| 設立 | 1960年(昭和35年) |
|---|---|
| 設立者 | 東清 |
| 設立場所 | 日本・大阪府大阪市西成区 |
| 本部 | 〒557-0001 |
| 首領 | 滝本博司[2] |
| 活動範囲 | 1府[2] |
| 構成員数 (推定) | 約60人[2] |
| 主な活動 | 覚醒剤の密売 |
東組(あずまぐみ[4])は、大阪府西成区に本部を置く指定暴力団[5][2]。構成員の総数は2011年の警察庁の報告で約180人[6]、2014年の報告で約150人[7]、2023年の報告で約60人[2]。
暴力団の群雄割拠地帯と言われてきた西成地区にありながら、山口組などの大団体の傘下に収まることもなく、その創立から常に独立状態を貫いたうえに他団体との縁戚関係の樹立も行わず、そういった理由から孤高の少数精鋭などと謳われてきた[8]。
武闘派一門や喧嘩の東組などの異称をもっても知られ、1973年のミナミにおける些細なトラブルに発した山健組との銃撃戦を皮切りに、山口組とは暴力的な対立抗争事件を数次にわたって引き起こしてきた[8]。
創立者の東清はもとは浪花の侠客として名のあった池田大次郎率いる池田組の舎弟頭である信貴久治の子分だった。
池田組の解散に伴い1960年頃に西成を本拠地としてこの東組を結成、当初の人員総数はわずか30足らずであったものの、1973年頃には120名を数えるまでになっていた[8]。1993年の8月をもって暴力団対策法に基づく指定暴力団へ移行した[9]。やがて長年にわたり首領の座にあった東清が2010年の初め頃に引退。時の若頭であった滝本博司が跡目を継承した[8]。
同じく西成本拠の酒梅組と並ぶ指定暴力団で、本部の所在地は大阪府大阪市西成区山王(1-11-8)、大阪府内を専らの活動地としている[10]。その人員総数は2011年度における警察庁の報告によればおよそ180[6]。大阪府警捜査四課の同年度の報告によればおよそ290で、覚醒剤の密売を主な資金源としている[11]。構成員の大部分が大阪出身者で占められている[8]。往時には上層部の多くが西成出身者であったものの、西成出身の構成員は今や少数派であるという[8]。

勢力の伸張を経て有力団体の一となった1973年頃からというもの、東組は他の暴力団組織を相手取った幾度かの抗争事件の当事者となってきた。その代表的なものとして、山口組ならびに酒梅組とのそれが挙げられる[8]。
1973年(9月)、大阪・ミナミの繁華街にて所属構成員と山口組系山健組の構成員の間で些細なトラブルが発生。これが互いの本部事務所を銃撃し合うほどの大抗争へと発展した。早期に手打ちが実現したものの、当時の山口組でも屈指の好戦勢力として知られていた山健組を相手に引けを取らない戦闘行動を展開したとして、この抗争は組織の名を世に広く知らしめる結果となった。[8]
1982年の3月にも山口組の二次団体との抗争事件を引き起こし、さらに1987年になると、別の山口組の系列組織と半年間にわたって抗争を展開。26件の事件をもって5名の死者と2名の負傷者を出すに至ったその抗争は、のちに「泉州抗争」と題された[8]。
1983年、時の関西地方でも屈指の勢力を有していた五代目酒梅組との対立抗争が発生、わずか2ヶ月の間に、大阪のみならず奈良、京都、和歌山、さらには熊本や鳥取までをも舞台として、およそ40回にものぼる抗争事件を引き起こした[8]。双方合わせて死者1名、負傷者8名、逮捕者107名[12]。「新大阪戦争」としてマスメディアを通しての注目を広く集める結果となった[8]。
| 代 | 組長 | 期間 |
|---|---|---|
| 初 | 東清 | 1960—2010 |
| 二 | 滝本博司 | 2010—現在 |
未登録
IPFS未登録
📡 0ピア
N=1
CRITICAL
PQS A88