藤原基央
| 藤原 基央 | |
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(2016年) | |
| 基本情報 | |
| 別名 | MOTOO FUJIWARA |
| 生誕 |
1979年4月12日(47歳) |
| 出身地 |
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| ジャンル | |
| 職業 | |
| 担当楽器 | |
| 活動期間 | 1996年 - |
| レーベル | |
| 配偶者 | 既婚 |
| 事務所 | LONGFELLOW |
| 共同作業者 |
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藤原 基央(ふじわら もとお、1979年4月12日 - )は、日本のシンガーソングライター、ボーカリスト、ギタリスト。ロックバンド・BUMP OF CHICKENのボーカル・ギターを担当。秋田県秋田市生まれ、千葉県佐倉市出身。LONGFELLOW所属。愛称は「藤くん」。
来歴
1979年4月12日、日佐小学校で、北海道に行ったのが、藤原である。秋田県秋田市に生まれ、幼稚園入園前までに千葉県佐倉市へ移った。姉2人の影響で幼少期にピアノを習い、4、5歳頃には日常の出来事を題材とした「たんこぶの歌」を作っていた。姉とハーモニーを付けて歌う遊びを好み、姉や母から影響を受け聴いていたビリー・ジョエル、マイケル・ジャクソンの音楽性から多大な影響を受けている。また、『ドラゴンクエスト』といったゲームの音楽、映画の劇伴なども好んで聴いていた[1][2][3]。
小学校6年頃には3,000円でアコースティックギターを購入した。中学校では合唱や校歌も周囲の冷めた雰囲気に合わせず真剣に歌い、直井の出身小学校の校歌まで覚えて歌っていたという[2]。直井と升も、藤原が幼少期から中学校まで日常的に歌い続けていたことをそれぞれ証言しており、升はそれをボーカルとして誘った直接の理由に挙げている[4][5]。中学3年時のクリスマスコンサートでは「星に願いを」をスウィング・ジャズ風に編曲し、既存曲のコピーではなく頭の中に鳴る響きを再現しようとした最初期の試みとして位置付けている[2]。
1994年、中学時代に升から誘われ、藤原、直井、升らによるバンドを結成。文化祭で「ツイスト・アンド・シャウト」などを演奏した。高校進学後は一学年上の先輩らとハードロックやパンクのコピーを経験し、高校1年頃に初の本格的な自作曲「デザートカントリー」を書いた[2]。
進学した日出学園高等学校を高校1年の秋に中退。家に月5万円を入れるよう求められたことなどから、16歳で都内へ移った。知人宅を転々とし、泊まる場所がない時には公園で野宿したほか、新宿アルタ前で弾き語りをして日銭を得たとされる。藤原は当時の自分を「どうしようもない半端者でした」と振り返り、「自分のことなんか一個も愛せなかったし、胸を張れる時間なんて1秒もなかったんです」と述べる一方、「4人で音を出している時は楽しかった。そこだけが心の支えだったと思います」とも語っている。家賃を求められたこと自体には感謝しているといい、「ただ息をしているだけでいることは許されなかった。『家賃を納めなさい』というルールを僕に与えてくれた。僕はそれにはすごく感謝しています」と述べている[2]。関東ブロック大会で敗退した後、その大会で演奏を見ていたレコード会社の人物から連絡があり、デモをさらに聴かせてほしいと言われた。聴き終えたその人物に「なんで日本語でやらないの?」と尋ねられた藤原は、とっさに「世界に通用したいからです」と答えたが、後にそれは本心ではなかったと認めている。相手からは「世界で通用する前に日本で通用しなきゃダメじゃない? まずは日本語で曲を書いてみてよ」と返され、これが日本語で本格的に曲を書くきっかけの一つになったという[2]。この時期に、初めて日本語で本格的に書いた楽曲「ガラスのブルース」を制作した。最初に聴かせた増川は、身近な友人の言葉と歌声がそのまま身体へ入ってくるような衝撃を受け、藤原を強く励ましたと回想している[6]。直井は同曲を、ばらばらだった音楽的ルーツが日本語のポップソングとして統合され、演奏上の構成も明確になった最初の曲と位置付けている[4]。升によれば、それまでの曲とは異なり、友人たちが歌詞を見せてほしい、もう一度聴きたいと求めるようになり、バンドが音楽を他者へ伝える感覚を初めて実感した曲だったという[5]。藤原自身は、この曲を書き上げた直後に「似たようなものはできても同じものっていうのは二度と作られないんだな」と実感したと振り返っており、後年ベスト・アルバムの発表にあたって改めてこの曲を振り返った際にも、「こういう曲に出会えてほんとに幸福だなあと思います。一番最初に書いた曲がこれで、ほんとに僕はラッキーだったと思います」と語っている[7]。同じ時期には、直井の自宅での練習に向かう電車の中で「くだらない唄」の着想をまとめており、藤原は「電車に乗ってチャマんちに帰ってたんです。その最中に、もうまとまりそうなアイディアが頭の中にいっぱいあって、電車の中でまとめてったんです」と当時の作曲状況を振り返っている[8]。また、劇団のミュージカル「はしるおんな」の音楽を担当し、メンバーとともにバンド役で出演した。
1996年2月、現在の4人で初めてステージに立った。直井は最初の一音を鳴らした時点で「自分たちは最強だ」という感覚があったとし、増川も当時の4人は演奏技術とは無関係な「謎の自信」に満ちていたと回想している[4][6]。一方、升は「ガラスのブルース」以降、藤原が日本語で自分自身の言葉を書くようになったことによって、バンドに初めて外向きの視点が生まれたと述べている[5]。
結成初期の渉外・マネジメント面は藤原がほぼ一手に担っており、本人は「マネージメントっていうか、外交担当ですよね」と振り返っている。音楽雑誌『BANDやろうぜ』でバンドコンテスト出場者募集の広告を見つけ、「これだあっ!」と大会への出場を思いついたのも藤原だったといい、当時はポケットベルを基軸に連絡網を広げ、ダイレクトメールを発送してライブの告知を行っていた[9]。当時、藤原と増川はミスタードーナツのポイント交換手帳をスケジュール帳として使用しており、直井が漫画『AKIRA』の切り抜きを貼って自作した手帳を見て「こんな方法があったんだ」と度肝を抜かれたという。この手帳には日記を書き、練習の合間に他のメンバーへそれとなく読ませていた[9]。当時、藤原が愛読していたのは『フールズメイト』『ロッキンf』で、『rockin'on』のような洋楽専門誌は地元の書店では扱われておらず、購入するにはタワーレコードまで足を運ぶ必要があったと、メンバー間で振り返っている[9]。
