戸次親宗
戸次 親宗(べっき ちかむね、永正2年(1505年)? - 永禄10年(1567年))は戦国武将。
豊後国の戦国大名大友氏家臣である戸次氏の一族。藤北戸次氏の第2代当主。
諱は親宗。通称は右馬助、隼人佐、治部少輔、治部大輔[注釈 1]。
父は戸次親延[注釈 2]。兄は戸次親繁(刑部少輔)、姉妹に小野鎮幸の妻(立花道雪養女)、沓掛平左衛門鎮昌の妻。夫人は田北鑑重(大和守、紹鉄)の娘[1]。子は戸次鎮直[注釈 3]、戸次鎮栄[注釈 4]、十時新右衛門惟直の妻。立花道雪の父である戸次親家の従兄弟にあたる。
実父の親延は天文20年(1551年)に肥前国小坂の戦いで戦死したため[注釈 5]に親延の家督は叔父の戸次親就[注釈 6]が継ぎ、兄の親繁と共に親就の養子となる。
天文4年(1535年)肥後菊池氏などの肥後国人の反叛の際には、戸次鑑連(道雪)の後見役として肥後に出陣、車返の戦いに先鋒となって騎馬突撃し、その勇猛奮戦は味方を大きい鼓舞させた。
永禄年間、大友軍の将として兄の親繁と共に戸次鑑連に従って、門司合戦や高橋鑑種の居城・宝満山城攻略戦などに参戦した。
永禄10年(1567年)の筑前国秋月氏攻めに参陣し休松の戦いの前哨戦である邑城攻めで戦死する。一部の『戸次系図』によれば、享年63歳、法名は紹心。
人物
子の鎮直、孫の統直とともに、精強な戸次・立花家の勇将として知られ、九州でも名高い強弓の使い手・弓馬の達人として、広く世の知る人であったと伝えられる[2]。
子孫
「柳河藩享保八年藩士系図」(1723年)によると親宗の子孫(戸次鎮直、戸次統直[注釈 7]、戸次政乗[注釈 8]、戸次政直[注釈 9]以降)の嫡家は井伊掃部頭御家中(彦根藩士)、次男家(戸次鎮栄、戸次統栄[注釈 10]、戸次鎮政[注釈 11]、戸次親興[注釈 12]、戸次親儀[注釈 13]、戸次政用[注釈 14]以降)は柳河藩士戸次親忠[注釈 15]としている。
『戸次軍談(戸次軍記)』の作者である彦城散人は統直の孫である[3]。また、統栄の孫・戸次幸栄は、親宗の孫である統則[注釈 16]の養孫となり、『戸次幸栄覚書』を著した。
脚注
注釈
- ↑ 「柳河藩享保八年藩士系図・下」の十時与左衛門系譜に『戸次治部太輔親宗女』とある
- ↑ 「柳河藩享保八年藩士系図・下」の立花八次郎系譜。同書の立花小七郎系譜では親就を父とする。
- ↑ 戸次治部少輔。子に戸次統直(治部少輔)、戸次統則(右馬助)。
- ↑ 藤北戸次氏の第3代当主。親宗の次男。戸次弥太郎、雅楽助、号は浄栄。戸次統栄(太郎助、左介、左兵衛、種直、号は道了兵誉)、戸次統行(森下久三郎統長)。
- ↑ 「柳河藩享保八年藩士系図・下」の立花八次郎系譜。同書の立花小七郎系譜では天文19年(1550年)戦死
- ↑ 戸次孫十郎、刑部少輔、但馬守、駒木根右近。戸次親延の弟。
- ↑ 立花治部少輔。鎮直長男。
- ↑ 戸次安左衛門。統直の子。
- ↑ 政乗の子
- ↑ 戸次太郎助、左介、左兵衛、種直、号は道了兵誉。鎮栄長男。
- ↑ 戸次親栄、幸賀、戸次安之丞、与左衛門。統栄の子。
- ↑ 戸次親真、三四郎、四郎左衛門、直慶、與左衛門。鎮政の婿養子。
- ↑ 戸次四郎左衛門。親興の実子。
- ↑ 戸次與左衛門。親興の養子。
- ↑ 戸次治右衛門、九郎。他家から養子入り、実は親興の養子政用の実家の弟。養子は兄・政用の実子・親真(徳二。子に親数。)
- ↑ 戸次右馬助。鎮直次男。
出典
- ↑ 『大分県史 中世篇 1』
- ↑ 『戸次系図』
- ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.54
参考文献
- 柳川市史編集委員会 編『柳河藩享保八年藩士系図・下』〈柳川歴史資料集成第二集〉1997年。