1』和光市、1981年11月、599頁。
- ↑ 深谷賢太郎、結城錦一『結城宗広:史伝・郷国・家系・結城文書の研究』白河結城刊行会、1987年10月、240頁。
- 1 2 前島 1979, p. 7.
- ↑ 本居宣長「江戸の地名これかれ」『玉勝間』国文学研究資料館所蔵、1799年、243頁。
- ↑ 曲亭馬琴「引」『敵討枕石夜話』国文学研究資料館所蔵、1808年、3頁。
- 1 2 中田 1985, p. 解説4.
- ↑ 高木利太『家蔵日本地誌目録 続編』高木利太、1930年、26頁。
- ↑ 塙保己一 編『群書類従 第420-421冊(巻337-338)』。
- ↑ 尾崎雅嘉『群書一覧』。
- ↑ 中田 1985, p. 11.
- ↑ 中田 1985, p. 224.
- ↑ 萩原 1980, p. 2.
- ↑ 曲亭馬琴「第八輯巻之八下套」『南總里見八犬傳』国文学研究資料館所蔵、422頁。
- ↑ 朝川善庵 著「善庵随筆」、今泉定介、畠山健 編『百家説林』1891年、51頁。
- ↑ 伊地知鉄男『宗祇』青梧堂、1943年、96-97頁。
- ↑ 高橋良雄「『廻国雑記』作者、道興准后」『学苑』第531号、昭和女子大学近代文化研究所、1984年3月、40頁。
- 1 2 幸田 1912, p. 5.
- ↑ 萩原 1980, p. 1.
- ↑ 芳賀幸四郎『日本史新研究 新稿版』池田書店、1957年、139頁。「文学的に興味があるだけでなく、当時の交通状態や地方の生活や文化の様相を知る上によい資料である。」
- 1 2 半田公平、水原一、貴志正造、磯水絵『資料日本文学史 中世篇 改訂版』桜楓社、1983年4月、74頁。
- ↑ 『塩竈市史 第1(本篇 第1)』塩竈市、1955年、188頁。「戦国時代の當地の姿を示しているが、非常に簡単で大した資料にはならない。」
- ↑ 奥野 1986, p. 339.
- ↑ 萩原 1980, p. 4.
- ↑ 萩原 1980, p. 5.
- ↑ 『国文学史の綜合研究』。「(前略)『廻国雑記』などが出たが、いずれも新鮮味がなく、文学的価値に乏しい。」
- ↑ 奥野純一「日記・紀行」『現代教養百科事典 第9(文学)』暁教育図書、1968年、388頁。「それらのほとんどは資料的価値を別にすれば、文芸的にはあまり高い評価を与えることはできない。」
- ↑ 中田 1985, p. 解説2.
- ↑ 近衛 1930, p. 515, 六日、「晩景聖護院令来給、依北國巡禮方々ニ被参云々」
- ↑ 近衛 1930, p. 569, 廿一日、「聖護院被来、一昨日上洛云々、今日被参公武云々、山伏躰也」
- ↑ 岸上 1909, p. 148.
- ↑ 岸上 1909, p. 152.
- ↑ 高橋 1980, p. 77.
- ↑ 萩原龍夫『巫女と仏教史:熊野比丘尼の使命と展開』吉川弘文館〈明治大学人文科学研究所叢書〉、1983年6月、174頁。
- ↑ 高橋 1980, pp. 77–80.
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外部リンク
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