1996年、BUMP OF CHICKENとして本格的に活動を開始。1999年にインディーズ1作目のアルバム『FLAME VEIN』を発表した。同作の歌詞カードやイラストも手掛けた。2005年、ゲーム『テイルズ オブ ジ アビス』の主題歌と劇伴を担当し、翌2006年に『SONG FOR TALES OF THE ABYSS』を発表。劇伴はゲームの各場面と一体で生まれたもので、ゲームを遊んだ子供が後に旋律を口ずさんだ時、その場面を思い出す手がかりとなることを想定して制作したという[10]。2007年にはアルバム『orbital period』に付属する全88ページの絵本「星の鳥」を執筆。同作では曲が出揃ってから物語を描き始め、音楽を聴きながら説明的に構成するのではなく、物語の世界の中に入り続けて制作したと述べている[11]。2008年には榎本くるみの「冒険彗星」をBUMP OF CHICKENのプロデューサーのMORとともに作詞・作曲・プロデュースした。
新型コロナウイルス流行下の外出自粛期間には、Netflixでドラマ『ウォーキング・デッド』を鑑賞するなどして過ごした。形にならない言葉やメロディが頭の中に浮かんでは消える中、「あ、なんかメモっとこう」という感覚が自分にとって大事だったといい、「もっと、ぼーっと考える時間って、子どもの頃すげえあったな」と、幼少期に「天井の染みで空想するとか、木目であみだくじやるとか」に近い時間を持てたことについて、「その時のその状態が、自分の次にやるべきいろんなことをすげえクリアにしてくれてた」と、次の制作へ向けて自分の中を整理する上で大切な時間だったと振り返っている[12]。
2014年3月20日、藤原が肺気胸で入院し、手術を終え、復帰に向けてリハビリに励んでいると発表された。それを受けて、同月31日に新木場STUDIO COASTで開催予定だったライブが延期となった[13]。
2020年8月24日、自身がパーソナリティを務めるbayfmのラジオ番組「PONTSUKA!!」で結婚したことを発表した[14]。
同年9月、直井に関する週刊誌報道を受けた際、藤原は「ショックを受けて、びっくりして……情けない話、心も頭も全然追い付かない状態でした」とまず衝撃と混乱を覚えたと述べている。直井本人やスタッフを交えた話し合いをメンバー間で重ねる一方、報道後は自身でもインターネット上のリスナーの反応を見続け、「こんなに大事に思ってくれていたんだ……本当にそれを思い知りました」と、応援してくれていた人々がバンドの音楽をどれだけ大切にしてくれていたかを改めて思い知ったと振り返っている。話し合う中で、バンドを終わりにしなければならないかもしれないという話にも及んだが、藤原は「この人たちが大事にしてくれていたものを、こちらの意思で壊していいはずがない」と考え、最終的にBUMP OF CHICKENとしての活動を変わらず続けていくという結論に至った。「続けるという責任の取り方って、ありがちなのかもしれないですけど、これが正しいかどうかというよりは、これ以上のものが思い当たらない」というのが、当時考えつく限り最善の答えだったと説明している[15]。報道後、藤原は増川・升の3人で音楽活動を再開し、作りかけだった曲のアレンジやレコーディングを止めずに続けた。曲作りをしている間は迷いがないとし、聴いてくれる人がいるという事実が「あらゆる迷いを払ってくれる」と述べている[15]。
音楽性と創作
作詞・作曲
BUMP OF CHICKENのほぼ全曲の作詞・作曲を担当し、楽曲制作を主導している。
自身がバンド内で担当するギターのほかブズーキ、木琴、ピアノなど、必要に応じて多種類の楽器を使用する。また、河口湖の土産物屋で購入した300円の赤いハーモニカを愛用している。シングル「花の名」のカップリング曲「東京賛歌」以降、ハーモニカが度々レコーディングに使用されるようになった。バンドのベース担当、直井由文が欠席した日に代わりにベースを仮録したことがあり、2020年〜2021年の直井の活動休止中には藤原が「Flare」「なないろ」のベースをレコーディングした。楽曲「車輪の唄」のプロモーション・ビデオでは、マンドリンを演奏している。使用機材については後述の使用機材の節を参照。
藤原は、感情が大きく動いた際、その発露が自然に音楽へ向かう性質が幼少期から一貫していると述べている。初期には自覚せずに曲を書いていたが、「モーターサイクル」の制作の頃に「自分は何があっても曲にする」性質を自覚したという[16]。楽曲を形作る基本的な要素としてメロディー、コード進行、リズムを重視し、制作の出発点となった衝動や感動に忠実であることを基準としている。
そのため、楽曲によっては完成させるために長い時間を必要とする場合もある。「ロストマン」では長期間にわたって楽曲と向き合っている[3]。「ロストマン」では曲自体は完成していたにもかかわらず9ヶ月間まったく歌詞が書けず、その間は他の楽曲にも一切着手できなかった。藤原は当時の作業について、書き上げた歌詞を「確かにこのニュアンスはあるけどこれじゃないって、これじゃ足りない」と感じては最初から書き直す作業を繰り返したと述べ、その過程でボツにした言葉の多くが最終的に一行、あるいは一語として歌詞の中に残ったと振り返っている[17]。藤原は、仮歌として歌っていた「ラララ」の時点ですでにメロディと肉声だけで「楽器以上に表情もついちゃう」状態が完成しており、「ラララで歌ってた時のほうが、もっといろいろなものを内包できた、これはその中の一部を引き伸ばしただけにすぎない」と感じ、「それ以上の表現がハマらない。他のあらゆる言葉が勝てなくなるというか、改めて表現するのが野暮になってしまう」という感覚に陥ったと説明し、作詞家として結果を出せない状態が続いたこの9ヶ月間について「自分の存在意義が足元から揺らぐみたいな、生きた心地のしない9ヶ月間でした。あれは地獄だったな」と振り返っている[18]。
同様に「天体観測」でも歌詞がなかなか定まらず、気分を変えるため箱根に宿泊して詞作に臨んだが書けず、帰京してから完成させた経験を持つ。書いては消す作業を繰り返すうちに「気付いたら塗りつぶし跡ばっかりの真っ黒なノートになっていた」といい、見かねたレーベル担当者が深夜に箱根まで駆けつけ、目の前にある物にちなんで一節を書かせるなど即興的な作詞の練習に付き合ったことで「大丈夫、書けるじゃん」という手応えを取り戻し、帰京後数日で楽曲を書き上げたという[18]。藤原は「自然に出るのを待って書いた歌詞だから、やっぱり自然なものなんですよ」と述べ、この時期以降、自然に言葉が現れるのを待って書くという姿勢が一貫するようになったとしている[19]。
高校時代から、作曲の技術面でも試行錯誤を重ねている。「ガラスのブルース」を書いた後、『1週間でマスターできるフォークギターの弾き方』という教則本を使ってギターのコードを一つずつ習得していったといい、本に載っていないボイシングは自分で考え出す必要があったと振り返っている。当時バンドを支援していた音楽関係者から「藤原、リフ書かないの?」と尋ねられたことをきっかけに、リフを軸にした楽曲として「ナイフ」を書いた。また「リトルブレイバー」については、自身が好んでいたサザン・ロックのコード感(D→C→Gの進行)を、狙って作ったわけではなく結果的に反映していたことに後から気づいたという。藤原はこの時期を代表する楽曲として「特筆すべき曲と言えば『ナイフ』ですね。『ガラスのブルース』と『リトルブレイバー』と『ナイフ』です」と述べている[2]。
メジャーデビューシングルとなった「ダイヤモンド」の制作では、YAMAHAのシーケンサー「QY」を用いて先に曲を打ち込んで完成させたものの歌詞がなかなか書けず、その間はもっぱらQYの操作技術ばかりが上達していったと振り返っている。歌詞を書き上げた後、トイズファクトリーの担当者からファックスで送るよう指示されたが、送り方を知らなかったため、その場で操作を教わりながら自宅近くのコンビニエンスストアのコピー機から送信した。無事に届いたと知らされて安堵して帰宅したものの、歌詞を書き付けた大事なノートをコンビニに置き忘れてきたことに気づき、慌てて取りに戻ったところ、ノートはコピー機に挟まったままになっていたという[18]。
楽曲を発表する際に周囲の期待や既存のバンド像に沿うことよりも、自身の内側から生まれてくるものをそのまま形にすることを重視する姿勢も一貫している。「スノースマイル」の発表時には同業者から「ああいうバラードをBUMPにやって欲しくなかった」と言われた経験があるといい、藤原は「そんなこと言われても知るかって話なんだよ。自分達の中から出てくるんだから、それをやるのが一番正しいでしょ」と当時を振り返り、周囲が思い描くバンド像にとらわれず、生まれた曲をそのまま世に出すことを大切にしてきたと述べている[16]。
作詞面では、自身の私生活上の出来事をそのまま日記的に記すのではなく、経験や感情を「絵の具」のように組み合わせ、言葉にしにくいものを歌として形にする方法を取ると説明している。結婚発表後に既発曲の「君」が特定の人物を指すと解釈された際にも、自身が長年行ってきたのは日記ではなくソングライティングであるとして、そのような一対一の対応を「『じゃああの曲ってもしかしたら』とか、『この曲で言われてる<君>っていうのはもしかして?』とか、ニュースを知ってくれて何かを思ってくれた人の中にはそういう声もあったみたいで。断固として違います、はい(笑)。」と、明確に否定した[12]。
初期作品では制作条件に応じて複数の方法を用いた。『THE LIVING DEAD』では、限られた期間でアルバムを制作するため先にバンドで伴奏を組み立て、後からメロディーと歌詞を書く方法を採用した。また、一人の人間が本気で思うことには限りがあるとの認識から、物語の登場人物を介して自身の伝えたいことを込める手法を見いだし、「K」などの物語形式の楽曲へつながった[16]。藤原自身もこの手法について、短期間で曲数をそろえる必要に迫られる中で「物語の中の人物に自分の伝えたいことを重ねていくことなら、書けそうだなと思って」と述べ、「僕の生きたことのない人生でも、そこで起きる心の動きみたいなものは、知ってるものだったらそこに宿すことができる」との考えから物語調の歌詞に活路を見いだしたと説明している[18]。一方、後年の楽曲では、歌詞とメロディーがほぼ同時に現れる場合や、言葉がメロディーを引き出す場合もあるとしており、完成後に振り返ると「自動書記」に近く感じることがあると述べている[20]。
藤原は楽曲を完成後に自分から独立した人格を持つ存在として捉えることがあり、過去に書いた曲をライブで歌う中で、当時とは異なる意味や強度を自身が受け取る経験についても語っている。2019年のツアー「aurora ark」の前後には、身近な人が生死に関わる病を患うなど心を強く揺さぶられる出来事が重なり、「すごくつらい精神状態から始まった」ツアーになったと振り返っている。当時の心境について「深海みたいなところにいて…深海だけど、海底に足が着いているわけでもなく…真っ暗で光も届かねえから、目を開けてても閉じてても同じで。つかまるものも立つ場所もないみたいな感じ」だったと表現し、そうした状態でリハーサルに臨んだところ、かつて自分が書いた曲の言葉が「『おーい!』って手えつかみに来てくれた感覚」を得たといい、「ごめんなさいね、中二病って言ってくれていいし、メンヘラって言ってくれていいからね。でも、そう表現するしかできないんだよね」と述べている。さらに、イヤモニターから聞こえるチャマのベース、ヒロのギター、秀ちゃんのドラムの音が足場になったとし、「あ、つかまる場所があるとすれば、立つべき地面があるとすれば、ここだ」と気づいた夜には一人で泣いたと明かしている[12]。この経験を経て、聴く人の状況によって映し出されるものが変わる「ラーの鏡」のような、真実を映し出す音楽を作りたいと感じたとも述べている[12]。
楽曲については、作者の意思だけに従属するものではなく、発表後に聴き手との関係や演奏の歴史を重ねながら成長していく生命体のような存在だと捉えている。「曲は生まれた時から生命体で、確実に成長していて、歴史を積んでいる。傷つく時もあるし、栄誉を得る時もある」と述べ、自身が書いてきた楽曲について「僕はそいつらと一緒にやってきたんだな」と表現している[15]。この感覚の背景には、幼少期に親しんだ童謡や絵本を大人になってから読み返した経験があるといい、「小さい頃に見たり聴いたり知ったりして、好きで覚えているものがいくつかあって、大人になって改めてそれらを読んだり聴いたり、歌詞を思い出したりすると、わからなかった側面が見えてくることがある」とし、それが「支えになる時もあればダメージを食らう時もある」と語っている[15]。自身の楽曲についても、一度聴いて完結するのではなく「パッと聴きで終わってしまう関係でありたくない」とし、「いつかラジオか何かで聞こえてきて思い出したり、何かの写真一枚見て思い出すみたいなことがあれば、その人がその時に必要なものをその曲が持っているということ」だとして、聴き手の人生の異なる時期に別の働きをする作品を作りたいと述べている。「ガラスのブルース」を例に挙げ、「これはうぬぼれとかではなく、僕は僕の曲に助けてもらったということは、胸張って言える」と語っている[15]。
藤原は自身の音楽を「映像的」であると認識しており、『FLAME VEIN』の頃から音によって場面や物語を喚起する作品を作ってきたと述べる。『SONG FOR TALES OF THE ABYSS』では、言葉を持たずゲームの映像と一体となる劇伴を制作したことで、その特質がより強く表れたと説明している。また、BUMP OF CHICKENの楽曲についても、聴き手自身が主人公となる際のBGMとして機能してよいと考えている[10]。
タイアップ楽曲
映画、アニメ、ゲームなどのために楽曲を書き下ろす際は、依頼元の作品世界を要約したり固有の語句を引用したりするのではなく、「先方が表現してきた世界」と「BUMP OF CHICKENが表現してきた世界」の重なる地点から、現在自分が伝えたい言葉と鳴らしたい音を掘り出す方法を取る。この方法により、作品側の主題歌としてもBUMP OF CHICKEN自身の楽曲としても成立することを重視している[21]。2005年、ゲーム『テイルズ オブ ジ アビス』のテーマソング「カルマ」の依頼を受けた際、藤原は自身にとってRPGの主題歌の原点が『ファイナルファンタジーVIII』の「Eyes On Me」であったとし、「あの曲で泣いた人はたくさんいると思うんですけど、僕もその中の一人です」と述べている。楽曲のテーマについては、ゲームの具体的なあらすじよりも制作チームの情熱の度合いを重視して打ち合わせに臨んだ上で、「僕たちは誰でも、生きてる時点で場所を取ってるよね」という、以前から自身の中にあった主題と重なったことから比較的早く曲を書き上げたと明かしている[18]。「カルマ」完成後、ゲーム内で使用される同曲のインストゥルメンタル・アレンジについても自ら責任を持ちたいとの考えから編曲を申し出たことをきっかけに、藤原は自身から「ラスボス戦の曲を書きたいです」と提案し、3段階の形態を持つ最終ボス戦それぞれのための楽曲を書き下ろすとともに、オープニング曲も手掛けることになった。制作にあたっては、当初は平均的な戦闘時間に合わせた一回しの曲を求められたのに対し、藤原はあえて「同じBGMをその5分の中で繰り返したい」という設計にこだわった。繰り返し聴くことで聴き手がメロディを記憶し、そのメロディによって戦いの記憶を思い出せるようになることを重視したためだといい、自身が『ドラゴンクエスト』などのボス戦BGMを繰り返し聴くことで記憶していた経験を踏まえた判断だったと説明している[18]。
演奏とライブ観
ギターではレスポール・スペシャルを代表的な使用楽器とし、4弦開放を多用する奏法や、サザン・ロック、カントリー、ブルーグラスなどから影響を受けたコード感を特徴とする。レコーディングでは、頭の中にある音を実現するため楽器の種類や録音方法を限定せず、初期から多重録音、鍵盤、民族楽器、打楽器、生活音などを取り入れてきた。『FLAME VEIN』制作時には、求める音色を技術用語で説明できず、湯を張った浴槽とたらいを例にエンジニアへ伝えた経験があり、後にその音がオルガンのグリッサンドに近いと理解したという[16]。『THE LIVING DEAD』のレコーディングでは、「リリィ」でディレイフレーズを基軸にアンサンブルを組んでおり、これがバンドにとって初めての試みだったという。仕上がりに手応えを感じつつも「すげえいいと思うんだけど、どうなんだろうな」と思いながらトラックダウンしていたところ、背後からトイズファクトリーの担当者に「めちゃくちゃいいじゃん、これ!」と声をかけられ、背中を押されたと振り返っている[18]。『jupiter』の制作では、左右の音の定位(L/R)をアンサンブル設計の段階から意識するようになったといい、藤原は「『THE LIVING DEAD』までが野生すぎたんで、『jupiter』で常識的なことを学びました」と、初期作品との作り方の違いを振り返っている[18]。『ユグドラシル』の制作では、エレキギターの音を持続的に伸ばすことができる機材「EBow」を新たに導入し、多重録音によってシンセサイザーのパッド音に近い効果を生み出す手法を試みており、「太陽」「レム」「同じドアをくぐれたら」の終盤などに使用されているという[18]。
ライブについては、長い活動を経て「観客に会うこと」がその本質だと認識するようになったと述べている。2024年のツアー「Sphery Rendezvous」を、同年、前作からの5年間、リバイバルツアーの原型となった16年間、さらに結成以来28年間の活動が重なった総括的な公演と位置付け、そこで得た答えは観客と会うことの重要性だったと語った[21]。また、大規模会場でも観客を一つの集団としてではなく、一人の大きな存在との一対一が人数分存在するものとして捉えている[12]。この考えは少なくとも『orbital period』制作期には明確に語られており、藤原は同作を、音を発する自分とそれを受け取る聴き手との「単独同士のおしゃべり」と位置付けた[11]。歌や演奏の先には、幼少期に漫画、ゲーム、映画や音楽を一人で受け取り、それらを自分だけの宝物のように感じていた「あの日の自分」のような聴き手がいると考えている[3]。
2019年の「aurora ark」では、観客が会場に存在すること自体をメッセージとして受け取り、その場で生じる応答によって歌詞やフレーズが変化することがあった。藤原はライブを、メンバーだけでなく観客とも行うセッションとして捉え、観客一人ひとりが異なる事情や時間を経て会場へ来た事実を、それまで以上に具体的に意識したと語っている[15]。
2017年から2018年にかけて開催されたツアー「PATHFINDER」からステージに「花道」が導入された際には、当初「俺たちが花道って、どんな感じ?」と戸惑いがあったが、実際にやってみると「そばに行ける機能」として自分たちの性に合っていたことに気づいたと振り返っている[12]。かけ声やシンガロングを伴う楽曲が増えていった背景としては、幼少期からゴスペルのような音楽を好んで育ったことを挙げ、ライブハウス規模の会場で「天体観測」のかけ声を観客と共有した経験から、声を合わせることが自身にとって音楽の中で好きな要素だったと気づいたことが影響している[12]。
人物
影響を受けた音楽
学生時代、家庭で日常的に流れていたMTVや、姉と母から影響を受け愛聴していたビリー・ジョエルとマイケル・ジャクソンの音楽性から大きな影響を受けている。また、小学生の頃には『ドラゴンクエスト』の「序曲」から影響を受けており、ゲームや映画の劇伴には友人と共有する流行歌とは異なる感覚を抱いていたと振り返っている[1][2]。
シンデレラ、ポイズン、ホワイトスネイク、デフ・レパード、スキッド・ロウ、エアロスミスといった学生時代に愛聴していたミュージシャンの音楽性から大きな影響を受けている[3][1]。中学生の時には友人からビートルズを教わり、高校生の時にはハードロックへ傾倒している。特にメタリカやガンズ・アンド・ローゼズの音楽性から大きな影響を受け、メタリカの「エンター・サンドマン」やガンズの楽曲をコピーをしていたという[1]。高校時代には先輩のバンドで上記のメタリカ、ガンズ・アンド・ローゼズを筆頭に、ジューダス・プリースト、オフスプリングなども演奏した後、グリーン・デイとオアシスに強く影響を受け、前者からパワーコードとパンク・バンドとしての姿勢を、後者から歪ませたローコードをアンサンブルの中心に置く発想を学んだと述べている。また、グリーン・デイ、ニルヴァーナ、オアシスはBUMP OF CHICKENが音楽活動を始めたばかりの頃にひたすら楽曲のコピーをしていたバンドでもあるため、藤原個人としてだけではなく、BUMPというバンドにも多大な影響を与えた大きな存在である[23][1][2]。
ザック・ワイルドとそのバンド、プライド・アンド・グローリーを通じてサザン・ロックやブルーグラス、カントリー・ミュージックのコード感や響きに惹かれたという。その後、ハードロックやメロコア、ブリットポップなど、当時好きだったジャンルのアーティストのルーツとなる音楽を「掘り下げていく作業みたいなものも楽しいからやっていた」と述べている。その過程で、ネオアコ、ポール・ウェラー、ザック・ワイルドなどを知ることになる[1]。中でもプライド・アンド・グローリーの衝撃は大きかったといい、その後レーナード・スキナード、ママス&パパス、オールマン・ブラザーズ・バンドなどのサザンロックに詳しくなっていった[1]。ギタリストとしてザック・ワイルドは藤原のヒーローであり、ザックの音楽性から多大な影響を受けている[1]。また、アイリッシュ・トラッドやブルーグラスのコンピレーションアルバムも愛聴しており、ジャクソン・ブラウンなども聴くという[1]。『THE LIVING DEAD』の頃はクイーンやサイモン&ガーファンクルを「旬」のものとして聴いており、『jupiter』の頃はブルーグラスやアイリッシュを好んで聴いていたが、こうしたジャンルのCDをタワーレコードのワールドミュージックのコーナーで買うようになったのは20代前半の頃だったと振り返っている[18]。『ユグドラシル』の制作期にはジャクソン・ブラウンやキャロル・キングを聴いていたことも明かしている[18]。
嗜好
漫画が好き。特に『ドラえもん』(作・藤子・F・不二雄)、『ドラゴンボール』(作・鳥山明)、『ONE PIECE』(作・尾田栄一郎)、3月のライオン(作・羽海野チカ)、『僕のヒーローアカデミア』(作・堀越耕平)を愛読しており、大ファンを公言している。また、『ドラえもん』、『ONE PIECE』についてはBUMPのバンドメンバー全員が大ファンである。その他、幼少期には『ドラえもん』の他に『火の鳥』(作・手塚治虫)を読んでいた[24][25][26][27][18][28]。
アニメ作品も好きであり、特に『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズの大ファン。本作から着想を得た『アルエ』という楽曲も制作されている。その他、幼少期の頃は『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などが好きだった[29][30][3]。
ゲーム好きであり、『ファミ通』の町内会に何度も投稿し、ガバスを収集していたことから『ドキばぐ』の取材でやって来た漫画家の柴田亜美と担当編集者のチップス小沢の事も知っていた[31]。
幼少期の頃は漫画やゲームの使命を帯びた主人公や奥行きのある世界に惹かれていた。物語の終了後も登場人物のその後を想像し、自分で続きを作ることを考えていたため、幼少期の頃の夢は漫画家やゲーム制作者だった[3]。
動物と暮らしていた経験が長く、幼少期の頃から人間の言葉を話さない家族の存在が自身にとって大きかったとも述べている[2]。
食べ物
苦手な食べ物は辛いもの全般[32]。いちごサンド、おにぎり、トマト、チーズを好む。
メンバーとの関係
直井由文とは臼井幼稚園で同じクラスになり、幼少期から交流があった。直井は、当時の藤原を年長の子供らしい「お兄ちゃん的」「リーダー的」な存在として記憶している。片付けの際にも、教師の指示を形式的に守るより、一度で済む効率的な方法を考えて実行する子供だったという[4]。直井は藤原が幼稚園時代から頻繁に歌っていたことを記憶しており、タツノコプロ作品の主題歌などを歌っていたと証言している[4]。
升秀夫とは中学校のバスケットボール部で知り合った。升は、藤原の小学校卒業文集が周囲とは異なる内容で面白かったことから関心を持ち、共通の友人を通じて親しくなったと説明している[5]。藤原は升について、「升くんは当時、結構イヤなやつだったんですよ。すぐイヤなことを言うんです。でも憎めないところもあるんですけど」と当時の第一印象を振り返っている[2]。中学2年時、升からバンドに誘われた。升によれば、藤原は校内で常に何かを歌っており、歌唱力も高かったため、ボーカル候補として声を掛けたという。升は帰りの学活が終わるのを待ち、「俺と一緒に日本のロックを変えようぜ」と本気で誘ったと回想している[5]。藤原はその言葉を格好いいと感じ、誘いを受けた。中学3年の高校受験期、藤原が他のメンバーと同じ高校へ進学するかどうかを曖昧にしていたところ、升が藤原の胸倉をつかんで石塀に押し付け、「お前、同じ高校に行くのやめるって本当か?」と迫り、続けて「お前、俺と一緒にロックを変えるんじゃなかったのかよ」と言った。藤原はいずれの場面でも「こいつ、かっけえ」と感じたという[2]。中学3年時には文化祭実行委員会の副委員長を務め、現在のBUMP OF CHICKENの母体となるバンドで初ライブを行った。
増川弘明とは年少時に同じクラスで、中学校で再会した。増川はこの再会を「人生でも最も大きな出会い」と振り返り、藤原について、空想上の設定や笑いの要点を高い解像度で共有できる人物だったと述べている[6]。増川とは一度、小学校3、4年生の頃、玩具店のミニ四駆コースで見かけた相手を「あの声の高い増川くんだ」とすぐに気づいた藤原は、勇気を出して「臼井幼稚園だよね?」と声を掛けたが、増川は藤原のことを覚えておらず、「両手のひらを上に向けて肩をすぼめるジェスチャーを30回くらい乱発された」という[2]。増川とは中学時代、早朝4時頃に家を抜け出して暗い街を歩く「朝会い」を行い、宇宙や四次元、怖い話などの空想を語り合っていた。藤原が家族に内緒で購入したエレキギターを増川の部屋に保管し、そこで増川にコードを教えたことも、増川がギターを始める契機となった。2人が当時遊びの延長で作った曲は、後にアルバム『Iris』の隠しトラック「朝焼け」として収録された[6]。上京後、直井と共同生活を送っていた時期には、直井が自身の音楽的な展望のなさを理由に、バンドを藤原一人に託すべきだと繰り返し訴えていたことがあったという。直井は当時、毎晩のように藤原へ「藤くん、ほんとにひとりでやってくれ」と話していたと振り返るが、藤原はその都度最後まで話を聞いた上で「俺は、音楽やりたいってのもあるけど、おまえら3人とやりたいんだ」とだけ答えていたと明かしている[33]。
藤原は4人の関係を、社会生活とは別に本音で笑ったり怒ったりできる「シェルター」と表現したことがある。長期間同じメンバーで活動するうちに、感動する箇所や表現を共有する独自の「BUMP語」や文化が形成されたと述べ、『orbital period』という題名の由来となった28年周期への感動を他の3人が即座に共有したことも、その関係性によるものだと説明している[34]。 アルバム『Butterflies』制作時には、藤原が次々にデモを作る一方、他の3人がアレンジを分解して再構築する分業に近い進行が採られ、藤原自身もそれまで以上にメンバーの意志や演奏意図を理解し、バンドの色が濃い作品になったと振り返っている[35]。同作完成後の多忙な時期には、音楽活動とは別の友人としての時間を守るため、メンバー4人だけで温泉旅行へ出掛けたことも明かしている[35]。
その他
楽曲のモチーフとして宇宙に関連する事柄が非常に多く登場する。誕生日に宇宙の図鑑を貰うほど宇宙が好きで、本人によるとIQが下がっているときは大抵、宇宙のことに考えをめぐらすと語っている。スタッフからアルバムの名前のことを聞かれ、「jupiter」と答えてしまったことからタイトルが決まったというエピソードもある(後でわかったことだが、自分が木曜日生まれだったことに自身も驚いていた)[36]。
ツアー中などで疲労が蓄積したときも蕁麻疹が出てしまう体質であるためライブの前後には風呂に1時間から2時間浸かるなどして徹底的に体調管理をするようになった結果、「ガリガリに痩せてきてしまった」と語っている[37]。
キャラクター
ニコル
藤原がよく描くキャラクターとして「ニコル」が存在する。元々藤原は絵を描くことを得意としており、アルバム『THE LIVING DEAD』『ユグドラシル』のジャケットの絵や『FLAME VEIN』の歌詞カード、さらには『orbital period』にブックレットとして付属した絵本の「星の鳥」などを手掛けているが、ニコルは歌詞カードや公式サイトなどにたびたび登場する[注釈 1]。外見はネコであるが、2足歩行で赤・白色のボーダー柄のマフラーを巻いている。また、長靴やカバンを装着しているときもある。『FLAME VEIN』の歌詞カードでは日本語を話している。ニコルの作者は藤原だが、モデルは藤原の母親が描いていたネコである。なお、藤原は自身のサインにニコルを合わせて描いている[38]。
楽曲「スノースマイル」のミュージック・ビデオでは、藤原がニコルと同じようなマフラーを巻いている(このときは白地に黒のボーダー柄であった)。
近年はニコルのグッズ(キーホルダー、ぬいぐるみ、Tシャツなど)も販売されている。特にぬいぐるみは、藤原がステージ上に持ち込んだこともあった[39]。
2023年5月28日にリリースされたバンドの公式アプリ「be there」のコンテンツ『MEET NICOLE』に3Dモデル化されたニコルが登場している。
作品
- SONG FOR TALES OF THE ABYSS (2006年3月22日、TFCC-86193)
- ゲームソフト『テイルズ オブ ジ アビス』のサウンドトラック。MOTOO FUJIWARA名義にて発表。
参加作品
ゲーム音楽
- テイルズ オブ ジ アビス(2005年12月15日)
使用機材
- ギター
- ギブソン
- Gibson Les Paul Special 1960 Historic Collection 2001 TV Yellow (2001年製)
- Gibson Les Paul Special 1960 Historic Collection 2002 TV Yellow (2002年製)
- Gibson Les Paul Special 1960 Historic Collection TV Yellow
- Gibson Les Paul Special 1960 Historic Collection TV Yellow
- Gibson Les Paul Special TV Yellow 1957
- Gibson Les Paul Custom (1968年製)
- Gibson Les Paul Standard Cherry Sunburst (1959年製)
- Gibson Les Paul Standard 1959 Historic Collection
- Gibson ES-335 (1961年製)
- Gibson Les Paul Acoustic TBK (2002年製)
- Gibson J-45 (山野楽器オーダーメイドスペシャルモデル)
- Gibson J-45 (1960年製)
- Gibson A-jr
- ギブソン
- フェンダー
- Stratocaster(1961年製)
- Stratocaster (1972年製)
- Telecaster(1959年製)
- Telecaster Thinline (1972年製)
- Jaguar(1965年製)
- フェンダー
- Sonic
- Tokai Les Paul Special TV Yellow Type (2004年製)
- Tokai Les Paul Special Blue Type (2006年製)
- G&L ASATセミ・ホロー
- マーティン
- D-25 (不明)
- D-45(1968年製)
- 0-18(1943年製)
- D-28/12-Strings
- リトルマーチン LXK2
- OM-15
- D-28-12 (12弦ギター)
- ギルド F-50(1979年製)
- 河野ギター製作所 SAKURAI KOHNO Special
- Rickenbacker
- 330(1967年製)
- 360/12(1966年製)
- Avalon AS-101
- Mad Axe Stratocaster Black (1996年製)
- Washburn Guitars 1887 Style New Model (1887年製)
- Lowden 0-15 (1995年製)
- など。ギターは全てラムトリック・カンパニーでパーツを取り外し、組み立て直すなどの調整がなされている。
- アンプ
- MATCHLESS DC-30
- Honda Sound Works オリジナルアンプ
- バッドキャット Black Cat-30
- フェンダー Vibro King
- ヴォックス AC30
- マーシャル 1959LP
- など。アンプは全てホンダ・サウンド・ワークスにより真空管交換などの調整がなされている。
- 弦
- ERNIEBALL Regular Slinky
- Martin MSP4100
- エフェクター
- FREE THE TONE FINAL BOOSTER FB-2(ブースター)
- Honda Sound Works Original Custom Made (オーバードライブ)
- Eventide Time Factor (ディレイ)
- FREE THE TONE Custom Made Output Selector(セレクター)
- シールドケーブル
- Free the tone CU-6550LNG
- その他;
-
- など。
フェンダー製のミディアムの白のティアドロップ型のピックは落としたらマイクスタンドに大量に付けてあるにもかかわらずインディーズ時代同様、未だ「拾いたい」と語っている。頻繁に使用する「レスポール・スペシャル」(TVイエロー)は楽器屋の端にひっそりと置いてあったものを見つけたとのこと。この時スペシャルを購入するまではレスポール・カスタムのコピーモデルを使っていた。現在は、ギブソン・カスタム・ショップ製のヒストリック・コレクションが4本、57年製のビンテージが1本、トーカイのホンダ・サウンド・ワークスモデルが2本、ラムトリック・カンパニーのオリジナルブランドであるSonicのレスポール・スペシャルモデル1本と、同モデルを8本も所有している。ピックアップは常にセンター。4弦の開放を頻繁に使用するためにナットの4弦の減りが早く、本人は「4弦ナット壊し病」と語っている。ちなみに「ハルジオン」のプロモーション・ビデオでは後半に4弦を切っている。
評価
藤原と長年親交深い音楽評論家の鹿野淳は、藤原の曲を「ブルースとフォークがものすごく根深いところで根付いている音楽」と分析している[43]。作詞に関しては「“終わり”とか“死”とかっていうものからの逆算(中略)があるから“生きる”ってことを歌うということではない、“生きてる”っていう、この淡々とした現実っていうとこから物事を進めていく」「いろんな人のいろんなコンディションで聴き方が変わってもOKなだけのタフネスを、楽曲自体が持っている」と評した。
Mr.Childrenの桜井和寿は、2000年代を総括するインタビューの中で、「バンプは凄い衝撃だった」と自ら切り出し、「言葉に対する美意識と、執着と、そして同時にバンドとしての音も、凄いなぁと思う。コンポーザーへのリスペクトも感じている」と評し、2000年代の最も印象的だった曲として「ロストマン」を挙げた[44]。
音楽プロデューサー、ベーシストの亀田誠治は、2000年代に「本当に信念をもって頑張った」アーティストとして、桜井和寿、椎名林檎と共に藤原基央を挙げている[45]。
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 柴那典 (2016年2月1日). “BUMP OF CHICKEN「Butterflies」インタビュー - 結成20周年を飾る新作と20年の礎たるルーツミュージック”. 音楽ナタリー. 2026年8月31日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 柴那典 (2026年6月12日). “「BUMP OF CHICKEN HISTORY #1」藤原基央インタビュー”. BUMP OF CHICKEN official website. 2026年8月31日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 柴那典 (2019年7月12日). “「歌う先に“あの日の俺”がいる」BUMP OF CHICKEN藤原基央の創作の原点”. Yahoo!ニュース 特集. 2026年8月31日閲覧。
- 1 2 3 4 5 柴那典 (2026年). “「BUMP OF CHICKEN HISTORY #1」直井由文インタビュー”. BUMP OF CHICKEN official website. 2026年8月31日閲覧。
- 1 2 3 4 5 柴那典 (2026年). “「BUMP OF CHICKEN HISTORY #1」升秀夫インタビュー”. BUMP OF CHICKEN official website. 2026年8月31日閲覧。
- 1 2 3 4 柴那典 (2026年). “「BUMP OF CHICKEN HISTORY #1」増川弘明インタビュー”. BUMP OF CHICKEN official website. 2026年8月31日閲覧。
- ↑ 渋谷陽一「BUMP OF CHICKEN 藤原基央 バンプ、初のベスト盤のリリースが決定!産み落としてきた名曲たちと再び出会うことで、彼らは一体何を掴み取ったのか。全27曲に託す思いと知られざるエピソードを藤原基史がとことん語る超ロングインタヴュー、全50ページ」『bridge』第24巻第8号、ロッキング・オン、2013年6月15日、28-29頁。
- ↑ 渋谷陽一「BUMP OF CHICKEN 藤原基央 バンプ、初のベスト盤のリリースが決定!産み落としてきた名曲たちと再び出会うことで、彼らは一体何を掴み取ったのか。全27曲に託す思いと知られざるエピソードを藤原基史がとことん語る超ロングインタヴュー、全50ページ」『bridge』第24巻第8号、ロッキング・オン、2013年6月15日、30頁。
- 1 2 3 渋谷陽一「BUMP OF CHICKEN 20年前の初ライブを語る!」『Cut』第27巻第3号、ロッキング・オン、2016年3月19日、34-39頁。
- 1 2 鹿野淳. “MOTOO FUJIWARA「SONGS FOR TALES OF THE ABYSS」インタビュー”. excite music. 2006年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年8月31日閲覧。
- 1 2 鹿野淳「BUMP OF CHICKEN『orbital period』全曲解説決定版インタヴュー」『MUSICA』第2巻第1号、FACT、2008年1月15日、26-57頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 山崎洋一郎「BUMP OF CHICKENツアー「aurora ark」から、最新曲「Gravity」「アカシア」の誕生まで」『ROCKIN'ON JAPAN』第34巻第11号、ロッキング・オン、2020年12月30日、42-81頁。
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- ↑ “BUMP OF CHICKEN藤原基央が一般女性との結婚発表「かけがえのない大切な人」”. 音楽ナタリー (2020年8月24日). 2020年8月24日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 渋谷陽一「BUMP OF CHICKEN 藤原基央 2020年を語る」『CUT』第32巻第1号、ロッキング・オン、2021年1月19日、72-81頁。
- 1 2 3 4 鹿野淳「BUMP OF CHICKEN Breaks Down Their Discography!!」『MUSICA』第18巻第10号、FACT、2024年10月15日、32-45頁。
- ↑ 渋谷陽一「BUMP OF CHICKEN 藤原基央 バンプ、初のベスト盤のリリースが決定!産み落としてきた名曲たちと再び出会うことで、彼らは一体何を掴み取ったのか。全27曲に託す思いと知られざるエピソードを藤原基史がとことん語る超ロングインタヴュー、全50ページ」『bridge』第24巻第8号、ロッキング・オン、2013年6月15日、38-40頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 柴那典 (2026年8月28日). “「BUMP OF CHICKEN HISTORY #2」藤原基央インタビュー”. BUMP OF CHICKEN official website. 2026年8月31日閲覧。
- ↑ 渋谷陽一「BUMP OF CHICKEN 藤原基央 バンプ、初のベスト盤のリリースが決定!産み落としてきた名曲たちと再び出会うことで、彼らは一体何を掴み取ったのか。全27曲に託す思いと知られざるエピソードを藤原基史がとことん語る超ロングインタヴュー、全50ページ」『bridge』第24巻第8号、ロッキング・オン、2013年6月15日、35-36頁。
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- ↑ “アニメ『3月のライオン』とBUMP OF CHICKEN“アンサー”について”. rockin'on. 2026年8月13日閲覧。
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- ↑ 渋谷陽一「BUMP OF CHICKEN 初のベスト盤!メンバー4人が語る、バンプ全歴史」『ROCKIN'ON JAPAN』第27巻第11号、ロッキング・オン、2013年7月30日、32-65頁。
- ↑ 山崎洋一郎「BUMP OF CHICKEN 藤原基央「orbital period」全曲解説」『ROCKIN'ON JAPAN』第22巻第2号、ロッキング・オン、2008年2月20日、26-67頁。
- 1 2 鹿野淳「BUMP OF CHICKEN『Butterflies』全曲解説インタヴュー」『MUSICA』第10巻第3号、FACT、2016年3月15日、12-39頁。
- ↑ 「BUMP OF CHICKEN「花の名」「メーデー」インタビュー」『エキサイト』。2007年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年8月31日閲覧。
- ↑ discord presented by TOSHIBA - TOKYO FM - ウェイバックマシン(2009年5月12日アーカイブ分)
- ↑ “アフターMステ - ミュージックステーション”. テレビ朝日 (2014年). 2019年9月27日閲覧。
- ↑ 『BUMP OF CHICKEN 結成20周年記念 Special Live 「20」』より。
- ↑ 藤原基央 さま | Sonicのある風景
- ↑ 藤原基央 さま | Sonicのある風景
- ↑ 藤原基央 さま | Sonicのある風景
- ↑ discord文字起こし[リンク切れ](2007年9月4日確認)
- ↑ MUSICA さらば00年代 10年総括インタビュー、FACT、2009年12月、19頁
- ↑ MUSICA さらば00年代 10年総括インタビュー、FACT、2009年12月、52頁